次の風 02
隼人、うなぎを食べる。
「遅れました!」
森之介の声がしたのは両国橋のたもとにある、きた屋という小さな小料理屋ののれんをくぐったときだった。
森之介は道場へも寄ったのか、胴着を竹刀の先にくくりつけて額から汗をかいている。
「父上と他流試合を覗きにいったら、向こうで黒宮さんとばったりだ。まさか知らん顔をするわけにもいかないから挨拶にいったら、終わった後一試合やらんかと言われて、神名道場まで戻って稽古だよ」
そこまで言ってから、森之介は緒方鋭馬に頭を下げて挨拶した。
下屋敷の長屋では隣同士の家である。
本来は冬二郎も森之介も緒方には敬称をつけなければいけないが、同じ家柄と長い付き合いで、緒方さんとか鋭馬さんと呼んでいる。
ちなみに用人は殿や若君が暮らす上屋敷で一緒に住むことができるが、若党、近習、下男などは下屋敷の長屋で生活する。
用人と近習では同じ家臣でも身分が違い、三、四名いる用人の中の上位にいるものは家老と呼ばれる。
小夜島はその家老の家であり、千広の母と鋭馬の母は姉妹であった。
「それで、首尾は?」
「黒宮さんから一本もとれなかった」
ははっと悪びれずに森之介が笑う。
「道場次席だからな。そのあと珍しく兵堂さんも来て、こてんぱんにやられたよ。泉さんからは一本とったものの、結局面をとられて、痛いのなんの」
「泉さんの一撃はきついな・・・・・・」
「だろう?試合を見に石津も来ていたらしくて、道場にも顔をだしたから、兵堂さんにやられたあとだ。こっちもむしゃくしゃして手加減なしにやっつけたよ」
無楽流指南神名道場の上席面々と試合してくれば、汗だくにもなるわけだった。
「森之介、おまえは昔から食い物に関しては遅れをとらないやつだ。ちょうど今ついたところだよ」
「これはしたり。鋭馬さんほどではありません」
「森之介、道場の話あとできかせてね」
「隼人さまにお聞かせするには、良い出来ではないのですがね・・・・・・」
女将らしい女が出てきて、緒方の顔を見ると仔細承知の様子で頷くと二階へ促す。
「鋭馬さん、ここは・・・・・・」
二階の、川面が見える景色のよい座敷だが、派手な部屋の装飾で容易に部屋の用途がしれる。
酒場や小料理や、茶屋などの二階や奥がこっそり男女の逢い引きに使われることは冬二郎も知っていたが、足を踏み入れるのは初めてである。
森之介も困った顔で、冬二郎と視線を交わすと曖昧に笑っていた。
大旗本の子息が、ましてまだ前髪の状態で鰻を食べにくる、というのが堂々としれたらまずい。のはよくわかる。
人目に触れず食事するために、緒方がうまく話をつけて部屋を用意させたに違いないのだが。
男女の密会のために作られた部屋は、布団こそ敷かれていないものの、鏡台や枕屏風が部屋の隅に置かれている。
外の眺めに無邪気に喜んでいるのは隼人だけで、森之介と冬二郎は鰻が来るまでにそわそわと何度か足を組みかえた。
「御待ちどうさま」
襖が開いて、びくっとした森之介に緒方はニヤニヤと笑った。
「さぁ、どうぞ、若様」
「いっただきます!!」
隼人はすぐさま口に運んで、陶然とした表情になった。
「あ~~~うーなーぎーーだぁーー!タレが向こうよりちょっとしょっぱい気もするけどでもうまーい!!」
「それはようございました」
久々にみる満面の笑顔に、ほっとする。
向こうで食べなれたものを食べれるのは、嬉しいのだろう。
「みんなは、食べないの?千広がダメっていった?」
「うん、そう言われると思っていました」
森之介より先に鋭馬がそう言って笑うと襖をあけて、廊下から重箱を三つ持ち上げた。
「若様は一緒に食事することを希望なさるだろうと森之介から聞いていたので、我々の分も出来たら廊下に置くよう、女将にいっておいたのですよ」
「さすが鋭馬さん」
抜け目がないというか、用意がいいというのか。
森之介は喜んだが冬二郎は少し呆れた。
普通、隼人の身分ともなれば給仕されながら一人で食べる。
一同で食べるのは、奉公人や下級武士などで、臣下と主君が一緒にものを食べるというのは、冬二郎の知る限り奉行所の役人が中間と一緒に立ち食い蕎麦屋に入るのを見たことがある程度だ。
それでも隼人ができるだけ誰かと食事をしたがるので、普段は森之介が少し離れた場所で膳を取る。
あれだけ一緒にいる千広は、絶対にそれを良しとしていないにも関わらず始終隼人の傍にいるので、隼人は「千広は人の気を食って生きている」とぼやいたほどだ。
冬二郎は森之介ほど順応できずに、やはり食事は辞退している。
お膳の中身と量が違うと言って、隼人が森之介の椀に自分のご飯をいれたときは眩暈がしたものだが、「遠慮すると隼人が悲しむ」と言って、森之介は平然と食べていた。
――この、お気楽ものが。
緒方もやはり頓着せず、森之介と並んでうな重にとりかかっている、
「冬二郎も、食べようよ。今日は千広いないんだしさ」
抵抗感があるのは、己だけなのは何故だろうか・・・・・・。
森之介の論理は正しいのかもしれないが、やはり何か違うのではないかと思う。
それでも、じいっと見つめる隼人に勝てず、冬二郎も箸をとった。
「――それでは、頂かせていただきます」
観念した冬二郎を見て、「なにを今更」という顔つきの森之介に、小さく噴き出した緒方は気に入らなかったが、
確かに、鰻はおいしかった。
主君はあちらの世界で、こういうものをよく食べていたのだろうか。
冬二郎は無心で噛んでいる隼人を見る。
こんなにいといけない方が、この先何に苦しむのか。
冬二郎には、未だわからない。
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森之介が色々言ってた名前の相手はそのうちぶわっと出てきます。また覚えるのが面倒なのか!!と思った皆さん、すいません。相木は中学生の頃から人数書くのが好きだったようです。
今回は鰻について。当時は庶民の食べ物でした。土用の鰻~を云いだした人に関しては諸説ありますが、江戸と関西では当時絶対的に違うところがありました。関西では前開き(捌き方。これは現代と同じです)江戸では後ろ開きでした。なぜかというと、前開きは切腹を匂わせるので不吉とされておりまして、鰻に関わらず、捌き方はこういった統一がありました。江戸は侍の町、関西は商人の町だったからでしょうか。参勤交代のせいで、各藩が江戸詰めに屋敷があり、江戸のおいしいものマップを片手に田舎からきた人たちがあれこれ食べた記録が残っています。いまでいうミシュランガイドは毎年発行されており、江戸の人たちにも愛用されてきました。新しいものには敏感なおしゃれ嗜好はやはり都会の宿命なのでしょうね。