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子供と大人

 揺れる大地。体の芯を震わせる雄叫び。崩れ落ちて瓦礫となった建物。鼻をつく異臭。泣き喚き、助けを求める悲鳴。今まで当たり前にあったもの全てを飲み込んだその光景は、正に地獄だった。


 亜麻色の髪を振り乱し、緑色の瞳いっぱいに涙を溜め、逃げ惑う人々に逆らうようにひたすら走る。視界の端々には真っ赤に染まった動かぬ影が映り、十三歳の少女は現実から逃げるように目を伏せた。


 町全体に煩いほどの警告音と避難を呼びかける音が響いている。耳を塞いでいても聞こえてくるそれは、もはや意味をなさない。



「お父さん……お母さん……ロイ……」



 少女の口から縋るように漏れた声は震えていて、今にも消え入りそうだった。

 怪我をしていてもいい。ただ生きていてくれさえすれば。そう願いながら少女が向かった先は、つい数十分前まで自分もいた場所。



「い……い、や……いやぁ……あぁぁああああっ!!」



 お母さんに文句を言いつつ、お父さんと弟に笑顔で見送られ、嫌々おつかいに行っただけなのに。ほんの少し、離れただけなのに。

 家族との思い出がいっぱい詰まった家は、瓦礫の山と化していた。


 少女は力なくその場に座り込む。

 もしかしたら逃げきれているかも、という淡い期待は無残にも消え去った。もう目を瞑っても脳裏に焼き付いて現実逃避などできはしない。



 ーーバキッガンッミシミシ……


 人間には出せないだろう音がすぐ近くから聞こえてくる。少女はそれでも目を閉じたまま動こうとしなかった。

 どうせ逃げても人間の足では敵わない。それならいっそ家族の側で……と少女は思った。



「アスティ!」


 ーードゴォォオオオンッ!!



 それは本当に一瞬の出来事。男性の図太い叫び声が聞こえたと思った瞬間、大きな爆発音と共に、少女を熱風が襲った。風が強すぎて目が開けられない。思わず両腕で身体を抱いて縮こまった少女は、風が落ち着いてからゆっくりと目を開けた。そして、息を呑んだ。



「大丈夫か!」



 そう言って乗っていた生き物から飛び降り、駆け寄ってきた男性は、所々破けた赤い騎士服を身に纏い、手には血塗られた剣を握っていた。



「ここはまだ狩り残しがいて危険だ。こっちにおいで」



 優しく手を差し出してくれた騎士の手を少女は握ろうとせず、首を横に振る。



「怖かったよな。動けなくなっちゃったか? それなら俺がーー」

「……ここにいる。お父さんもお母さんもロイもいるから。みんなと、一緒に、いたい」



 ポロポロと泣き出した少女の視線の先を見て、状況を理解した騎士は、そっと少女を抱きしめた。小さな肩がヒクヒクと揺れている。



「ごめん……ごめんな」



 そのまま意識をなくした少女を、騎士はゆっくり抱き上げると、自分の相棒の元へと近づいた。普段ならば決して降り立つことのできない場所だが、翼や尾が壊してしまう心配のあるものは、もうここにない。



「アスティ。いいよな?」



 アスティと呼ばれた生き物は、返事の代わりに乗りやすいよう大きな身体を傾ける。もちろん、しっかりと翼を畳むことも忘れない。



「ありがとう。それじゃあ一度、この子を安全な場所まで連れて行こう」



 合図を受けて、アスティは赤黒い鱗を煌めかせながら、勢いよく翼をはためかす。風を切る音が凄まじい。巨体には似つかわしくないくらい軽々と、スティアドラゴンは二人を乗せて大空へと飛び立った。



 ベルニスという町が最大の被害を受けたということで名付けられた『ベルニスの惨劇』は、歴史上三番目に多い死者数を出した、魔獣の暴走である。




 ♢



 コンコンと軽いノック音を鳴らし、返事を待つ。ここでちゃんと待たなければ子供の頃のように怒られてしまうので、早く入りたくても我慢しなければならない。

 ドアの奥から「どうぞ」と男性の声が聞こえてきた。威厳を保つためなのか、普段よりも落ち着いた声色にメイは心の中でくすりと笑う。



「失礼します」



 そう言ってドアを開ければ、ドアと向き合う形に置かれている執務机で作業をしている男がいた。部屋の中は至ってシンプルだ。執務机と制服の上着がかけられている木製のポールハンガーが一つ。部屋の隅にはソファとテーブルが置かれているが、真っ黒で色味がない。まぁ、座り心地は抜群なのだが。



「悪い。もう少しでひと段落するから、ちょっと待っててくれ」

「うん、わかった」



 メイは手に持っていた荷物をテーブルの上に置き、ソファに腰を下ろした。ちょっと浅めに座り、姿勢は崩さないのがポイントである。


 カリカリとペンの走る音だけが部屋の中に響く。普通の人なら手持ち無沙汰な時間も、メイにとっては貴重な時間だ。


 ペンを持つ手は大きくゴツゴツしていて、視線を走らせる黒い瞳からは集中していることが伝わってくる。紙をめくる瞬間にサラリと黒髪が揺れ、首筋に目がいってしまう。

 出会ったばかりの頃は、まだ青年と言っていいような雰囲気だったのに、今では大人の色気が漂う男になってしまった。



「うっしゃっ、終わった! よし、飯だ飯」



 ぐーっと大きな伸びをして、ニカッと笑うニコラスの姿にメイは小さく息を吐いた。先程までは仕事のできる大人の男そのものだったというのに、今は少年のようである。その無防備な姿に、メイは胸が苦しくなる。


 素早くソファへと移動してきたニコラスは、躊躇することなくメイの隣に座り、テーブルの上にあるメイの差し入れ弁当の蓋を開けた。



「おっ、美味そう。なんか悪いな、こんなところまで届けてもらっちゃって」

「いいよ。今日は仕事が休みで予定もなかったし」

「そうか? ありがとな、メイ。んじゃ、いただきます」



 大きな手を顔の前で合わせ終わると、ニコラスはすぐさま弁当へと手を伸ばす。別にニコラスに頼まれたから弁当を作ってきているわけじゃない。これはただの口実に過ぎないのだ。


「美味い」

「また腕上げたな」

「ほら、メイも一緒に食べよう」


 ニコラスはいつも嬉しい言葉をかけてくれる。計算ではなく、素直な言葉なのだと知っているから、尚更嬉しい。

 だけどーー



「いやぁ、メイを嫁にもらった男は絶対幸せになるな。まぁ、まずは俺を倒してからだけどな」



 時々、無神経な言葉も吐く。無自覚なのが、余計に悲しくさせるのだ。



「ほんと、こんなに料理が上手くなるなんてな。最初の頃は、卵焼きも上手く巻けなかったのに」

「いつの話してるの?」

「だって、ついこの間のことのように思い出せるんだ。あんなに泣き虫だったメイが、今じゃ立派に働いて、一人暮らしまでしてるんだから」



 俺は嬉しいよ、と微笑む姿は、まるで娘自慢をしている父親のようだ。いや、ニコラスにとってメイは娘と変わらないのかもしれない。


 ニコラスとメイが共に暮らした四年。ニコラスは本当の家族のように赤の他人のメイを大切にしてくれた。仕事以外の時間を全てメイに捧げてくれた、と言ってもいいだろう。


『ベレニスの惨劇』でメイは家族も住む場所も生きる気力も全て失った。そんなメイに手を伸ばしてくれたのが、あの地獄から救い出してくれた竜騎士のニコラスだった。

 当時の事をメイはあまり覚えていない。何故ニコラスが引き取ってくれるといったのか、彼について行くことを選んだのかさえも、記憶にないのだ。


 ただ、当時二十四歳のニコラスが心を全く開かない十三歳の少女と向き合うのは、相当大変だっただろうことは想像に難くない。

 ニコラスは遅くなっても必ず帰宅し、朝ごはんを作っておいてくれた。家にいる時は、返事をしないメイに根気よく色々な話を聞かせてくれたり、家の外へも連れ出してくれた。


 真っ黒だったメイの世界に少しずつ色を足してくれたのは、他ならぬニコラスだ。メイが料理をするようになったのも、お世話になっているニコラスへの恩返しが理由だった。ニコラスはあまり料理が得意ではなかったのだ。

 初めてニコラスより先に起き、朝食を作った時のニコラスの喜ぶ姿は今でも忘れない。それが、お母さんがよく作ってくれた料理だったことも。


 家族のことやあの惨劇を忘れたことはない。

 だけど、この世界を生きてみようと再び思えた。前に進まなくてはという気になれた。



「私、もう子供じゃないよ」

「そうかそうか」

「ちょっ! ぐちゃぐちゃになる!」



 メイの頭を満面の笑みで撫でるニコラスの手つきはとても荒い。小さな頃は動きやすいからという理由だけで短く切っていた亜麻色の髪も、今では胸辺りまで伸びた。

 少しでも大人っぽく。そう思って伸ばしているのに、彼のせいで丹念にくしでといてきた髪も乱れてしまう。



 ーーコンコンッ!



 ノック音の後に「失礼します!」と騎士らしいハッキリとした声が届いてくる。メイはもう終わりだな、と判断し、手早く髪の乱れを直して立ち上がった。



「そのお弁当箱はまた今度取りに来るから、時間がある時に食べるんだよ」

「ああ。ありがとな、メイ」

「それじゃあ、お仕事頑張ってね」



 そう言うと、メイは執務室のドアへ向かう。ドアを開けた先にいたのは、物語の王子様のような雰囲気を持つジェイドだった。

 ジェイドはドアを開けたのがメイだと気づくと、一瞬申し訳なさそうな顔をする。彼はメイの抱える気持ちを理解している一人だからだ。



「お疲れ様です、ジェイドさん」

「こんにちは。メイちゃんもお仕事頑張ってるみたいだね。この前もたくさん注文しちゃったから大変じゃなかったかい?」

「いいえ。第四騎士団様は当店のお得意様ですから。それに、お祝いの場にご指名いただけて光栄ですよ」

「そう言っていただけると、また安心して頼めるよ」

「またお待ちしてますね」



 どちらからともなく笑い合うと、メイは軽く会釈をしてその場を後にする。残されたジェイドは一瞬メイの背に目を向けるも、すぐに執務室へ入っていった。



 メイは慣れた足取りで南支部の廊下を進んでいく。初めてメイが南支部に足を踏み入れたのは、ニコラスに引き取られて半年後の高熱が出た時だ。

 家に一人残していくのを心配したニコラスが、南支部の医務室で寝ていろと、なかば私情を押し通すような形で連れてきたのである。当時、ニコラスはまだ一竜騎士でしかなかったはずだ。それなのに、よく先輩達を納得させられたな、とメイは思う。


 それからだ。ニコラスはメイに何かあるたび、南支部にメイを連れていった。他の竜騎士達もメイを温かく受け入れ、暇なんだと構ってくれた。特に、まだ新人だったレオンは歳が近いからと、よく相手をしてくれていた。

 大きくなって、訪れる頻度が減っても、彼らは変わらずメイを受け入れてくれる。その後、エドワード、ジェイド、ミリアと新しい顔ぶれが増えてはいったが、第四騎士団とメイの関係性は変わらない。


 この場所が、メイにとってホッとできる場所になったのも、きっとニコラスのお陰なのだろう。本当にニコラスにはお世話になりっぱなしだな、とメイは苦笑いを零した。



「メェェェイ!」



 廊下の奥から自分を呼ぶ声に気がついたメイは、慌てて声のする方へと振り返る。



「ヘレイン?」



 疑問形になってしまったのは、決して忘れたからじゃない。久しぶりに会ったヘレインの見た目が変わっていたからだ。


 長いからと頭の上で適当に纏められていた紅色の髪は、胸の高さまで切られハーフアップにされていて、軽くウェーブがかかっているせいか、女性らしく見え、シンプルな髪飾りが品良く映る。顔もうっすらと化粧が施され、以前よりも大人っぽい。

 手を大きく振る姿は以前の面影を感じさせるが、黙っていれば品の良いお嬢様だ。



「どうしたの、ヘレイン! 何だかとても綺麗よ」

「えへへ、そうかな?」



 話し方は変わっていないので、メイは内心ホッとした。



「少し自分を見直そうと思って。まずは、見た目から」



 恥ずかしそうにほんのり頬を染めるヘレインが愛らしい。メイは自然と表情を緩めた。



「なんかいい事があったの? あっ! 好きな人ができたとか?」

「うえっ!?」

「嘘! 本当? わぁ! ドラゴン一筋だったヘレインに好きな人かぁ」



 女の子は誰でも恋話が好き……ミリアを除いて。

 メイは自分のことのように喜んだ。ヘレインも否定することなくヘラリと笑う。



「まだ、はっきりとしたわけじゃないけど……まぁ、気になると言えば気になる、みたいな?」

「なるほど」

「メイは? 隊長に愛妻弁当?」



 メイは思わずガクリとうな垂れる。ヘレインもメイの気持ちを知る一人だ。歳が一つ違いということもあり、南支部にいる他の人達よりも親しく、友人的存在と言っていい。

 だからか(いや、ヘレインの性格もあるとは思うが)、結構物言いがストレートの時がある。



「愛妻になれてない弁当だよ」

「あー、いや、でも、隊長喜んでるし」

「あれは娘からのお弁当を喜んでる父親だよ」

「やー、娘なんてそんな。十一歳しか離れてないし」

「彼にとって私は、未だに十三歳の頃のままだもの」



 なんとか励まそうとするヘレインの言葉を、メイは重々しい声で切り捨てる。

 そう、どんなにメイが立ち振る舞いを気遣ったって、大人っぽくなるよう見た目を気にしたって、料理の腕を上げたって、家を出たって……ニコラスにとっては引き取った大切な家族にすぎないのだ。


 最初はニコラスに家族のように大切にされていると喜んでいた。近寄ってくる女性達を相手にもせず、メイを構ってくれるニコラスの態度に優越感を抱いていた頃もあった。

 けれど、その特別な席が嫌だと思い始めたのはいつ頃だったか。


 どんなにメイが抗っても、その席はずっとメイのものだった。家族……それは暖かくて、優しくて、簡単に崩れることのないもの。メイはニコラスの家族という席から抜け出せない。

 それが、ニコラスのせいだとメイは思っていない。ここまで大切に育て、守ってくれたニコラスを傷つけたくない。悲しませたくない。そう思って、メイもその席を自分から壊せなかったから。


 家を出ればと思い、仕事に就いた十七歳の頃、ニコラスの反対を振り切って一人暮らしを始めてみたが、いざ一人になると寂しく、ニコラスとの繋がりがぷっつりと切れたようで怖くなった。

 だから、頼まれてもいないのに、お弁当なんかを作って持ってきてしまうのだ。それも、家族のフリをして。



「ごめん、ヘレイン。ちょっと自分が情けなさすぎて、当たっちゃった」

「メイ……」



 泣き笑いを浮かべるメイの姿にヘレインは眉を下げる。

 恋とは本当に難しい、とヘレインは思わずにはいられない。どんなに相手を想っても、一人では何も解決ができないのだから。



「私、なんにもアドバイスしてあげられない」

「ヘレイン?」

「でも、話くらいなら聞いてあげられるから……よし! 今日は飲みに行こう!」

「へ!?」



 しんみりとしていた空気が一瞬にして変わる。メイは呆気にとられ、ポカンと口を開いたまま固まった。



「行こう! たまには吐き出さないとね」

「ふっ、ふふふーーそうだね。私もヘレインの話、聞きたいし。ヘレインの仕事が終わってから飲みに行こう!」

「うん! って、あ! 仕事中だった」



 突如表情を曇らせたヘレインの様子に、メイは心配げな視線を送る。すると、その時、二人のいる廊下の反対側から誰かの駆けてくる足音が聞こえてきた。



「ヘレイン!」

「ア、アレク!?」



 駆けてきたのは、癖のある黒髪を靡かせ、深い青の瞳に心配の色を色濃く乗せた優しげな雰囲気の青年だった。メイにとっては初めて見る顔である。



「全然来ないから心配して……ヘレイン。こちらの方は?」

「初めまして、メイと申します」



 メイは笑顔で挨拶をする。騎士と会話するのも慣れたものだ。

 一方、挨拶されたアレクは「貴女がメイさんですか」と納得した様子で頷くと、騎士の礼をとった。



「私は第四騎士団南支部竜騎士隊所属、アレクと申します。いつもニコラス隊長には、大変お世話になっております」



 その挨拶で、アレクはニコラスとメイの関係をなんとなく知っているのだとわかったメイは、「こちらこそお世話になってます」と当たり障りのない返事を返した。



「あの〜、なんでアレクがここに?」

「なんでって、ヘレインがなかなか来ないからだろう? エドワード先輩がかなり待ってるぞ」

「嘘っ!大変! メイ、ごめん。じゃあ、後でいつもの場所で!」



 そう言うと、ヘレインは一目散に駆けていく。残されたアレクは苦笑いを浮かべながら小さく溜息をつくと、メイに軽く頭を下げ、ヘレインの後を追っていった。

 なんだか親しげな二人の様子に、今日はヘレインに聞くことがいっぱいだな、とメイは笑みをこぼした。




 ♢



 空には無数の星が瞬き、数刻前までは多くの店の明かりが灯っていた道も、すっかり夜の闇に同化している。賑わう声も聞こえず、楽しい時間の終わりを告げた。



「話が尽きなくて、結構飲んじゃったね。明日の仕事もあるから、そろそろ帰ろうか?」



 何杯目かわからないグラスが空になったのを確認し、メイはヘレインに飲み会の終了を提案する。ヘレインはメイの半分程しか飲んでいないが、もういい感じに酔っ払っているようだ。

 見た目だけで言えば、可愛らしい顔のメイよりも、ツリ目で若干キツめな顔立ちのヘレインの方が酒に強そうだが、それは偏見にすぎない。



「んー、そだねぇ、帰らなきゃねぇ」

「これは飲ませすぎたかな。ヘレイン、家まで送ろうか?」

「んにゃ、そろそろアレクが迎えに来ると思うから、メイも一緒に帰ろう?」



 テーブルに突っ伏しているヘレインをどう運ぼうか考えていたメイは、ヘレインの言葉に驚きを示した。



「迎えにきてくれるの?」

「んー、なんか一度二人で飲みに行ってからぁ、飲みに行くときは言えって……なんでかな?」



 いや、完全にこうなることを心配してだろう、とメイは思うも、言っても無駄な気がして口を噤んだ。

 しかし、それだと話は変わる。もうすでにメイは、この飲み会でヘレインの想い人を知ってしまった。ここでついて行くなど、友人のチャンスを潰すことになる。そうなると答えは自ずと決まってくる。



「私一人で帰るよ。家も近いし、あまり遅くなるのもアレだしね」

「え、でも……」

「マスター! ここにお金置いてく! あと、この人のお迎えが来るまでお願い! じゃあおやすみ、ヘレイン」



 言うことを言うと、ヘレインの言葉も待たず、メイは店を出た。ヒューっと冷たい風が頬に刺さる。メイは足早に家へと向かった。


 辺りはもう人気が少ない。こんなにも遅くまで飲んだのは久方ぶりだった。



「そろそろ迎えにきたかな?」



 メイはヘレインとアレクの事を考える。あの二人は同い年の幼馴染らしい。



「……同い年か」



 いいなぁ、と少しだけ思う。もう少し歳が近かったら、ニコラスも大人の女性として見てくれるだろうか。いや、そしたらきっとニコラスのことだから適度な距離を置いて、今のような近さは得られないだろう。それどころか、引き取ってすらくれていないかもしれない。


 無い物ねだりなのはわかっている。それでも、メイは考えずにはいられなかった。



「こんばんは」

「っ!」



 突然背後からかけられた声にメイは飛び上がった。振り返ると、知らない男が立っている。



「君、一人?」

「え、あ、いや……」

「もしよかったら、俺に付き合ってくれない?」



 にこりと笑いかけられたはずなのに、ゾクリと寒気がする。これはまずい、とメイはすぐさま理解した。

 周りを見ても人はいない。走って家まで逃げるということも考えたが、家がバレても不味いだろう。ここは、なんとかかわすしかない。



「この後、友達の家で約束があるので」

「えー、少しぐらい、いいじゃん」

「いや、遅れちゃうので、すみません」



 なんとか許してもらおうと頭を下げた瞬間、ぎゅっと手首を握られたのがわかり、メイは息を呑んだ。


 どうしよう……誰か。そう思って真っ先に浮かんだ人物にメイは情けなくなる。結局、一人前の大人の女性に、なんて思っていながら頼ろうとしてしまうのだ。メイは頭に浮かんだものを消し去ろうと目を閉じて頭を振る。

 今は一人なのだから、何かしなくちゃ。そんな焦りばかりが胸の内を占めた時、「痛っ!」と小さな悲鳴と共に手首が締め付けから解放された。


 ハッと顔を上げたメイの目の前には、痛みに悶絶する男と、男の手を捻りあげる大きな影。



「ニコ、ラス?」



 あり得ない人の登場に、メイはその場に立ち尽くす。普段ならば闇に溶けてしまいそうな黒い瞳が、キラリと光った気がした。



「こんな夜中に知らない女性の手首を掴むとは、見逃せることじゃないな」

「し、知らなくなんかーー」

「知ってるのか?」



 今まで聞いたことのない低く、ドスの効いた声に驚き、メイはひたすら首を横に振ることしかできない。

 険しい表情のニコラスと怯えた様子の男を見比べると、通りすがりの人には、どちらが悪者か判断できないかもしれない。



「知らないそうだ。どうする? このまま第二騎士団に引き渡すか」

「お前には関係ないだろ!」

「いいや、こう見えて俺も騎士なんでね。犯罪を見過ごすことはできないんだわ。まぁ、彼女を一人にもできないし、二度とこんな事をしないと言うなら、今回は見逃してやる。本当だったら、この手の感覚を無くしてやりたいところなんだがな。さて……どうする?」



 男はビクリと肩を揺らし、ゴクリと唾を飲み込んだ。まるで肉食獣に睨まれた小動物のようにカタカタと震え、瞳が絶望の色に染まっていく。



「わ……わかり、ました。もう、しません」

「そうか。わかってくれてよかった。ああ、くれぐれも変な気を起こさないように。顔はしっかり覚えたからね? じゃあ、気をつけて帰るんだよ。気をつけて、ね?」



 男は手を解放された瞬間、風のようにあっという間にその場を去った。残されたメイとニコラスの間に気まずい空気が流れる。

 先に動き出したのはニコラスで、「送る」という言葉だけをかけ、歩き出してしまった。メイは慌ててニコラスの一歩後ろにつく。


 辺りの静寂が腹立たしい程、聞こえてくるのは二人の足音だけ。こんなに二人でいて会話がないなんて、今までなかった。

 声を出そうと何度試しても、なかなか音にならず、メイはパクパクと口を動かすしかできない。



「ヘレインと飲み会だったんだな」

「……うん」

「今日は仕事が早く終わったから、迎えにいくって言うアレクについていった。そしたら、お前はいなかった。どうせあの二人に気を使ったんだろう」



 メイは居た堪れず、口を閉じる。全て見透かされているようだった。



「急いで後を追いかけたら、あんな場面だ。肝が冷えたぞ。メイ、お前は女だ。あんな男に掴まれたらひとたまりもない。それに、最近は山の様子もおかしいんだ。飲みに行くなとは言わないが、一人で暮らすと言った以上、もっと危機感と自覚をーー」

「ごめんなさい」



 ニコラスの言葉を遮ったのは、メイの感情の読めない謝罪の言葉だった。前を向いていたニコラスは、思わず振り返る。俯いているメイの表情はわからないが、小さく肩が震えていた。



「これが、私達にとって、一番正しい言葉なんだよね」

「……メイ?」



 ニコラスは今まで見たことのないメイの様子に、表情を曇らせる。



「私達の関係は『ありがとう』じゃなくて、『ごめんなさい』の関係なんだ」

「なにを言ってる?」

「だってそうでしょ? ニコラスにとって私は、未だに注意すべき子供。一人の女として見てないくせに、こういう時だけは女扱い。ニコラスが最初に求めるのは『助けてくれてありがとう』なんて言葉じゃなくて、反省の言葉」

「お、おい。メイ」



 ニコラスは落ち着かせようとメイの肩に手を置いた。その瞬間、メイは思い切りニコラスの手を弾き飛ばす。

 ニコラスは思わぬ反撃に唖然としたまま動きを止めた。けれど、それ以上に、我に返ったように顔を上げたメイの顔が驚いていた。



「ごめんなさい、私……」



 何てことをしてしまったのだろう、とメイは思う。

 ニコラスは心配してくれただけなのに。夜道を無警戒で歩いていたのは自分なのに。


 それなのに、言わなくていい、いや、言ってしまったら全てが終わるとわかっていた言葉をニコラスにぶつけてしまった。でも、溢れる感情を止められなかった。



「本当にごめんなさい。心配かけちゃって」

「いや、それはもういい。それよりーー」

「さっきのは忘れて……って、無理だよね。こんなに迷惑かけといて子供じゃないとか、どの口が言うんだってかんじだし」



 笑っているはずなのに、ニコラスにはメイが泣いているように見えた。



「メイ」



 そう言ってメイの方へと伸ばそうと持ち上げた手を、ニコラスはゆっくりと下ろす。いつもなら、悲しそうなメイの頭を撫でてやればよかった。だけど、今はしてはいけない。ニコラスはそんな気がした。


 そんなニコラスの葛藤を知ってか知らずか、メイはゆっくりと下ろされていくニコラスの手を見つめながら、ふっと力なく笑う。



「もう大丈夫。ニコラスの言った通り、もっとちゃんと気をつけるよ。仕事帰りもね、同僚が送ってくれるって言ってるんだ。なんか申し訳なくて断ってたんだけど、やっぱり頼んでみる。これならニコラスも、少しは安心してくれるかな?」

「あ、ああ」

「よかった。じゃあ帰ろう」



 メイはそのまま歩き出し、ニコラスの隣を通り過ぎて行く。メイが通り過ぎた瞬間、サラサラと靡いた亜麻色の髪から嗅いだことのない甘い香りがした。



「ほら、早く行こう」



 ニコラスを急かすメイの姿は昔と何も変わらない。まるで蕾が花開くように柔らかで温かい笑顔がそこにある。

 それなのに、ニコラスはメイが消えてしまうような錯覚を覚えた。


『子供じゃない』


 メイの言葉がニコラスの頭から離れない。



「メイ、俺……」

「ほらほら、寒いから置いてっちゃうよー」



 今までと変わらないはずなのに、何かが確かに変わった気がして、ニコラスはじっとメイの背中を見つめていた。


【登場人物紹介】


メイ(20歳)

亜麻色の髪、緑の瞳、可愛らしい顔立ちの女性。

7年前の『ベレニスの惨劇』で家族を亡くし、ニコラスに引き取られる。

ニコラスとは三年前まで共に暮らしていたが、調理師として手に職をつけ一人暮らし中。

ニコラスの事が好きだが、子供扱いされたままで踏み切れない。健気にご飯を作りに行ったりと世話を焼く。

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