僕は勉強が嫌いだ(誤答)
また、何もできなかった……。
教室の隅の席に腰掛けながら、僕は軽い絶望感に浸っていた。時計の針を見れば、試験まであと五分。たったの五分で、一体何を勉強すればいいのだろうか。いや、いっそのこと何もしなくても変わりやしないと、僕は開き直る。一秒一秒が、とても長く感じられた。
三分前。先生が問題用紙を配り始める。最前列の生徒がそれを受け取り、後ろの生徒達に回してゆく。僕も前の生徒から用紙を受け取ると、一枚取って後ろの生徒に回した。まだ、心の何処かに余裕があった。
チャイムが鳴る。生徒達が一斉に紙を裏返す音が教室中に響く。それから、名前を記入するカリカリという音。カリカリ音はそのまま絶えることなく、教室のあちこちから聞こえてくる。僕の机だけだ。まだ一度もペンの音を響かせていないのは。僕はゆっくりと問題用紙を上から順番に眺める。解ける、解ける、解けない、解ける、解けない――真面目に試験勉強をすれば良かったと、僕はここで初めて後悔する。が、時既に遅し。この問題が出ると分かっていたら、僕は教科書のあの部分を少しでも読んできただろうに――と、今更どうにもならいことを考える。
試験開始から、五分経過。僕の手はシャーペンを握ったまま一センチも動いていなかった。代わりに、僕の頭の中が必死に稼働している。半分は、解けそうだ。でもこの科目の合格点は六割。それにはどう足掻いても届きそうにない。僕はゆるゆるとシャーペンを握る右手を動かすと、薄い字で上から解答欄を埋めてゆく。勿論、正答が書ける箇所だけだ。曖昧な解答なんて記入しない。いや、できない。
試験開始からニ十五分。先程まで軽快に動いていた僕の右手は、いまは再び緩慢な動作で解答欄の上を行ったり来たりしている。もう、このくらいでいいだろうか。僕はじっくりと答案用紙を眺めると、そのままシャーペンを置いて頬杖をついた。ああ、退屈だ――ふと教壇の上に掛かる時計に目を移せば、まだ退出時間まで十五分もある。ああ、退屈だ。その時の僕は、自分の中にある焦燥感に、わざと気が付かないフリをしていた。
試験終了まであと十分。僕は時計の針が指している時刻を確認すると、おもむろに消しゴムを手に取った。そして、改めて穴だらけの解答欄を眺め直す。――よし。僕は消しゴムを構えると、一問目の解答欄から記入した解答を綺麗に消してゆく。まるで、初めからそこにはなにも書かれていなかったかのように。一問目を消したら、次は二問目、四問目――
試験終了直前。僕の答案用紙は綺麗に元の配られた時の状態に戻った。これで良し。最後に、僕はチラリと名前の記入欄に目を遣り、すぐに背ける。その時チャイムが鳴った。僕は答えのない答案用紙を手に取ると、それを持って教卓の前に立つ。提出を終えて、僕はそそくさと教室を出た。胸の奥がチクリと痛んだ。
胸の痛みは徐々にその大きさを増してゆく。僕は耐えきれなくなって、思わずトイレの個室に飛び込んだ。立ったまま、ゆっくりと深呼吸をする。徐々に整ってゆく呼吸とは裏腹に、心の内は焦燥感で一杯だった。じわり、じわりと後悔の波が押し寄せる。でも仕方なかったんだ。仕方が、なかったんだ。
試験対策をちゃんとしていれば、きっとあんな問題全部簡単に解けていたことだろう。つまり僕が真面目にやっていれば……真面目に、か。僕が真面目な生徒だったのって、いつが最後だったんだろう。小学校……いや中学くらいまでは普通に机にかじりついている優等生だった気がする。でもいつからか、僕は机に向かって勉強するのが億劫になった。誰だってそれは同じ。そう言ったのは母さんだったかな?でも僕は、何度も同じ過ちを繰り返してきた。「勉強しなさい」その言葉に、何度も何度も雁字搦めにされながら。
勉強すること自体は、多分、嫌いじゃない。でも、試験勉強は嫌だ。だって、もし勉強しても成果が出なかったらどうする?僕という人間には結果を出す能力が欠けている――それがはっきり分かってしまったら、どうすればいい?僕はいつからか、物事に本気で取り組むことを恐れるようになった。特に勉強。だから、わざと全部手を抜いてきた。まだ僕は本気を出していないって、自分にそう言い訳できるから――
でもそれももう限界なのかもしれない。僕はさっきの試験を思い出して、拳をぎゅっと握る。僕という人間は不完全だ。それが、僕にとってはこの上もなく苦しい。認められない。きっとこれからも、僕は何もできないんだ。何もできない僕って、一体なんなんだろう。
僕はトイレを出る。まだ休み時間の廊下は、試験の話題で盛り上がる生徒達のざわめきで満ちていた。僕はそれを、何処か遠くの出来事のように聞き流す。そして、その場にぼうっと立ち尽くした。廊下の端に立つ僕は、深い絶望感に覆われていた。
僕は自分が嫌いだ(正答)