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――弾かれた。
正確に言えば、全く侵食出来なかった。例えるなら、蟻が人間の身体を動かそうとしているような感覚。一応侵食が成功した時に備えて手足に侵食を絞ったものの、まったくもって無用な気遣いであったことを悟る。とはいえ、予想は出来ていた。絶対的な能力でないことは少年自身痛いほど理解している。故に――
――行け。
少年の能力は歯車の世界による侵食と支配。少年の能力によって侵食された世界の歯車全ては、少年の手足となる。さながら津波のように、逃れようのない範囲と、弾丸をも上回る速度を以て歯車の群れが少女に牙を剥く。
物理的にも驚異ではあるが、歯車一つ一つに世界を侵す力があるのだ。本来掠っただけで相手を侵食し、歯車へと変質させる凶悪な性質。尤も、侵食する力が高い視線による侵食が弾かれた以上、少女に対しては物理的な干渉にしか過ぎないのだが。
最悪なのは、少女が少年同様単純な物理的干渉では傷を負わない場合だ。少年はそういうケースがあることを実体験として知っていて、そういう存在には手も足も出ないことも理解している。
最悪『切り札』を切らなければならないことを少年は覚悟して――次の瞬間一瞬思考が真っ白になった。
少年にとって歯車とは手足であり、目であり、耳にもなる。感覚の延長であり、己であり、同時に異物だ。この異物感が少年の精神を蝕むのだが、それはともあれ。
――歯車が、消えた。
腕をもがれて気付かない人間は居ないように、少年も歯車の消失に一瞬で気が付く。少女の姿は歯車の波濤で見えないが、少年は確かに少女の身体に触れた瞬間消失する歯車を知覚していた。
無論少年の意思とは無関係な消失だ。少年は意思一つで歯車を消すことが出来る。元に戻すことはかなわないが、消失させることは容易い。しかし、殺す気は無いが、害意を持っての能力行使。少年が自ら消す理由などありはしない。
故に、少年ではなく少女に消失の理由がある。歯車の消失。それは、能力の無効化か。もし能力を打ち消せる力だというのなら、もしかしたら能力による変質も元に戻せるんじゃないか。
そんな縋るような思考が少年の頭をよぎる。
思考の空白。
それは明らかな隙だった。良くも悪くも変質させた歯車は手足であり、脳からの指示なしに動くことは無い。ほんの一瞬、歯車の動きが鈍る。
次の瞬間、歯車の波濤をあっさりと突き破って少年の前に出現した少女に、しかし少年は今度はしっかりと対応して見せた。確かに一瞬の隙は生まれたが、少女が動けば歯車が消えるのだ。自失からの復帰も一瞬だった。
更に、少女の足場が悪く、動きが微妙に鈍かった。
少年は『切り札』に能力のリソースを割いているため、侵食は特別意識しない限り浅い。それ故少女の歩く地面が完全に消えるということは無いが、例えるなら柔らかな雪が積った地面だろうか。機動力は間違いなく落ちていた。
そして、少年の左眼は右眼よりも性能が高い。先程は捉えられなかった少女の姿を克明に捉えている――人型の歯車の集合体としてではあるが。
――人間を見たのは久しぶりだが。
相変わらず精神にくるものがあるなと少年は僅かに顔を顰める。他人がどうとあれ構わないのだが、自身を含む人間の中身が錆びた歯車だというのは少年からしてもも狂気的だ。善意も思慕も薄汚い歯車から生じたものなのなら、何の意味があるというのか。『彼女』に出会わなければ少年もそう考え、絶望し、堕ちていただろう。
しかし少年は『彼女』に出会った。故に強く在れる。瞳に映る世界が歯車の地獄であっても、構わない。かつて見た光を思い、揺るがずにいられるのだ。
歯車の塊が右腕を繰り出そうとしているのを、歯車の僅かな動きで察知する。繰り出せれてから動いては間に合わない。少年は左の手のひらで受け止めるように腕を伸ばし、少女の拳の進路上にかざした。
壊れた右腕では受け止め切れない。そう考えて仕方なく左腕を犠牲に一手凌ぐ苦渋の選択――ではない。少女がそう判断してくれれば御の字ではあるが、少年にとってはここが勝負の分水嶺。勝負を決める攻めの選択。
果たして――天秤は少年に傾いた。
少女が真っ直ぐに繰り出した拳が、少年の左腕を一切の抵抗無しに貫いた。驚愕からか、無表情な少女の瞳が僅かに見開かれる。
少年の左腕は、肩まで歯車によって作られた義手だ。見た目は普通の手と変わらないようにしてあるが、本質的には歯車のまま。当然、少女に触れれば消されてしまう。しかし、それこそが少年の狙いだ。
少女のバランスが、崩れる。重心が前のめりになる。上体を起こしバランスをとろうと足に力を込める少女だったが――突然足元の地面が消失した。
少年の視線は下、地面に向けられている。少女の足のすぐ脇を歯車に変化させ、歯車からの干渉で周囲一メートル程を歯車で侵食したのだ。少年にとっては地面になる歯車だが、歯車に触れれば消してしまう少女にとっては空中に居るのと変わらない。
「おおおっ」
ここしかないと少年は吠えた。相手が見目麗しい少女であることなど一切気にしない。バランスを崩した少女の胸に全身全霊で回し蹴りを叩き込む。自身が足場にしている歯車を操り、低い位置から放たれたそれは、少女を天高く打ち上げた。
少年はこれが致命傷になるなど欠片も思っていない。そもそも殺す気は無いし、現実問題殺そうとしたところで殺せる可能性は限りなく低いだろう。
少年は少女を蹴り上げた位置から大きく飛び退き。左眼に全力で力を込めながら周囲を侵食する。瞳の中の歯車が廻り、大地が軋みを上げながら歯車に侵されて行く、少女が態勢を立て直して着地した時、少年の周囲の大地は歯車に埋め尽くされていた。
ある場所は数十メートル。その少し先は表面を歯車で覆っているだけ。また別の場所は数メートル歯車に侵食されている。無差別かつ不規則な深さで侵食された大地は、さながら歯車の結界だ。少女にとっては迂闊に踏み込めない場所になっている。
最も深い場所に落ちたところで傷は負わないだろうが、その隙に少年は別の場所で同じような罠を張るだろう。地面に触れないよう跳んでしまえば、着地地点を歯車に変化させられてしまう。少女は一瞬考えるように動きを止めた。
「話がしたい!」
戦闘中に生まれた、否、少年が作り出した一瞬の間。それを逃してなるものかと少年は声を張り上げる。
「頼む! 君が望むなら全てが終わった後命を差し出しても構わない。だからっ」
お願いだ、と少年は頭を下げた。少年にとって最強の武器である左眼の視界から少女外す行為は、武器を地面に置いて両手を上げたようなものだ。この一瞬で少女は少年の命を奪うことも不可能ではなかっただろう。
その行動から誠意を感じたのか、はたまた全く別の理由からか。少女の無表情からそれを窺い知ることは出来ないが、少女は小さく喉を震わせた。
「了承する……なに?」
「……ありがとう。まず、聞かせて欲しい。君は、能力を無効化出来るのか?」
少女が応じてくれたことに安堵しながら、焦る心を抑えつつ、言葉が走らぬようゆっくりと問い掛けた。
「……肯定。私は異界による世界侵食を無効化することが出来る」
自身の能力に関わることだというのに、あっさりと答えてくれる少女。少年はこれまでの戦闘である程度理解されていると少女は判断したのだろうと自分を納得させつつ、続ける。
「それは、能力……ああ、異界による侵食を元に戻すことが出来るのか?」
「否定。侵食されたものを消去することしか出来ない」
またもあっさりと答えてくれる少女だが、少年にはもうそれを気にしているような余裕は無い。予想していた答えではあったが、外れて欲しい予想でもあったのだ。堪えきれずすぐさま口を開く。
「ならっ、暴走した、違う、ああ……堕天した人間を元に戻すことは出来ないのか?」
「不可能」
即座に返された答えに、少年は唇を震わせる。目は見開かれ、血走ってすらいた。震える声で矢継ぎ早に問いを放つ。
「本当に不可能なのか? 何か方法は無いのか? 何人に試したんだ? どうして不可能だと言い切れる!?」
「これまでに九十八体の堕天者を排除し、堕天状態から回復した者は存在しない」
それでも、と叫ぼうとした少年の声を遮るように少女の静かな声が響く。
「そもそも堕天した段階で堕天する前の人間性は失われる。死亡すると言い換えてもいい」
「あ、ああ……」
少女の言葉に、少年は力無く崩れ落ちた。何のことは無い。分かっていたことだ。とっくに理解していて、覚悟も決めていて。せめて自身の手で幕を引きたくて、十年間、少年は空を睨んでいた。ただ、目の前に現れた、能力を無効化出来る存在。
戦っている中で、歯車は消されるだけで元の物体に戻ったりはしていないことも少年は認識していた。当然堕天した存在を――『彼女』を元に戻すことなんて出来ないことも何となく察していた。
それでも。
それでも、万に一つ、億に一つ、兆に一つ、それ以上だとしても、構わなかった。救える可能性があるなら、縋りたかった。
未練だ。
しかし、少年にとってはそれが全てだった。十年前のあの日から、未練だけで生き恥を曝してきたのだ。ぐちゃぐちゃに歪む思考の中で、それを冷笑する自分を少年は見つける。
――分かっていただろ、と。
奇跡なんて起こりやしない。もう全ては終わった事なのだからと。せめて終わった悲劇の幕引きだけは自分でしたいと足掻いていただけなのだからと。
「……分かっていたさ」
掠れ、囁くような少年の言葉だったが、少女は鋭敏な耳でその声を拾って、首を傾げる。分かっていたのなら、なぜこんな無駄な問い掛けをしたのだろうか、と。
そんな少女を尻目に少年はゆらりと幽鬼のように立ち上がり、大きく息を吐き出した。
「……ああ、ありがとう。その上でもう一つ。いいだろうか?」
「なに?」
「取引が、したい」
そう言った少年の瞳には暗い輝きがあり、その妄執を映し込んだかのように錆び付いた歯車が左眼の中でカラカラと回っていた。