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 ――何だ?


 いつものように大凡一キロ先にある街を睨んでいた少年は常にない気配を感じ、どれほど振りだろうか。左眼を閉じると右眼を開き、街から視線を外して周囲へと巡らせた。

 見渡す限りに広がる荒野。建造物の残骸が墓標のように立ち並ぶ、死んだ土地。百年程前までは普通に人が暮らしていたらしいが、今となっては一欠片の息吹も感じられない。

 少なくとも少年が街を睨み始めてからおおよそ十年。人影を目にしたことはなかった。


 ――物好きな。


 或いは、この先の街が滅んだことを知らないのかもしれないとも少年は思う。街が滅びたのはおよそ十年前。遠方に住んでいる者であれば街の滅亡が伝わっていなくとも不思議ではない。

 今あの街は危険地帯になっている。常人が近付こうものならまず間違いなく命を落とす。別段誰とも知らぬ者が死んだところで少年の知ったことでは無かったが、あの街に関わって死なれるのだけは許容出来ない。

 面倒だが、と思いつつ少年はゆっくりと立ち上がった。少年が身体を動かす度に砂埃が舞う。少年はふむと一つ息を吐き、軽く力を込める。次の瞬間、少年の身体から不可視の衝撃のようなものが放たれ、一切の汚れを弾き飛ばした。

 諸々の汚れで何色とも言い難い薄汚れた色に染まっていた髪は錆び付いたような赤銅色を取り戻し、容貌も整った本来のそれを取り戻す。

 少年は常識を身に付けてはいないが、知識として常識を持ってはいる。故に、人間かどうかを一瞬疑わなければならないほど汚れた状態では、まともな話し合いを望めないかもしれないと考えることは出来たのだ。

 尤も、言葉だけで退いてくれなければ実力行使ということにはなるだろうが。気怠げに動かしていた少年の眼球が、一つの人影を捉える。


 ――その瞬間、少年の内に湧き上がった感情を何と表現すれば良かったのだろうか。


 憎悪であり、敵愾心であり、禍心。恐怖であり、纏わり付かれてるかのような不快感であり、歓喜でもあった。ごちゃ混ぜの感情は、少年の中で混ざり合って衝動へと変化する。


 ――殺意だ。


 殺せ、殺せ、殺せと少年の身体を勝手に動かそうとする強制力。少年が常から感じている身体の細胞一つ一つから放たれる、どうしようもない異物感がかつてない程に高まり、蟲が身体中を這い回っているかのような嫌悪感に襲われた。


「ぐっ……」


 歯を食い縛り、少年は閉じている左眼を瞼の上から抑え付ける。少年は抑えた左の掌の中で、瞳に睨まれた瞼が変化し、細かく分解されて零れ落ちた。硬質な音を立てて一瞬前まで瞼だった物体が地面で跳ねた。

 身体の中で傍若無人に暴れまわる衝動はいよいよ抑え難く、少年がよろめいて足を一歩踏み出した瞬間、少年の意思とは無関係に足は力強く地面を蹴り出していた。


「しまっ……」


 衝動に抗い切れなかった驚愕と、殺意に動かされてしまえば視線の先の存在を害してしまうという一瞬の焦り。それが少年の意識に間隙を生じさせ、大河の濁流に呑まれるように、少年の意識は殺意の衝動に呑み込まれてしまう。

 地を蹴り、弾けるように飛び出した少年の身体を、少年自身は身体の内から眺めることしか出来ない。今少年は身体の内から湧き上がる殺意という生物に成り代わられていると言っていい。

 地上百メートル。かつて人が造ったという高層建造物の残骸。その屋上から少年の身体は跳んでいた。


 ――止めろっ。


 少年は言うことを聞かない身体の裡で叫ぶ。別段、百メートルの高さから跳んだこと自体は何ら問題にならない。その程度でどうこうなるほど少年の身体は脆くない。

 むしろ、その逆。

 常人に比すれば比べものにならない強度が少年にはある。たとえ重火器の集中砲火を食らおうと傷一つ負わないだろうし、腕力も腕の一振りでビルすら吹き飛ばすだろう。

 怪物だ。

 それ故に、まずい。牙を剥けばその力はやすやすと人間を殺せてしまう。別段人の命云々という倫理観の持ち合わせは少年には無かったが、この先の街に関わること、それが原因の人死にだけは出したくない。出さないと心に決めていた。

 故に――


 ――KIAI。


 もとい、気合。理屈ではない。もとより少年の持つ力も、この衝動も化学で云々という代物でないことは少年自身よく分かっている。必要なのは、強固な意思力。不撓不屈の意思だけが、力と身体を御するのに必要なものだ。


「おおおっ!」


 吠える。意味のない叫び。しかし、意義はある。何となく、力がこもる。それだけだが、それこそが重要だ。

 少年は心の内に一人の少女の姿を思い描く。それはこの先、少年が十年前から睨み始めた街に居る、少年にとって何よりも大切な少女の姿だ。

 少女のために、とは言わない。ただ、少年自身が成したい。エゴだ。自己満足の極地。それでも、十年前に少年は成すと心に決めたのだ。ここで人死にを出せば、誓いの一つが無駄になる。それは、少年にとって許容出来ないことだった。

 殺意の濁流の中から、腕が出る。這い上がる。狂おしい衝動を少年は軋む意識で押し潰す。少女への思いは、下らない衝動などよりも万倍優先されるのだと。意識の再構成。

 失われた身体の制御を取り戻した時、少年の身体は丁度先程視界に捉えた人影の目前。襲い掛かろうという信号を握り潰し、少年は左眼を抑えたまま口を開いた。


「突然ですまん。どうにも驚かせる形になってしまった」


 落ち着いた、どこか寂れたような調子の声。眼前の少女からすれば突然現れた男が、それを気にした様子もなく淡々と言葉を垂れ出すのだから訳が分からないことだろう。

 しかし、少女は特に驚いた様子もなく「いい」とだけ応え、色の無い視線を少年に投げ返して来る。自分も相当だが、この少女はそれ以上に無機質で人間味に欠くと少年は思った。


 ――美しい。


 ただ一人を除いて他者に興味や関心を寄せない少年をして、そう評さずにはいられない容姿を少女はしていた。白金の髪は絹糸のようで、肌は向こう側が透けて見えるのではないかと思ってしまう程に透明だ。

 黄金の瞳は常人であればそれだけで意識を溶かされそうな程蠱惑的。顔の造りもゾッとする程整っている。小柄ながら均整の取れた身体は、男性であれば理性を容易く喪失させてしまいかねない魅力がある。


 ――まるで人形だな。


 少年は無造作に思う。美しいと評しても、少年にとって魅力的では有り得ない。故に心がぶれないし、故に正確な評価でもあった。無機質な冷たい美貌。少女の容姿はそういうものだった。


「君の目的はこの先の街でいいのか?」


「肯定。私の目的地は、この先の街」


 少年は即座に返って来た答えに、そうかと小さく呟いて、言葉を重ねる。


「この先の街は十年前に滅んだ。今は無人で危険な生物が蔓延る危険地帯。引き返した方がいい」


 何ならある程度のところまでは俺が送ろう、と付け加える少年。このまま引き返せでは呑めない可能性もあるだろう――と考えた訳ではない。

 何となく少女が街の現状を理解した上でこの先の街を目指しているのだと少年は察していた。故に、この言葉はただの惰性だ。


「この先の街は堕天した者の領域。危険性は理解している」


 堕天、という言葉に少年は聞き覚えは無かった。しかし、予測は付いた。


「ならば、何故近付く。死にたがりでもなかろうに」


 死にたがるほどの熱が少女の中にあるとは少年には思えなかった。自意識すら希薄な、何か意思とは別のもので動いているような感覚。


「堕天した者を討つ。それが私の使命」


 うつ、討つ。それはつまり殺すということなのだろう。この先の街の主。力に呑まれてしまった存在を、殺すとこの少女は言っているのだ。


「……それは、どうしても必要な事なのか?」


「それが私の使命、私の存在意義」


「ああ、そうか」


 無機質に紡がれる少女の声。涼やかな、極上の楽器にも優る心地よい声音は、しかし少年の耳には雑音のように響いた。


 ――殺す、か。


 そんなことはさせない、と少年の心が叫ぶ。眼前の少女にそれが出来るのかは分からない。少女の言葉を借りれば堕天したあの街の主は、怪物である少年よりもなお強大な力を持っている。少女の細腕でそれを打倒出来るとは考え辛い。

 しかし、その意思があるという時点で、危険だ。

 少女は少年自身よりも知識があるように思える。少なくとも『あの状態』を堕天と呼ぶことを少年は知らなかった。呼称だけしか知らないということも無いだろう。力も危険性も理解している筈。その上で討つというのなら――


 ――確固たる自信があるか、とびきりの愚者か。


 後者であって欲しいが、そうは考え辛いと少年は思う。根拠は無い。ただ、眼前の無機質な少女がそのあたりの判断が出来ないとは思えなかった。

 とはいえ前者であれば実に厳しい。真っ当にやれば少年はあの街の主に勝つことは不可能だと断言出来る。羽虫のように殺されるだろうと。そんな化け物に勝算があるとすれば、少女を力尽くで止めることは少年にとって難事も難事。しかし――


「――それは許容出来ない。どうしてもと言うのなら、力尽くで排除することになる。退いてはくれないだろうか」


 言いながら、少年は身体に力を込める。少女は融通がきくようには思えない。決裂は予想出来た。警戒していた。だから、これは油断からの結果ではない。純然たる力の差が生んだ必然だ。


 ――消えた。


 少年の目には、一瞬少女が消えたように映った。左側の視界が死んでいるということもあるだろうが、それでも少年の知覚を超えた俊足。少年は右腕を立てて身体の前にかざす。反応出来たわけではない。しかし、勘と反射と偶然の産物で少年は防御に成功した。


 ――爆ぜた。


 攻撃を受けた腕が爆ぜたように少年には感じられた。それほどの衝撃。否、干渉があった。単純な物理的なエネルギーでは少年が傷を負うことはない。ただ、言葉に出来ない干渉が少年に確かなダメージを与えた。

 衝撃で地面と並行に吹き飛ばされる。幾つかの建物を打ち抜いて停止した少年は、まず右腕が繋がっていることに安堵した。右腕の損傷に自身の能力(チカラ)による修繕が今ひとつ機能していないことを感じ、相手が間違いなく自身を殺し得る存在であると再認識する。

 故に、少年は抑えていた左眼を外気に晒した。


 ――軋む、軋む、軋む。


 少年の視界、その左側に捉えられた世界が軋み、廻り始める。少年にとっては当たり前の、少年が見ている世界を映し出しているに過ぎない。変化というよりは、少年の世界で既存の世界を侵す侵食現象。

 風景は錆び付いていき、一定の速度で廻り出す。大小形状様々な、金属片が回る世界。少年の視界の中の光景を映し出した、『歯車』の世界。狂気に満ち溢れた世界が広がって行く。


 ――幼い頃、少年の左眼には歯車が埋め込まれた。


 否、押し込まれた。或いは、歯車で目を潰されたと言うべきだろうか。激痛と共に血を流し、絶叫した。当然だ。その歯車は何ら特別なものではなかったのだから。打ち捨てられ、錆び付いたただの歯車だ。

 押し込まれたそれは当然のように幼い少年の眼球を潰し、当然のように視界は死んで、不可思議なことに少年の視界は蘇った。おぞましい世界を映すように変質して。

 少年は、右眼に映る世界が多くの人が見ている、当たり前の世界だと理解している。その上で、少年にとっては左眼に映る世界こそが真実で、現実だった。建物も、食べ物も、人間すらが錆びた歯車で形作られた、狂気の世界。

 自身の姿すら歯車の集合体に映った時の衝撃は少年にとって言いようのないものだった。本当なら一秒だって正気を保てない世界。ただ、幼さ故の精神の柔軟さでこの世界を受け止められた。成長するにつれ次第に増して行く不快感と破壊衝動が限界に達しようとしたその時、少年には失いたくない大切なものが出来ていた。だからこそ、気合で抑え込めた。

 理屈は少年にも分からないが、錆色の歯車が回る瞳に映したものを歯車に変え、支配下に置く力。その超常の力が、少女に向かって解放される。

 廃墟を、枯れた大地を錆色に染める侵食の力が少女の身体を捉え――


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