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白波ネード

作者: 樹木 芽依

 三月十八日、午前四時二十分。 

 朝日が出てきて薄明るくなり始めたばかりだった。

 もうすっかり初夏になり、独特の若葉の何処か苦い、しかし何故か清々しいようにも感じる香りが漂ってくる。


 そんな新しい季節の始まりを告げようとしている日に。


 僕の母は永遠の眠りに、ついた。



   * * *



 ふっと目が覚める。明るい蛍光灯が暗闇から引きずり出されたばかりの目にはとても眩しく感じる。

 ここはどこだろうか。――ここは家ではないか。

 ついさっきまで病院に居たはずなのに。


 手を見る。

 もう四十近くなり、少しシワが深くなってきた手。

 そんな手をじっくり見ていると少し、違和感を感じた。


 少し霞んでいるように見えるのだ。


 目の霞みかな、と少し目をこする。しかし、治らない。

 少し不安になる。

 立ってテーブルを見ると、多人数でご飯を食べたような形跡があった。

 しかも、お寿司。

 お寿司の大皿には、私の好きなエビが残っていた。

 少しはしたないけど、つまんで食べようとする。

 しかし、紅いエビも、それが乗っかったシャリもわたしは何故かつかめず、自分の親指と中指は空を切った。


 もう一回、つまもうとする。今度は、狙いをきっちり定めて。

 しかし、とれない。かけらさえもとれない。

 もう一度自分の手を見つめる。

 この霞みは一体何なのか。

 手より下、足も見る。

 足も当然かのように霞んで見える。

 目の疲れだろうか、とわたしは思い、洗面台へ行く。


 洗面台の前に、わたしは立つ。

 洗面台には、少し大きめの鏡が掛けてあり、何気なくわたしはその鏡を見た。



 そこには、『わたし』という『存在』が映っていなかったのだ――



 わたしは少し考えて、あるひとつの結論に辿り着いた。


 それは即ち、『死』である。


 鏡を見た時はとても動揺したが、死を感じた瞬間、スーッとまるで身体に馴染んでいくかのように受け容れることができた。


 そう、わたしは死んだのだ。



* * *



 去年五月。わたしは子宮ガンと宣告された。

 中でもわたしのは、子宮のリンパに入り込んだガン細胞が永遠とリンパを回り続け、身体のあちこちにガンが転移していくものであると聞かされた。

 その後少し間を置いた医者は、今子宮ガンを取り除いても、どんどんとがんが出来ていき、完治は不可能だ。と淡々と、モノに話しかけるかのように言い放った。

 わたしは絶望の淵に追いやられたように感じた。

 その時、わたしの隣に居た夫、雄図が医者に尋ねた。


「妻は、死んでしまうのですか」


 医者は顎に手をやり、むぅ、と唸る。


「余命は、一年あるかないかですね」


 雄図が前のめりに身体を出し、医者の肩を掴む。


「憂希はついさっきまで五歳になったばかりの息子と幸せそうな顔をして毎日を過ごしていたんですよ! なのに、どうして……どうして、幸せををぶち壊すようなことをそんなに淡々といえるのですか……」


 だんだんと声がか細くなり、言い終わると掴んでいた医者の肩から手を離し、がっくりと肩を落として椅子に座る。

 そんな雄図を一瞥した医者は、


「寿命を延ばすことは、出来ます」


 雄図とわたしは先生の顔を見る。

 しかし、医者はこう続けた。


「ただし、とても苦しい道のりとなります。それでも、やりますか?」


 現実は過酷である、と思った瞬間であった。



 家に帰ったわたしは、意を決して雄図に言う。


「わたし、手術を受けないし、投薬治療も受けない」


 それを聞いた雄図は目を細くし、ただ、「どうして」とわたしに尋ねた。


「わたしは明に辛い顔を見せたくないの」


 雄図はわたしの目をしばらくじっと見て、諦めたかのようにため息をついた。


「お前はそうだとしても。オレは……反対だ。憂希を……死なせたくない」


「でも、わたしはもう死ぬって決まってる――」


言いかけた言葉は、雄図の手によって遮られた。


「今日は、少しここまでにしておかないか。明が幼稚園から帰ってくる時間だ」


「……そうね。あの子には、少し酷だわ」


 わたしは平静を装うと、お茶を取り出した。

 お茶をコップに注ぐ。

 この何でもない作業が、一体あと何回できるのだろうか。

 トン、とお茶の容器を冷蔵庫にしまい、冷たく冷えたお茶が入ったコップを雄図とわたしの席に置き、席につく。

 ちょうどその時、ガチャッ、という家のドアが開いた音と同時に、元気な声が響いた。


「たっだいまーーー!」


 ドタドタと駆けてくる足音がだんだんとリビングに近づいてくる。

 勢い良くドアを開けた明は自分の席に座るやいなや、


「ママ、おちゃ!」


 と冷たいお茶(というか自分が好きな紅茶が飲みたいのだろう)をせがんできた。

 はいはい、といつもの会話をしながらまた冷蔵庫に行き、リプトンのストレートティーのパックを開いて、明のお気に入りの黄色と茶色の水玉模様がプリントされたコップに注いだ。


 リビングに戻ると、何やら明と雄図が何かを話していた。二人とも笑っていた。

 気になったわたしは、「二人とも、どうしたの?」と尋ねると、


「ままにはまだないしょだもんねっ!」


と明。

 やはり今も、いつもの、なんの変哲もない、いつもの日常。しかしそれが、何故かわたしには少し憎く感じた。



 今年のはじめ。正月のような大きな行事も過ぎ、少しずつ暖かくなってきた頃に、わたしは倒れた。

 偶然にも、雄図が振り替えで休日だったためにわたしはすぐに救急搬送された。

 精密検査でわかったことは、わたしのガンは、とうとう脳も侵食し始めていたということだった。

 最近、目が最近霞んで見えたり、視野が狭く感じたりということが頻繁に起こっていたため、ガンが脳に巣食っていたということは別段大きな驚きではなかった。

 それよりも、私の心の傷を生み、深くえぐったのはガンが予定より速いスピードでわたしの身体を蝕んでいたという事実だった。

 わたしの命はもう長くない、と言われた。長く持ってもあと三ヶ月。余命宣告をわたしは信じたくなかった。

 やっぱり、わたしは明と、雄図と……家族と一緒に居たかった。

 ふつふつと湧き上がる苛立ち、悲しみがないまぜになったかのような感情に、私の心は押しつぶされてしまいそうだった。



 もう、何もわからなくなった。


 

 三月に入ると、わたしはもう歩けなくなっていた。

 寝たきりのせいで、足の筋肉が衰えてしまっていたのだ。

 食事もままならず、どんどんと痩せこけていく顔を見た時は、自分の顔であることを信じることが出来ないくらい、悲惨なものだった。

 雄図には、明はもう連れてこないでくれと言った。

 まだ幼い明には、見せたくなかった。

 自分の母の顔を思い出すことがいつか来るだろう。その時の顔が、今の顔であってほしくなかった。

 これはわたしの勝手なわがままなのだろうか。明を言い訳にして、自分の姿を見てほしくないだけなのかもしれない。

 複雑に絡み合った糸の上を、何人もの人が通り、気付かず踏み潰していく。わたしの心は、そんな糸のように汚れ、グチャグチャにかき回されていった。



 そして三月一八日。

 わたしは、不思議な夢を見た。

 何かは思い出せないが、楽しかった夢だったように感じる。

 わたしは、その夢の終わりが、衰弱しきった心を癒してくれたように、感じた。


 わたしは、晴れやかな気持ちで、この世を去った――


   * * *


 そう、わたしは死んだ。晴れやかな気持ちで死んでいった。それなのに、なぜ、わたしはここにいる?


――そうか。


忘れていた。ひとつ、大事なことを。

 愛する息子、明だった。

 わたしは、明のことが、心配だったのだ。

 わたしが死んでしまったことに深く傷ついていないか、悲しんでないか、それがとても心配だった。

 わたしは明に、最後に言いたかった――けど、言えなかった言葉がたった一つ、ある。

 単純な使い古された言葉、でも重要な言葉。


 『応援しかできないけど、傍にいるよ』


 ただ、これだけ。

 だけど。たったこれだけだけれど。わたしには、言えない、言うことができない。


 だって、幽霊だから。


 言葉にはもちろん出せない。ものには触れない。でも――やっぱり伝えたい。


 わたしはキッチンシンクを見る。

 シンクには、洗ってない皿に水がなみなみと注がれている。


 ――そういえば、シンクからはテレビがよく見えるんだっけ。


 テレビ、という言葉に少し、引っかかった。


「霊力、なんてよくわからないやつでほんとにテレビが点くかな………?」


 ものは試しだ、と割り切り、テレビに『テレビ点け~、点け~』と念じてみると。


 ピッ。


 ……ついた!

 テレビに、『傍にいるよ』と出せたら、これでわたしの願いは叶えられる。

 あまり長くいると生きている人の迷惑になる。なので早く終わらせて、消えてしまいたかった。

 わたしは考える。


 傍にいる……スタンドバイミー……!


 実に簡単なものだが、明に分かるだろうか……。

 そして、『スタンド・バイ・ミー』は放送しているだろうか……。

 霊力で、テレビの番組表で、見てみる。

 すると、あった。WOWOWで、ちょうど来週の夕方にやるようだ。

 チャンスはこれしかない。

わたしは来週に向けて準備を始めた。



   * * *



わたしにとっての、最終決戦。

そしてわたしにとって、明へ送る、最後の言葉。

とうとう、この日が来た。

わたしは霊力をコントロールしてテレビの電源スイッチのスピーディーさ、チャンネルを変えるタイミングを追求した。やることは全てやった。

あとは、明を待つだけ。

その待つ時間が、異様に長く感じられた――


 ――夕方。やっと明が帰ってきた。わたしはいそいそと準備を始めた。

 そして、準備ができた時、明はちょうど冷蔵庫の前、キッチンシンクの横にいた。

 わたしはテレビを点ける。

 いきなりの音に反応し、明はテレビのほうを向く。

 よし、チャンス。

 WOWOWに切り替える。

 ちょうどタイトル、『スタンド・バイ・ミー』が出ていた。

 やった。やっと見せられた。

 明は、じっと『スタンド・バイ・ミー』を見続けていた。

 わたしは、ほっとした安堵とともに、少しずつ、力が抜けていくのを感じた。


 ――もう、終わりか。

 全てやりきったわたしは右手を、天井へと掲げる。




 その手は、キラキラと、輝いていた。




* * *



 母が死んでから、今日でちょうど十年になる。

 僕は、目頭をギュッ、キュッともみほぐす。


 映画を見ていた。


 懐かしい映画。

 少年たちが旅をする、物語。

 僕は彼らよりずいぶんと年上になった。

 彼らがやりたかったことも、よくわかっているつもりだ。


 だが、僕には、もう一つ、この映画に大切な、思い出がある。未だに覚えている強烈な、十年前の思い出。


 僕は右斜め上を見る。そこには、ただ空気が佇んでいるだけだった。僕は、そこに話しかける。



「いつもありがとう、母さん」



あとがき


 どうも、はじめましての方ははじめまして。グーテンモルゲンな方はグーテンモルゲン。樹木きぎ 芽依めい ことはっくん氏です。

 家族との絆の在処を見つけたい。そんな気持ちでこの物語を描き進めました。

 この小説を書き始めたのは去年の十一月。結構前です。

 できたのは今年の一月。まあ、まあといったところでしょうか。

 一応できたのはこんな前ですが、色々な内容を付け足してやっと、皆さんにお見せすることができました。

 あ、ちなみにあとがきを書いているのはセミがみんみんと鳴く七月。とっても暑いです。クーラーマジ神様。ありがとう、文明の利器、でも霊力でON、OFFできる文明の利器。


 家族が亡くなったら、貴方は、貴女はどうしますか? ずっと泣いて悲しみますか?

 答えは十人十色、千差万別です。僕がいま思っていることと皆さんが思ってること、それらは似ているようで、異なっていることでしょう。


 さて、謝辞に。

 今読んでくださっている皆さん。こんな駄文ですが、読んでくれてありがとう。これからもよろしくお願いします。


 それでは、また次の時間軸で。


2014/07 樹木 芽依(はっくん氏)


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