10.灼紅の烈華
前話のあらすじ
・妹来襲
・語彙の少なさはともかく、言葉の使い方には気をつけましょう。
「兄様!なぜあのようなことをなさったのですか!いくら兄様と言えど、竜持ち相手に魔法だけなんて……」
事務室から出て北棟に差し掛かったところで空き部屋に引っ張り込まれた。
「竜持ちでも、相手はあいつだから」
「……っでも!」
「大丈夫、エルザが心配しているようなことにはならない」
焦った顔でスカートを握りしめながらエルザが顔を伏せる。
「……私があのようなところで兄様を呼び止めなければ」
「それは違う。それは違う、エルザ。決めたのはオレ、行動に出たのもオレ。いい?」
「……」
言って聞かせるが、納得したようには到底見えなかった。
この妹はどうも考えすぎるタチだ。もう少し気楽になってもいいのに。
仕方ないので、少々卑怯かつ自己ダメージが大きい策をとることにする。
「あのな、エルザ。オレがあんなやつに負けると思ってるのか?」
一瞬迷って、それでもエルザは小さく首を振った。
その頭に手を置いて、宥めるようにそっと撫でる。指に絡む柔らかな栗色の髪は、オレと全く似ていない。
「だろう。兄様を侮るでない」
「でも……竜が。」
「竜がなんだ。いくら巨大な力だろうと、使い方次第。使い手があれじゃあたかがしれてるだろ」
「……」
「ーーー安心して、勝算はあるから。」
「……本当ですか?」
ちらりと、伺うように見られる。
精一杯の爽やかスマイルを心がけて、渾身の台詞を突っ込んだ。
「オレがエルザに嘘ついたことあった?」
「……割と」
翡翠の眼で恨めしげに睨まれる。
ーーーあれ、地雷踏んだ?
「家に帰って来て下さいと何度頼んでもはぐらかされますし、昨年のセントリア大祭のときも兄様が家族で観に行けばというので楽しみにしていたのに、結局父様母様と私とカルマの分だけ観覧券を渡されて兄様はいらっしゃらなかったですし、一昨年の」
「ほ、ほら、それは嘘ではないから」
「兄様」
「……男には譲れないものというのがだな」
「兄様のおっしゃることは意味が分かりません」
「その……ごめん」
「もういいです」
諦めたようにエルザがため息をついた。
「兄様が負けないとおっしゃるなら、わたしはそれを信じます」
「うん。期待は裏切らないから。それに、ほら、オレにはこいつがいるしね」
ギルネイに水を差されたが、紹介の途中であったシアンを示す。
すっと床を移動すると、シアンはエルザの前に落ち着いた。
「その、兄様の召還魔ですよね?」
応えてシアンが伸縮する。
「そう。シアンという」
「シアン……さん?見たところスライムのようですけど、種族は一体」
「オレにも分からない。多分スライムだとは思うけど、どうも召還の途中で何かあったのか
それとも元から特異個体なのか、少々普通のスライムと違うんだ」
「そうなのですか」
揺れるシアンに恐る恐るといった様子でエルザがしゃがんで声をかけた。
「兄様のこと、よろしくお願いしますね」
エルザには感じ取れないだろうが、今の台詞で勇ましい緋色がどどんと溢れた。
しゅるりと伸びたシアンの一部がエルザの頭を撫でる。
まさかさっきオレがやったの見て真似した?
エルザは虚をつかれたようで固まったが、やがて何がおかしいのかくすくす笑い出しシアンを撫でた。
その後はおきまりのコース。
エルザがシアンの手触りにやられて撫でたり、揉んだり抱きしめたり。
ひとしきり戯れた後、憑き物が落ちた様な顔で「そろそろ戻りますね」と言われた。
「本当に送って行かなくて大丈夫か?」
「兄様、わたしもう4つや5つの子供ではないのですよ?」
「でも、女の子だしな」
瞬間、耳に風があたる。
視線だけ横に動かすとこめかみのすぐ横でぴたりと止められたエルザのつま先があった。
「これでもそこらの男の人には負けません。闘技科の実力、試してみますか?」
微笑むエルザの顔を見ながらそういえば前期主席になったと喜んで報告されたな、と今更ながら思い出した。
結局、一年棟まで送ることで決着がついた。
「兄様、カルマには……」
「……うん。オレの方から退学のこととかちゃんと話はするから」
「そうではなくて、その、カルマも」
「分かってるよ。ごめんなエルザ。いつも気遣わせちゃって」
黙って首を振って、エルザが建物内に消えて行く。
完全に姿が見えなくなったのを確認して
「……やっちまった」
オレは頭を抱えてしゃがみこんだ。
そりゃ妹の前じゃ格好つけたいっすよ。
でも、状況は当然、エルザに言ったように簡単なものじゃない。
ギルネイ側はほぼ何でもありのこちら側に圧倒的に不利な決闘だ。
しかも掛け金は都市民身分。
いくら奴の暴言が酷かろうと、それで頭に血がのぼろうと、やっちゃいけないことだった。
「やっちまった」
でもあいつのあの言い分は絶対許せなかったし、でもだからって決闘なんて、いやでもあいつを完膚なきまでにぶっつぶすにはこれが一番適当で、でもリスクが高すぎというか竜相手に生身とか、何考えてたんだあのときのオレ、せめて魔法のみならまだしも、でもそれじゃ完全に勝ったことには……うあーもう考えてても始まらない。
勝てばいいんだ勝てば。
ほとんどは場を収めて不安の解消をする為だったが、エルザに言ったことの全てが嘘でもない。
一つだけ、オレの勝利の可能性として思い当たることはあった。
つまり、先程ギルドでのランバルトとのやりとり。オレの魔力強度が大幅に強化されているらしい事実。
程度は分からないが、もし、それが竜に対抗できる水準ならば、まだ諦めるには早い。
差し当たっては、その辺から確認しなければならない。
泣いても笑っても自分が仕掛けたこと。泣いても笑ってもあと二日の時間しかない
足掻くだけ足掻くしかない。
落ち着かない心臓をそのままに、立ち上がって、訓練室に向かうことにする。
できることをやっていくしかない。
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窓から差すほんのりと緑がかった月明かりが、大理石で造られた廊下に描かれた精緻な紋様を照らす。
なんだかんだと色々試していたら、気が付けば太陽はとっくに常緑の月と交代していた。
夕飯の時間もとうの昔に過ぎており、仕方ないので空きっ腹を抱えたまま風呂に入ってとぼとぼ自室への道をたどる。灯の落ちた誰もいない廊下に響く足音が、どこか不気味であった。
非常食何かあっただろうかと考えながら、懐から鍵を引っ張り出し部屋の戸を押し開くと、風に頬を撫でられた。
テラスへと続く窓がわずかに開いていて、吹き込む風にカーテンが揺れている。
朝出た時に閉め切ったはずだが、忘れていったのだろうか。
シアンが入ったのを確認して、部屋の戸を閉め、窓際に歩み寄った。
開いた僅かな隙間から滲み出る冷涼な空気の感触と夜の匂い。
……出る時に閉め忘れたという当初の予想に反して、カーテンの向うから人の気配がした。
うなじの毛が逆立ち、一気に警戒を強める。
こんな夜中に誰だ。ギルネイの手の者?それとも、カルマ?
シアンに部屋で待機するように指示を出して、自らの気配を消す。
臍の下あたりの源泉器官に意識をおいて、いつでも魔術の行使が可能な状態にしながら、音を立てないように慎重に窓を押し開いた。
鈍い色の金属の枠にガラスが嵌められた戸の圧迫感が消え、開けた視界に飛び込んできた光景は予想外のものだった。
夜の薄闇に浮かび上がる白い石造りのテラス、淡く優しく注ぐ月の恵み。
浅緑の光に色を濃くする、紅のドレス。
ーーー月明かりに照らされた後ろ姿に心臓が跳ねる。
高めの襟に、大量のレースと布を積み上げる流行のスタイルから見れば本当に申し訳程度に布を重ねた少々引きずるほど長い裾。
禁欲的なまでに肌の露出が抑えられたデザインであるのに、むしろそれに包み込まれた均整のとれた、しなやかな曲線を描く肢体を強調するようで、堪え難く魅力的だった。
見惚れると同時に、安堵する。冷たい夜の空気を吸い込んで小さく息を吐いた。
オレは緊張を解いて、わざと足音を立てながら、彼女に歩み寄った。
「ーーー何してるんですか、人の部屋で」
「……見て分からないかしら?月を見てるの」
凛と空気に溶ける玲瓏な声。
こちらに視線を向けることなく、少女ーーーーレイラ・グラートは応えた。
オレは更に歩を進める。彼女の緩やかに波打った、夜空と同じ色の髪が夜風にたなびいていた。
「なんで、オレの部屋で灼紅の烈華さまが月の鑑賞なんてしてるのかって聞いてるんだけど」
「その名前で呼ぶのは止して頂戴」
ぴしゃりと切り捨てて、口元だけは完璧な笑みを浮かべたレイラがやっと、こちらを見た。
余計な癖のない綺麗な輪郭。その上に張られたしみ一つない、抜けるように白く滑らかな画布の上、これ以外ないという位置に配置された三つの要素。
適切な高さの鼻。控えめながら上品に微笑む柔らかそうな薄桃色の唇。やや勝ち気そうにつり上がった、程よい大きさの目。
ぱっちりとした長いまつげに囲まれた紅玉の煌めきはあまりにも美しく、目を合わせていると気後れしてーーー思わず視線を逸らしたくなる力に満ちている。
今現在、目が全く笑ってなくて醸し出す雰囲気が修羅であっても、一目見れば忘れられない相変わらずの美貌だった。
「いいじゃないか、アルクリム・リーファ。ぴったりだと思うよ」
紅道の魔術を好んで使うレイラにつけられた二つ名。本人は大げさすぎると嫌っているが、
誰よりも真っすぐで、鮮烈かつ苛烈な大輪の花、そんな彼女そのものを表したようで、オレは気に入っていた。
「……い………ない」
「ん?ごめん、なんて言った?」
レイラが何かしら呟いたようなので聞き返したが、静かに首を振られる。弾みで遊ぶ髪からシャラの花の香りがほのかに届く。シャラの葉を発酵させて作る茶は、爽やかな飲み口と甘く残る喉越しからレイラが好んで飲むものだ。
「……なんでもないわ。私がその名を嫌っているのを知っているのに、あえて呼ぶのは趣味が悪くてよ」
「それはお互い様だと思うけど?明らかに常磐の月の鑑賞が目的じゃないだろ」
レイラの隣、細工の施された手すりに肘をついて、彼女をみやる。風が少し強くなってきた。
「あら、私は本当に月を観にきたのよ?貴方の部屋が一番綺麗にみえるもの」
「それは初耳だな。オレもうここに三年住んでるのに」
風に攫われる髪を軽く抑えながらレイラが空を見上ている。
月明かりに浮かび上がるその彼女の姿は一幅の絵画のようだ。……どんな些細な仕草でも画になる美人は得だな。眼福。
それにしても、何しに来たんだろうか。こんな夜中に。不用心だろ。錠なんてものは、こいつにとっちゃあってなきに等しいだろうから、そこは不思議ではないけれど。
「当たり前のように在るから気が付かないのよ、きっと。そういうものだもの」
小さく頷いてえらくしみじみと言葉を紡いだレイラが、じっとこちらを見た。絡む視線に少し怯むが、それも一瞬のことだった。すぐに今度はオレの足許に目線が移る。
「そんなもんかな」
「そうです。……思いの外、平気そうね」
オレの上から下まで一通り眺めて、そう結論付けられた。何がでしょうか。お嬢さん。
疑問が顔に出ていたのかどうか。口を開く間もなく、来訪の真意が告げられた。
「どこかのお馬鹿さんが竜相手に無謀な喧嘩を売ったって聞いたから、見学に来たのだけれど。相変わらずの能天気そうなお顔で詰まらないわ」
いつもつけている黒皮の長手袋に包まれた手を、軽く口元に添えて首を傾げる姿も腹が立つくらいお美しいですけれど、おい。
「……それはオレのことでしょうか?」
「あら、見習い科に貴方以外に竜を持たない三年がいて?」
「………」
「どうせ貴方のことだから、勢いだけでことを運んで今頃盛大に自己嫌悪して、でも、でも、と肯定と否定を繰り返しているものと思っていたのだけれど、私の取り越し苦労のようね」
エスパーか。
身に覚えがありすぎて思わず視線を逸らす。
「……」
「でも勝つのでしょう?」
「……そのつもりだよ」
そりゃあ意気込みだけは。
オレの返答を聞いたレイラは軽く言った。
「でしたら、明日、第二演習場にいらっしゃいな」
「場所ならとっておいたわ」
言葉の意図を考えていたオレの沈黙を、施設の使用権の有無に対する疑問だと取ったのか、そう付け加える。
「いや、そうじゃなくて。一体なにをしに」
「決まっているじゃない。特訓よ」
「特訓?」
鸚鵡返しに聞くと、焦れたような声が返ってきた。
「ここまで言ってもまだ分からないの?あなた、竜相手の戦闘の経験なんてないでしょう。訓練が必要よ。仕方ないので私が付き合って差し上げるわ。まさか断らないわよね?」
「そりゃ、願ったり叶ったりだけど……」
苛烈に煌めいた紅が真っすぐこちらを射抜いてくるが、そもそもオレに拒否する理由はない。イメージだけではどうしても限界があるから、実際を知ることができるのはありがたいことだ。
レイラならギルネイよりは余程上手く竜を操るだろうし、感覚も掴めるだろう。
「でしたらよろしいわ。用件はそれだけよ、ではごきげんよう」
「お、おう」
妙な迫力におされて、返事。
テラスからレイラの後ろ姿が消えてから、一つだけ言い忘れていたことを思い出して、慌てて追った。
「レイラ、まって」
「まだ何か?」
「あのさ、何であれ、夜中に男の部屋を単身尋ねてくるのは感心しない。気遣ってくれたことは凄く感謝してる。でもさ、気をつけろよ。話があるならフォウルにでも持たせればいいから。出歩くのは危ない。例え君が普通の男が百人束になってかかってももビクともならないくらい強くてもさ、女の子なんだし。」
レイラは小首を傾げて艶やかに笑んだ。
「あら、あなたにそんな甲斐性があって?」
……オレにはないですけど!
美しい微笑みに内心悔しさが込み上がる。
合意は重要。合意は重要と呪文のように内心で唱える。
なんかそれっぽい技で流して合意に持ってくテクなんて持ってない。
何も言わないオレの顔を見て、答えを察したのだろう。彼女は更に笑みを深くした。
「そもそも私、それほど軽率で無分別に見えるかしら?相手は選んでおりますわ」
それは光栄なのか、それとも侮られているのか。
どうせオレは夜中に絶世の美女が部屋で待ってても、押し倒す気概もないへたれですよ!
「……それでも、だ」
どこでどんな噂になるか分かったもんじゃない。ランドにだって聞かれるだろうに。
「紳士ぶるのは結構ですけれど、それを過度に相手にも押し付ける殿方は嫌われるわ。そういうことは、貴方の未来の恋人におっしゃい。……大体、夜になってしまったのは…こない…たの…せいよ」
聞き取れなかった言葉の後段をオレが問い返す前に、レイラが身を翻す。
部屋の戸に手をかけ、半分開いた。
「では、明日九時に第二演習場で。遅刻したら、分かっているわよね?ああ、それと。ーーー決闘の理由聞いたの、嬉しかったわ。ありがとう」
口早に言って、こちらを見ることなく素早い仕草で外へと滑り出る。
部屋に残されたオレは閉まった扉を眺めながら、じわっと広がる感情を受け止めていた。
こんなことでまた実感するのも、おかしいことかもしれないけど。
ーーーああ、やっぱオレ、レイラのことすげー好き。
オレはそう、思ってしまうのだ。