茜色の空を見上げて
目が覚めた茜が初めに感じ取ったのは、酷い臭いだった。
目覚めたばかりで意識が定まらない茜は、あまりの刺激臭に吐き気をもよおした。咄嗟に茜は口元を手で押さえようとする。けれども、思うように手が動かない。そればかりか身動きすらなかなか自由とならないことに茜は気が付いた。それまでなかなか定まろうとしなかった意識が急激に浮上し始めた。
まず茜の目に入った物は、特に変哲のない青い苔がびっしりと付いた岩だった。茜はぼんやりと日の光を感じる。もう昼間なのだと思いながら、自由とは言えない体で辛うじて動かせる頭を動かして辺りを見渡した。よくよく見渡すと自分が目に入った岩の他にも無骨な岩に囲まれていることが理解出来た。
この場所は何処かで見た憶えがある。何処だったか……っと考えを巡らせる茜の顔にぴしゃりと何か冷たい物が突然降って来て、思わず茜は悲鳴を上げた。
茜は恐る恐る冷たい何かが降って来て天頂の方に目を向ける。すると丁度何かがまた降って来て、今度はぎゅっと目を瞑って茜は堪えた。そろりそろりっと怯えながら茜は目を開く。そうして茜は冷たい何かの正体に気が付いた。
自分は村外れの洞窟に居るらしい。そう理解した茜は、天井からぽたぽたっと規則正しく落ちて来る水滴を口で受け止める。茜は喉の渇きを水滴で潤しながら、もう一度辺りを見渡した。
視界の隅にこの洞窟で祀られている水神様の小さな祠が見える。でも新しく目に付くのはそれだけ。辺りに人の気配は窺い知れず、一人ぽつねんと洞窟に転がされていることを悟った茜はもぞもぞと肢体を改めて動かしてみた。でも、やっぱり茜の思ったようには動いてくれない。どうやら後ろ手でぐるぐると縛られていると悟った茜は、早々に自由になることを諦めた。
喉の乾き具合から、茜はあれから、あの悪夢のような夜からそう時間は経っていないと考えた。体に付着して酷い刺激臭を放ている、自分が吐き出してしまった物を、茜は滴ってくる水滴で薄めようとした。けれども、あの悪夢が頭について離れないように、酷い臭いも取れることはなかった。
正確に、あれからどのくらいたったのだろう?
一人天井からの滴りが響く音に耳を傾ける。洞窟特有の寒さの中、茜は皆の顔を思い描いた。
私の大切な人は大丈夫だっただろうか?
まず茜の頭に浮かんだのは、血だらけになり、今にも黄泉の国に旅立とうとする宮司の姿だった。その姿を思うだけで、茜は自分の体が引き裂かれたと思うほどの強い恐怖を感じた。
何度も「大丈夫、大丈夫……」っと呟きながら、茜は村の皆が宮司を助けてくれた筈たと自分に言い聞かせる。揺れ動く自分の気持ちを安定させようと努めた。でも、茜の気持ちが落ち着くことはなかった。それどころか、今度は宮司の像に重なるように幼馴染みが歯を食い縛りながら蹲る姿が茜の頭に投影される。
大丈夫……っと呟き続けていた筈の茜の口は震え始めてしまった。大丈夫、その言葉さえも茜は満足に紡げなくなった。
小刻みに震え続ける自分の体。肢体の自由を奪われた茜は自分の肩をかき抱いて慰めることも叶わない。茜はただ目を閉じ、襲い来る宮司と幼馴染みの死と言う絶対的なものに恐れおののいた。
考えれば考えるほどに茜の頭に浮かぶものは恐怖と呼べるものばかり。
宮司、幼馴染みはもちろん、鬼に喰われてしまった人は誰だったのだろうっと茜の不安は大きくなるばかりだった。茜に鬼を差し向けて、殺そうとした女子の茜に対する気持ちの有りよう。茜を物の怪と罵った人達や、茜を組み伏せた隣村の男はあの後どんな行動に出たのだろうっと茜を不安にさせるものばかりが豊富だった。
茜の頭の中で、考えたくないと茜が悲鳴を上げた物がぐるぐると周り続けていた。
ふっと頭の中を周り続ける物のなかで、浮かび上がってきたものがあった。茜の記憶の最後、隣村の男が幼馴染みに放った言葉が他のことの中から浮かび上がってくる。
『裏切り者めっ!』
隣村の男が幼馴染みに放った言葉。茜は今更ながらその言葉に強い恐怖を感じたのだ。
裏切り者。
嘘を付いた者に対する言葉と頭の隅で思案した茜は、はっと自分は裏切り者なのだと思った。
茜は今まで宮司や幼馴染みはもちろん、村の誰にも私の正体を明かしたことはなかった。
茜自身にさえ、物の怪であることから目を背けさせ、自分は人の子なのだと嘘を付いて来た。しかし、どんな嘘でも何時かは露見する。茜が付いた嘘も、あの悪夢の夜に皆に顕わになってしまったのだった。
私は裏切り者。そう思った茜は裏切り者の末路は死の他に無いと考え、一際大きく体を震わせる。
私はもう殺されるしかないのだっとつらつらと考え続ける茜。その体から洞窟の寒さも手伝って、茜の絶望を示すように熱が奪われていった。
体の自由を奪われた茜小さく丸まりながら小刻みに震え続ける。そうして居る間に、まだ十分に回復していると言い難かった茜は目蓋が次第に重くなることを感じた。
いっそこのまま眠るように死ねたらいいのに……漠然と茜はそう思ってしまう。茜は目蓋が自然に落ちるのに任せた。
深い暗闇に埋没した茜は特別に何かを思案することはせずに、ただ暗闇の、不思議と安らぐ中に身を任せた。もとより、少しでも物事を頭に描くだけで暗い気持ちになってしまう茜。意識が定まらない間は心を無にして自らを守ろうとすることは今の茜にとって自然なことだった。無の象徴と言ってよい暗闇は内外から茜を守ってくれた。
まるで揺り籠のなかで安眠を貪る茜。そんな茜に向けて、呼ぶ声が一つ。
『あかね、あかね……』
どこからともなく低い声が幾度も茜の呼び続ける。その声が暗闇の世界に響く度に、無を象徴していた闇が、静まった水面が異物でざわついたように震え、茜を弾き出そうともぞもぞと生き物のように蠢いた。
茜は嫌だ嫌だっと癇癪を起こした子供にように、自分に安らぎを与えてくれる暗闇に縋り付こうとした。しかし、一度起きたさざ波は茜を呼ぶ声が重なる度に大きくなる。茜を弾き出そうとする力も一層増していった。
ついに力に負けて茜が暗闇に縋り付かせていた手を離す。途端に茜の意識は浮上を始め、今の茜には悪夢の続きと思う世界に追いやられたのだった。
「あかねっ! 茜っ!」
暗闇の世界で茜を呼んだものと同じ、低い男の声が意識が定まり始めた茜の耳に届く。体を揺さぶられて更に覚醒を促された茜は鉛のように重く感じる目蓋をやっとの思いで開いた。自分を呼ぶ声の主を確かめる。
視界の先に映る輪郭は、茜が目覚めたことに肩を大きく脱力させて、不安をため息に変えて吐き出した。また茜の名前を慈しむように呼んだ声の主は、その大きな手で茜の黒髪を撫でた。
「茜、大丈夫か?」
目覚めたばかりの茜は、掠れ気味の声で自分の髪を優しく撫でる人の名前を呼んだ。名前を呼ばれた幼馴染みは苦笑交じりに茜に言葉を優しく掛ける。
「おいおい、そんな顰めた顔するなよ。美人が台無しだぞ?」
幼馴染みは茜の黒髪を撫でながら、茜がもう何年ぶりに思える顔を茜に見せた。
「……あの人は……どこ?」
茜はぼんやりと口にした。
幼馴染みの大きな背中に背負われて、夏の背が高い草が茂る野道を茜は進む。小さな声で茜は幼馴染みに質問を繰り返した。
「怪我は大丈夫なの? ……あの夜から今日はどれぐらいたったの? ……あれから皆はどうして居たの?」
小さい声ながらもつらつらと茜の口から発せられる問い掛けの言葉。幼馴染みは茜が不思議に思うほど、茜を揺り起こした時とは違って木訥に答えた。
「……俺の怪我は大したことねえよ。血も止まってるしな……あの鬼が暴れたのは昨日の夜だ。ああ、鬼の餌食になっちまったのは西の田の奴だ。……いい奴だったんだがな……」
幼馴染みはそこで言葉を一度切った。背中におぶった茜の位置を直して、茜の問い掛けに続けて答える。
「……村のみんなは茜のことを守ろうとしてくれてるんだがな……近くの村の奴らが五月蠅い」
正直よくないっと締めくくった幼馴染みは雰囲気を険しい物にした。
自分の与り知らない間に、生死を決められていたかもしれない。そう考えた茜の体は人の憎悪におののき震えた。
茜は震える体を必死におさめようと精一杯の力で幼馴染みの背中にしがみついた。そんな恐怖に震える茜の心情を悟ったように、幼馴染みはそれまで木訥だった口調を改めて、少しでも茜が安心出来るように戯けた調子で茜に言い聞かせた。
「だいじょ~ぶだって。村のみんなが茜の味方だ。他の村の奴らなんかに茜のこと口出しさせねえ。それによう? 茜には俺だってついてんだぞ? それにな……」
幼馴染みはまた言葉を切る。少しだけ寂しさを潜ませた声音で続きを茜に言い聞かせた。
「それに、あの馬鹿野郎も、茜のためなら他をかえりみないで力を尽くすだろうよ」
宮司のことを茜に匂わせた幼馴染みはそれきり口を噤んでしまった。
幼馴染みが口を噤んでしまうと茜もどこか口を開けなくなってしまった。二人は黙ってしまう。茜を背中におぶった幼馴染みは黙々と野道を進んでいった。
黙り込んでしまった幼馴染みの背中の上で、茜は幼馴染みの言葉を反芻する。何度も、何度も……考えれば考えるほどに茜は怖ろしくなってしまった。
ふと恐怖に身を固くしていた茜は気が付いて、熱いと思える幼馴染みの背中に耳をくっつける。幼馴染みの心音はとても力強くて、生きていると主張していた。茜をおぶって獣道に近い道を進みながら、その音は規則正しく刻まれている。その音を不変のものと感じた茜は、その生命力に溢れる音に耳を傾けた。
あの悪夢の夜を境に目まぐるしく変わってしまった茜の日常。その世界の中で変わらずにそこに在り続けてくれる存在に、茜は自分のことを否定せずに肯定してくれる存在だと思った。
鬼が人を食い殺し、茜もその腹に収めようとする光景は、必死に人の子として生きようとした茜を容易く殺した。
隣村の男が振り上げた拳は、今までの茜の努力を否定する。漠然と考えたすえに茜は自分を『裏切り者』と言う言葉で、それまでの日常から切り離された自分を現そうと考えていたのだ。そう考えていた茜だったからこそ、幼馴染みの不変を感じさせてくれる心音は茜に自分はまだ死んでいないのだと実感させた。自分は人の側に在ることを肯定されていると茜には思えた。
「嬉しい……」
小さく呟いた茜は、さっきとは違う理由で幼馴染みの背中を目一杯抱きしめた。幼馴染みは茜の考えていることが分かっているかのように茜の呟きに返事を返した。
「そうか、そうか」
幼馴染みの心音に耳を傾けて目を閉じていた茜。知らないうちにうとうとっとしてしまって、最初、幼馴染みの声に反応出来なかった。
う~っと、呻きながら茜がうっすらと目を開く。茜の安心しきった声に幼馴染みは呆れ顔で「暢気な女だ」っと言って茜の頭に大きな手をやると、ぐしゃぐしゃと乱暴に茜の黒髪を掻き回した。
髪の毛を乱暴にされて茜は咄嗟に抗議の声をあげようとした。けれども、自分と幼馴染みが向かい合っていることに気付いて口を噤む。茜は寝ぼけ眼で辺りに目を向けた。
茜の周りにはこぶし大の石がごろごろと転がっいた。今茜が座らされている大降りの岩もちらほらと転がっているのも見える。茜のいる所から、歩いて数歩の位置には小さな川が流れていて、その流れを見た茜は途端に喉の渇きを覚えた。
喉の渇きを潤そうと茜が立ち上がるよりも先に、幼馴染みが茜の鼻先に歪な形の茶碗を寄越した。茜がきょとんとして歪な茶碗を覗き込むと、傾き始めた日の光を浴びた自分の姿が水面に映っていた。
まだ私達が幼かった頃、この川で皆で遊んだっけ? 川に視線を置いた茜は、歪な茶碗に口を付けながらそう回想した。
一頻りの渇きを潤した茜は茶碗を下ろす。茜は自分でも知らない間にため息をついた。
「あの頃は、私も自分が物の怪の子と悟ることもなく皆と仲良くしていたのに……空が紅く染まるまで遊んでいたのに……」
思わず茜の口から出た言葉。これに何かを取りに行っていた幼馴染みが、複雑そうな表情で茜の言葉に短く「そうだな……」っと相槌を返した。
茜の元に戻って来た幼馴染みは、手にしていた風呂敷包みを茜の前で広げる。広げられた風呂敷包みの中には、茜の着物が一式に手拭いや履き物、小銭袋などの細かい物が包まれていた。茜は一瞬息を忘れてそれらに視線そ注いだ。
幼馴染みは今まで聞いたことがない、弱く小さな声をぽつりと落とす。
「……すまない」
茜は目を閉じると、ゆるゆるっと力なく頭を振って幼馴染みの言葉に応えた。
「何も悪くないよ……ありがとう。私のために……」
「っ! 無理をするな茜っ! 少しの間だけだっ! 少しの間この地を離れて……俺が迎えに行くっ!」
幼馴染みの感情を前面に出した声。茜はその声に高揚するのを感じながら、また頭を振った。
風呂敷包みの中から手拭いを手に取って、茜は幼馴染みに背を向けて川の方に歩みを進めた。
体に合わない着物を引き摺りながら、茜は川の直ぐ手前で足を止める。その場でくるりと回って、その場から動けない様子の幼馴染みに向き直る。茜は努めてあっけらかんとした声を幼馴染みに投げた。
「こらっ! 女子の裸体をあほうに眺める気かっ!」
大きな声で幼馴染みを叱責した茜は着物を留めている紐に手を掛けた。
思っても居なかった茜の大きな声に幼馴染みは面食らい、慌てて茜に背中を見せた。茜は幼馴染みの反応に満足するとするりと唯一身に付けていた着物を体から剥がす。おざなりに畳んでから川のなかに歩みを進めた。
蒸し暑さに熱を孕み始めていた茜の体に、川の水は冷たく感じられた。
川のゆるりと流れる音に蝉の声。夏の熱を沢山孕んだ風が辺りで茂る草や木の葉を撫でれば、有の音がよくその場に溶け込み夏の日を現した。しかし、有に埋もれているはずの二人にその音が届くことはない。幼馴染みの耳には己の心の音が、茜の耳には自らが発する水の音だけが唯一届くのみだった。
一頻り体を綺麗にした茜は、ほうっと水面に映る自分の像に息を吐いた。
黒髪は水面に吸い込まれ、月の白さに似た肌は夏の陽を受けて、ほんのりと赤みを乗せている。物の怪の血を現す紅い双眸はどこか焦点の定まらない様子で水面から茜を見ていた。
「これが……茜と言う物の怪……」
茜が愚痴るように呟いた言葉。その茜も無意識の内に溢した言葉は夏の風に乗って幼馴染みの耳に運ばれたのだった。
「物の怪であって、何が悪いんだ」
つっけんどんな声で問われた茜は水面に映る自分の像から顔を上げる。
今も背中を見せる幼馴染みに、そして、自分自身に説くように答えた。
「物の怪なのが……罪なんだ」
「……物の怪なのが罪と言うならっ! ……」
激情に任せて放たれた言葉は、なぜか途中で途切れてしまった。
茜は幼馴染みの言葉の続きを待ちながら、大きな背中に思いを寄せる。
ああ、なんて頼もしい背中なんだろう? この人の伴侶となる人はなんて幸せ者なんだ……
そう、私にこの人は余り物勿体ない。
茜は幼馴染みが言葉を続ける前に、茜は拒絶の言葉を投げた。
「私はね、物の怪なの……人と……貴方と共に生きることは叶わない」
茜の言葉に、幼馴染みは開きかけた口を閉ざしてしまった。
自分が言わなければいけないことを口にしたと思った茜。川の流れから上がると手拭いで体に纏わり付く水気を拭った。風呂敷包みに包まれていた着物に袖を通す。
「何時から?」
幼馴染みの固い言葉に茜はわざと口調を変えて答えた。
「憶えてなぞおらぬ」
自分の口調が可笑しくて、茜は苦笑した。
幼馴染みが茜に好意を持っていたことを茜は随分前から知っていた。初めは自分の思い違いだと思っていた茜。だけれども、時の経過と、互いが大人に近づくにつれて、幼馴染みは本気で自分を異性として見ているのだと悟り、茜はおののいた。
幼馴染みの気持ちを悟った時には茜の気持ちは宮司の物になっていた。幼馴染みの気持ちに応えることは出来ない。そう考えた茜は幼馴染みから逃げるように宮司との距離を縮めて行った。
まただ。また私はこの人から逃げる。私をこうまで愛してくれた人から逃げるんだ……
自分はなんて身勝手なんだと茜は自分を罵った。
あの人への想いを優先させて、今度は自分の穢れから逃げるためにこの人から逃げる……
自分のあまりの弱さに、苦笑するしかないと茜は思った。気を紛らわすために、茜は着物を身に付けてから手櫛で黒髪を梳いた。それからおざなりに畳んだだけだった、脱いだ着物を改めて畳み始める。
ところどころ布を当てて直してある着物。左腕の肩口から裂け、時間が経って黒く変色した血がべっとりと付いている。
一度洗ってから、裏から布を当てて……そう、なんとはなしに着物の直し方を思案した茜は、自分にその時間はもう無いのだと、着物を畳み終えて、ふと頭についた。
茜は幼馴染みに背中を向けたまま川辺に立つ。幼馴染みに気付かれないように、畳んだ着物に吸い込まれるものを誤魔化そうと思った。
水面にはいまさっきと同じように茜の像が映っていた。水気を含んだ黒髪は艶やかな光を肩に流し、新しく袖を通した群青色の着物は月の白に似た肌を際立たせていた。水面に見える紅い双眸は、茜には獣が獲物を狙っているかのようにおぼろげに見えた。
ふと、茜は水面に映る像に違和感を憶えた。
なぜ、この物の怪は泣いているんだろう? なぜ、悲しみを知らない物の怪が泣くことが出来るんだろう?
なぜ? 何故?
頬を伝い、胸に抱いた着物に物の怪の双眸から溢れだしたものが吸い込まれていく。その度に、茜は自分と言う存在が分かっていく気がした。
私は血を好み、紅く染まる空を愛する物の怪。そして、人の温もりを求めて、別れに悲しむ人の子でもある。
胸に抱いた着物を感情のまま固く抱きしめる。茜は幼馴染みに気付かれないようにと、ぽつぽつと五月雨のように溢れ、流れるものを息を殺して見守った。
ふっと、水面に映る像をじっと見ていた茜は、自分の像に別の像が重なったことに気が付いた。ゆるゆると任せるように目を閉じる。
背中に感じる熱もまた、私が人の子である証拠……そう確信した茜は、ついっと顔を上げた。無理矢理に顔を笑わせて幼馴染みに応えた。
「行くよ」
川辺から歩みをまた始めた二人。もう会話と言えるものは二人の間には無くなってしまった。幼馴染みは茜の身を案じて執拗に茜に声を掛けるのだが、茜はただ、無言を返すのみだったのだ。
ふと茜は思い立って歩みを止めて西の空を仰ぎ見る。鬱蒼と木々が茂った山道から仰ぎ見える西の空は、所々に雲が気紛れに漂い、茜色に染まった空はもうすぐ人の時間が終わることを示しているように茜には思えた。
もうすぐ人の時間は終わって妖怪が跋扈し始める。茜は後ろを振り返らずに一方的に言い放った。
「ここで、おわかれ」
茜は止めていた歩みを再び前に進める。一歩、また一歩と足を前に出した。
それまで茜の後に続いて聞こえていた足音が途切れる。幼馴染みとの別れが茜の小さな胸に響いた。目から溢れでようとする物を押し込めて、目の前の山道を睨み付ける。
「悔しいんだ……」
茜の背中に向けて投げられた声。茜はびくっと反応したけれども、歩みを止めることはしなかった。黙々と足を前に進ませていく。
「悔しい。やっぱり俺じゃああいつには敵わない。お前はもう……あいつのものなんだな……」
歩みを進めていくごとに、どんどん小さくなる言葉から逃げ出すように茜は歩調を早める。
茜が歩みを進めると背が高い野の草が、ざっざっと音を立てた。
「悔しいんだ。あの男に頼ることが……それでも……」
幼馴染みが最後に愚痴った言葉は茜には届かずに、茜色の空に吸い込まれていくのみっだった。
夏の空を染め上げる茜色。その色は空だけに留まらないで、山道で対峙する二人も平等に染め上げる。
時として物の怪に殺される寸前だった者、方やその物の怪と同じ流れる者。平時であるならば、ゆったりとした風が流れる二人。なれども、今の二人の間に流れるのは夏のぬるりっと不快な熱風と、何とも言えない緊張だった。
「なん……で……」
茜が緊張に声を震わせて、茜の目の前で気怠げに座る者に問い掛ける。
「そんなもの、愚問だろう?」
茜の問い掛けを宮司は切り捨てた。
茜の前で通せん坊のように気怠げに座る宮司は全身に包帯を巻き付けていた。顔は強い語調とは裏腹に血の気を感じない土気色。生成り色の作務衣の片方はだらりと垂れ、息の付き方は深い。しかし、宮司の茜を見詰める双眸は鋭く茜をその場に縫い付けた。
ああ、生きて居てくれた……
幼馴染みから宮司の存命は知らされていたけれども、改めて宮司の姿を見た茜は込み上げてくる嬉々とした気持ちを感じた。本当は今すぐ抱きついて、その胸に顔を埋めてしまいたい。誰にも憚らずに声を上げて泣いて、泣いて自分がどれほど苦しかったか責めたかった。でも、その気持ちを押さえ付けて、茜は宮司の視線から逃れるように顔を伏せた。
顔を伏せる茜。宮司は苛立ちを隠そうともせずに手を茜の方に突き出して、強い口調で茜に命令する。
「何をしている。こっちに来いっ!」
宮司の声がよく響いた。もちろん、宮司の声は茜の耳に届いた。けれども、茜は顔を伏せたまま宮司との距離を縮めようとはしなかった。
……もし、いまあの手を取ることがあれば、私の決意は簡単に覆ってしまう……
茜は前に進みたがる自らの足を睨み付けて、無理矢理その場に留まらせた。
一向に顔も上げない、返事も返さない茜に宮司は痺れを切らした。
宮司は声を益々大きな物にして、責める口調で茜に問い掛ける。
「まさかお前っ! 私から逃げるつもりではなかろうなっ!」
宮司の激しい声と、自分の考えを早々に言い当てられた茜は、まるで小さい子供が叱られた時のように嗚咽の声を漏らし始める。終いには立って居ることも出来なくなってその場に蹲ってしまった。宮司はそんな茜にほとほと呆れたと言わんばかりの声を上げる。
「まったく、お前は阿呆であるから……」
ため息混じりの声と宮司が立ち上がった気配がする。茜は蹲ったまま、頭を大きく振って懇願の声を上げる。
「来ないでっ! ……来ないで……っ」
悲鳴にも似た茜の懇願の声。でも、宮司は茜の願いなど初めから聞き耳を持たないと言わんばかりに、なんの迷いもなく茜の前に立った。あまつさえ、包帯が巻き付けられた片腕で無理矢理に茜を押し倒した。
押し倒された茜は泣きじゃくり、宮司に顔を見せまいと両方の手で顔を覆う。この茜の反発に腹を立てた宮司は無理矢理に片手で茜の手を払い除けようとした。
「いっ! 嫌っ!」
「うるさいっ! 顔を見せろっ!」
阻む茜と無視強いする宮司。宮司が万全ならあっと言う間に終わる筈の痴話喧嘩は、宮司が片手であることと、茜が死に物狂いで宮司の手を阻むことでなかなか終わらない。ついには多くの血を失っていた宮司の息が上がったのは先だった。
茜の泣きじゃくる声に混じり、宮司の思い通りにならないことへの焦りを含んだ息遣いが、茜色に染まる空に吸い込まれて行った。
「なんでなんだ……」
宮司の口から呟くように落ちた言葉。茜には何故だか震えているような気がした。
あれほど怒っていたのに……茜は恐る恐る手の隙間から紅い眼を覗かせ、宮司の顔を盗み見る。盗み見た茜は「あっ」っと思わず声を上げた。
茜が手の隙間から盗み見た宮司の顔。その人の子の双眸からは茜と同じように茜色に光るものが溢れていた。ぽつりっと茜の顔を覆う手に落ち始める。
手の隙間から目を見詰め合わせた宮司は震える声で茜に命令した。
「……逃げたら、許さない」
宮司はゆっくりとした動きで押し倒した茜の上から体を離していった。
宮司が離れていくと茜は言い表せない不安に駆られた。
いつもそこに在って然るべき熱。それが自分の手の届かぬ場所に行ってしまうのだと茜は漠然と感じた。
行ってはいけない。行けば互いが苦しむだけだっと叫ぶ己の理性に耳を貸さずに、茜はへたりっと座り込んだ宮司の胸に飛び込む。
なんて私は身勝手なんだろう? 私から来ないで欲しいと言って置いて、私自身は求めたときには何の躊躇もなく、この人を求めてしまうのだから……
「ごめんなさい。ごめん、なさい……」
宮司の腕に抱かれて、ただただ申し訳なくてそう口にする茜。宮司は自分の胸に沈んだ茜の顔を掴んだ。無理矢理上を向かせて茜の、茜色に輝くものが溢れる紅い双眸を不機嫌そうに見詰める。それから、ただ一言、茜に向けて言葉を落とした。
「うるさい」
不機嫌に言葉を落とした宮司。無理矢理茜を黙らせるように、宮司は茜の唇を奪った。茜はもう何も考えられなくなった。
宮司の肩越しに茜は燃えるような空を見た。なんて美しい空なんだろうっとぼんやりと思う。
あれほど、私と同じ色に染まったこの空に嫌悪感を持っていた筈なのに……そこまで考えた茜はあることに思い当たった。宮司から体を引き剥がして、ぺたりっと座り込む。茜は顔をまた伏せてしまった。
「どうした?」
気遣わしげな顔で茜に訊ねる宮司。茜は顔を伏せたまま頭を振って応える。
駄目、なんだ。私は物の怪で、この人は人……。私が私と同じ色に染まる空を何の嫌悪感も持たずに、ただ美しいと思うようになってしまったのは……私が物の怪になったから……
人と物の怪は悲しいかな、共に在ることは出来ない。再びそう結論を出した茜は、決心を固めて宮司の前から消え去るために立ち上がろうとした。しかし、宮司は茜の考えなどお見通しだと、また茜を無理矢理押し倒した。
「何度言えば分かるんだっ!」
宮司の非難の声に茜は顔を逸らして、もごもごっとなにやら呟く。この茜の態度に宮司は押し倒した茜の頤を片手で上に向かせると、今度は貪るように唇を合わせた。
熱と熱が入り交じる。やっと唇を離した宮司は荒い息で茜に叫んだ。
「好きなのだ茜っ! お前のことがっ!」
「…………わたし、も……あなたが、好き。愛してる……だから、だめ、なの……」
紅い双眸に堪った、茜色に光る涙を茜が頭を振って振り払う。今度は茜の方から目蓋を閉じて自ら宮司を求めれば、直ぐに茜は宮司の熱を感じることが叶った。
どれほどの時間そうしていたのだろう? そう感じるほど茜は宮司と熱を交えた。
茜から求めたように、今度は自分から宮司の許から体を離して、別れるために立ち上がる。
本当はもっと、もっとこの人を感じていたい。もっと自分なかをこの人の熱で満たしたい。でも、それは私には許されないこと……
茜は一言だけ、別れのお言葉を項垂れている宮司に落とした。
一歩、二歩っと、歩みを進めて行く度に、茜の双眸からは止めどなく茜色の西日に染まるものが落ちていく。
宮司が茜の背中で「意地っ張りなやつ」っと毒突くように呟くと、茜は童子に指で弾かれたおはじきのように、その場から走り出した。
西の空に沈みゆく茜色の母に向かって茜は走る。
茜は走る先の空を見上げて、美しいと思った。胸のなかに詰まった想いの丈をその空に向かって叫ぶ。
茜色の空は、茜を静かに、あかく染め上げる。
その茜色に、茜は美しいと思いながらも、また吠えるように叫んだ。
私は茜色に染まったこの空が……大っきらい……
茜色の空を見上げて 終