始まりの夜
私は茜色に染まったこの空が大っ嫌い……だって、私は……
夏の空を染め上げる茜色。その色は空だけに留まらないで、古びた神社の小さな祭殿箱の脇に腰掛ける二人も平等に染め上げる。
時として物の怪が跋扈し人を食い殺すこともあれば、人の子同士で争い事も多々ある血の匂い尽きぬ世。なれども今の二人に流れるのは夏の日輪で火照る体に心地よい風の流れと、幼き日から伴にあるがために流れるゆったりとした間が流れるだけだった。
茜は明日に迫るこの地域一番の祭事――火の神様を祀り、最終日に紙で出来た花と一緒に厄も燃やすといわれる――に使われる紙の花を作りながら、そっと隣に座る存在に眼をやった。視線の先、茜の隣に座るその人もつい先程まで茜と同じく紙の花を作っていた筈だったが、今はその手を止めて自分達を染め上げる空を何処か夢心地の様子で見上げていた。
茜色に染まったその人の姿に茜は眩しそうに眼を細める。その双眸に一つとは言えない色を乗せて。
その人はこの神社の宮司である人だった。
春も開けようかという頃、先代の宮司が流行り病で亡き人になって悲しみも枯れぬうちに宮司の職に就いた。
やっと表に暗とした顔を見せなくなったのもついこの頃のこと。ただ、何時も隣にいる茜はその人の喪失がまだ根強いことを知っていて、歯がゆい気持ちにならざるを得なかった。
茜は捨て子としてこの神社に拾われ、そのまま隣にいるその人と一緒に育った。歳も近く先代の宮司が捨て子としてではなく茜とその人を別け隔てなく育てたこともあってか、二人の仲は血の繋がりがなくとも十分に強いものとなっていた。それ故に茜はその人の喪失を埋めることが出来ない自分が憎かった。その裏に別の想いがあることに気づかない振りをして。
ふっ、と茜が無意識の内にその人のことを想って気づかぬ間に、その人は目線を茜色に染まる空から茜に移していた。それに遅れ馳せながら気づいた茜は短く声を出したあと、先代の宮司が付けてくれた名前と同じ色に染まる自分を自身で更に染め上げる。
気恥ずかしい。茜は自分でも知らず知らずのうちにその人の顔をまじまじと見ていたことになんとか言い訳をして誤魔化そうと、もごもごと口を動かすが、出てくるのは言い訳のいの字にもならない言葉ばかり。終いには口を綴じぬまま人形のようにぴたりと動きを止めてしまった。
茜が、あわわと気恥ずかしさに動きを止めてしまえば、その人は先頃から見せることの少なくなった笑みをゆるりと顔に乗せた。かと思うと、次の瞬間には悪戯を思いついたように笑みを深め、すっと体を茜に寄せると茜の開いたままの唇に自分の唇を添わす。
日がなかなか落ちようとしない夏の空。一夏を生きる蝉の鳴き声が何処からともなく響くなか、空を染め上げる茜色は一つになった影を静かに、あかく染め上げた。
陽の光が沈みきってから幾ばくか、普段なら神社の境内に人の影は見えない頃になった。ただ、また陽が登れば祭事当日と言うこともあってか、今日を取ってみれば境内に複数の人影が見て取れる。今宵は宮司を中心に祭事の詰めが行われていた。
今年の祭事は、皆から慕われていた先代の宮司が亡くなって間もないこと、更に言えば先代が患った流行り病がまた近辺の村を含めてぽつぽつと出てきたことが皆の顔に影を否応なく落としていた。そんな暗澹とした空気を払拭するためか、殊更に今年の祭事には皆が熱を入れていた。
最後の打ち合わせを行う皆。夜の帳が降りたとはいえ真夏の夜はまだまだ蒸し暑い。団扇を片手に祭事の話をしている村の皆を労ってあげたいと考えた茜は、少しでも暑気払いになればと冷たいお茶と僅かばかりの甘味の類いを皆に給仕していった。
もともと、器量が良い娘と茜は村の皆からも評判が良かったこともあってか、神社に集まった皆に茜が労いの言葉を掛けて回れば、誰もが気を良くした。やれいい娘になっただの、やれこの神社も安泰だのと茜を褒めちぎる。そう言われると茜も悪い気はしない。ますます皆を労い笑顔を皆に向けたが、そんな茜の姿を面白くなさそうに見ている者が輪に一人。
その人に気がついたのは隣に座る宮司の幼馴染。彼はひょいっと仏頂面を覗き込む。仏頂面の視線の先を辿った幼馴染みは少し離れた所で茜がそう歳も違わない村の男となにやら談笑を交わす姿を認めた。
幼馴染みはしたり顔を浮かべた後、茜を手招きする。呼ばれた茜は猫もかくやの身のこなしで幼馴染の隣に軽く腰を下ろした。
「呼びました?」
茜が首を傾ければ幼馴染は強面を崩すと、自分で持ち込んだ酒の類いを茜にお酌させて、隣で仏頂面を通り越したその人に見せ付ける。
さもしてみれば何時もは飄々としているその人も、珍しく眼つきを鋭くさせて幼馴染からぐい呑み替わりの歪な茶碗を奪って一気に煽た。しかし、無理に煽ったかせいか、その人は咽せ始めてしまって、茜はあわわっと慌ててと背中をさすって介抱する。でも、その人は意地を張って無理矢理にぐいっと奪ったぐい呑み茶碗を茜に突き出してみせた。
宮司の反応に茜は眼を白黒させるが、隣でことの顛末を見ていた幼馴染はがははっと大きな体を揺らして茜の手に酒瓶を持たせてやる。ずっしりと酒が詰められた酒瓶を持った茜も、その人が何を求めているのか腑に落ちた。
茜は出来るだけ恭しい手付き身振りをしながら、ぐい呑み替わりの茶碗と同じく歪み注ぎ口がやけに小さい癖に図体は大きい酒瓶を宮司の杯に傾ける。さもすれば宮司はさっき咽せたばかりにも拘わらず、懲りずにまた無理に片手に持ち上げた杯代わりの茶碗を煽った。
茜が心配そうに様子を窺うけれども、今度は咽せずに宮司は杯を枯らしてみせる。その姿を隣で見ていた幼馴染は、またしたり顔で宮司の細い背中を叩いて囃し立てた。
「ぐふふっ! 丁度いい婚儀の杯だっ!」
幼馴染みが声を挙げれば、周りもやんややんやの喝采を上げ始める。祭事の話など後回しに二人を話しの種に盛り上がり始めた。これに茜が頬を赤らめながらも顔を綻ばせれば、宮司はさも当然と言った風に鼻高々と更に酒の杯を重ねていった。
祭事の前日。神社の境内に響く笑い声。
その声の主達は明日の祭事が万事上手く行くと誰もが疑いもしていなかった。
誰かがふと気付いた。虫たちの声が途絶えていると……
彼らは分かっていたのかもしれない。これから起こることを……
地を焦がすような日差しのもと、祭事の当日となった。
一年の多くの日をのんびりと過ごしている茜も、この日ばかりは朝から手伝いを買って出てくれた村の皆と一緒にてんやわんやの大忙しで、忙しさで目が回りそうだと思った。
たとえば、朝から宮司の身支度はもちろんのこと、神事で使われる道具の類いや、前日までに用意してあった出し物の確認をしたりした。ことさら茜にとって、今年から茜が中心となって女達で執り行うことになっていた炊き出しが重労働だった。
数日前から重ねて準備してあったとは言え、炊き出しの量が多い。なにしろ、祭事に集まって働く人、特に男手の数は周辺の村から手伝いに来た者も含めて普段の村民の全員を超える程だった。
男達に腹を空かせては申し訳ない。茜はそう思いながら、今までに手掛けたことのない量の炊き出しと懸命に向き合った。当然、時間と手間が掛かることで、茜は少しの休みも取ることが出来なかった。
夏の蒸し暑さも手伝って、茜は汗を流しながら忙しく働いていた。
そんな忙しい最中、茜は境内の隅で炊き出しの鍋の火に蒔きをくべながら、ふと視線に気が付いて茜は隣に目をやった。そこにはよく顔を知った村の女子が茜を睨み付けるように……否、睨み付けていのだった。
茜は自分に向けられている鋭い視線に思わず一度固まって、その手を止めてしまう。女子がぷいっと茜から眼を逸らすように鍋の方向を向いて、茜は我に返った。
茜とその女子は歳もさして変わらない、昔から宮司や村の童子と一緒になってよく遊んだ仲だった。
村のなかでもことさら茜と仲の良かった相手。でも、それは去年までの話で、去年の今頃から急に女子の茜に対する接し方が余所余所しくなり、つい最近は言葉も交わしてくれなくなっていた。
そんな彼女が今回の祭事で茜と一緒に炊き出しの手伝いをしていたのだ。
茜は苦笑いとも愛想笑いとも言える笑い方をして女子に話し掛ける。しかし、女子は茜に応えずに黙々と自分の鍋の番をする振りをして無視を決め込んだ。
茜は女子の反応に少しばかりむっとした気持ちになった。火にかけられた鍋と同じように、ふつふつと沸き起こってくる気持ちのまま、茜は今までより少しだけ語尾を強めて言葉を投げかける。
「どうして? 私の一体何が気に食わないの?」
茜は必死になって言葉を掛けたつもりだったけれども、女子は一向に茜に応えずに無視を決め込む。
女子のあまりの拒絶に、茜はそれまでふつふつと湧き出て煮えていたものが急激に冷めて萎んでいく気がした。茜はがっくりと肩を落としてしまう。
茜にとって、女子は歳が近い者が少ない村の中で数少ない、本来は気の置けない大切な友達だった。
自分に非があって女子に自分のことを拒絶させてしまったなら、どうにかして自分の非を改めて、茜は女子と仲直りがしたかった。でも、幾ら茜が考えを巡らせても女子が茜に腹を立てる理由が思い付かない。
考えて考えて、それでも答えが見付からないことにほとほと困った茜は、ため息をつきながら「どうしてなの?」っと問い続けることにした。手段はともかく、茜はとにかく女子と仲直りをしたかったのだ。
暫くは茜の呟きに似た問い掛けに無視を貫いていた女子だったが、茜が辛抱強く問い掛け続けた結果か、流石に黙っていられなくなったようだった。
それまで座って火の番をしていた女子は、ぱっと立ち上がると茜を睨み付ける。
その眼に乗せるのは憎悪そのもので、茜は自分の想像を超えた憎しみに唖然を通り越して恐怖すら幼馴染みである女子に抱いた。
女子はすぐには口を開かないで茜を睨み続けるだけだったが、茜が女子に気圧されて体を引くと、途端に茜の問い掛けには答えないで、逆に責め立てるように茜に問い掛けた。
「あなたは宮司が好きなのかっ! 宮司の夫婦になるのかっ!」
茜は何を言われたのか一瞬分からなかった。突然投げられた脈絡もないはずの問い掛けの意味をややして飲み込んだ茜はかっと顔を赤くして、隠すように顔を伏せる。
茜のある種分かりやすい態度に女子は茜とは違う意味で顔を紅潮させて茜を口汚く罵倒し始めた。
「この物の怪の子めっ! 物の怪のくせに人の姿を真似ているっ! お前など穢れた子なのだっ!」
茜は女子の言葉に咄嗟に違うと叫びたかった。私は物の怪などではないと女子の言葉を否定したかった。
しかし、結局茜の口から否定の言葉が発せられることなく、代わりに男の、茜がいつも聞き慣れた落ち着いた声が変わりにその場に届く。だけれど、その声は何時もは聞き慣れない、怒っていると分かる低い声だった。
茜と女子は驚いて声の主の方を向いた。そこには茜が思った通り宮司が険しい顔で立っていて、茜はやっぱりと思った。宮司は二人、特に茜を物の怪と罵っていた女子に対して険しい視線を向けている。
女子は予期せぬ宮司の登場と自分に向けられる険しい視線にたじろいだ。でも、それも一瞬のこと。宮司の名前を叫ぶように呼びながら詰め寄ると自分の言葉を宮司に浴びせる。
「茜は人の子とは違うっ! 物の怪の子っ! 貴方の夫婦には相応しくないっ!」
女子は詰め寄った宮司の手を無理矢理に掴むと自分の両手で握り締めて言葉を続ける。
「貴方の夫婦に相応しいのは、この私っ!」
茜は女子の言葉で自分はなんて脳天気だったんだろうと思わずには居られなかった。
本当は知っていたのだ。女子が宮司に想いを寄せていたことを……
茜は女子の気持ちを知っていた。でも、大丈夫だとも思っていた。
女子とは小さな時から宮司とも、茜とも多くの時間を共に過ごして来た。茜は女子のことが大好きだったから、女子も茜のことを好きでいてくれると思っていたのだ。
実際に、茜の記憶では随分前のことなっていることだけれど、女子は茜の宮司に対する気持ちに理解を示していた。二人が結ばれるために間を取り持とうとまで言ってくれていたのだ。まだ三人共幼かった時の記憶。それでも茜は女子が自分の味方だと思い込んでいた。
たとえ、女子が宮司に想いを寄せていたとしても、最後は自分の力になってくれると茜は思っていた。しかし、女子が宮司に寄せる想いは茜が想像していた以上だったのだ。
女子の気持ちを理解した茜は苦しい気持ちになって、その気持ちから逃げるようにきつく目を閉じた。
どうすればいいのだろう? 私はどうすれば……ぐるぐると考えを巡らせて打開策を探す茜の耳に突然乾いた音が耳に届いた。音の正体に思い当たった茜は今度は驚きの余り、目を見開く。
つい今しがたまで茜を罵倒し続けて宮司に自分を選ぶように言い募っていた女子は、隠すように頬に手を当てて宮司の前で尻餅を付いていた。
女子の眼には自分に何が起こったのか信じられないと言う気持ちがありありと浮かんでいる。そして、その気持ちは茜も同じく抱いた気持ちだった。
信じられない。あの人が……
茜は長い年月を宮司と過ごしてきた。でも、宮司が人に、あまつさえ自分に想いを寄せている女の子を相手に手を上げる姿は見たことがなくて、茜は目の前で起こったことが信じられなかった。
喧嘩事だけで見れば、今まで宮司が村の者と喧嘩をしたことは実は多い。特に昨日の夜、宮司を煽って酒を飲ませていた幼馴染みとはことが有る事にぶつかっていた。その度に痣を作っては茜が手当をするのが常だったのだ。
しかし、宮司の手当をしながら茜が不思議に思ってしまう程、いつも一方的に宮司は殴られてばかりだった。宮司から殴り返した所を茜は見たことがない。
あれは何時の話だっただろっと、茜は宮司を殴り倒した後の幼馴染みのぼやきに似た言葉を思い出す。
『あいつは俺がわざと殴り返してくるように仕向けてもちっとも誘いに乗ってきやしない。あいつを一方的に殴ってるといつの間にか俺が悪い気がしてならなくなる。結局、いつも俺から謝らないといけなくなっちまう。茜、おまえからあいつをけしかけてくれ』
苦笑いと共に幼馴染みにそう言われた時は、だったら最初から暴れなければいいのにっと茜は幼馴染みに返して、幼馴染みはそれじゃ男が廃るっとのたまった。
絶対に宮司は暴力を人に向けない。何時の日からか茜はそう信じて疑わなかった。
そんな茜だったからこそ、ことさら村の女の子、もっと言えば自分に想いを寄せてくれる相手に宮司が手を上げたということが茜は信じられなかった。
暫くの間、頬を赤くした女子は自分を見下ろす宮司を唖然と仰いで動きを止めていた。しかし、まるで何かに化けたかと茜が思ってしまうほど、伴う雰囲気を冷たくさせると眼を細めて無言で立ち上がる。
宮司は立ち上がった女子に向けて静かに言葉を掛けた。
「……茜は物の怪などではない。茜に謝るんだ」
女子は宮司の言葉に冷たく視線を送るだけ、一時的に音が三人の間から逃げ去った。
どれぐらいそうしていたのだろう? 緊張で茜の胸が速い間隔で鼓動する。
何時間も同じ姿勢で居たような居心地の悪さを感じる茜。実際には茜が思うほど時間は経って居なかったけれども、茜は立ち眩みを憶えたほどだった。
沈黙が続くなか、茜が火の番をしていた鍋が噴きこぼれてぱちぱちっと火が爆ぜる。
宮司を見詰め続けていた女子がまるで切っ掛けを待っていたように、突然茜の方に体ごと向き直った。茜は突然のことに思わず身を固くして身構える。
茜の方を向いた女子の顔からは表情と言えるものがまるで抜け落ちている。まるで前にみた能の面のようだと茜の頭にちらついた。
怖ろしい。茜が女子の表情が抜け落ちた顔に言い知れない恐怖を抱いた次の瞬間、面を付け替えたように女子がにっこりと笑顔を貼り付けた。
「ごめんなさい」
短い謝罪の言葉を発した女子は、茜が唖然としている間にまるで逃げるように茜と宮司に背を向けた走り出す。茜が眼を白黒させている間にあっと言うまにその背中は見えなくなってしまった。
茜はきょとんして小さな背中が消えた方に視線を向いていた。
呆然としている茜に声が掛かる。
「茜」
宮司が自分の言葉を呼んでいる。はっと我に返った茜の視線は宮司に向かうけれども、宮司の視線は茜の方を見て居なかった。
茜が宮司の視線の先を追う。茜は小さく悲鳴を上げて、噴きこぼれ続けている鍋に駆け寄った。
鍋の火を弱めて、茜は思わずほっと安堵の息を付いた。それから恐る恐る宮司の顔色を窺う。
宮司は難しい顔で何かを考えているように見えて、茜はどう声を掛けていいのか分からなかった。そして、今しがたの幼馴染みの女子とのやり取りが茜の気持ちに重たい何かを背負わせて、茜に躊躇させる。
暫く間は茜も宮司も無言で、茜は黙々と女子がほったらかしにしていった鍋も含めて鍋の世話をした。宮司はその茜が忙しく働く姿を無言で眺める。そうこうしている間に宮司を祭事の用事で呼ぶ声が聞こえてきて、宮司はその声に応えると茜の傍から離れようとした。
茜は炊き出しの鍋の世話を焼きながら、そっとため息を付いた。宮司が行ってしまう。そのことが不安で、でも宮司に心配させたくないと小さくなったため息。しかし、茜が不安に思うように宮司も不安だったのだ。
自分から離れていく筈の足音が自分の方に向かって来たことに茜はびくりっと体を固くして、なんだろうっと上目遣いに宮司を見上げる。
宮司は茜に気遣わしげな視線を向けながら、茜に言い募った。
「茜のことが心配で堪らないっ」
宮司の言葉に茜の心を蝕んでいたものは、すっと鳴りを潜めて、代わりに熱いものが茜の心を満たしていく。
茜はそれまで固く強張っていた顔の表情を緩めた。
「大丈夫。あの子も最後は謝ってくれた。私は大丈夫だから、心配しないで」
茜の宮司を心配させまいとした言葉。しかし、宮司の不安を拭うには足りない。
「茜の平和惚けした頭は信用出来ん」
茜の心配させまいとした言葉に宮司は更に心配を募らせただけだった。
茜は宮司の言いように頬を膨らませる。でも、それだけ宮司は自分のことを思ってくれていると分かっていたから、反発の気持ち自体はちっともなかった。
宮司はなおも茜に言い募ろうとした。けれども、返事だけで一向に姿を見せない宮司を呼びに村の者が来てしまう。宮司は怨めしそうに自分を呼ぶ声に応えると最後に茜に声を掛けてからその場を離れて行った。
「気を付けるんだ。茜」
一人残された茜はついさっき宮司が見せた心配の仕方が、何時もは飄々としている宮司にしては尋常なものでないと感じた。改めて一人になると一抹とは言えない不安を感じる。
陽もまだ高い。直ぐ傍で鍋を煮立たせる火も存在しているのに、不安は茜に忍び寄り、茜に不安を寒さとして感じさせた。茜は不安に震える自分の体をかき抱いた。
何か怖ろしいことが起きる。茜の頭の中で宮司の顔がちらついた。茜は宮司に怖ろしいことが起こるのではないかと予感が頭を掠めたことにふるふると頭を振って打ち消そうとした。でも、その悪い予感は薄れることは最後までなかったのだった。
夜の帳ももうすぐ降りようかと言う時間になった。いよいよ祭事の始まりを知らせる太鼓の勇ましい音が小さい村に轟き始める。
大人も子供も祀っている火の神様、犬のような姿をしていると言われる神様を尊び、紙で出来た花を神社の境内に作られた祭壇に供えていく。
ある人は、自分が患っている病が紙の花が燃えて無くなるように治るようにと、またある人は大切な人の周りから災いが燃えて無くなるようにと……
願いの形は人それぞれ違っていたけれども、この地に住まう火の神様に皆がその清い火で悪いものを燃やし尽くして欲しいと願った。もちろん、茜も宮司の周りから悪しきもの達が清い火で消えてしまえばいいっと切に願った。
祭事に参加した皆の殆どが紙の花を祭壇に供え終わった後で、茜は炊き出しの始末をようやく終えて祭壇の前に立った。既に祭壇が見えなくなる程紙の花が供えられた中に自分が作った紙の花を加えて、茜は静かに瞑目して手を合わせる。
瞑目した茜は一心に宮司の幸せを願おうとした。だけれど、どうしても昼間の出来事が頭から離れずに、不安な気持ちを抑えることが出来なかった。仕方が無いので瞑目することを途中で切り上げて、茜は不安を吐き出すように息を付いた。
胸に抱いた不安は時間が経つに連れて、茜の中でどんどんその存在を主張するように大きくなるばかりだった。火の神様にお願いをすれば少しは気が晴れるかと茜は思っていたから、思うように晴れない不安に茜はもう一度息を吐いた。
ふと息を吐いた茜は自分の後ろに人の気配を感じて驚いた。はっとして振り返る。そこには難しい顔をした幼馴染みが立っていたのだった。
あれっと思って、茜は頭の中で幼馴染みの今日の予定を思い出して首を捻った。幼馴染みは宮司とは比べられない程の村でも一目置かれる体格の持ち主。しっかりとした体格と大きな体に似つかない器用さで村では頼りにされていて、今日も祭事の手伝いで頼りにされている筈だった。
茜は炊き出しが終わって一息ついている所で、今ここに居ても不思議なことではなかった。しかし、祭事が始まって暫く経つ今。頼りにされている大男の幼馴染みがここに居ることが茜は不思議でならなかった。
不思議だ。それならば本人に直接聞けばいいっと開き直った茜は、体格差で仰ぎ見る幼馴染みに声を掛けた。
「どうしたの? いま忙しくないの? まさかとは思うけど……仕事をすっぽかしてきたんじゃ……」
「うんにゃ、違えよ。ちょっと気分転換しに来ただけだ」
茜の問い掛けに幼馴染みは難しい顔をしたまま生返事を返してくるだけだった。
要領を得ることが出来ない。ただでさえ茜の気持ちは昼間の出来事で掻き乱されていたから、幼馴染みの煮えきれない態度に茜は珍しく声を強めて幼馴染みに返事を求めた。
「嘘吐き。本当になんでここにいるのっ? 答えてっ!」
強い声音で返事を求められた幼馴染みは、んっ? っと珍しく茜の気が立っていることを不思議に思った様子だった。それからなにやら思い付いて、それまで難しくしていた顔を緩めると口元をにやけさせる。
「おおっ? さては茜? 愛しい愛しい男に祭事のせいで逢えないもんだから気が立ってるな? いやいや熱い」
なんだったら後で逢い引きの手引きでもしてやろうかっと続けた幼馴染みに茜は顔を真っ赤にして叫んだ。
「違うっ! おちょくらないで……よ……」
叫ぶ茜。ただ、幼馴染みが言っていることもあながち外れているわけでもない。事実、宮司と逢えないことが茜を不安にさせていた。
茜の否定の声からだんだん覇気が無くなって、そのことにそれ見たことかっと気を良くして幼馴染みは剛胆に笑った。幼馴染みの反応にむっとした茜はもう一度抗議の意味も含めて声を上げる。でも、やっぱり声に力がはいらない。抗議の声は途中で尻すぼみになってしまった。まるで紙風船が萎むように元気を無くしてしまった茜に幼馴染みはやり過ぎたと思ったのだろう。大きな体を小さくさせた。
「悪い悪い。いや、そんなに落ち込みなんて思わなかった。すまん」
幼馴染みはそう言ってから、昼間宮司が茜に向けたように気遣わしげな視線を向けると観念したように自分が茜の傍に来た理由を話し始めた。
幼馴染みが言うには、宮司が茜のことを心配して腕っ節が確かな幼馴染みに自分が傍にいてやれない間、自分の代わりに茜の傍に居て守って欲しいと頼んだらしい。茜はその話を聞いてまず、宮司が自分のことをそこまで心配しているのかと驚いた。
確かに、宮司の不安も茜は分かる気がする。自分の中で大きく膨れて主張している不安を宮司も持っているのだろうと茜は思った。同時に普段は不安を表に出すことが本当に希な宮司が、祭事で自分と同じぐらい大忙しの幼馴染みに仕事を放り出させてまで茜の傍に居て欲しいと頼んだことに一種の衝撃を茜は覚えた。
あの人が……
茜は何か自分の後ろで得体の知れない何かが息を潜めているような気がした。思わず後ろも含めて周りを見渡す。しかし、当然と言うべきか、出し物が始まる時間で、紙の花を供えて後は火を実際に祭壇に放つまでは皆はここに用ない。人が引ける時間ということもあって、茜の周りには幼馴染みが一人居るだけだった。茜の背後には紙の花が山のように供えられた祭壇があるだけ。
とんっと幼馴染みの手が不安に怯える茜の肩に乗せられる。茜はびっくりして、知らない間に伏せ気味になっていた顔を上げて幼馴染みの顔を見上げた。
茜の肩に大きくて無骨な手を幼馴染みは置く。その手は力仕事をこなしてきたからか、茜が知っていた以上に固く、同時にとても頼もしく思えた。茜の不安を汲み取った幼馴染みは、幼い頃から茜が見慣れている悪戯っ子のような笑みを茜に向ける。
「俺が付いててやる。なに、大船に乗った気持ちでどんっと構えてろ」
少しの気後れも見えない幼馴染みの言葉。幼馴染みの言葉は茜の心に淀んでいた不安を蹴散らした。
「山産まれ山育ちの熊のくせに、大船とはよく言うよね?」
茜も幼馴染みに釣られるよに笑った。幼馴染みは今まで自分との約束を違えたことはない。幼馴染みを信頼した茜は、それま不安のせいでゆらゆらと定まらなかった心の置き場所をやっと泊めることが出来たと思った。
これでもう大丈夫。もうなにも心配することはないんだ。そう思った茜は一度祭壇に向き直ると改めて手を合わせた。
こうやって心の拠り所が出来たのは貴方様の御陰です。茜はそう心の中でお礼の言葉を述べた。
ふと茜は宮司の顔が見たくなった。今まで苛まれていた不安が姿を見せなくなったことで晴れやかな気分になった茜は愛しい人に会いたくなったのだ。
祭壇に火を放つのは明日の予定だけれど、祭事を仕切る役目がある宮司は今も忙しくしているだろう。今頃は出し物の直前でことさら忙しいだろうから、ゆっくり話しをしている暇はない。でも、顔を互いに見せ合うことが出来れば、互いの胸に巣くっていた不安が完全に消え去ると茜は思った。
すぐに会いたい。今すぐ会いたい。急激に落ち込んでいた気持ちが一気に沸き立つのを茜は感じた。
くるりっと幼馴染みに向き直った茜は宮司の所に行こうと口にしようとした。しかし、茜の口からその言葉が出ることは無かった。代わりにとても高い女性の、それも悲鳴としか取りようも無い声が茜と幼馴染みの耳に届く。
二人は唖然として悲鳴が聞こえた方向に顔を向ける。よくよく耳を澄ませば今の悲鳴の他にも悲鳴や怒号が沢山聞こえる。そして、その方向は……
幼馴染みが思わず言葉を落とした。
「出し物のやってるところじゃないか……」
幼馴染みの落とした言葉に、茜の中で不安が鎌首を持ち上げる。そして、鎌首を持ち上げた不安は恐怖そのものに変貌して茜に襲い掛かった。
茜は幼馴染みの制する声を背に聞きながら、全速力で走り出す。
もっと、もっと速くっ! 間に合わなくなる前に……
茜は自分の足が憎らしかった。二本の足は縺れてしまいそうで、突っ切ろうとする獣道は険しくて、何度も躓きそうになる自分の足が……
茜は欲した。縺れないで走れる足を、一瞬で大切な人の許に行ける力を……
茜は走った。今も絶えずに叫び声が聞こえる所へ、茜の大切な人の許へ。
息を切らせながらも叫び声のただなかに飛び込んだ茜。
飛び込んだ先、茜は目の前の存在に悲鳴を上げることも忘れて、その場にぽつんと立ち尽くした。
茜の目の前でそれは低く唸り声を上げる。唸り声を上げるそれは、足下に転がした土に汚れて元の姿がなんだったのか分からない物体を音を立てながら牙が覗く口で貪る。
大の男より二回り以上大きな体。村でも小柄な茜には実際よりも大きく見えた。自分ならその大きな口でぱくりっと一口に違いないと茜は頭の片隅で考えた。
茜の体はまるで石になってしまったようにその場から動けなくなってしまう。でも、茜の意思に関係なく、本人も気付かぬ間にかちかちっと歯が噛み合う音が漏れて聞こえていた。
茜が恐怖に足を竦ませて棒立ちになっていると、何の前触れも無くそれは動きだす。
それまで一心不乱に何かを貪っていたそれが何かに飽きたように黒い頭を上げる。何かを貪っていた口元からは黒く見える何かを滴らせていて、黒一色に見える顔に白眼の部分だけが浮きだって見えた。その白眼が浮き立つ眼が茜に向けられる。
白眼が浮き立つ眼の視界に入って、ようやく茜は目の前の存在、鬼が何を貪って居たのか悟ることが出来た。
その、人にはとても似つかない姿をして居ながら、人の子と同じ白眼を持った顔はどこもかしこも黒く見える物で汚れている。鬼の周りに置かれていた篝火の灯りが、てらてらっとその顔を照らしあげる。今も滴り続ける、顔にべっとりと付いている物は人の鮮血。いままで鬼が貪っていたのは元は人だったのだ。
それまで石のように動くことを拒否していた茜の体。鬼に視線を向けられて、骨を抜きにされたように茜はその場にへたり込む。
いまや、茜の頭の中は箒で払ったように知の字が消え去り、真っ白な一枚の紙のようになってしまっていた。ただ、茜は自分がこれから死ぬのだということだけは、なぜだか、はっきりと理解していた。
これも一つの運命なんだ。自分はいまからあの大きな口に飲み込まれて、ぐちゃぐちゃと音を立てながら、あっと言う間にあの異様に膨れている腹に収まるんだ。
茜の頭はだだ自分が喰われる瞬間だけ頭の中に描き続けた。
動くことはもちろん、震えることさえをすっかりと忘れた茜。
一歩、また一歩と迫って来る黒い鬼の影を目で追いながら、茜は自分のなかで何かが暴れていることに気が付いて不思議に思った。
もはや茜のなかで自分が死ぬことはもう決まってたことだから、何をいまさら暴れているのだろう? っと茜は訝しむ。茜のなかで暴れるそれは声を大きくして自分を見ろっと叫び声を上げる。
『自分が本当は何者なのか貴女は気付いている。なんで私から目を逸らし続けるのかっ』
茜を責付く声はどんどん声を大きくする。茜はあなたは誰だと問い掛けた。
あなたは誰? これにそれは『私は貴女だ』っと返した。
ああ、そうだ。私はあなたで貴女は私だ。そう、私はずっと前から自分が何者なのか知っていた……
茜のなかで何かが眼を醒まし始める。目の前で大きく口を開いて茜を一口に食べてしまおうとした鬼と、目覚めたもう人の茜が眼を合わせた。途端に鬼は金切り声を上げる。鬼は巨木すら薙ぎ払う腕をまるで恐れるものを払い除けるように茜に対して振り上げた。
迫って来る黒い腕。茜は少しの動揺も見せずに、ただじっと地に座して鬼を見詰める。茜の眼には鬼の黒い腕の動きは酷く緩慢な動きに見えた。
茜を今しがたまで支配していた恐怖は、一瞬で乾いた砂地に水が吸い込まれていくように存在を消していく。そして、恐怖に変わるように茜のなかに生まれたものがあった。今まで茜が感じたことが無い酷く嗜虐的な感情だった。
『この身の程知らず。どうしてやろう? 一息に息の根を止めてやることも絶やすい。でも、それだど簡単過ぎる。いっそ肢体の一つ一つをもぎ取ってやろうか?』
茜の視線が鬼の腕から外れて、今は恐怖の色に染まりきった鬼の眼を捕らえる。その白眼を持った鬼の二つの眼に、茜のなかで目覚めたもう一人の茜の嗜虐的な感情が満たされていくことを茜は感じ取った。新しく生まれた感情は茜の口元を残忍に綻ばせる。
『そうだ、この目玉をくり抜いて、この身の程知らずがさっきやっていたように音を立ててぐちゃぐちゃと貪ってやろう。恐怖に染まったそれは美味に違いないのだから』
茜が何もかも、すべてを目覚めたもう一人の茜に預けてしまおうと眼を閉じようとする。未練もなにもないと思えた茜。真っ暗な世界に落ち込もうとする間際に、茜は視界の端に異物を見付けた。
鬼の物ではない太い腕。それが見えて最初、茜はこの邪魔者は一体何をするつもりで現れたのだろうと思った。不思議に思いながら、閉じようとしていた眼をその太い腕の持ち主に向けて……今度は茜の人の部位が悲鳴を上げた。
心の中で悲鳴を上げた途端に、茜のなかでそれまで押さえ付けられていた茜の人の子の部位が主張を始める。
『私は人の子供っ! あの人や皆と同じっ!』
茜の人の部位が主張を始めると、それまで緩慢に流れていた時の流れは正しい流れを取り戻そうと、茜に鬼の黒い腕となって襲い掛かった。
無理矢理突き飛ばされた衝撃と巨木すら薙ぎ払う鬼の腕が空を切る音が殆ど同じに茜に訪れる。茜は無意識のうちにきつく眼を閉じて、成されるがまま地に転がった。
正しい流れを取り戻した時が正常に鬼の唸り声を茜の耳に届ける。地に転がって、きつく眼を閉ざしていた茜は怖々と眼を開いた。そして、目の前の光景に息を呑む。
茜の目の前で、鬼は戸惑ったようについ今し方まで茜が居た所に蹲っている男を見下ろしていた。
蹲る男は茜を突き飛ばした腕を押さえて荒い息を吐いている。だけれども、顔だけは上にある鬼の眼を睨み付けていた。押さえている腕は茜からはよく見えなかったが、あの丈夫で巨漢と言える男が歯を食い縛りながら蹲る姿を見て、茜には幼馴染みが自分を庇って負った傷は深いと用意に想像がついた。そして、茜は背に冷たい抜き身の刃を突き付けられた気がした。
幼馴染みは鬼を睨み付けながら、青ざめたまま動かない茜に声を荒げる。
「馬鹿がっっ!! 逃げろっ!!」
逃げろと叫ぶ幼馴染み。腕を押さえながら痛みと闘い、鬼と対峙する姿。茜はとても一人で逃げる気にはなれなかった。
まるで頃合いを見計らっていたように、茜のなかで目覚めたもう一人の茜が囁く。
『幼馴染みを見捨てるのか? 貴女を助けるためにあれは死にに行ったようなもの』
もう一人の茜が、茜を責め立てた。茜の人の部位もそれに同調するように幼馴染みを助けたいと叫ぶ。
どうにかしなければ、どうにかしなければ……
幼馴染みを助けたい。その言葉が茜の頭の中を駆け巡った。茜は何か手はないかとその視線を助けを求めるように彷徨わせた。
目の前の鬼は幼馴染みの突然の登場と茜が解き放とうとした力に戸惑っている。棒立ちになって二人、特に茜のことを注視していた。そこでふと茜のなかで閃くものがあった。
茜は今まで押さえ込み続けていたもう一人の茜、物の怪の手綱を少しずつ、少しずつ緩めた。さっきと同じように鬼の眼を捕らえる。白眼に血管が浮き出て、戸惑いと不安をまざまざと現す鬼の眼を。
自分のなかに棲まう物の怪は自分よりも貪欲に生きることを求め、同時に死臭に飢えていると茜は知っていた。
ずっと前からその存在を知って居て、茜はもう一人の自分に恐怖していたのだ。なぜなら、もう一人の茜は生きることを求めて、茜と言う人の子を疎み、拒絶して、自分が茜に成り代わろうとしていたからだ。そして、自分の死臭に対する欲求を成り代わった途端に満たそうとも考えていた。それはつまり、茜の周りに居る人間を手に掛けること。
村の皆は皆殺しにされてしまう。私を庇ってくれた幼馴染みも、そして私の大切な人も……
茜はそう思って居たからこそ、今までもう一人の自分を押さえ付けて隠して来たのだ。今の自分を守るために、宮司の傍に立ち続けるために。しかし、状況は茜の願いを受け入れてはくれそうになかった。
目の前の鬼はこのまま手をこまねいていたら茜達の命を奪ってしまう。そんなことは嫌だっと茜は叫びたいほどだった。今のままで私は居たいと切に願った。
茜は自分の願望を果たすために、今まで押さえ付けて隠して来た物の怪を利用することを思い付いた。
少しずつ、少しずつ茜は自分のなかで押さえ付けていた物の怪の手綱を緩めていく。急いではいけない。手綱を緩め過ぎてしまったら、物の怪は鬼だけでなく茜自身にも襲い掛かって来るのだから。
茜の目論見は成功したように思えた。
茜のなかで牙を覗かせた物の怪は茜が危惧していたように茜に牙を向けてくることはなかった。その狂気を、緩められた手綱、檻の間から茜の眼を通して鬼に向ける。狂気を向けられた鬼はその白眼を持つ眼に、それまで乗せていた戸惑い、不安を恐怖に塗り替えていった。鬼は低い息を吐きながら、静かにその巨体を茜と幼馴染みの後ろ後ろに下げて行く。
鬼が少しずつ自分達から遠ざかって行くことを何処か他人事のように茜は眺めた。どうやら自分のなかに棲まう物の怪はこの鬼を萎縮させる程怖ろしい物のようだ。茜はそう考えて暗い気持ちになった。
この化け物は自分の隙を常に探して、これからも私の体を乗っ取ろうとするのだろう。でも、絶対にそんなことはさせない。私はこれから先も私の大切な人の傍に立ち続けるのだから……
茜は自分の気持ちを代弁するように、それまでただ捉えるだけだった眼を鋭くさせて鬼を睨み付ける。
『私はあの人の傍に、隣に立ち続ける! そのためにここでお前に屈することはないっ! 立ち去れっ! 立ち去れっ! 私の前から立ち去れっ! 私の大切なこの場所から立ち去れっ!!』
茜の鬼気迫る眼差しを受けて、それまで少しずつ後ろに下がり続けていた鬼は一層気圧されたように鋭い爪が備えられた手で地面を掻きながら後ろに下がる速さを上げて行った。
そうだ、それでいい。速く私の目の前から居なくなって……
下がり続ける鬼に少なからず茜は安堵した。しかし、安堵したのもつかの間、茜は自分を見る存在が鬼の他にもあったことにはっと気付いた。
一瞬、不安を面に出してしまいそうになる。けれども、不安を面に出してしまえば折角萎縮した鬼が息を吹き返してしまうかもしれない。なにより、茜のなかの物の怪が茜の隙を突いて、茜にその牙を向けてくるかもしれなかった。茜はすっと息を呑んで、不安に歪みそうになる自分を抑え込みながら、茜を見るもう一つの視線を視界の中に入れた。
茜を見るもう一つの視線に乗るものは、驚きの一言に尽きると言えた。
腕を押さえて蹲るその眼の持ち主は何か言いたげに口を動かそうとしていた。しかし、驚きの余りその言葉は音として発せられることは無い様子だった。それも当然のことか……っと茜は一杯に呑み込んでいた息を少しずつ吐き出す。知らず知らずの間に強張っていた表情を眼だけは鬼には鋭くしたまま緩めて、取り繕うように無理矢理笑顔を貼り付ける。でも、その眼の持ち主は茜のことをよく知っていたのだ。順番を付けるとすれば宮司の次に、茜のことを茜本人以上に知っていた。
茜を本人以上に知っている幼馴染みは茜の無理矢理貼り付けた笑顔を容易く看破した。驚きで染め上げていた顔を途端に苦笑させる。幼馴染みは小さく「茜だ」っと呟いてから、離れて行くと言えまだ近くに居る鬼に注意しながら茜に近づいた。
幼馴染みの表情からはもう、驚きや不安、恐怖の色は無かった。見慣れた屈託のない顔に戻っていることに、茜はゆるゆると本当に顔を綻ばせる。どうやら、幼馴染みは茜がぎこちなく顔に貼り付けた苦しげな笑顔を見て、その不器用な仕草に逆に安心したようだった。
幼馴染みが茜の隣に身を寄せて、鬼が茜のなかに棲まう物の怪の狂気に遂に背中を見せた。茜はやっとこの悪夢が終わるのだと思った。
いっぱいに膨らんでいた緊張が抜けていく。知らず知らずの間に茜の目に涙が浮かぶ。忘れていた恐怖が茜の小さな背中の背筋に沿って全身に走り、その小さな体を震わせた。
これでもう大丈夫。私の居場所は守れらたんだ……
鬼の黒い背中を見ていた眼をゆるゆると閉じて、茜は張り詰めていた意識を手放そうとした。もう鬼は目の前から消え去るのだから。
茜はこれで終わりだと、意識を手放そうとした。しかし、茜の思いはあまりもの簡単に消え去ることになる。
茜の思いを踏みにじり、絶望がまたその場を支配してしまうのだ。茜のことを注視していた四人目によって。
鋭い棘のような声がその場に響いて、茜はびくりっと体を震わせた。
閉じようとしていた眼を茜は慌てて開く。茜は何事だと同じく驚いていた幼馴染みと一緒に棘のような声を上げた主の姿を求めて、視線を声がした鬼の方に向けた。そして、二人とも声の主の姿を認めて目を見開いた。
鋭い声の持ち主は、昼間、茜を罵倒した幼馴染みに女子だった。
女子はその手に小さな刃物を握り締めて、自分よりもずっと大きい鬼を見上げている。その女子の眼には茜の今まで見たこともないような激情が浮かんで居て、その怒気は茜の心を波立たせた。もちろん、その激情が浮かぶ眼で直に射貫かれている鬼は茜のなかに棲まう物の怪の狂気以上に威圧されていた。
鬼が赤子が金切り声を上げたのかと思う声を上げる。その場に留まると、爪で地面を掘るようにして、滲み出る戸惑い、そして、恐れを現して居た。
一体何がどうなっているのだろう? 茜は疑問を持ちながらも、今はただ突然の女子の登場に放心の体になった。茜の隣で、驚きで身動きを忘れた幼馴染みと一緒に事の成り行きを見ていることしか出来なかった。
突然現れた女子は鬼を睨み付ける。棘が感じられる声で鬼を怒鳴り付けた。
「何故お前は逃げようとするっ! 何故お前はあの女を食い殺さないっ!」
女子の鬼を叱責する声。茜は戦慄を覚えた。
そうか、あの子は私を殺すために鬼を呼んだんだ。すべては私をあの人の傍から消すために……
ふっとそれまで鬼にばかり向けられて居た女子の視線が一度鬼から外れる。女子は茜を一瞥した。たったそれだけで、茜は芯から底冷えしたような気がした。ぞくりっと女子の視線が茜の体を震わせる。
「お前は恐れているのか!? あの物の怪の女をっ!」
手に持った刃物で女子は茜の方を差しながら叫ぶ。その姿を見て、茜の隣に座って居た幼馴染みは小さく言葉を落とした。
「狂ってる……」
一頻り鬼を恫喝した女子は、いよいよその眼を夜叉の如く鋭くさせた。棘をさらに鋭くさせた声で鬼に叱りつけるように叫ぶ。
「この腰抜けめっ! この腑抜けた鬼っ!! その寝ぼけた眼を醒まさしてくれるっ!!」
かっと女子は叫びを上げる。女子は手に持った小さな刃物、昼間の炊き出しで野菜を刻んでいた物で自分の手の平を切り付けた。
女子が自ら傷つけた手の平から、紅い血が止めどなく流れ出す。その血の匂いは茜の元にも届いた。
女子が流した血の匂い。それを嗅いだ茜は目の前が真っ白に染まるような快感に襲われて戦いた。血の匂いは茜のなかに棲まう物の怪を狂喜乱舞させる強力な劇薬の効果を果たしていたのだ。そして、その劇薬はいとも容易く鬼を狂わせる。
一際大きく鬼が吠える。鬼が目の前の女子にまだ血を滴らせている口を大きく開いた。
茜があっと声を上げる間も無く、女子の姿が茜の視界から鬼の巨体に隠れた。否、鬼の中に消えたのだ。
いつの間にか茜の世界から女子の姿と一緒に色が消え去る。白黒の世界で黒い背中を茜に見せる鬼は、四つん這いになって、音を立てながら一心不乱に何かを咀嚼していた。
訳が分からないと茜は叫びたいと思った。あの子は何処に行ったんだっと誰でもいいから教えて欲しかった。
色を失った世界は代わりに音と、そして匂いを今まで以上に茜に親しみを持たせた。
鬼の咀嚼する音。柔らかく大量に水分を含んだ物を千切る音や、固くて脆い何かを歯で砕く音が、茜の直ぐ耳元で行われているように茜には感じられた。血の匂いは今さっきとは比べられない程、茜の鼻孔を通して、茜を陶酔させる。
茜は心の何処かで悲鳴を上げる自分と、もっと、もっとっと叫ぶ声を茜は聞いた。茜は内と外で何も分からない。何がどうなっているんだと訴えて叫びたかった。
「誰か助けて……」
茜が小さく呟く。目の前の世界から逃げ出すように茜は眼を閉じた。
もう嫌だ。逃げ出したい。いっそこのまま気を失ってしまいたい。私のなかに棲まう物の怪が暴れる前に……
眼を閉じて、目の前の現から茜は逃げようとしていた。しかし、その細い腕を力強く掴まれて、はっと我に返る。
茜が腕を掴む腕の主の方を見れば、幼馴染みは今まで見たことのない真剣な眼をして一言。有無を言わさない声で言葉を茜に投げた。
「逃げろ」
幼馴染みは強引に茜を自分の後ろに押しやった。
幼馴染みの行いに茜は図らずも目頭が熱くなるのを感じた。思わず幼馴染みに縋り付く。
自分が物の怪であることは、それまで頑なに否定していた茜も認めざるおえなかった。茜がなかに棲まう物の怪に一時とは言え身を委ねたから。そして、茜が発した物の怪の狂気を目にしている幼馴染みも茜の素性を悟っていないわけがないのだ。
茜が物の怪であると悟っているはずの幼馴染み。それでも茜のことを大切にして守ろうとしてくれている。そのことが茜は嬉しかった。
物の怪は人の子と一緒に生きて行くことは出来ない。それが茜の頭から離れることが今まで一度も無かった。人の子は物の怪を自らの敵としてしか見ることが出来ないのだと茜は思っていた。でも、目の前の幼馴染みは違ったのだ。
物の怪の私を受け入れてくれる。そのことが、茜は嬉しくて堪らなかった。
諦めるのはまだ速いかもしれない。
現から逃げ出すことは簡単で、私は何時も目の前に突き付けられた真実、人とは違う私から目を背け続けていた。私は怖かった。周りの人達から拒絶されることが、なにより私の大切な人に太刀を向けられることが……
でも、幼馴染みは私を受け入れてくれた。目の前で顔を血で汚す鬼と同じ物の怪の私を。
もしかしたら、幼馴染みが私を拒絶しないのは私がまだ人の姿を保っているからなのしれない。私が人の姿から本来の物の怪の姿に戻れば、いくら幼馴染みでもその顔を歪ませるかもしれない。だけれども、私は信じてみようと思う。私が、私達が共にしてきた時間という名の大切なものを……
村の人達みんなが私のことを受け入れてくれるとは私も思えない。でも、必ず私のことを信頼して受け入れてくれる人も居るはず。私はそう思えるだけの時間をこの場所で過ごして来たのだから。そして。私の大切な人もその一人の筈だから……
茜の考えに茜のなかに棲まう物の怪が否定の声を上げる。
『貴女の考えは戯言だ。人の子は貴女をきっと悲しませる。貴女の言うことは痴れ言だ』
茜のなかに棲まう物の怪はそう茜に言い募る。しかし、その物の怪の声音は言い募りながらも掠れ、覇気を無くしていった。そのことに気付いた茜は、今までつかみ所がないと思っていた物の怪の、もう一人の自分の正体を悟ることが出来た。
私のなかに棲まう物の怪の正体は、人に拒絶されるかもしれないと私が抱いた恐怖が作り出したもう一人の私だった。
拒絶されてしまうなら、自分から人を拒絶して、物の怪の私を否定してしまえばいいんだと考えたのは何時のことだっただろう? 何度も考えたことで、初めてが何時だったか見当が付かない。なんて短絡的な考えだったんだろう。私は自分のことを信ずることが出来ず、周りの人も信ずることが出来なかった。私の大切な人のことさえも……
少しの勇気も持つことが出来なかった私のなかで、もう一人の私はどんどん大きくなっていった。そして、時間の経過と共にその姿を醜い物の怪に変えていったのだ。
嫌われたくない。その私の一心で作り出した物の怪。でも、そんな彼女も私の一部。私は本当の意味で彼女を受け入れなくてはいけない。私が物の怪であることは紛れもないことなのだから。
物の怪の私を周りの受け入れて貰うなら、まず初めに私が彼女を受け入れよう。時間は掛かってしまったけれど、それが私が抱えていた問題に対する答えだと信じて。
茜は声を抑えて、縋り付く茜を振り解こうとする幼馴染みに小さく告げる。
「もう、大丈夫だから」
茜は自分から幼馴染みの許から離れると、自らの意思で鬼と対峙する。その姿を見せ付けられる形になった幼馴染みはいよいよ声を抑えられなくなって茜の小さな背中に向かって叫んだ。
「馬鹿っ! 逃げろって言ってるだろっ!!」
幼馴染みの叫びに茜は答えなかった。その代わりに咀嚼を終えたのか、それまで黒い背中を見せていた鬼が茜達の方を振り返り向く。鬼の顔は血で真っ黒に汚れていた。
ああ、もうこの鬼は堕ちてしまっている。茜は鬼の眼に不安も戸惑いもない、ただ狂気の色しかないことを悟り落胆した。もし、鬼に少しでも本能に基づいたものが残っていたのなら、茜はまた物の怪の気配だけで鬼を退かせることも出来ると考えていたからだ。
鬼の狂気の色に染まった眼に、茜がもう殺めるしかないと決意する。茜が受け入れたことで今や一心一体となったもう一人の自分の名前を呼んだ。
『あかね、あかね、もう一人の茜』
茜の呼び声に応えるように茜の血が踊る。茜は体がまるで燃えているように熱くなるのを感じた。体の芯を突き抜けるような快楽が茜を包み込む。
あと一度、名前を呼べば茜は本来の姿に戻ることが出来る。その間際だった。茜が一番会いたかった人が現れたのは。
姿こそまだ人のままの茜だったけれども、茜の五感はすでに物の怪のものとなっていた。
目の前に広がる世界からは白と黒、そして赤を除いた色が抜け落ちる。時の流れが茜にひれ伏すように、その流れを緩慢にし始めた。そして、今までよりもずっと耳聡くなった茜は突然の乱入者の登場を誰よりも速く悟り、悲鳴を上げるように制止を叫んだ。
「だめっ!!」
しかし、時すでに遅く……
その場に茜の制止の声に少し遅れて、鬼の叫び声がその場を震わせる。突然現れた乱入者が鬼の背中に太刀を突き立てたからだ。背中を刺された鬼は怒りに身に任せて、続けざまに切り付けようとした乱入者を腕の一振りで薙ぎ払う。
剛力な鬼の腕に払われた乱入者は、まるで跳ねるように地面に転がる。
物の怪の五感になった茜は突然の乱入者が地を跳ねる度に骨が砕ける音を聞いた。鬼に薙ぎ払われる瞬間に咄嗟に庇うように出した乱入者の右腕が紅い血に汚れ千切れ飛ぶ様を確かに見た。
鬼に薙ぎ払われ地に伏せた乱入者の祭祀服は塵で汚れ、血の色で瞬く間に染まる。苦しげな息遣いを茜の物の怪の耳は容易く拾った。
このままでは死んでしまう。助けなければっと茜は突然の乱入者、宮司の名前を叫ぶように呼び駆け寄ろうとした。しかし、鬼はまるで茜の進路を塞ぐように歩みを進める。宮司の頭を噛み砕かんと凶悪な牙を備えた口を開いた。鬼の口からだらりっとまるで唾液のように血が流れる。
『このままじゃ私の大切な人が殺されてしまう。そんなことは絶対に許さないっ!!』
茜の目の前が怒りに白く染まる。それまで緩慢ながらも流れ続けていた時がその流れを完全に止めたようになった。茜の手と足は地を蹴り付け、その物の怪の牙を鬼に向けた。
初めて書きましたっ!
日本語って難しいですね……