3つの帝国
「もう一度、地図を見てごらん」
神官様に促され、僕達はもう一度、テーブルに広げられたままの地図に目をやる。
「この赤い色で塗りつぶされた国――これが我々の国、バロン帝国だ」
地図の中で一番大きな大陸――その右半分をほぼ塗り潰す巨大な赤い部分を、神官様は指で円を描いて示す。
「帝都ハーメリアはここだ」
神官様は地図の赤い部分でも、一番右端、海に面している海岸付近に描かれた二重丸を指差した。
「そして、アルニ村は、ここ」
次に神官様は、地図の赤い部分でも、特に左側――隣の青い部分とほとんどスレスレのところを指差す。
「――この青いところは?」
僕はアルニ村とほぼ隣り合わせになっているといっていい、隣の国――大陸の左半分を塗り潰した国について訊いた。
「ここは、サマルカンド帝国。国境に面しているせいで、数年前まではバロン帝国とサマルカンド帝国は争いが絶えなかったのだが、数年前にそれがぴたりと止んだが、まだまだ両国とも武装解除には至っていない……」
「じゃあ先生、ここの黄色いのは?」
次に僕は、地図に左端――バロン、サマルカンド両帝国がある大陸とは、海を隔てている、もうひとつの大陸。縦長のその大陸をほとんど黄色く染め上げている部分を指差した。
「あぁ、そこはゼナン帝国。バロン、サマルカンドと並んで、世界の三大帝国のひとつだよ。二国と違って海から離れているために、独自の成長を遂げているらしい、謎の多い国だけど、このゼナン帝国の動きを牽制するがあまり、バロンとサマルカンドは国力の消耗を避けての小競り合いを起こさなくなったという側面もあるな」
「……」
途中から、僕は神官様の言っていることが難しすぎて、よく分からなくなってきた。
「はは、簡単に言えばね、今世界は、「無垢なる創生」以降200年で力をつけてきた、この3つの大きな力を持った国同士が争っているってことだ。まだ200年しか経っていないから、誰も世界を掌握したことはないのだけれど、三国とも多かれ少なかれ、その野心を持っている」
「……」
「カイト、精霊術というのは、使い方次第では、人間を炎に飲み込むことも、雷を落とすことも可能だ。戦争においてそれは強力な武器になる。帝国はそんな攻撃精霊術を使える人間を、騎士団に投与して、武力の向上を図っている。この意味が分かるかい? カイト」
「――精霊術を覚えたら、僕は帝都に連れて行かれて、最悪戦争に駆り出される……」
「そういうことだ」
神官様は、もう一度僕達のことを一瞥して、にっこり微笑んだ。
「私としては、君達に精霊術なんて持ってほしくないんだ。精霊様と契約するというのは、今の帝国と深く関わり合いになるということだからね。君達が清い心を持って、精霊術を手にすることがあっても、帝国の中にいたのでは、君達の心もやがて汚れていく。私は自分の教え子に、そんなことにはなってほしくない。だとすれば、帝都から遠く離れたこのアルニ村で、清い心を持ったまま、土地を耕し、精霊様に祈りを捧げ、生きていくのもまたいいんじゃないかな、と思う。精霊術なんかなくても、土地を肥やしたり、生活をすることは十分できるんだからね」
神官様の家に帰る時も、僕はソフィアの手を引いて、家路に向かっていた。もう時間は午後。
「なあ、ソフィ。お前は精霊術を使いたいと思うか?」
「まだ考えてたんだ。カイト、随分神官様に食い下がってたもんね」
「だって、そんな不思議な力が使えるなんて、かっこいいじゃないか。そんな力を使ってみたいとは思わないのか?」
「うーん……確かにちょっと憧れるけど――でも、ちょっと怖い、かな」
「怖い?」
「うん、だって、精霊様って『無に帰す創生』を起こしたんだよ。人なんて簡単に殺せる力があるんだよ。神官様も、契約にふさわしくない人間は、時に焼き殺すこともあるって……そんな精霊様と契約するなんて、そんな大きな力、私に扱えるのか、って。もしかしたらいつか、私も精霊様に殺されちゃうんじゃないかって思うと、今のままでいいのかな、とも思うんだ」
「……」
確かに。精霊なんて、僕達にとっては神官様の話を訊いた今でも得体の知れない奴だ。そんな奴の声が聞こえると、神官様は言っていたけれど、そんな得体の知れない奴の力なんて、体に宿したら、一体どうなってしまうのだろう。
「ねえ、カイト」
ソフィアが僕の手をきゅっと握った。
「カイトが精霊術を使えるようになったら、カイトはいつか帝都に連れて行かれちゃうんだよ? そして戦争に出ちゃうんだよ」
「……」
「私、そんなのいやだよ。カイトがこの村から出てっちゃうなんて――人殺しをするなんて」
ソフィアの目には、涙が溢れ出していた。
「……」
幼馴染の女の子の涙――こういう時、何て言ってやればいいのか、幼い僕にはまだ分からなかった。
だけど……
突然村中に、カンカンカン、という、金属を叩くけたたましい音が響き渡った。
「これは――物見塔の?」
僕は空を見上げる。村はずれにある物見塔からの、危険が来るかもしれない、という合図だ。
こちらの方へ、大人達が走ってくる。
「おお、カイト、ソフィア! 急いで避難するんだ!」
パン屋のおじさんが僕達の姿を見て、足を止めた。
「おじさん、何があったの?」
「盗賊だ! この村を狙って、盗賊がやってきたんだ! 奴等、武器を持っている」
「え……」
僕がその報を聞いた時。
空が緋色に染まり、村のはずれに火の手が上がるのが見えた。黒煙が立ち上り、こちらにまで焦げ臭い臭いが届き始める。
「話は後だ! とにかく村の外の山へ逃げるぞ! カイト! お前はソフィアが発作が起こらないように、しっかり見ていろ」
そう言われると、パン屋のおじさんは、僕の腕を取り、僕の小さな体を引きずるように走り始めた。ソフィアも僕の手を握っていたので、僕と一緒に走り出した。
「カイト、私、怖い……」
走り出しながら、ソフィアは泣いていた。
「……」
そんなこと言われても――僕にはどうすることも出来ない。
ドォン、という大きな音がする。
「母さん! 母さんは?」
おじさんに手を引かれながら、僕は母さんを探すために、首を左右に向けていた。
「探している時間はない! 今は祈るんだ!」
おじさんは僕の甘さを叱るように叫んだ。
「……!」
だが、その時僕はソフィアとおじさんの腕を同時に振り払い、鞄に括り付けられていた、訓練用の木剣を抜いて、もと来た道を引き返し走っていた。
「カイト!」
「僕、家を見てくる! 母さんがいるかもしれない!」
「バカ! 今行ったら盗賊に殺されるぞ! 子供のお前一人で何が出来る!」
「カイト!」
背中越しに、ソフィアの泣き叫ぶような声がした。