08 “予兆”
水平線から太陽が昇る様子を横目に見ながら、クロスは座席に乗り込む。その左手に“証”を持ち、右手が案内機能を起動する。
「観測座標照合中……照合完了……よし、合ってるな。師匠、準備できました」
「おう」
“証”に表示された地図には道路の線が引かれている。その中で、海岸線沿いに右上から左下に伸びている一本が黄色で表示されており、その線上に現在位置を示す赤い十字が点滅している。
「今日も天気良さそうですね」
「そうだな。ムロランの岬に船が来てたら、ちょっと寄って土産でも買ってくか」
「土産、ですか」
起動を始めた車の中で姿勢を整えながら、クロスはセキに聞き返した。
「ああ、エンヤにな。馬鹿弟子が雪狼の毛皮を持っていくってんなら、俺様も差し入れのひとつくらい用意しとかねえと。どうせ、積荷が少しばかり減っちまったことだし」
そう言って、セキは野宿の跡を振り返る。
飲食店の駐車場だったと思われるその場所の片隅に、粉々に割れた陶磁器の山が出来上がっている。衝撃対策としての緩衝材は用意されていたものの、熊から逃げる際の無茶な制動に耐えられたものは、半分にも満たなかった。
「多少割れてるくらいなら、歴史資料的価値とかで何とかなるんだがなァ」
「臨時収入とか欲出さなくても、運転試験任務の報酬があるでしょうに」
「趣味で時計集めてる、お前が言うかよ」
セキは溜息をついて、正面に向き直る。
「まァいいさ、行くぜ」
◇
出発してからおよそ一時間後。車は“陸竜”に破壊し尽くされた市街地を抜け、本道から外れて港湾部へと走っていく。セキは東の方角に遠く見える白い吊り橋を眺めながら車を進め、一隻の小型船が停泊している桟橋の手前で車を止めた。
車を降りたセキは桟橋を歩き、船の方に向かっていく。クロスはそれを見送りながら身体を起こし、周囲を見回した。潮の香りが漂う港に人の気配は無かったが、定期的に整備されている様子が窺えた。
「おはようさん。調子はどうよ」
セキが船に向かって声をかけると、船上に人影が現れた。薄い防寒着に身を包んだ青年は、網を纏めていた手を止めて答える。
「お、やっぱセキさんじゃないスか。運転試験、大丈夫だったみたいスね」
「熊の変異種に遭っちまって、ちょっと大丈夫とは言い難いがな。これからエンヤの宿に寄って帰るつもりだ」
セキの言葉を聞いて、青年は納得したように頷き、左手で額の汗を拭いた。
「いつもお疲れ様ス。そういうことなら、鮭持っていきますかい。姐さんも喜びますぜ」
「なら、二本。ちゃんと金は払うぜ」
青年は網から手を離して生け簀の方に向かい、玉網を拾い上げた。生け簀の中には、明け方の漁の成果たちが泳いでいる。
「今年は船も天気も調子がいいんで、中央の方にもいくらか流せそうスよ」
「そいつは良かったな」
「こうして漁ができるのも、セキさんと姐さんのおかげス。だからお代は結構ス……って言っても無理矢理払うんスよね」
「よく分かってんじゃねえか」
セキは歩み板を渡り、船に飛び乗ってから、懐に手を入れる。
「俺様が居ない間、ハコダテの方で変わったことは無かったか」
玉網を構えながら、青年は少しの間思案した後、口を開く。
「十日くらい前に、中央から魔獣狩りの一団が。二日ばかり馬鹿騒ぎしてから、街を出てったス」
「ふむ……装備はどうだったよ」
「四輪の車と大型の“砲”は見たスけど、どっちも使い込んだ感じじゃなかったスよ」
「一級装備ねえ。定住してくれるってんなら、ありがたいところだが……」
青年は生簀から掬い上げた小振りの鮭を締め、雪が詰められた箱に収めていく。
「そんな感じじゃなかったスね。連中、“陸竜”を見つけたら、どれだけ近づけるか度胸試しをしてやるぜ、とか馬鹿なことを言ってたス」
「一山当てようって輩か。自滅するだけなら兎も角、面倒事に巻き込まれるのは御免だぜ」
「そスね」
セキは財布から紙幣を二枚取り出し、青年に手渡した。青年は紙幣を操舵席に置かれた小箱に仕舞うと、魚を入れた箱を持ち上げた。
「はい、まいどス。車まで運ぶス」
側車に腰掛けて水を飲んでいたクロスは、二人が桟橋を歩いてくるのを見て立ち上がり、荷物箱の蓋を開ける。
「おはよう、レンさん」
「うん、クロスも元気そうで何よりスよ。正月はあっちでのんびりスか」
抱えていた箱を荷物箱に入れた青年──レンは、親指で南の方角を指し示す。
「そうですね。どうせなら半月くらい休み、てッ」
「そんな暇ねえよな。昇級試験あるんだからよ」
セキの左拳を投下されたクロスは、頭を押さえてその場に座り込んだ。
◇
港を出て元の道に戻った二人は、海岸線沿いに北西へと進路を向けた。ひび割れた幹線道路は、港を南北に横切る大きな吊り橋の下をくぐり抜けた後、山を避けるように蛇行しながら続いている。
太陽が天頂に差し掛かった頃になって、車は海から離れ、峠越えの道に入っていく。
葉を落とした木々の合間に積雪が見える山々の間を通っていくと、二人の前方に大きな湖が現れた。湖の左奥、北西の方角には、雪に覆われた一際高い山が見えた。
峠を過ぎ、坂を下っていくにつれて、湖の南岸にはかつての街並みが見え隠れし始めたが、長い間に渡って人の手の入っていないそれらは、本来の色と形を失いつつあった。
「また土砂崩れ起きてますね、これ」
車を止め、双眼鏡で目的地を確かめるセキに対して、クロスは右手の山を眺めながら声をかけた。
「ま、湖までは届いてねえし、エンヤの所は大丈夫だろ。しばらく噴火はしない、ってあいつも言ってたしな」
下ろした双眼鏡をクロスに渡しながら、セキは言葉を続ける。
「途中で昼飯にしようかと思ってたが、ここまで来たら宿まで行っちまうか」
「そうですね」
山道を下り、林の中を通る道を西へと進むと、湖畔に建つ小さな洋館が前方に見えてきた。
◇
赤茶色の煉瓦と漆喰の壁を持つ平屋の建物の前に車が止まると、正面玄関の扉が開き、小柄な中年の女性が姿を現した。
女性は黒い和装に身を包み、底の厚い草履の具合を見ながら、車から降りた二人をしかめっ面で手招きする。
「ほれ、寒いんだからさっさと入んなよ」
「へいへい、ちょっと待ちなって」
荷物箱から土産の品々を取り出したクロスとセキは、急ぎ足で建物へと向かう。
二人が建物に入ると、女性は扉を閉めて、玄関広間を抜けて応接室へと入っていく。
「元気そうじゃねえか、エンヤ。変わりはねえか」
「ああ。時期外れの客に困ってる以外はね。どうしたもんか」
エンヤと呼ばれた女性は、暖炉の前に置かれた座椅子に座ると、荷物を置いて後をついてきた二人に向かって笑顔を見せた。
「まァいいや。樫宮邸にようこそ。“陸竜”に潰されてなくて何よりだよ」
指し示された椅子に座りながら、セキが首を傾げた。クロスは暖炉の様子を窺い、脇に積まれた薪を放り込んでいる。
「そんなへまはしねえよ。ってか、わざわざ言うってことは何かあったか」
「三日前。“陸竜”がエゾフジを越えて西に進んでいくのが見えたんよ」
セキは頷く。暖炉からは、新しい薪の弾ける音が鳴り始めた。
「荷物からして、アンタたちは探索の帰りだろ。どっかで鉢合せしたかもってね……ああ、悪いね。適当でいいよ」
暖炉の上に置かれた鉄瓶を手に取ったクロスに、エンヤは礼の言葉をかける。クロスは会釈すると、厨房へと向かった。
「本体は遭遇しなかったがな、通過跡にはぶつかっちまった。お陰で酷い目に遭ったぜ」
「そりゃ御愁傷様だよ」
セキは右手で顎鬚をなぞりながら、独り言を呟いた。
「三日前ってことは、そろそろ折り返して戻ってくる頃か」
「放っておけば右に曲がるから、多分エゾフジの向こう側を通るんじゃないかね」
「油断は禁物だぜ。奴がここに向かうようだったら、さっさと退避しろ」
セキに睨まれたエンヤは首を振った。その視線は館の奥、厨房の方を向いている。
「カシミヤ・エンヤはここにしか居場所が無いのさ。十年前はあの子の父親に助けられたけど、次は大人しく諦めるとするよ」
「生きてりゃなんとかなるんだ。諦めさせねえぞ。お前も、馬鹿弟子もな」
エンヤはセキの言葉に答えない。厨房から戻ってきたクロスを見て、彼女は立ち上がった。
「部屋も風呂も好きにしなよ。飯だけは美味いの用意してやるからさ」