06 “逃走”
時計台を出発してから数時間。クロスとセキを乗せた車は山地を避け、舗装道路の跡を辿って南東方向へと移動していた。
前日まで雪を降らせていた雲は消え、季節外れの青空が広がっている。風は強く、時折吹く突風が降り積もった雪を舞い散らせている。
橋が崩れてしまった川の浅瀬を渡ったところで、二人は車を点検した後に小休止をとっていた。
「道は合ってるよな」
「ええ。目印がちゃんと残ってます。正面の山の間を抜ければ、海に出るまでほぼ平地ですよね」
水筒の水を飲んだ後、クロスは近くに見える低い山並みを指差して答える。
「よし、今日中に距離を稼ぐぜ」
◇
峠に向かう緩やかな登り道の途中で、セキは道の先に大きな障害物があることに気付いて車の速度を落とした。
複数の倒木によって道が完全に塞がれている様子が見えてきたところで、彼は車を右に向けて停止させる。
「こりゃ酷い有様だな……」
車から降りた二人は、倒木の上に登って状況を確認する。道の左方向から右方向へと倒れた木々が、元は片側二車線だった道路に並んでいる。クロスが足元に気をつけながら左右を見渡すと、倒木は道を横切るように、まっすぐ東西に続いていた。
「これ、“陸竜”が通った跡ですね」
倒木は所々で上から押し潰されたように砕けていて、降り積もった雪がその部分だけ窪んでいる。
「正解だ。探索してた何日かの間に、ここを通り過ぎたってわけだ」
「真新しい跡って初めて見ましたけど、“銃”で吹き飛ばすのはちょっと厳しそうですね」
道路の幅を超える距離を埋め尽くす木々を見て、セキは腕を組んで思案する。
「迂回するにしても、アレは可能な限り直進するからなあ。少し戻って、川沿いの木のない場所を進むしかねえか」
クロスはその答えを聞いて車に戻り、座席に置いてあった地図を広げた。
「西側に降りて上流に向かえば、そう遠回りにはならないかな」
「現在位置だけは見失わないようにしねえ、と──」
倒木から降りてきたセキが、言葉を止めて左側の林に目を向ける。奥から聞こえてきた茂みを揺らす音を聞いて、クロスも顔を上げる。
「狐か鹿ですかね」
「それにしては、こっちを警戒する様子がねえし……大きさが違う」
音は少しずつ二人に近付いてきて、それと共に木々の間に褐色の毛並みが見え隠れし始める。
「寝てるところを“陸竜”に叩き起こされたとか」
「ああ、多分正解だ。腹減らせて気が立ってるな。今の装備じゃ倒すのは難しい。逃げるぞ」
剣に手を伸ばしたクロスを止め、セキは車を始動させる。駆動機関が静かに輝きを増していく間に、林の中から襲撃者が姿を現した。
四足の状態でクロスが見上げるほどの巨大な樋熊は、車に乗り込んだ二人を見つけて唸り声を上げる。
「よりによって変異種かよ。“銃”を用意しとけ」
「了解です──“装填”」
広げたままの地図を座席に押し込んで銃を抜き、術式を起動させる。車が動き始め、それに気付いた熊も、逃げ道を塞ぐように移動し始める。
「まだ撃つなよ。最初は俺が防ぐ」
熊は道を戻ろうと加速する車の右側を並走し、少しずつ近づいてくる。セキは車を加速させながら左手を把手から離し、拳を握りながら発動命令を唱えた。
「“顕現せよ”」
黒い籠手が青く輝いた後、高速で魔法陣が展開されていく。左手を右脇の下から突き出すように構え、熊が車を止めようと身構えた瞬間に再び口を開く。
「“戦場の盾”」
左手の先、車の右側に円盤状の輝きが現れ、鋭い爪による薙ぎ払いを食い止める。予想外の衝撃に熊は体勢を崩し、両者の距離がわずかに開いた。体を捻って後方を狙っていたクロスが、障壁が消えた瞬間に“銃”を放つ。圧縮された空気の弾丸が熊の首元で弾け、仰け反らせた。
「やっ……てないすね」
体勢を立て直して再び追いかけてきた熊に対して、クロスは再装填を待ちながら狙いをつける。
「当てることは考えるな。手前の地面を狙え」
「はい」
二発目の弾丸は積もっていた雪を舞い上げ、視界を奪う雪煙を発生させた。
◇
驚異的な速度で距離を詰めてくる熊を“銃”で牽制し、“籠手”で防ぎながら、河原を走り、浅瀬を渡って逃げること十数分。
「……ようやく諦めてくれましたかね」
「勘弁してほしいぜ、まったく。きっちり準備する時間がありゃ、いい獲物だったのになァ」
元は市街地だった廃墟を走りながら、二人はそれぞれの“術式具”を停止させた。
「ああ、食器割れてっかな。こいつも街に戻ったら分解整備だな」
「師匠、地図がずぶ濡れです」
座席の下から皺だらけの地図を取り出したクロスは、セキが車を止めるのを待って、慎重に紙を広げた。
「不測の事態とはいえ、痛いなこりゃ」
「方位磁石も挟んであったはずなんですけど、逃げてる最中に落ちてしまったみたいで……」
「まあ、仕方ねえ。晴れてるうちに海岸まで南下できれば何とかなるさ。途中で空港跡が見つかれば、本道に戻れるだろうしな」
セキはそう言って懐中時計を取り出し、自分の影と時計の長針の向きから方角を判断し始めた。
地図を広げるのを諦めて座席に戻したとき、クロスは着信音と共に震える“証”に気付いて、胸元から取り出して応答した。
「こちらクロス・リュート」
『熊に襲われてたって聞いたけど、大丈夫かい』
どこか慌てたような声を聞きながら、彼は改めて自身の具合を確かめる。
「怪我はないが、地図が使い物にならなくなった」
『ああ、やっぱり。そんな感じに見えたから』
通話を行っているクロスを残して、セキは駆動機関に破損が無いか点検を始めている。
「身体じゃなくて、地図の方の心配だったのか」
『見た感じ普通にしてたしね。で、地図なんだけど、なんとかなるかも』
「なんとか、って、復元できるのか」
『朝、カメラで撮ってたでしょう。ピンチアウト……えーと、指を広げる動作で拡大表示できるから、それで行けるんじゃないかい』
「ああ、なるほど……。その手があるか」
『あと、黒須君の現在位置は教えられるから、迷ったら呼び出して……って、明日は終業式か、うーん。位置情報をパラメータにして地図検索に投げれば。そうそう、磁気コンパスで方角測って……あれ、千年後って磁極どうなってるのかな。そこまでシミュレートしてないかな』
「また意味不明だけど、熊に追いかけられない限りはそう迷わないさ」
一人で呟き始めた相手を止め、クロスは言葉を続ける。
「方角はわかるし、地図さえ見られれば問題ない」
『ああ、うん。でもちょっと思いついたから、今夜にでも』
「わかった」
クロスは通話を終えた“証”を目の前に構えて、地図の画像を呼び出した。
画像の拡大、縮小、移動などを一通り試してから、セキの様子を窺う。
「“証”で地図の確認できました。そっちはどうですか」
「そいつは良かった。こっちは陸番管と拾番管がほぼ死んでるな。元々調子悪かったところに無理させちまったからな」
待機状態の魔法陣を確認し、不調を訴える部分を停止させたセキは、保護蓋を閉めて立ち上がる。
彼はその勢いで腰に手を当てて上体を反らし、空を見上げた。
「ま、普通に走る分には行けるだろうよ」