02 “契約”
紀元三六六五年、冬。その土地は色を失ったように見えた。
空を見上げれば一面の灰色。曇天からまばらに降る白い雪は、舗装道路や高層建築の成れの果ての上に、等しく降り積もっていく。
革の防具と防寒具に身を包み、右手に片刃の直刀を持った少年は、背後の暗闇に視線を向ける。今しがた彼が探索を終えた地下街の出口は、瓦礫で半分埋まっていて、足元に気をつけながらでなければ出入りは難しい。少し上げた視線の先には、黒く錆びつき、傾いた電波塔が見えた。
「退却は困難。となると、仕方ない。撃退するしかないな」
少年はそう呟くと、右手の剣を握り直し、懐に入れていた左手を正面に向けた。その手に持つ拳銃が狙うのは、隙を窺う灰白色の獣、雪狼の群れ。
「“装填”」
動作と音声による発動命令が与えられ、銃の周囲に幾何学模様の輝きが展開を始める。それは、灰色の世界を染める先触れの赤。
少年の名はクロス・リュート。北方の無人地帯を旅する探索者である。
◇
雪狼はクロスの動きに反応して、彼を取り囲むように散開する。
「左右に三体ずつ、正面に二体。まずは分断するか」
命令を与えてから十秒後、魔法陣の展開を終えた銃が淡い光に包まれる。クロスが引き金を引くと、銃口から不可視の弾丸が放たれ、正面の雪狼に命中した。その瞬間、弾丸として圧縮されていた空気が解放され、雪狼の体を後方に吹き飛ばし、降り積もった雪が舞い上がる。
空気が弾ける音に雪狼たちが気を取られた瞬間を狙い、クロスは右から後方に回り込もうとしていた一体に向かって走り込む。突撃の勢いを乗せて斜めに斬り上げられた片手剣は、標的の前半身に深く食い込んだ。さらに体重をかけて剣を引き抜きながら、クロスは振り返って状況を把握する。
正面にいた残りの一体は、炸裂弾の衝撃を受けて朦朧としている。左側の三体は、クロスの動きにまだ気付いていない。
「──ッ」
そして残る二体は、彼の接近に気付いて攻撃態勢に移っていた。右から飛びかかってきた一体を片手剣で受け流し、左から足元を狙う攻撃を真横に飛んで回避する。
体勢を崩した雪狼に対して剣を振り下ろして一撃を加え、追撃を避けるために後退して建造物を背にし、再び左手の銃を構えた。初弾を放った後に光を失っていた銃は、再び十秒をかけて魔法陣を展開していく。
「再装填完了。さて、まだ続けるなら容赦しないぞ」
リーダーを含めた半数を行動不能にされた雪狼の群れは、しばらくクロスと睨み合っていたが、それ以上戦闘を続けることはせず、朦朧としていた一体が意識を取り戻して遠吠えを上げると、一斉に踵を返して去って行った。
「……“解放”」
展開されていた魔法陣が完全に消えたのを見届けてから、クロスは大きく息を吐いて周囲を見渡す。雪狼の死体は二つ。炸裂弾に吹き飛ばされた一体と、彼の突撃によって致命傷を負っていた一体である。
「毛皮を持って帰れば、エンヤの姐さんも喜ぶかな」
剣に付いた血を雪で軽く洗い流すと、クロスは戦闘前に物陰に隠しておいた革袋を拾い上げ、中から解体用の短刀を取り出した。
◇
雪狼から毛皮を剥いだ後、クロスは廃墟の別区画、半壊した木造建築内に設営していた拠点に戻った。崩れた外壁の隙間を抜け、広間へと入っていく。その途中、クロスが足を止めて視線を上げると、正面玄関の上に残された骨組みだけの塔の隙間から、前文明の機械が見えた。
「階段が壊れてなかったら、あれも調べられるのにな」
以前の調査で見つけた文字盤と部品から、何のための機械だったのかは彼にも理解できている。クロスは首を振ると、わずかに残された屋根の恩恵を受けている一角に歩を進める。そこでは、先客が携帯用の小型焜炉の側で暖を取っていた。
「遅かったな、馬鹿弟子よ」
「雪狼に襲われて、追い払ってました。師匠は早かったですね」
「あァ。思った通り、ここから北はもう雪が深くて駄目だな。雪上車輪の試験もここで終わりってこった」
前日の探索によって集められた発掘品が入っている麻袋の横に、今日の戦果である毛皮と革袋が置かれる。クロスが瓦礫の上に腰を下ろすと、師匠と呼ばれた男──セキは問いかけに答えた。
「どうやら手土産もこれ以上運べない量になっちまったようだしな。明日には出発しようと思うんだが、問題無いか」
麻袋には前文明の調度品や装飾品。革袋には図書館で発掘した古文書が数十点と、地下街の探索中に見つけた機械式時計が数点。
「確かに、これだけあれば十分ですかね」
「よし、だったら暗くなる前に積み込んじまうか」
そう言って、セキは立ち上がった。それにならってクロスが立ち上がろうとした瞬間、硝子を引っ掻いたような甲高い音が周囲に響き始めた。
クロスは耳を押さえて僅かに呻きを漏らす。
「う……」
「なんだ、こりゃ」
顔をしかめながらも平然と立っている師匠を見て、クロスは音の発生源を探して周囲を見回した。
そして、建物の正面の方から白い光が差し込んでいることに気付いた。
「これは、“術式”の光か」
クロスが注目した方向を見て、セキが口を開いた。左腕に装着している無骨な黒い籠手の具合を確認しながら、言葉を続ける。
「ちょいと見てくるが、お前はどうする。動けるか」
「はい、俺も行きます」
クロスは耳から手を離して立ち上がると、剣を抜き、セキの後について瓦礫の隙間を進んでいく。
近付くにつれて、白い光は強くなっていく。
二人が建物の外を伺うと、降り積もった雪の上で、複雑な魔法陣が展開を続けていた。
「……多重構成術式、てことは何か出てくるかもな」
魔法陣が展開を終えると同時に、クロスの耳に無機質な声が響く。
「『結合、展開完了、構成開始』……師匠は聞こえましたか」
「いいや。何でかわからんが、お前にだけ聞こえるみてえだな。使い手は見当たらんし、しばらく様子を見るしかないか」
内容を伝えられたセキは、前を見たまま答える。収縮し始めた魔法陣の中心に、小さな物体が回転しながら出現する。
薄く平らな長方形の物体は赤く、一方の面には黒く滑らかな板が埋め込まれている。
「『構成完了』……あれは何でしょうか」
「前文明の機械のようだが、遠くてよく分からんな」
魔法陣の光は完全に消え、後にはゆっくりと回転する物体だけが残された。雪はいつの間にか止んでおり、周囲に他に動くものの気配はない。
セキは右手で頭を掻いて思案する。
「さて、近付くべきか、それとも何か投げてみるか」
「待って下さい、師匠、また声が。『オブザーバ・ナンバー八十七“ミラ”より観測代行者の要請があります』」
セキは眼を見開き、首を巡らせてクロスを見た。クロスは頷いて言葉を続ける。
「『承認する場合、対話用インタフェースに接触してください』……ここまでみたいですね」
しばらく沈黙した後、セキは右手で回転する物体を指差した。
「……は。聞き間違いじゃなけりゃ、ありゃ“代行者の証”ってことか」
「都で祀られてたのは、もっと大きな箱でしたよね」
「ああ。大昔に“術式”をこの世界に与えた機械。カミオカの“本体”以外は、どれも動かなくなってから何百年も経ってるって話だったが……おい、行くのか」
剣を鞘に収めて歩き出したクロスを追って、セキも建物の外に出る。
「本物ならこれ以上ないお宝でしょう。“神託”とかいう眉唾ものの言い伝えも、実態を明らかにできるかもしれませんよ」
「そりゃそうだが、何かの罠ってことは……ねえか。この時期にここまで来るような奴は、北方には居ねえな」
雪を踏みしめながら、クロスは歩いていく。
装置の目の前までやってきた彼は、一瞬躊躇った後、右手を伸ばした。その手が装置を掴んだ瞬間、片面の黒い板に文章が現れる。
「“観測代行者の登録が完了しました”、か」
「何が起こるか分からんから、迂闊にあちこち触るなよ。詳しく調べるのは街に戻ってからにするぞ」
辺りを警戒しながら、セキはクロスに声をかける。
クロスはその言葉に従って、黒い板の下にあるボタンに触れないようにしながら、装置を裏返した。その裏側には、片隅に小さな四角い穴が三つ開いているだけだった。
「釦がひとつだけって、どう使うんですかね」
「“神託”を受け取るだけなら、まあ十分だとは思うが……って、文字が横向きになってんじゃねえか」
「本体の向きによって変わるみたいですよ、ほら」
再び表側の観察に戻った二人は、装置を傾けると表示が切り替わることに気付いた。
「ほう。どうなってるんだろうなこいつ」
セキが装置の黒い面を叩くと、文章が消え、そこからいくつかの幻像が浮かび上がる。クロスがその内のひとつに触れようとすると、“呼出中”の文字が点滅し始めた。
「……やっちゃいましたか」
「迂闊に触るなっつったよな」
「どっちかって言うと触ったのは師匠ですよね……」