第9話
「なあ、もう限界?」
呟いた彼の顔を、気が付けばただじっと見つめていた。
絡まった指を、縋るようにきつく握り締めれば、彼はひどく苦しげに笑った。
「考え直していいよ。考え直した方がいい。このままお前が俺に流されて結婚したって、幸せにはなれねぇだろ」
「そんな……」
「そんなことないって言えるか? 自分が流されてる訳じゃないってどうして分かる?」
彼はあたしの目を真っ直ぐに見詰めながら、その実瞳はひどく濁っていた。
ただかろうじて繋がっているような、それでも不思議なほど熱い体温が流れ込んでくる手の平だけが、鮮明にあたしの感覚を支配する。
重苦しい沈黙の中、やはり秒針の進む音が響くその白い空間に気圧されるように、あたしは二、三度口を開き掛けては止め、そして言った。
「怖い………」
――本当に、それが全てだ。
「怖い。自信が無いの。全部初めてで、何も分からなくて、あんたがあたしのこと避けてた理由聞くのだって、メール一本打てばいいだけなのに手が震えて出来なかった。あたしも自信なんてないよ。あんたが選んだのが何であたしなのかも分かんない」
それはまるで、今まで溜め込んでいたもの全部を吐き出すように。
溢れ返った涙はあたしの頬を伝い、真っ白なシーツに沈み込んでいった。
「好きだって言っていいの? 愛してるって言葉にすれば伝わるの? あたしのこと、鬱陶しいって思ったりしない?」
視界は歪み、最早何が何であるのかも分からないような状況だった。
その中でやはり彼の表情は霞み、彼の感情を読み取ることはいつも以上に困難になっていた――はずだった。
唐突に、繋がれていた左手が、ぐいと引っ張られた。
あ、と思った瞬間には、すぐそこに彼の匂いがあった。骨の軋む音が聞こえるほど強く抱きしめられ、彼の肩口に埋めた目には、彼のワイシャツの青いストライプが濃く映っていた。
「早く言え」
耳元で囁いたのは、低く掠れた彼の声。
その声には確かに安堵が滲んでいて、強張っていた身体からふっと力が抜けた。
「言わないと分からない」
「だって、」
「言ってくれないと分からない」
「……ごめん」
「あと、これから男と二人で出掛けるのは禁止」
「……はい」
「どうしてもの場合は俺に連絡」
「………妥協をありがとうございます」
するとクスクスと笑って、彼はあたしを抱き締めていた腕を、少し緩めた。
重なっていた体温が少し離れて、狭間にひゅうっと風が入ってきたけれど、もうそれがあたしを不安にすることもなく。
久し振りに真っ直ぐに見た彼の顔は、分かりにくく晴れ晴れとしていた。
「結婚の話、このまま進めるからな」
「うん」
「嫌だって言っても無理だから」
「言いません」
「とりあえず今日、早く上がって、俺の家で待ってて」
そうして二人して、ふわりと微笑んで。
軽く唇を合わせて、目を合わせて伝えた。
『愛してる』
彼の目も、同じことを言っている気がした。