第8話
本当に久し振りに触れた彼の手は優しく、けれどそれすら今のあたしには辛い。
こちらを覗き込み、呆れたような顔で苦笑いをする彼を、あたしは視界の隅に追いやった。
「何……してるの。仕事は?」
「抜けてきた」
「なんで」
「お前が倒れたって聞いたから」
困ったように紡ぐ言葉。
あたしは壊れた玩具のように、ひたすら首を横に振った。
「どうでもいいでしょ、あたしのことなんか」
「……は?」
「いいじゃない、可愛い彼女が出来て。
あの子見た目は派手だけど中身純情だし、なんでもそつなくこなせるから、奥さんにするにはあたしよりよっぽど正しい選択だと思うわよ」
「あの子って……」
「昨日、麻里と歩いてた」
言って、後悔する。
言ってしまった。
もう戻れない。
あたしなんか要らないと彼が言うのならば、あたしには縋る余地なんかない。
けれど返ってきた彼の声には、別れを切り出すような戸惑いでもなく、確かに怒りが灯っていた。
「雨宮と? どうしてそう思った?」
「だから、昨日一緒に歩いてるのを見たって……」
「一緒に歩いてたら、付き合ってるように見えるって?」
「だって、麻里も最近彼氏と危ないって言ってたし、あんただって、最近全然……」
すると彼は、頭を抱え込むようにして大きな溜め息を吐いた。
ベットの上に腰掛けるあたしは、ただ彼の次の言葉ばかりを待つばかりで、そればかりで時間は流れていく。
身の置き所もなく手元を覗き込んだりしながら、時計の秒針が進む音がやけに耳の奥で響いた。
「なあ」
やがて彼が、ぽつりと紡いだ言葉を、あたしは一言たりとも聞き逃さないようにと耳を傾けた。
「一緒に歩いてたら、付き合ってるように見えるのか?」
つい数分前にされた質問が、もう一度返ってくる。
あたしは条件反射的に首を縦に振り、それを見た彼は苦笑をしながら膝の上にあったあたしの手を握った。
「じゃあ、俺がお前と同じことを思うとは考えないわけ?」
「……え?」
「お前が男と歩いてて、それを見た俺が何も思わないとでも?」
「それって……」
「お前が宮部と歩いてるの、見たんだよ。昨日お前が雨宮と俺が一緒に歩いてるのを見たみたいに」
「でも……」
「俺だって、自信ないんだよ。お前いっつも俺に合わせるばっかで、ああしたいこうしたいって言わねぇだろ。結婚だって俺ばっかで話進めてて、お前がホントに納得してんのかだって手探りでさ」
「俊典……」
「分かってるよ。自分でだって女々しいって思う。だからここ最近顔も見れなかった。全部、俺のせい」
「ちがっ」
「違う? 何が? なあ、もっと待ってやってもいいんだよ、本当は。でもお前、手放したら何処行くか分かんねぇからさ、繋ぎ止める方法もこれしか思いつかないんだよ」
「ねぇ俊典、聞いてよ」
すると、手が、ただ強く握られた。
「なあ、もう限界?」
瞬間、頭が真っ白になった。