第6話
麻里が意味深な発言を残したあの日から、数日は経っていた。
珍しく捕まらなかった彼女に落胆しながら、そろそろあいつも逃げることを学習したかと内心舌打ちをして会社を出ると、目の前にはいつもと同じく居酒屋街の煌びやかなネオンが現れた。
我が社は、大通りを挟んだ向こう側に居酒屋の密集地があるという、サラリーマンにとっては非常に都合のいい立地をしている。見渡す限り、赤だの黄色だの、とりあえず食欲をそそる色がピカピカピカピカ光っているほど。
でもやっぱり、それを見ても最近は食欲がわかない。
誰かと一緒に食べて、無理矢理喉を通すように食べ物を押し込んで、だけど一人になればそれも全部出てきてしまっていた。今まではとびついていた取引先からのお土産にも手は伸びないし、デパ地下のケーキ売り場に行っても吐き気しか催さない。
――重症だなぁ。
思わず、苦笑が漏れる。
今まで恋愛には淡白な方だったのに、いつの間にか彼のペースに乗せられて、いつの間にかこんなところまで連れて来られていた。
こんなところで放り出されたって、あたしは帰り方を知らないのに。
どうしようどうしようどうしよう。
心には不安が渦巻いているのに、それを表に出すことの出来ないあたしはなんて臆病なんだろう。彼に泣き付いて、縋りついてみれば、もしかすると何か変わるかも知れないのに?
そこでふと、視界の端に何かを捉えた。見覚えのある、影二つ。
フェミニン系の可愛らしい洋服に着替えた小柄な美人と、オーダーメイドの仕立てのいいスーツを着た強面の男。
もっと言ってしまえるなら、あたしの視力を信じてしまえるなら、あれはあたしの親友とあたしの婚約者だった。
――なんで?
真っ先に浮かんだのは疑問だった。なんで二人だけで一緒にいるのか。なんで二人ともあたしには何も言わなかったのか。
麻里はそういうことはとことん気を付けていた。その端麗な容姿のお陰で、誤解されることも少なくは無かったから。
――じゃあ何? あれは何?
不安ではなく、もう疑念ばかりが渦巻いた。
なんでもないのかもしれない。ただ、二人で飲みに行くというだけ。それだけなのかもしれない。
だけどあたしの心に小波が立ったのは、彼が柔らかな満面の笑みを浮かべていたからなのだろう。
あんな表情を、あたしにしか見せないのが自慢だった。
「今までの彼女にこんな風に笑った記憶が無い」なんてタラシの口八丁だとか思っていたけど、それでも今はあたしだけって思えて嬉しかった。
――だけどあたし、要らないじゃない。
もう彼氏との先行きの危ない麻里だし、彼も麻里みたいな美人の方がやっぱり好きだろう。今になって、可愛げもないあたしみたいな女と結婚の約束なんかしたの、後悔したのかもしれない。
いっそきっぱり、振ってくれればいいのに。
人の往来の中で呆然と立ち止まっていたことに気付いた時、空からはパラパラと雨粒が落ちてきていて、だから頬を伝う生暖かい何かには、あたしが気付くことはなかった。