第2話
「それ、マリッジブルーじゃないの?」
可愛らしいティーカップを大事そうに抱えながら、我が親友は事もなげに言った。目元にからかいをのせて、口元には皮肉めいた笑みが浮かんでいる。
彼女はあたしのことをおちょくるのが好きだ。彼女が言うには、普段クールな女(として通っている)あたしが慌てるところを見るのが堪らないらしい。自分が苛めていると思うと、ゾクゾクするのだとか。
そんなところに彼女の危ない性癖を感じない訳でもないが、そんな風に遠慮なく接してくれるこの友達があたしは嫌いではなく、だからこそ彼女は数少ない友人たちの中でも断トツで付き合いの深い女子だった。
「でもさ、マリッジブルーって女の方がなるもんじゃないの?」
「それがさー、実はそうでもないらしいんだよね。結構男でもなる人いるみたい」
そう言って、二人三人と実例を挙げていくのが情報通の彼女の怖いところだ。てかちょっと待て、なんで二十年以上前に結婚した上司のマリッジブルーを知ってるんだ、お前は。と、突っ込みそうになるのも懸命に堪えた。この手の質問をした時に、しれっと『だって知ってるんだもん』と解答されて呆けたのは記憶に新しいし、しかも、その呆けたあたしを写メられて女子の間に回されたのは、最早トラウマだった。
と言う訳で、ひとしきり彼女が語るのを待って、あたしは当初から抱いていた疑問をぶつけた。
「でもさ、あの男が、何を不安に思っているっていうの?」
そこで、滑らかに動いていた彼女の口の動きが、案の定唐突に緩まる。
「……それもそうねぇ」
彼女は、感心するように首を何度も縦に振って、いつの間にか空になっていたティーカップを音も立てずに置いた。無駄に綺麗な外見に似合う、その優雅な動作を見ていると、彼にはこんな女性の方が似合うんじゃないかと、打ちひしがれてしまう自分もいる。
彼女はそんなあたしを見かねてか、テーブルの向こう側から肩をポンポンと叩いて笑った。
「まあ、どっちかと言えば、あんたの方がマリッジブルーって言葉は似合いそうだしね。女ってことは抜きに」
その通りだと思った。いつも堂々としていて、自分に自信のある彼は、あたしには眩し過ぎる。いつもおどおどとしてしまわないように虚勢を張るあたしのメッキは簡単に剥がれてしまうのに、元々純金で出来ている彼はなかなか錆ない。ずるい。彼の機嫌一つにこんなに振りまわされるあたしって、どうなの。
「いい加減さぁ、あんたも自信持ちなよ。あんた、実は思ったよりも愛されてるよ、あの『不機嫌王子』に」
そして、彼女はからからと笑った。外見には似合わない、豪快な笑い方。あたしが彼のその愛称を、誰よりも嫌っていることを知っているからだ。彼が『不機嫌』な『王子』などではなく、ただの不器用な一人の人間だってことを否定されているようだから。
「あんなに、優しいのにね」
思わずポツリと呟くと、彼女は皮肉というには柔らかい微笑みを浮かべていた。
「出たなぁ、のろけ。このやろ、やっぱお前にもマリッジブルーは似合わねぇやい」
「麻里、その美人顔に似合わない口調で喋らないで。夢が壊れる」
「元々わたしに夢なんて持ってないでしょうが、あんたは。あんだけ苛められておいて」
「あたしじゃないわよ。あんたを見るたびに眼をハートにしてる男どもの話よ」
「あー、あれか。そーなのよねー。しかも何故か『不機嫌王子』だけはわたしの見てくれに引っ掛からなかったという…」
「彼氏持ちが何を言う。それとも何? 引っ掛かってほしかった訳?」
「いやぁ、あんたと勝負する気にはならないわ、哀れ過ぎて。だってあの男釣れてなかったら、あんたホント年齢=彼氏いない歴更新中だかんね」
「『彼氏持ち』に触れないとこ、あんたんとこそろそろヤバいんでしょ」
「……余計なお世話じゃ」
「……ホントに?」
「………」
「今度、相談乗るから」
「うん」
結局彼の不機嫌の理由は分からないまま、あたしと親友のアフターファイブのティータイムは終わった。