15 王子様と弟くん
「たくま……。我儘を言わないで。……上原君、これは、その……」
先輩は俺から視線を逸らし、ただ立ち尽くしていた。
学校で皆を魅了する『王子様』の面影はない。
目の前の小さな男の子をどう扱えばいいのか分からず、ただ困惑し、傷ついている一人の不器用な少女がそこにいた。
「先輩、大丈夫です。……俺に任せてください」
俺は一歩前に出ると、母さんの後ろに隠れる小さな背中に歩み寄った。
たくま君と同じ目線の高さまで腰を落とし、努めて優しく語りかける。
「たくま君だよね? 俺は千代のお兄ちゃんで、白鷺先輩の――お姉ちゃんのお友達だよ」
俺の言葉に、たくま君がおずおずと顔を覗かせた。
「……お姉ちゃんのお友達?」
「そうだよ。だいちっていうんだ。よろしくね」
「だいちお兄ちゃん……。僕、たくま」
ようやく彼の手から力が抜けた。
俺はそのまま、彼が一番興味を持ちそうな話題を振る。
「たくま君のお姉ちゃん、学校ですごいんだよ。みんなのお手本で、まるでお話に出てくるヒーローみたいなんだ」
「ヒーロー……?」
「そう。俺も、お姉ちゃんに何度も助けてもらったんだ」
たくま君の瞳に、憧れのような色が灯る。
先輩が驚いたように口を開きかけたが、俺はそれを遮るように続けた。
「――でもな。お姉ちゃんもヒーローでずっと戦い続けるのは大変なんだ」
そう言うとたくま君は首を傾げていた。
俺の言ってることがわからない様子だ。
「ヒーローも、お仕事が終わったら疲れちゃうんだ。お姉ちゃんが遅くなっているのは、学校のみんなを守るために一生懸命頑張ってたからなんだ。だから……」
俺はたくま君の小さな手を、そっと握った。
「おうちに帰ったら、今度はたくま君がお姉ちゃんを支えてあげる『ヒーロー』になってあげてくれないかな?」
俺の提案に、たくま君は白鷺先輩を見上げた。
先輩は、今にも泣き出しそうな、それでいて救われたような表情で俺たちを見つめている。
「……お姉ちゃん、つかれてる?」
「……。……ええ、少しだけ、ね」
先輩は震える声で答え、ゆっくりと膝をついて、たくま君と視線を合わせた。
学校で見せる凛とした声ではない、一人の姉としての、脆くて優しい声で。
「ごめんね、たくま。寂しい思いをさせて。……お姉ちゃんと一緒に、帰ってくれる?」
「……うん! お姉ちゃん、わがまま言ってごめんね」
そうやってたくま君を抱き上げる先輩の顔には、いつもの鋭い瞳はなかった。
「……ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません」
白鷺先輩は、たくま君を抱えながら俺と母さんに向かって深く頭を下げた。
その声は小さく震えていた。
肩を落とし、必死に申し訳なさを滲ませる彼女の姿に、母さんは慈しむような、けれどどこか寂しげな眼差しを向けた。
「白鷺さん、顔を上げてください。……謝ることなんてないのよ。仕事や学校で、どうしても手が離せない時があるのはお互い様だもの」
母さんは先輩の隣に近づくと、たくま君の頭を撫でた。
「それに……これからは、私たちを頼ってくれていいのよ?」
「え……?」
先輩が、驚いたように大きな瞳を瞬かせた。
母さんは立ち上がると、今度は俺の方を振り返る。
「大地。あなた、白鷺さんと……その、彼女とはどういう関係なの?」
「え、ああ。生徒会の先輩だよ。先輩が副会長で俺が庶務で」
俺がそう答えると、母さんは「あら」と意外そうに声を上げ、口元に手を当てて何かを考え始めた。
そして、名案を思いついたとばかりにパッと表情を明るくさせる。
「なら、決まりね。これからお迎えの時間が重なる時は、白鷺さんと一緒に来なさい。二人で来た方が千代もたくま君も喜ぶでしょう?」
「えっ、でもそれは……」
「白鷺さん、これからも大地のことよろしくお願いしますね」
母さんの茶目っ気たっぷりの提案に、俺は思わず「おい!」と声を上げた。
だが、先輩は反論する俺をよそに、呆然とした表情で母さんを見つめていた。
「……ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
そう言った彼女の顔には、今まで見たことのないような安心しきった満面の笑みが浮かんでいた。
そのあまりの眩しさに、俺は一瞬だけ、言葉を失ってしまった。
幼稚園を出て、駅へと向かう道すがら。
前を歩くたくまと千代は、いつの間にか仲良く手を繋いで歩いている。
そんな二人の小さな背中を後ろから眺めながら、俺は隣を歩く先輩に声をかけた。
「……さっきは、余計な真似をしてすみませんでした」
「いいえ。……ありがとう。あなたには、また助けられてしまったわね」
ふいに向けられた笑顔に、心臓が跳ねる。
白鷺先輩は、校内では誰もが憧れる『王子様』。
確かに凛としていて格好いいけれど、俺は出会った時からなぜか、「可愛い人」だと思っていた。
不器用で、家族思いで、こうして優しく微笑む姿。
それこそが、彼女の本当の魅力なのだと思う。
「……大地君は、私の家族のこと、聞かないのね」
不意に、先輩がぽつりと疑問を口にした。
先輩が放課後、急いで帰宅していたのは、たくま君のお迎えのためだったのだろう。
けれど、普通なら親が行うはずの役割を、彼女がすべて背負っている。
学校の誰一人として、その事情を知らない様子から察するに、そこには相応の理由があるのだろう。
「誰にだって、誰にも言えないことはありますよ。俺だって、部活に入っていない理由は『バイトで忙しいから』ってことにしてますし。……だから、詮索なんてしませんよ」
亡くなった父さんの代わりに家族を支えると誓ったことや、千代に寂しい思いをさせているという罪悪感。
俺もまた、学校の友人たちには見せていない顔を持っている。
「……そう。あなたはーー」
最後に言った言葉は風で聞こえなかった。
だが、先輩は納得したように頷くと、少しだけ俺との距離を詰めた。
並んで歩く二人の距離は、今朝までとは比べものにならないほど、近くなっていた。




