私が去った後に、貴方が後悔する理由
正直に言えば、ずっと喋っていた。
感情的に、しつこく、時には自分でも嫌になるほど理屈っぽく。
それでも言葉にし続けたのは、言えば分かってもらえると信じていたからだ。
私の名はレティシア・ノイエンフェルト。伯爵家の娘で、ヴァルター・クロイツベルク侯爵子息の婚約者――だった。
“だった”と過去形で言えるようになるまで、私がどれだけ自分に言い聞かせ、飲み込み、整理してきたか。
今日は、それをはっきりさせておきたい。なぜなら、後になって「なぜ何も言わなかった」と問われることになるのは分かっているからだ。
結論から言う。
何も言わなかったのではない。言い尽くした末に、黙った。
◇
あの日も、始まりは取るに足らない出来事だった。
「レティシア、今日の晩餐会だけどね、急で申し訳ないが、席順を少し変えたい」
ヴァルターがそう切り出した瞬間、嫌な予感がした。
なぜなら彼は、本当に申し訳ないと思っている時ほど、前置きが長くなるからだ。
「理由を聞かせてください。変える以上、必ず理由があるはずでしょう」
そう返した。
感情的? ええ、分かっている。でも、ここで曖昧にすると、あとで必ず禍根が残る。だから確認する。それが私のやり方だった。
「実はね、マルティナ嬢が……少し立場的に難しい状況で」
はい、出た。
“彼女は大変なんだ”という魔法の言葉。
「で? だから私の席を下げる、と」
「いや、下げるというより、配慮というか……」
この瞬間、私の中で何かがカチリと音を立てた。
怒りではない。確認だ。
「確認します。私はあなたの婚約者です。家同士の関係も、立場も、社交的な意味も理解した上で言いますが――それでも私より優先すべき理由があるのですね?」
理由を聞いた。
なぜなら、理由があるなら受け入れる余地はあったから。
だが彼は、答えなかった。
「うーん……その、皆の目もあるし……」
皆。
また、皆。
その言葉を聞くたびに、自分が“皆”の中に含まれていないと感じていた。
だから、ここでも説明した。感情的に、だが筋を立てて。
「皆、という言葉で片付けないでください。誰に、どんな影響があり、なぜ私が後回しになるのか。説明してもらえれば、判断します」
これは抗議ではない。
共同で判断するための前提条件の提示だ。
それでもヴァルターは、視線を逸らした。
「今は……そこまで深く考えなくても」
その一言で、私の中で、はっきりと線が引かれた。
ああ、この人は。
考えないのではなく、考えたくないのだと。
◇
これまで、何度も同じことを繰り返してきた。
政務の帳簿が遅れた理由を説明した。
使用人の配置を変えた理由も、派閥の均衡を保つために社交日程を調整した理由も、全部だ。
なぜなら、それらは私の独断ではなく、責任を伴う判断だったから。
けれど、彼はそれを「レティシアが気を利かせてくれた」で終わらせた。
好意。善意。優しさ。
違う。
仕事だ。
感情的に喋る。これは自覚している。
だが同時に、根拠のない行動は一切しない。
だからこそ、分かったのだ。
説明すればするほど、彼は決断を先延ばしにすると。
説明は、彼にとって判断材料ではなかった。
責任から目を逸らすための猶予期間だった。
◇
その夜、部屋に戻り、机の上に置かれた書類の束を見下ろした。
明日の会合の議題整理。
次の社交月間の招待状案。
帳簿の差異確認メモ。
どれも私がやらなければ、滞る。
でも、その事実を誰も正式には認めていない。
考えた。感情的に。ぐるぐると、嫌になるほど。
なぜ、ここまでしているのか。
なぜ説明し続けているのか。
なぜ、理解されない前提で喋り続けているのか。
答えは一つだった。
期待していたからだ。
彼が変わることを。
状況を理解し、判断し、責任を引き受けることを。
そして、ようやく気づいた。
期待し続ける必要が、もうどこにもない、と。
◇
だから、決めた。
怒鳴らない。
責めない。
説明しない。
これ以上言葉を重ねても、結果は変わらないと判断したから。
翌日から、少しずつ距離を置いた。
急に消えたわけではない。唐突に破棄を突きつけたわけでもない。
実務から手を引いた。
助言を控えた。
判断を委ねた。
それが、私なりの結論だった。
この時点で、私はまだ“去って”はいない。
ただ、支えるのをやめただけだ。
そして、それがどんな結果を生むのか――
もう説明するつもりはなかった。
必要が、なかったから。
◇
誤解しないでほしい。
逃げたわけじゃない。
――いや、正確に言うなら、逃げる必要がなかった。
だって、誰かに追い詰められていたわけでも、声を荒げられていたわけでもない。
むしろ逆だ。
あまりにも穏やかで、あまりにも何も変わらない日々に、静かに消耗していただけなのだから。
◇
私が実務から手を引き始めて、最初に気づいたのは使用人たちだった。
「レ、レティシア様……こちらの判断でよろしいでしょうか」
そう尋ねてくる声には、不安が滲んでいた。
当然だ。これまで彼らは、判断に迷えば私のところへ来ていたのだから。
一瞬、答えそうになった。
習慣だ。長年染みついた反射みたいなもの。
でも、そこで踏みとどまった。
「それは、ヴァルター様にお伺いしてください」
明確だった。
本来、それは彼の仕事だから。
使用人が困るのは分かっていた。
混乱が起きるのも、想像できた。
それでも口を出さなかった。
なぜなら、ここで私が助ければ、また同じ構造が続くだけだからだ。
◇
ヴァルターは、すぐには気づかなかった。
これは責めているわけじゃない。
彼にとって、私が“回している”状態が日常だっただけだ。
「最近、皆が少し慌ただしいね」
そう言って微笑む彼を見た時、内心で苦笑した。
慌ただしい?
違う。滞り始めているのだ。
言わなかった。
なぜなら、ここで指摘すれば、彼はまたこう言うから。
「そうか、じゃあレティシア、少し見てくれるかい?」
――それが、いつもの流れだった。
それを断ち切りたかった。
だから、黙った。
◇
社交界の反応は、もっと分かりやすかった。
「最近、レティシア様、お顔をお見かけしませんわね」
「ご体調でも?」
いいえ、体調は万全だ。
単に、出る必要がなくなっただけ。
これまで、ヴァルターの立場を補強するために社交へ出ていた。
派閥の緩衝材になり、余計な火種を摘み、場を回すために。
でも、それは誰かに正式に頼まれた役割じゃない。
私が「必要だ」と判断したから、やっていただけだ。
なら、必要がなくなったと判断したら、やめる。
それだけの話だ。
◇
噂は、すぐに変質した。
「喧嘩したらしいわよ」
「何か不満があったんじゃない?」
「婚約者なのに、あんなに冷たいなんて」
――冷たい。
便利な言葉だ。
私は感情的だし、よく喋る。
だからこそ、黙ると余計に目立つのだろう。
でも、ここでも説明しなかった。
説明すれば、私が“悪い側”になるから。
だってそうでしょう?
「実は、あなた方が思っている以上に、私が裏で全部回していました」
なんて言ったら、どうなる?
嫌味だと取られる。
自慢だと曲解される。
あるいは、「なら今まで黙っていたのが悪い」と言われる。
そのどれにも付き合う気がなかった。
◇
ある日、ヴァルターが珍しく困った顔で訪ねてきた。
「レティシア、少し相談が……」
来たな、と思った。
正直、予想通りだった。
「最近、政務の進行が思うようにいかなくてね。皆が、君の判断を仰ぎたがっている」
彼は、あくまで“皆が”と言った。
自分が困っている、とは言わない。
だから、はっきり答えた。
「それは当然です。これまで私が判断していたのですから」
感情は乗せた。
だって、ここは誤魔化す場面じゃない。
「でも、それは本来、あなたの仕事です」
ヴァルターは戸惑った顔をした。
まるで、初めて聞いたかのように。
「君は……手伝ってくれていただけじゃないのかい?」
その言葉を聞いた瞬間、確信した。
ああ、この人は。
“支えられていた”という認識すら、持っていなかったのだ。
◇
だから、戻らなかった。
怒ったからでも、拗ねたからでもない。
合理的な判断だ。
ここで私が戻れば、彼は何も学ばない。
構造は変わらない。
役割も、責任も、曖昧なままだ。
私は感情的だ。
だからこそ、感情に流されない選択をした。
「少し考える時間が必要です」
そう告げて、彼を部屋から送り出した。
逃げた?
違う。
自分の立場を正しい場所に戻しただけ。
それが理解されるかどうかは、もう私の問題じゃなかった。
◇
距離を置いてから、しばらくは静かだった。
あまりにも静かで、拍子抜けするほどに。
だから一瞬、こう思ってしまった。
――もしかして、私がいなくても回るのでは?
もしそうなら、それはそれで良い。私の判断は間違っていたと認めればいいだけだ。
でもね。
現実は、そんなに都合よく出来ていなかった。
◇
最初に表面化したのは、帳簿だった。
伯爵家と侯爵家の合同事業。
規模は小さいが、関わる人間が多く、資金の出入りも複雑だ。
本来なら月末には必ず数字が合う。
なぜなら、私が途中途中で差異を潰していたから。
それがなくなった。
「差額が……合わない?」
使用人の声が、廊下越しに聞こえた。
自室で、書類に目を通しながら耳だけを澄ませていた。
動かない。
もう、その役を引き受けていないから。
◇
次に崩れたのは、社交日程だった。
誰をどの席に置くか。
どの順で招くか。
誰と誰を、同じ場に置いてはいけないか。
それらはすべて、過去の経緯と感情の積み重ねで成り立っている。
それを、感情的に、でも丹念に覚えていた。
だから事故は起きなかった。
――私がやっている間は。
「なぜ、あの二人を同席させたんだ!」
怒号が響いたのは、夜会の翌日だった。
配慮が抜け落ちていた。
でも、それは誰の責任か。
思った。
これ、全部説明してきたよね?
何度も、何度も。
◇
使用人たちは、限界だった。
「レティシア様……申し訳ありませんが、このままでは現場が回りません」
彼らが私の部屋を訪ねてきた理由は理解できた。
困っているのだ。切実に。
でも、だからこそ首を横に振った。
「それは分かっています。でも、私が判断すべき立場ではありません」
冷たい?
いいえ、筋を通しているだけ。
ここで私が助ければ、
彼らは安心する。
ヴァルターも助かる。
そして――何も変わらない。
それだけは、避けたかった。
◇
混乱は、やがて一つの形を取って私の元へ戻ってきた。
ヴァルター自身が、来たのだ。
「レティシア……正直に言っていいかい」
彼の顔色は悪かった。
それは同情ではなく、観察として認識した。
「君がいなくなってから、どうにも上手くいかない」
やっと主語が出た。
“皆”じゃない。
“自分”だ。
ここで初めて彼を正面から見た。
「具体的に、何がですか」
感情は抑えなかった。
でも、問いは具体的にした。理由が欲しかったから。
「判断が……追いつかない。何を基準に決めればいいのか、分からなくなる」
その言葉を聞いて、少しだけ、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
でも同時に、納得もした。
ああ、そうか。
彼は今まで、判断そのものをしていなかったのだ。
◇
「あなたは、決めなくていい場所に立っていました」
私は言った。
感情的に、でも正確に。
「私が判断し、あなたは承認する。それがいつの間にか常態化していた。でも、承認だけでは、判断力は育ちません」
これは責めではない。
事実の整理だ。
「あなたの代わりを務めていたつもりはありません。支えていると思っていました。でも、今思えば……」
一度、言葉を切った。
ここからが本題だから。
「依存させてしまっていたのかもしれません」
ヴァルターは、何も言えなかった。
◇
「だから、引き継ぎはしませんでした」
彼が問いかける前に、先に答えた。
「好意でやっていたことなら、引き継げたでしょう。でも、あれは責任でした。責任は、本来の持ち主に戻るべきです」
それが、私の判断理由だ。
私は感情的だ。
でも、逃げるために理屈を作るほど、卑怯じゃない。
必要なことは、全部やった。
言うべきことも、言った。
そして今、回らなくなっているのは――
私が去ったからではない。
元々、私一人に寄りかかっていた構造が、露見しただけだ。
それを理解するかどうか。
後悔するかどうか。
それはもう、彼の問題だった。
◇
人は不思議なもので、問題が表面化すると、まず「元に戻そう」とする。
原因を直す前に、症状だけを抑えにかかる。
――ヴァルターも、例外じゃなかった。
◇
「一度でいい、少しだけ戻ってくれないか」
そう言われたのは、三度目の訪問の時だった。
一度目は状況説明。
二度目は相談。
そして三度目で、ようやく“お願い”という形を取った。
私は、その順番をきちんと覚えている。
なぜなら、順番そのものが、彼の理解度を表していたから。
「少し、とは?」
シンプルに聞いた。
曖昧な言葉ほど、後で拡大解釈される。
「帳簿と、社交日程の確認だけでいい。今まで通りじゃなくていいから」
今まで通りじゃなくていい、という言葉に内心でため息をついた。
それは一見、譲歩に見える。
でも実際は、核心を避けたままの提案だ。
「条件は?」
感情的に、しかし淡々と続けた。
ここで感情を抑える必要はない。判断材料を揃えるだけだ。
「条件……?」
ヴァルターは、明らかに困った顔をした。
つまり、何も考えていなかった。
◇
「私が戻ることで、何が変わりますか」
はっきり言った。
喧嘩腰ではない。事務的な確認だ。
「判断権限は誰が持つのか。最終責任は誰が負うのか。私が提案した内容を、あなたはその場で決められますか」
一つ一つ、理由付きで突きつける。
なぜなら、ここを曖昧にしたら、また同じ場所に戻るから。
「それは……」
彼は言葉に詰まった。
ここで初めて、少しだけ声を荒げた。
感情的になる理由が、十分にあったからだ。
「今までと同じです。何も決まっていない。何も変わっていない。だから戻れない」
戻らない、ではない。
戻れない。
それは意地じゃない。
構造上、無理だという結論だった。
◇
その後も、周囲からの接触は続いた。
「あなたがいないと困るのよ」
「あなたが一番、事情を分かっているでしょう?」
ええ、分かっている。
だからこそ、戻らない。
感情的に喋るけれど、同時に現実も直視する。
ここで戻れば、皆が楽になる。
でも、それは問題を先送りにするだけだ。
しかも、責任はまた私に集まる。
それを、もう引き受けないと決めた。
◇
ある日、ヴァルターの母――侯爵夫人に呼び出された。
「あなたは、少し頑固すぎるのではなくて?」
穏やかな口調。
だが、内容は明確な圧だった。
「家のため、という視点が欠けているように見えるわ」
その言葉を聞いて、ようやく腑に落ちた。
ああ、そうか。
誰も、私個人の意思を前提にしていない。
「家のため、というなら」
丁寧に言葉を選んだ。
「家が健全に機能する形を選んでいます。一人に責任を集中させる構造は、長期的に見て破綻します」
これは理屈だ。
感情論ではない。
「今は不便でしょう。でも、今直さなければ、もっと大きな問題になります」
侯爵夫人は、少しだけ黙った。
その沈黙が、理解ではなく、計算であることも分かった。
◇
夜、自室で一人になった時、少しだけ疲れを感じた。
感情的に喋るのは、体力を使う。
それでも、自分の選択を後悔していなかった。
はっきりしている。
ここで折れたら、また「都合のいい支え」に戻る。
それだけは、嫌だった。
だから、戻らなかった。
理解されなくても、感情的だと言われても。
これは復讐じゃない。
断罪でもない。
自分の役割を、正しい位置に戻す行為だ。
それを受け入れられるかどうか。
後悔するかどうか。
その答えは、もう少し先で、彼ら自身が出すことになる。
◇
正直に言っていい?
この質問をされた瞬間、少し笑いそうになった。
――ああ、やっぱり来たか、と。
◇
「どうして、何も言ってくれなかったんだ」
そう言ったのは、ヴァルターだった。
場所は、侯爵家の応接間。
人目はないが、逃げ場もない、ちょうどいい場所だ。
この場が設けられた理由は明確だった。
家中の混乱が、もう隠せないところまで来たから。
帳簿の不整合は表に出た。
社交上の失態も、複数の家から抗議として届いた。
使用人の不満は、直接、侯爵夫妻の耳に入った。
つまり――
「何かおかしい」は、「明確な問題」になった。
◇
「確かに言っていました」
まず、それを訂正した。
事実だから。
「何度も。具体的に」
感情は、乗せた。
だってこれは、私の時間と労力の話だ。
「でも、あなたは聞きませんでした。正確に言うと、聞いた“ふり”をして、決めなかった」
ヴァルターは、言い返さなかった。
それが、何よりの答えだった。
◇
「それでも……何も言わずに距離を置くなんて、卑怯じゃないか」
ああ、出た。
その言葉を、待っていたのだ。
「卑怯?」
思わず、聞き返してしまった。
感情的に、だが抑えきれなかったから。
「説明し続けるのが誠実で、黙るのが卑怯だと? それは、説明を受け取る側の理屈でしょう」
一度、深く息を吸った。
ここから先は、感情だけで話すと誤解される。
だから、一つずつ並べた。
◇
「第一に。説明は、相手が判断する意思を持って初めて意味を持ちます」
指を一本立てた。
「あなたは、説明を材料に判断しませんでした。判断を先送りするために使った。だから、これ以上説明する意味がなかった」
次に、二本目。
「第二に。私は、立場のある人間です。あなたの婚約者として、家の一員として、無限に無償労働を提供する義務はありません」
感情的?
ええ、当然よ。私の人生が関わっている。
「でも、それを言えば“打算的”だと言われる。だから、言わなかった」
三本目。
「第三に。説明を続ければ、いずれこう言われるのは分かっていました。――“なら、なぜ今まで黙っていた?”って」
そこで言葉を切った。
彼の表情が、その通りだと言っていたから。
◇
「だから、何も言わなかったのです」
結論は、最初から決まっていた。
「必要が、なかったから」
冷たい?
いいえ、合理的です。
説明しても、変わらない。
言えば、責任を押し付けられる。
黙れば、“冷たい”と言われる。
だったら、一番、自分を守れる選択をする。
それだけ。
◇
「でも……」
ヴァルターが、何か言いかけた。
私は、それを手で制した。
「“でも”の後に来る言葉も、もう分かっています」
感情的に、少し早口になった。
だって、何度も聞いたから。
「忙しかった。悪気はなかった。皆のためだった。そうでしょう?」
彼は、何も言えなかった。
◇
「それが、あなたの後悔の正体です」
はっきり言った。
ここで曖昧にする理由は、もうない。
「私が去ったことじゃない。私を“後回しにしても問題ない存在”だと扱い続けたこと」
それを失ってから気づいた。
だから、今さら理由を聞く。
――遅い。
◇
応接間を出る時、少しだけ肩の力が抜けた。
言いたいことは、全部言った。
説明も、もう十分だ。
これで、ようやく次へ進める。
そう思えた。
後悔する事を、彼が理解するかどうか。
それは、彼自身の課題だ。
もう、そこに付き合う立場ではなかった。
◇
話し合いが終わってから、しばらく侯爵家を訪れていなかった。
行く必要がなかったから。
もう説明は終わった。
結論も出した。
それ以上、感情をすり減らす必要はない。
◇
それでも噂は、勝手に耳に入ってくる。
帳簿の整理に、外部の補佐官を入れたらしい。
社交日程は縮小され、招待状の数も減った。
使用人の配置も見直され、何人かは辞めたと聞いた。
どれも当然の結果だ。
私がいた頃は、一人で無理をして、全体を保っていた。
それをやめただけで、現実の負荷が見えるようになった。
それを「衰退」と呼ぶなら、最初から無理があっただけだ。
◇
数週間後、正式に婚約解消の手続きを進めた。
感情的に言い争う場面はなかった。
書類は整っていたし、明確だった。
――価値観の不一致。
これ以上、正確な言葉はない。
ヴァルターは、最後まで私を引き止めなかった。
それが、彼なりの誠実さだったのか、諦めだったのか。
私は、判断しなかった。
もう、彼の判断を待つ立場じゃないから。
◇
婚約解消後、実家に戻った。
父は、何も聞かなかった。
分かっている。
私が自分で考え、決めたことだと分かっていたからだ。
「疲れただろう」
それだけ言われた。
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ溶けた。
説明しなくていい場所。
それが、どれだけ楽か。
◇
私は、新しい役割を引き受けた。
伯爵家の事業整理。
外部との調整役。
今度は、責任と権限が一致した立場だ。
感情的に喋る私を見て、最初は驚かれた。
でも、理由を明確にし、判断を引き受けると、評価は変わった。
当たり前だ。
責任を取る覚悟がある人間の言葉は、軽く扱えない。
◇
ある日、街でヴァルターを見かけた。
声は、かけなかった。
もう、交わすべき言葉がないから。
彼は少し痩せて見えた。
背中も、前より小さく感じた。
その姿を見て、初めて理解した。
彼は今、後悔している。
でもそれは、私を失ったからじゃない。
自分が何も決めてこなかった人生に、向き合わされているからだ。
◇
歩き出した。
振り返らない。
過去を否定したいわけじゃないから。
逃げなかった。
黙った。
距離を置いた。
そして、終わらせた。
それは、感情的な決断でも、衝動でもない。
積み重ねた当然の結論だ。
だから、胸を張って言える。
――私が去った後に、彼が後悔する理由は。
私がいなくなったことじゃない。
私を、軽んじ続けた自分自身を、失ったからだ。
それだけの話だ。
完。「冗長。面白くて長いんじゃなく、ただただ同じ言葉を繰り返してる。つまんない」
よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。




