旋律
よろしくお願いします。
音が消えた空間で、僕はただ耳を澄ませていた。
風の音も、時計の針の音も、何も聞こえない。
地下の音楽室の扉が静かに開く瞬間、僕は何か得体の知れないものに引き込まれていった。
受験を間近に控えた冬、気晴らしに僕は地元の街を散策していた。風は冷たく、吐く息は白い煙となる。寒さをこらえながら町を歩いていると、古い廃校舎にたどり着いた。
たしかここは曰くつきの校舎だったはず。ニュースで見た気がする。僕は何かに吸い込まれるように、廃校舎へと足を踏み入れたのだった。
中に入ると、冷えた空気が静かに肌を刺し、どこか遠くで微かな音が響いていた。
音楽室の扉は、錆びついた鍵で閉ざされているはずだったが……僕の手に何かが触れた。
冬の冷たい風に震えながら、僕は廃校舎の前に立っていた。手にはいつの間にか、古びた錆びついた鍵が握られている。
どうしてこんなものを拾ったのか、自分でもわからなかった。ただ、なぜかその鍵を捨てることができずにいた。
音楽室の扉は、まだ開けていない。
それは何かに怖気づいているのかもしれない。
ただの古い校舎の扉のはずなのに、どこか異様な空気が漂っていた。
鍵を握りしめた手に、心臓の鼓動が重なって響く。
僕はそのまま、音のない廃校舎を後にした。
鍵のことが気になり、僕は受験勉強に身が入らないでいた。
教科書の文字はぼやけ、頭の中にはいつもあの錆びついた鍵がちらつく。
なぜ僕の手元にあるのか。誰のものだったのか。
その答えを知りたくて、何度も廃校の前を通りかかった。
ある日、誰もいない放課後の街で、ふと鍵を握りしめながら思った。
「もし音楽室の扉を開けたら、何が待っているんだろう?」
けれど、その扉を開ける勇気はまだなかった。
背筋に冷たいものが走り、無意識に鍵をポケットに押し込んでしまう。
あの日から、僕の世界は少しずつ歪み始めていた。
鍵のことが頭から離れず、僕は廃校舎のことを調べ始めた。
インターネットや図書館で資料を探し、地元の古い新聞記事を読み漁る。
すると、そこには「M大学付属高校 廃校」という見出しとともに、不可解な事件の数々が記されていた。
「経営難に加え、怪奇現象や行方不明者が相次ぎ、ついに廃校に……」
記事にはそう書かれていたが、具体的な詳細は曖昧で、どこか伏せられているようだった。
噂では、地下の音楽室から不気味な音が聞こえたり、そこに立ち入った生徒が行方不明になったりしたという。
しかし、真実を知る者は誰もいない。
調べるほどに謎は深まり、鍵を手にした自分が何かに引き込まれているような気がした。
僕は決意した。
音楽室の扉を開けて、この廃校に眠る“何か”を確かめなければならない、と。
ある晩、勉強の合間にもう一度鍵を手に取った。
冷たい金属の感触が、指先からじわりと伝わってくる。
「開けてみたい」その欲求が心の中でざわめいたが、理性がそれを押しとどめた。
まだ準備ができていない。何が待っているのか分からない。
それに、何より怖いのは「変わってしまうこと」だ。
あの廃校に入ったら、もう戻れないかもしれない。
それでも、夜が更けると胸の奥がざわつき、眠れない日が続いた。
学校の図書館で見つけた地元の古文書に、かすかに音楽室の地下への言及を見つけた。
「扉は音を求め、奏でる者を誘う」そんな意味深な言葉だった。
翌日、僕は廃校へ向かう決心をした。
まだ扉は開けない。ただ、音楽室の周囲を確かめるために。
廃校の冷たい空気が僕の肺を満たし、胸の鼓動が高鳴る。
扉の前に立つと、そこからは静寂と、微かな“音のない音”が漂っていた。
僕はその不思議な空気に引き寄せられ、扉の前に立ち尽くした。
呼ばれた、ような気がした。名前を呼ばれたのではない。
音が、聞こえるのだ。
どこか蠱惑的で、恐怖の中に安らぎがある。
その音が、私を呼んでいるのだ。こっちにおいで、と。
振り返ると、廊下の奥からかすかな旋律が漏れてきた。
鍵を握りしめながら、足は自然と音の方へ向かっていた。
しかし、音楽室の扉はまだ固く閉ざされている。
それでも、音は確かにここから響いている。
耳を澄ませば澄ますほど、その“音のない音”は形を変え、胸の奥に触れてくる。
「なぜ…こんな音が?」
心の奥底に芽生えた好奇心と恐怖の狭間で、僕は立ち止まった。
僕は意を決し、鍵穴に鍵を差し込んだ。
ガチャリ、と音がして、扉がゆっくりと開いた。
闇に包まれた音楽室の中は、昼間の光がほとんど届かず、冷たい空気が漂っていた。
そこには、熟れすぎた果実のような、あるいは血に混じった花のような、そんな匂いがした。
そして、そこに――確かに、音があった。
それはまるで空気の震えのようで、目には見えないけれど確かに存在する“音のない音”だった。
足を踏み入れると、音が次第に大きく、濃密になっていくのを感じた。
まるで自分の鼓動が、部屋の響きと同調しているかのように。
「これは、何なんだ…?」
背筋が凍るような恐怖と、抗いがたい魅力が混ざり合い、僕は動けなくなった。
闇の中、微かに光る何かが目に入った。
それは、部屋の奥――埃をかぶったグランドピアノだった。
誰もいないはずの空間で、その蓋が、わずかに開いている。
僕は吸い寄せられるように歩を進めた。
足音は鳴らない。床が軋むこともない。
むしろ、音が吸い込まれていく。まるでこの部屋そのものが、音を喰っているかのようだった。
ピアノの鍵盤に手を伸ばすと、何かがふっと囁いた。
それは言葉ではない。ただ、旋律の断片のような感覚が脳裏に流れ込んできた。
“ひとつ弾けば、ひとつ消える”
それが、音の意味だった。
僕はなぜか理解していた。
このピアノは、音を響かせるたびに――“現実の一部”を削り取っていく。
それでも、弾きたいと思った。
この音を、もっと聴いていたいと思った。
ゆっくりと、鍵盤に指を置いた。
そして――最初の音が、鳴った。
それからのことは、あまり覚えていない。気が付いたら、校舎の外にいた。
僕は確かにピアノに触れた。しかし、そこからの記憶がない。残っているのは、奇妙な安心感と、わずかな恐怖。
その晩、僕は家に帰っても音のない音、が耳にまとわりついていた。
テレビの音も、家族の話声も、みんなぼやけてしまう。
翌朝、目が覚めると枕元に譜面があった。それは、一般的な譜ではなく、歪んだ線と、不可思議な模様で描かれたものだった。
覚えはない。しかし、“なぜか読めてしまう”。
譜面を手に取ると、体の奥にかすかな震えがあった。寒さのせいではない。どこか本能的な恐怖を、私は感じていたのだ。
奇妙な譜を目で追ううちに、頭に旋律が浮かぶ。それは子心地よく、音はしないはずなのに、音が脳内に直接響いてくる。
それは恐ろしくもあり、どこか誘うような、えも言えぬ快感を感じさせる音色だった。
涙がにじんでくる。理由はわからない。
その瞬間、鍵の回る音がした。ここではない、どこか遠く。
それは、自分の体から聞こえたようで、そうでないような、不思議な感覚だった。
僕は思わず譜面を抱えていた。何かがこれを手放してはいけないと訴えている。
それは誰なのだろう。もしくは、何か、なのだろうか。
その夜、僕はなかなか寝付けないでいた。音が、聞こえるのだ。僕を誘うように。
目を閉じれば旋律が聞こえる。それは徐々に輪郭を持ち始め、まるで足りない“何か”を求めているようだった。
あのピアノが僕を待っている。その時、ふっと風が吹いたような気がした。まどは閉まっているのに、僕は風を感じたのだ。
外を見れば、月も星もない夜空に、校舎の方だけがぼんやりと輝いて見えた。
音はしなくなったが、それは確かに僕を呼んでいた。
僕は布団から静かに起き上がった。足元が少し震えていた。
怖いのか、寒いのか、それとも――期待しているのか、自分でもわからなかった。
譜面は机の上に置いてある。
だが、それはまるで僕の内側に焼き付いてしまったようだった。もう目で追わなくても、旋律が脳裏に流れる。
僕は譜面をポケットにしまい、そっと家を出た。
冷たい夜の空気が肌を刺す。でも不思議と、寒さは遠く感じた。むしろ、心の奥が熱を帯びているようだった。
気が付けばまた僕は校舎の前に立っていた。
どうやってきたのか、朧気で覚えていない。
廃校は、夜の闇に溶け込んでいた。だがその地下――あの音楽室のある場所だけが、わずかに光を帯びている。
僕は歩を進めた。鍵はすでに、ポケットの中にある。
そして、また“演奏”が始まろうとしていた。
地下の階段を下るたびに、周囲の静寂が濃くなっていく。
音がないのに、耳が痛むほどの“密度”がある。
扉の前で足を止めると、背中に汗がにじんだ。
鍵を差し込む。
ゆっくりと回し、扉が開いた瞬間――音楽が“溢れた”。
聞こえないはずの音が、全身に流れ込んでくる。
心臓の鼓動と、旋律が完全に一致する瞬間。
僕は譜面を開き、ピアノの前に座った。
音がないのに、確かに“響いている”。
鍵盤に指を置くと、何かが――深く、内側から割れた。
皮膚の下で音が鳴る。
骨がきしみ、血が震え、内臓が“楽器”になっていくようだった。
それでも演奏は続く。止められない。止めようという発想すら、生まれない。
演奏が終わるころには、僕の身体は、音そのものになっていた。
また、僕は校舎の前に立っていた。気が付けば空は明るくなりはじめ、寒さが肌を貫く。
僕は家に帰ろうとした。いつもの道、いつもの風景。しかし、どこかが違っている。
風のざわめきが、耳の奥でうねりを帯びている。車の音も、話し声も、すべてがどこか遠くで囁いているように聞こえた。
家の扉を開けると、テレビの音声が歪み、家族の話す声がまるで別の言語のように聞こえた。
僕は心の中で必死に、「これは幻だ」と言い聞かせた。現実に戻ろうと。
だが、その夜も音は僕の耳にまとわりつき、まるで細い糸で体を縛りつけるようだった。
譜面の模様が脳裏にちらつき、頭の中で音符たちが絡み合い、消えたり現れたりする。
僕は気がつけば、またあの地下の音楽室に引き寄せられているのかもしれない。
けれど、今度はもう戻れない気がした。音は僕の一部になりつつあったのだから。
翌朝、僕は朝食の席に座っていた。家族の笑顔がいつもよりぎこちなく感じられた。
母は僕の目を見つめ、何かを話したそうだった。
「最近様子が変だけど、大丈夫?」
と母が声をかける。
僕はうまく答えられなかった。ただ、言葉にならない違和感が胸を締め付ける。
父も妹も、僕の発する声や動きの端々に違和感を覚えているようだった。
妹は時折、僕の方を見て小さく眉をひそめる。
「大丈夫だよ」と僕は繰り返す。けれど、自分ではわかっていた。自分が、何か、に浸食されつつあることを。確実に変わってしまっていることを。
夜になると譜面がまた僕を呼ぶ。僕は、どんどんと深い闇に沈んでいくような気がした。
机の上にある譜面を見つめていると、ふと遠くでピアノの音が聞こえたような気がした。
まるで誰かが、深い闇の底から演奏しているように。
僕は思わず耳をすました。しかし周りは静まり返っている。それでもあの音は確かにあった。
今でも僕を、呼んでいるのだ。
その音は僕だけに届いている。そして僕を、待っている。
僕は無意識に足が動き出すのを感じた。
外はまだ暗く、街灯の光がぼんやりと霧に霞んでいる。
音に導かれるように、僕は廃校の方へと歩き出した。
冷たい風が頬を撫でる。だが、心の奥は暖かかった。胸の奥で何かが確かに燃えているのを感じていた。
校舎の前に立つと、前と違い地下への扉が少し開いていた。
あの、“音のない音”がそこから漏れ出しているようだった。
気が付けばまた、僕は音楽室の前に立っていた。
僕は躊躇いながらも、そっと、鍵を開けるのだった。
扉の向こうは、前に見たはずの場所と違っていた。
確かに同じ音楽室のはずなのに、天井は高く、壁には譜面のような模様が浮かび上がっている。
ピアノはそこにあった。
僕はふらりと近づき、譜面を取り出す。
それを譜面台に置いた瞬間、空気が一変した。
部屋が沈黙を吸い込んだかのように静まり返り、
やがて、音が――音楽が、僕の内側からあふれ出した。
指が勝手に鍵盤を叩き始める。僕の意思ではない。
だが、不思議と抗う気持ちは起こらなかった。
音は形になり、匂いとなる。熟れすぎた果実のような、あるいは血に混じった花のような。
形は意味を無くし、自分が音に溶けてゆく。いつまでもこうしていたい。僕はそう思いながら鍵盤を叩いていた。
どれほど弾いていたのだろう。時間の感覚はとうに失われ、ただ音だけが僕を包んでいた。
鍵盤の下から、何かが這い出てくるよ気配がした。
影なのか、指なのか。それとも……もっと得体の知れない“誰か”。
目を凝らすと、ピアノの艶やかな表面に映った“僕の顔”が、どこか歪んでいた。
笑っていた。張り付いたような笑顔で。
怖くはなかった。これは“そういうもの”だと理解していた。
音はやがて僕の鼓動と重なり、骨の奥に染み込んでゆく。
指の感覚は薄れ、旋律そのものが身体になっていった。
気が付けばまた僕は、校舎の前に立っていた。
もう少し。そう聞こえた気がした。
もう少し。
誰の声でもなかった。けれど、たしかに胸の奥に届いた。
僕はまた、音に引かれるままに歩き出す。
空は白み始めていたはずなのに、気づけば夜のように暗い。
まるで、世界の時間から自分だけが切り離されたような感覚。
時計も、息づかいも、遠のいていく。
校舎の扉は、まるで僕を待っていたかのように開いていた。
地下への階段を降りるたびに、音はより明瞭になる。
もう僕は、迷わない。
再び譜面を開き、鍵盤に指を置く。
何の躊躇もなく、音はあふれ出す。
僕はもう、演奏していない。
音が僕を演奏しているのだ。
ふと譜面に触れた瞬間、音が消えた。空気が震える。
何かが聞こえる。それは音ではない。言葉でもない。しかし、何者か、を感じさせるものだった。
脳の奥が震える。
その“気配”は、すぐそばに――いや、僕の内側にさえいるようだった。
譜面の表面に、じわりと黒い染みのようなものが浮かび上がる。
よく見るとそれは文字ではなかった。線でもない。
まるで、感情そのものが形を持ったような図だった。
ぞくりと背筋が冷える。だが、目を逸らせなかった。
そこには懐かしさのようなものすらあった。
見たこともないはずなのに、「知っている」と感じてしまう。
そして、再び“それ”が語りかけてくる。
言葉ではない。“響き”として。
旋律にも似た、名を持たぬ意思が僕の中に流れ込んでくる。
――もう少し。
――もう少しで。
胸の奥で何かが軋んだ。
それは、僕と言う個人が持っていた「輪郭」そのものが、軋んで壊れ始めた音だった。
ピアノの鍵盤が、ひとりでに沈んだ。
そのたった一音が、部屋中の空気を揺らし、僕の中の“何か”が、ゆっくりと目を覚ました。
その一音に導かれるように、僕の体が、静かに震えた。
血が、音に共鳴する。
骨の奥が、旋律を刻み始める。
心臓の鼓動は、もはや自分のものではないテンポで打ち鳴らされていた。
僕は譜面を見た。
その“感情の図”が、今やゆっくりと蠢いていた。
まるで、何かがそこに潜んでいて、
僕がそれを見つめることで目を覚ましていくように。
――ようこそ。
その響きが、脳の内側に直接届く。
誰かが話しているわけではない。
だけど、それは「かつての演奏者」たちの、何百、何千という声が折り重なった“存在の合唱”だった。
「……誰だ?」
そう口にしたとたん、譜面の裏に、何かの文字が滲んだ。
──《楽師の器》
そこに記されていたのは、僕自身の名前だった。
ぞっとした。
誰かが、僕の名前を“書き加えた”のだ。
それが人間の手によるものとは思えなかった。
まるで譜面そのものが、僕の名前を受け入れ、書き記したのだ。
その瞬間、ピアノの奥で“何か”が動いた。
ゆっくりと蓋が開き、
その中にあるはずの弦の代わりに、
光とも闇ともつかぬ“響きの塊”が蠢いていた。
形はなかった。だけどそれは、僕の魂の中に似た何かを持っていた。
共鳴している。僕と、それは。
もはや僕は、自分が何者だったのか、思い出せなくなりつつあった。
名前も、日常も、家族の顔さえも、霞がかかったようにぼやけていく。
ただ、音だけがある。
その旋律の中に、確かな存在の“真実”がある。
――もう少しで、完全になる。
譜面の感情図が、形を変えた。
それは笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
だけど確かなことはひとつ。
僕はもう、“戻れない”場所に来てしまった。
――もう少しで、完全になる。
その“声”が響いたとき、僕の身体はすでに、ピアノと、譜面と、音そのものに融けはじめていた。
でも。
その時だった。
ふっと、脳裏に浮かんだのは、妹の声だった。
『お兄ちゃん、最近、なんか怖い夢見てるの。学校のピアノが、泣いてたの』
確かに聞いたはずの声が、どこからともなく僕の内側を満たした。
その一瞬、何かが“音の層”に亀裂を入れた。
僕は思わず手を止める。
視界が揺れる。
光の反射のような、記憶の泡のような断片が、次々と脳裏に弾けていく。
母の手。
父の笑い声。
妹の小さな手紙。
どれも、僕が“もう必要ない”と感じ始めていたはずのものだった。
でも、今はそれが――
まるで、失われたものではなく、今まさに消えようとしているものに思えて、恐ろしくなった。
「……やめろ」
かすれた声が漏れる。
音が止まった。
ピアノが、震えている。
まるで僕の“拒絶”に驚いているかのように。
空気がざわつき、譜面の上に、見たことのない黒い染みが広がっていく。
それは「怒り」だった。
“お前は選ばれたのだ。なぜ抗う?”
脳裏に直接叩き込まれる“意思”。
それはもはや、声ですらない。命令に近い。
でも、僕は叫んだ。
「違う! 僕はまだ、僕でいたいんだ!」
その瞬間、音楽室が裂けるように崩れはじめた。
壁に浮かぶ譜面模様が、黒い涙のように滴り、ピアノが軋みをあげて傾く。
“それ”が怒っている。
僕を、逃がすまいとする力が、周囲をねじ曲げてゆく。
けれど僕は、ポケットの中に残された妹の書いた**「お兄ちゃんへ」**というメモを握りしめた。
その柔らかな紙の感触が、確かに“人間だったころの僕”を思い出させてくれる。
音が、僕を引きずり込もうとする。
それでも僕は、足を引きずるように、扉の方へ向かった。
――まだ、間に合う。
――まだ、帰れる。
その確信だけが、僕を支えていた。
次の瞬間、目の前が真っ白に弾けた。
気がつくと、僕は音楽室の外、地下の階段に倒れていた。
譜面は手の中にあったが、あの模様は、もう消えていた。
けれど、胸の奥にはまだ、微かにあの旋律が残っていた。
終わっていない。
だが――僕はまだ、“僕”だった。
あの朝、僕は自室のベッドで目を覚ました。
カーテン越しに差し込む冬の光が眩しくて、思わず目を細める。
夢だったのか――
そう思おうとした。思いたかった。
けれど、枕元にはしっかりと、譜面が置かれていた。
黒い模様は消えている。
今は、ただの空白の紙のように見える。
だが僕にはわかっていた。これはまだ、終わっていない。
それからの数日、僕はできるだけ日常に戻ろうと努めた。
朝は家族と朝食をとり、学校へ行き、帰宅してからはピアノの練習をした。
受験も近いのだ。戻らなければいけない。
――戻れると、思っていた。
けれど、ふとした瞬間にそれは顔を出す。
鏡を見ると、背後に“鍵盤”がちらりと映ったような気がした。
駅のホームで聞いた電車の音が、一瞬あの旋律に重なった。
眠る前、目を閉じると、まぶたの裏に譜面が浮かびあがる。
家族は何も言わない。
けれど、妹の目だけが、以前のように僕を見なくなった。
僕もそれ以上、問いかけることができなかった。
ある晩、ピアノの練習中、指が勝手にあの旋律を弾きそうになるのを感じた。
慌てて止める。汗がにじむ。
ピアノの上に、うっすらと白い煙のようなものが漂った気がした。
息を飲んだ瞬間、譜面立ての隅に、
あの「黒い染み」が、またにじみ出しているのを見た。
夜、机の上に置いた譜面から、カサ…と乾いた音がした。
見れば、真っ白だったはずの紙に、一小節分の音符が書き加えられている。
僕は触れていない。
なのに、“旋律”は続いていくのだ。
そして、譜面の隅に、小さな文字があった。
「あと、少し」
誰が書いたのかはわからない。
けれど、僕にはその筆跡が“どこか懐かしいもの”のように思えた。
自分の――かつての“僕のもの”ではないか、と。
僕は静かに譜面を閉じ、部屋の明かりを消した。
目を閉じる。
聞こえるのは、音のない音。
“逃げられない”。
そう、確信する。
譜面は、毎朝少しずつ変わっていた。
何も書かれていなかった空白の五線に、ほんの数小節、黒い音符が増えていく。
はじめは気のせいかと思った。
でも、確かに音が“増えている”。
まるで夜中に誰かが書き込んでいるかのように。
そして不思議なことに、僕はその音を「聞いたことがある」と感じてしまう。
耳ではなく、体の奥で。
音が、骨の髄に、染み込んでいくように。
自分のピアノが、自分の音じゃないものになっていく感覚。
鍵盤に触れるたび、指先が震える。
楽譜を見ていなくても、その旋律が頭の中に浮かんでくる。
しかも、そのフレーズは毎日ほんの少しずつ違う。
昨日より深く、昨日より澱んで、昨日より美しい。
そしてある日――気づいた。
僕は、何もしていないのに、その楽譜を「覚えて」いた。
ただ覚えているのではない。**楽譜の次の小節が“分かってしまう”**のだ。
「ここには、嬰ハの音がくる」
「この転調の先には、静かな間奏があるはず」
それは、創作ではなかった。予測でもなかった。
僕の中に、“書き手”がいるような気がした。
「ねえ、お兄ちゃん、また昨日と違うの?」
夕食の後、妹がふとそうつぶやいた。
「え?」
「昨日、机の上の紙、音符なかったのに……今日、いっぱい書いてあった。お兄ちゃんが書いたんじゃないの?」
僕は何も答えられなかった。
母はなぜか急に席を立ち、洗い物を始める。
父も何も言わない。食器の音だけが、やけに大きく響いた。
夜。机に座ると、譜面は今日も書き足されていた。
気がつけば、半分以上が“埋まって”いる。
譜面の中央あたり、五線の隅に、小さな手書きの文字が見えた。
「あとすこしで きこえるよ」
その瞬間、背中をなにか冷たいものが這った。
それでも僕は、譜面から目をそらすことができなかった。
自分の名前が、譜面の下に“演奏者”として記されていた。
それは僕の筆跡ではなかった。けれど、なぜか間違いなく僕の名前だった。
僕は、誰なんだろう。
この旋律を、誰が奏でようとしているのだろう。
答えは、もうすぐわかる気がした。
譜面は日ごとに増え、ついに最後のページが現れた。
けれど、それと同時に、僕の中の「僕」がどんどん薄れていくのを感じていた。
ある朝、鏡の前に立つ。
そこに映るのは、僕の顔なのに、どこか違う。
目の奥が空っぽで、感情が失われていくのがわかった。
声も、声帯を通るのではなく、まるで誰か別の存在が僕の口を借りて話しているようだった。
ピアノの前に座っても、もう「弾こう」という意志はなかった。
指が勝手に鍵盤の上を動き、譜面の最後の旋律を奏でていく。
まるで僕が楽譜の一部になったかのように。
その音色は甘美で、どこか不気味だった。
響き渡る旋律に、僕は完全に溶けていく。
家族が何度も僕を呼ぶ。
でも僕は答えられない。
意識は遠のき、記憶は霞んでいった。
「お兄ちゃん、どうして…?」妹の声が、夢の中のささやきのように響く。
譜面の最後に書かれていた文字が、僕の意識の中で繰り返される。
「これで終わりだよ」
僕は気が付けば音楽室の前に立っていた。
ゆっくりと扉を開け、ピアノの椅子に座る。
旋律を奏ではじめる。
僕が僕でなくなっていく。
恐怖は無い。
快感ですらある。
鍵盤を叩くたび、心が震える。
指は自然と動き続ける。
まるで自分の意志ではなく、別の何者かに操られているように。
旋律は不思議な形で空間に広がり、部屋の壁や天井に波紋のように反響する。
それは現実の音ではない。だが確かに存在し、僕を包み込む。
心の奥底から、何かが溶け出していく感覚。
僕の中の「僕」が、音に飲み込まれて消えていく。
恐怖はない。むしろ、この感覚は――歓びだ。
この旋律が、僕自身であるかのように感じる。
鍵盤を叩くたびに、世界の境界がぼやけていく。
僕はもう戻れないのだろう。
だが、それでも僕は――演奏をやめられなかった。
最後の一音が、そっと空気に溶けた。
それは音ではなく、光のような、匂いのような、どこか遠い記憶の気配だった。
ピアノの蓋が静かに閉じる。
僕の身体はまだそこにあるはずなのに、意識はどこか別の場所にいる。
ひとひらの音の粒となり、宙に舞う。
僕は音楽になった。
境界も、時間も、名前も、もういらない。
いつかまた誰かが扉を開くその時、
この旋律は目覚める。
永遠に続く“音のない音”のなかで、
僕はずっと――待っている。
感想もらえると嬉しいです!
よろしくお願いします。