1.両親からの手紙
皆さん、お勉強は好きですか。大好きという人も中にはいるかもしれませんが、お勉強よりも遊んでいる方がいいって人も多いかもしれませんね。
このお話の主人公であるヘカッテという女の子は、熱心にお勉強をがんばる真面目な子です。しかし、ヘカッテが真面目に頑張っていたのは、学ぶことが大好きだからというだけではなく、夢があったからでした。
ヘカッテの夢は立派な魔女になることです。魔女なら魔法を使えるからお勉強なんてしなくてもいいって思う人もいるかもしれませんが、魔法を使いこなすにも修行という名のお勉強はたくさんしなくてはならないのです。
そして、そのお勉強は、学ぶことが好きなヘカッテにとっても、時にはつらいものがありました。
というのも、ヘカッテはまだまだ甘えたい盛りの女の子なのですが、魔女になる修行のために、両親と共に暮らしていた故郷から旅立たねばならなかったのです。
ヘカッテが新しく家をかまえた場所は、故郷から遠く離れた場所です。天然の迷宮と呼ばれるはてしなく広い洞窟をひたすら進んだ先にあるので、簡単には帰れません。
けれど、ヘカッテのそばには、お兄さん代わりのしゃべる黒猫のぬいぐるみカロンや、お姉さんがわりの歌うお花のメンテがいつも一緒にいましたし、郵便配達員をしている双子の妖精娘モルモとラミィといったお友達がいましたので、寂しくはありませんでした。
なので、基本的にはいつも修行をがんばることが出来ていたのですが、時折ふと気分が乗らない時があって、そういう場合は決まって、故郷で気の合うお友達と自由気ままに遊んだ日々を思い出しては懐かしさにとりつかれてしまったのです。
そういうわけですので、ヘカッテにとってもやっぱりお勉強は大変なものでした。それだけに、たくさんお勉強をして、たくさん知識を身に着けて、出来る事も増えていくと、それだけ成長できたような気分になっていったのです。
難しかったお勉強をがんばって、テストで良い点をとれたら誇らしいですよね。その誇らしい経験を重ねていくにつれ、ヘカッテもだんだんと自信をつけていったのです。
しかし、自信が高まり過ぎるとどうなってしまうでしょうか。ヘカッテは日に日に立派になっていきましたし、故郷を離れたばかりの頃には出来なかった魔法をたくさん覚えました。
お家の近くにある図書館の本も全部読んでしまいましたし、書いてある事も全部覚えてしまいました。もう知らない事はないのではないかというくらい、世の中のことがとてもよく分かってきたのです。
世間の人たちはそれでもまだまだヘカッテのことを小さな女の子のように扱いましたが、ヘカッテはだんだんとその扱いに対して不満を抱くようになっていきました。わたしはもうこんなにも分かっているのに。
今回のお話は、ヘカッテがそんな思いに駆られていた頃の出来事です。
いつものようにモルモとラミィがヘカッテのもとへお手紙を運んでくると、いつも以上にカロンが不機嫌そうな表情で腕を組んでいました。
怒っているような顔をしているのは元からですが、この度は綿のつまった尻尾を乱暴にぶんぶんと振り回していたので、モルモとラミィにも怒っていることがよく分かりました。
「あら、どうしたの? おこりんぼさん」
モルモがさっそくからかうような口調でたずね、そこにラミィが続けました。
「ヘカッテに尻尾でも踏んづけられたの?」
すると、カロンはさらに乱暴に尻尾を振り回し、ぷいとよそを向いてしまいました。
どうやら答える気分にすらならないようです。そんな彼の態度に、顔を見合わせるモルモとラミィに対して、ヘカッテが代わりに答えました。
「カロンったらずっとこうなの。ちょっと二、三日、魔法のお勉強をさぼっただけなのに」
ヘカッテの答えに、モルモとラミィは驚きました。
「まあ、二、三日もお勉強をさぼったの?」
「ヘカッテらしくないわね。どうしてさぼっちゃったの?」
不思議がる二人に対して、ヘカッテは言いました。
「だって、わたし、もう何でもできるのだもの。図書館の本も読みつくしちゃったし、覚えちゃった。魔法だってそう。魔女の教科書に書いてあることは全部出来るようになっちゃった。だからもうお勉強なんて必要ないの」
「そんな事はない」
ムスっとした様子でカロンは言いました。
「簡単にできるような当たり前の事だって、毎日訓練するべきだ。そうお約束したというのに、ヘカッテは守ろうとしないんだ」
「それでずっと怒っているの」
呆れたようにヘカッテがそう言うと、足元に置かれた鳥かごの中で薄っすらと光る歌う花メンテがポロロンと綺麗な竪琴の音を鳴らしました。
その言葉が分かるのはヘカッテだけです。ヘカッテはその音に耳を傾け、うーんと悩んでしまいました。メンテの言葉が気になったモルモがたずねます。
「メンテはなんて言ったの?」
すると、ヘカッテはしぶしぶ答えました。
「ちょっとは復習しましょう、だって」
つまなさそうに言うヘカッテの態度に、カロンはすっかり呆れたように溜息を吐いてしまいました。
「まあ、嫌々させたところで意味はないか。お勉強というのは誰かにさせられるのではなく、自分のためにやらねばならないからね。それよりも、君たち。今日もお手紙を運んできたのではないのかね?」
「ああ、そうだった!」
と、ラミィは慌ててカバンから封筒を取り出しました。
「はい、今回のお手紙よ。いつもみたいにさっそく読んでちょうだい」
ラミィが差し出したのは、ヘカッテがいつも心待ちにしている故郷の両親からのお手紙です。それを朗読するのが恒例となっているのです。ヘカッテはいつものようにお手紙を受け取ると、こほんと咳払いをしてから読み始めました。
◇
私たちの大切なヘカッテへ
お変わりはありませんか。そろそろあなたが旅立って、長い時が経ちますね。あなたがいなくなったこの家は、いつも静かで少し寂しい時間が流れております。立派な魔女になるために、日々頑張ってきたあなたですから、きっと今頃は、私たちの知っていた頃よりもずっとお姉さんになったことでしょう。
けれど、そういう時期に顔をのぞかせてくる虫がいることを知っていますか。その虫は、真面目な子の心にも、不真面目な子の心にも、平等に忍び寄ってくるやっかい者です。
子どもだけではなく、おとなの心にだっていつも忍び寄ってくるから大変なんです。その虫が心に巣食ってしまうと、人はやる気を失ってしまったり、怒りっぽくなってしまったりして、視野が狭くなってしまったり、失敗が多くなってしまったり、心のゆとりを失ってしまったりするのです。
この恐ろしい虫は目に見えませんが、どういう時に忍び寄ってくるのかは、よく知られております。それは、何かに挑戦をする全ての人々が、いくつかのハードルを飛び越えたあとだと言われています。
ヘカッテも、もしかしたらそろそろこの虫が忍び寄ってくるころかもしれません。ですので、今回、私たちが贈る言葉は、そんなやっかい者から心を護る防虫剤みたいなお守りの言葉です。
「『知らない事』に気づいたとき世界は少し広がります」
この言葉が、あなたの新たな学びに繋がる事を願っています。
けれど、ヘカッテ。くれぐれも無理をしてはいけませんよ。立派になるということは、何事にも怯まず、無茶をして立ち向かうということではありません。どこで何を頑張るにせよ、その事をきちんと覚えておいてくださいね。
あなたの両親より
◇
「『知らない事』か」
手紙の言葉を聞いたカロンが呟くと、ヘカッテは少し不満そうに手紙をたたみはじめました。丁寧にしまいながら彼女は唇をとがらせて言いました。
「知らない事なんてないよ。だって、図書館の本はぜんぶ覚えてしまったもの」
ヘカッテは自信満々でした。なぜなら、お勉強がそれだけ大変だったからです。
ただただ暗記するだけではありません。全部読んで、全部理解して、その上で覚えてしまってこそ意味があります。どんなに頭が良くて、すぐに覚えることが出来る人であっても、図書館の本をぜんぶ覚えてしまうのは、やはり大変なことでした。
だからこそ、それを成し遂げることができたヘカッテは、自分に自信がもてましたし、誇りももっていたのです。
それだけに、まだ知らない事があるなんて、すぐに認めることができなかったのです。
けれど、モルモとラミィは言いました。
「でも、ヘカッテ。知らない事ってお勉強とは違う事かもしれないわね」
「そうそう、だってヘカッテ。今日の私たちの晩ご飯をぴったり当てる事なんてできないでしょう? 普段、私たちが郵便配達をしながら見ている光景だって知らないはずよ」
二人の言葉に、ヘカッテは少しだけ考えてから答えました。
「……知らない事ってそういう事なの?」
不服そうな彼女に、双子の配達員は笑ってみせました。
「だって、なんでも覚えちゃったヘカッテが知らない事って言ったら、そういうこ事くらいじゃない?」
「そうよ。それに、もう一つあるわ」
と、ラミィが思い出したように小さな羽を広げました。
「図書館の本になっていない事。誰かがまだ本にしてないこともあるかもしれない。もしかしたら、このお手紙はそう言うことを言っているのかも」
「迷宮の怪物なんかも分からない事だらけなのよね。本に書いてあることも、今、分かっている事ってだけ。もしかしたら、間違っているかもしれないのですって。だから、私達、いつもドキドキしながら郵便配達をしているのよ」
モルモはそう言うと、ラミィと顔を見合わせて、同時に羽を震わせました。
彼女たちの言葉に、ヘカッテは内心、なるほどと納得しました。たしかにそれなら、知りようがありません。けれど、じっと待っていれば、いつかは本になって図書館で借りられるようになるかもしれません。
「なるほど、ちょっと分かったかも。怪物のこともね」
ヘカッテは溜息交じりにそう言いました。そんな彼女に寄り添うように、歌う花のメンテは綺麗な音を奏でました。寄り添うようなその音色に耳を傾け、ヘカッテは静かに頷きました。
「メンテは何て言ったんだい?」
カロンがたずねると、ヘカッテは口元に小さな笑みを浮かべて答えました。
「『怪物が怖いから魔法を練習しましょう』だって」
「なるほど、それで、ヘカッテはどう思ったんだい?」
「その通りね、って思ったの」
それからしばらくして、双子の配達員がお仕事に戻ったあとに、ヘカッテは久しぶりとなる魔法の練習をしました。
なるほど、確かに。カロンやメンテの言う通り、ちゃんと毎日練習した方がいいのだなとお利口さんのヘカッテは静かに納得したのでした。