弾かれて、異世界へ
経済だけの生き方というものがある。
それは勉強し、いい学校へ行き、社交性を身につけ、社会で活躍することである。
当然、金は集まる。
反対の、精神だけの生き方というのも、存在はする。
ストレスを避け、自分がやりたいことだけをやる生き方である。
それは楽に生きるということでは、ある。
が、不可能である。
楽に生きて、精神の健康を保ち生きるというのは、現代社会において不可能である。
なぜならそういう生き方は、甘えだと、引きこもりだと、怠惰だと、決めつけられるからだ。
学校へ行かなければその人は道から外れた障害者となり、引きこもれば言葉を変えて罵倒される。
そう、だから不可能なのだ。
集団に馴染めないから、そこでは心が辛いから、私たちは閉じこもったというのに、辛いのに。
なのになぜ、そんな人たちに向かって暴言を吐けるのだろう。
どこへいても辛い。
どんなことをしても辛い。
世の中は、社会は、人に優しくない。
この現状を変えるのは不可能である。
差別をなくすことは不可能である。
仮に可能だとしても、今の私たちには関係がないのだ。
人がほんの少し前に作った資本社会のシステムが、ほんの僅かの間に膨れ上がって、けれども僕たちはサバンナで暮らしていた時の脳みそだから、疲れて社会に適応できない。
僕も誰も、苦しまない生き方なんてできはしないのであった。
そう、だからこの話は、意味がない。
言えるだけで、そこから前向きなものは生まれない。
仕方ないと諦めて、渋々生きるか。
死ぬか。
よくある話、特別な話ではないのだ。
これから見る男は、社会のはみ出しもので、孤独で、自殺が現実的な視野に入っている。
が、特別ではない。
死にたい人間など、今や誰一人例外のない当たり前のことなのだから。
駒を動かす。
それをする私の手は、速かったらしい。
パチパチという音を覚えている。
相手の汗を覚えている。
私が、いつも勝っていたことも思い出してある。
それはとても昔のことであり、記憶なので、ふわふわと具体的に思い出せない物ではあるのだが、その言葉だけは鮮明に突き刺さっている。
もう私には関係ないことを思い出して、重いドアを開ける。
空気が変わって、重く、重圧を感じるそこに、私は立つ。
「おはようございます」
バイト先の方に挨拶をする。
換気扇の音を流しつつ、私は手を洗った。
「ああ、クルスくん、新人の子が入ってきたから、仲良くしてね」
「はい」
制服に着替え、服についた毛を取り、出勤する。
もう一度手を洗い、裏から表へ出る。
「今日もよろしくお願いします」
「お願いしまーす」
挨拶が帰ってきて、厨房を通って、ややざわざわした声を聞きながら、今日も働く。
ここはファミレスで、私はフリーター。
客が帰った後の席を拭き、終わったことを機械で知らせる。
そこにまた新たな人が座る。
こんなことを繰り返し、時々人に話しかけられ、時々ミスをする。
「お疲れ様」
「あざます」
退勤ボタンを押して、ロッカーに入れた荷物を取り出す。
ここでようやく、この仕事は終わるのだから、そこで脳は緊張を解く。
ゆったりと着替えて、冷蔵庫の中から、買っていた飲み物を、名前を書いたものを取り出す。
「あの、今日はありがとうございました」
「ん、ああ、はい」
バイト中に溜まった履歴を見ていると、少女が話しかけてくる。
よくある女子高校生で、メイクがやや落ちている。
そう、新人の子で、名前はなんだっけ。
他者に興味がないのが、この私だ。
人の名前を覚えられない。
人の顔を覚えられない。
人がどういう存在なのか、わからないからだ。
「高校生?」
私がそう聞くと、彼女はイエスと答える。
「夏休みだから、働いているの?」
スマホをバッグにしまい、彼女の目を見る。
いい、手入れがされたまつ毛だ。
「ええ、はい。クルスさんは、大学生ですか?」
「そうだよ」
嘘だ。私は大学なんていったことのない、フリーターなのだ。
「あの、良かったら連絡先交換しませんか」
「いいよ」
スマホに映されたコードを読み取り、アプリに彼女の名前が追加されて、ようやく思い出した、彼女の名前。
夜空に照らされ、二人で帰り、途中でわかれる。
「はー」
家が、見えてきてしまった。
嫌なのだ、あそこに帰るのは。
この地域、富裕層が住む住宅街の中でも目立つ、和風建築の家。
庭を進み、そこから見える窓、リビングから光が漏れているのを確認すると、ため息が出てしまう。
「ただいま」
ガラガラと、引き戸を開けて言う。
涼しい冷気が廊下の向こうからして、靴を脱いでスリッパを履き、手洗いへ向かう。
手と喉を洗い、リビングへ続くドアを開くと、空気が変わる。
それはなんとも言えない、気持ちの悪い。
そう、ゴミのついたスライムを触るような……
「おかえり」
父が、そうらしい人が出迎えてくれる。
それに対して、笑顔を向けない。むしろ不快感は見せつける。
こんなことやったって意味がないのだけど、私は、こうでもしないと死んでしまう。
「母さんたちは」
「そろそろ帰ってくるんじゃないか。さっさと風呂に入っておけ」
私、来栖クルスは、記憶喪失である。
とは言うが、記憶というのはとても鮮明に宿っていて、つまりは思い出しているから、記憶喪失ではないかもしれない。
前の自分が、何を覚え何を忘れていたのかわからない以上、私はいつまでも不確かな来栖クルスなのだ。
来栖家は、まあ一般的な上流家庭である。
父は大手企業だし、母は舞台人、妹は習い事で忙しい。
じゃあ、私は?
私は、19の、ただのバイトに勤しむ人だ。
なんで大学へ行っていないかというと、私には職があって、それは将棋をする人で、だから大学へ行くつもりもなかった。
ああ、しかし私は記憶喪失になったとき、平仮名すらわからないほど、熱い痛いもわからないほどだったから、将棋なんで指せないようになってしまったのだ。
結構強いプロであったらしいのだが、それはもう昔の他人事である。
記憶喪失と、亡くした記憶を取り戻せても、私は変わっている存在で、つまり将棋の見え方が変わってしまって、引退した。
無くしたのだ、私は。
私は自分の、しかし他人の部屋いる。
ベッドに腰をかけて背筋を伸ばし、部屋を眺める。
記憶が取り戻せたのが、ついこないだの、半年ぐらい前だ。
その時から、私の日々は始まっていて、バイトなんかもいつの間にかやっていたのだ。
私は事故に遭って、暫く眠っていた。
目覚めた時には記憶がなくて、右も左もわからない人であり、介護同然の生活を受けた。
日本語、金の概念、数字の計算、生活の仕方、お風呂に入る理由、ご飯を食べること、痛み、幸せ、人がいつの間にか身につけることを、私は再度身につける必要があると、決めつけられたんだ。
そして無理矢理将棋をさせられて、知らない友達が私に話しかけてきて、その不安が脳に度々スパークを起こし記憶を取り戻させる。
そんなことを繰り返し、一年半かけて私は記憶を取り戻した。
が、無くした時間は取り戻せなかった。
部屋に飾り立てた写真立てを手に取ると、そこには私と同じ顔をした人がいる。
私は、私なのだ。
しかし、他人から見た私は私ではない。
テレビの取材、知らない知人、提案という名の指図、悪意、興味に嫌悪を示す目。
今の世の中は、この日本は、記憶喪失の人間に優しくない。
弱者を、何か劣化をもつ者を、ただ無意識に排除する社会なのだ。
「これは、いらないという物だろうな」
付き合っていたらしい女との写真を、見えないように倒す。
部屋に置かれた本は大半が将棋で、しかも三百冊あるノートには将棋のことがひたすら書きなぐられている。
相手の傾向、昔の棋譜、勝つための全てがここに詰まっている。
それに私は、何も思えない。
無くした物で、一番大きいのが情熱なのだ。
私は何がしたいのか、わからないのだ。
部屋にある将棋盤は、少し埃をかぶっている。
掃除をしないと家族が悲しそうな顔をするから、私は仕方なくと、掃除を始める。
「お兄ちゃん」
「どうぞ」
扉が開いて、女がやってくる。
こいつが私の妹というが、私からしたらただの女子高校生である。
「続き、しよ?」
丁度手に持っていた将棋盤を、部屋の真ん中に置いて、ノートにメモした通りにコマを配置し、続けていた勝負の続きが始まる。
記憶喪失の私に将棋をさせるため、来栖家は皆将棋のルールを覚えた。
そして、私に挑んで、記憶を取り戻させようとしていた。
これはその名残で、私としては、知らぬ妹を知る機会なので断る理由がなかった。
パチ、パチ。
静かに時が流れていく。
相手の手の意図を読み、応える。
思考回路は周り出す。
瓶の蓋が一瞬で開くように、ペダルは最初重いように、回り始めた私の脳はとてつもないスピードで回り出す。
無数の手、無数の勝ち筋。
刺す、狼狽える、手加減はしない。
「お兄ちゃん相変わらず強いね」
参ったと、そういい彼女は駒を片付けていく。
ああ、つまらないな。
私には、いくらやってもこれの面白さがわからない。
なんでこんなもの、
いや、こんなものすら失ったのが、今の私なのだ。
「本当に、将棋はしないの」
なんで悲しそうなんだ、なんで私の道を肯定してくれないんだ。
尊敬できると、彼女は記憶の中で言っていた。
その対象は私ではなくて、過去の来栖クルス。
なんで私を見てくれないのだろう。
「……だって」
言うしかないが、言いたくない。
「つまらないから」
何回目かのこの発言は、相変わらず家族を悲しませる。
私は、この人たちの知っているクルスではないのに。
「もう寝るよ」
そう言い、部屋から追い出して、寝る準備を始める。
脳は糖分を欲しているから、部屋に常備されたチョコレートを五個食べた。
虫歯なんか、知るか。
スマホで時間を確認して、ついでにSNS を見る。
そこに、私がいた。
あの来栖様と連絡先交換しちゃった!!
その言葉と共に、隠し撮りされた、バイト先での私がいる。
それにはたくさんの反応があって、とてもすごいことらしいが、社会観が欠如した私には、わからないことだった。
承認欲求って、なんだろうか。
それは私にもある、はずだ。
私を誰かに見つけて欲しいと言う願望、それは居場所を作りたいという欲望で、
「あ、電話。もしもし」
バイト先の店長からだ。
「はい。はい、はい。……はい、すみません」
「いえ、悪いのは自分の軽率な行動ですので」
「はい、はい。いえ、その、やっぱり同じことの繰り返しにはなると思うので。はい、すみません。……何回も、いままでありがとうございました」
目が覚めた。
朝ごはんを食べて、家から出る。
平日の朝から、バイトもない私は何をするのか?
「どちらへ?」
雇われた家政婦が聞いてくるが、適当に誤魔化した。
妹は私の炎上を知っているだろうが、堅物の両親はインターネットなぞやりはしない。
その妹は昨日のことがあるから、そしてもう高校へ行っているから、誰も私を止められない。
暫く歩いて、河川敷の、線路の下へくる。
一時間は歩いただろう、喉が渇いた。
「あー!」
電車が通るタイミングで、思いっきり叫ぶ。
ここには誰もいなくて、次にもう一度電車が通った時に、また叫ぶ。
朝日は人に優しくない。
日の目は人の目、気ままに叫べない。
だから私は、記憶喪失の、社会から浮いた私は、この澱みを吐き出せない。
ああ、どうか私を、誰か救ってくれまいかと、叫ぶことさえ許されない。
それを言えば、私は、ひどいやつと言われるのだ。
お前の親は、必死に貴様を助けようとしているのに、なんだその言い草はと、そう言われる。
私はなんなんだ?お前らの奴隷か?お前らの偶像か?
私はアイドルでも声優でも俳優でもなんでもないんだぞ!ただの人間なんだ!自由に生きたい!
一度、生まれ変わったような気分なんだ。
無くしたものだけが纏わりついて、私を縛る。
夏の音は蝉だけのように、私の存在はたった一つの、来栖クルスに縛られている。
セックスを求めるセミが、一週間で死ぬと盲信されてあるように、私には、来栖クルスの生態で生活を求められている。
イケメンで、性格がアレで、将棋が強い、私とは違う人間だと思われている。
そんなことは、違うのに。
こんなことなら影の中にいたい。
誰も目立てない、日差しの当たらぬ高架下。
ここにいれば、誰も見つけてくれないはずだ。
動いたところで、過去はまとわりつく。
全く身に覚えのない、過去が。
これは差別で、偏見で、私個人を真に見てないからこそ行われてしまう、愚かしい行為だと、思う。
けど世間からしたらそうではない。
無くした記憶を取り戻すのを、最上の良しとされ、私に来栖クルスを演じさせようとする。
私を見ろ、私を探してくれよ!
いつも、いつも最後にはこの欲求を心で叫ぶ。
誰もいない、外国にでも行きたい。
けれど、両親は、特に母は私を縛ってくる。
私は、意思があるだけの人形ではないか。
逃げたいか?
「それは、もう」
オーラチックな世界が、ここら夢のような場所だとダイレクトに伝えさせる。
(なら、我が手を取るがいい)
その声は男の声で、若い声で、嫌悪感を一切引き出さない、透き通った声だった。
「取ったら、どうなる」
(お前は真に、全てを失う。お前の過去も、今のお前自身も。ゼロから全てを始めるのだ)
「それは嘘だ」
過去なき人間はない。どんなに否定したくても、私には来栖クルスとしての行動があったかのように。
(そうだ、過去は常にまとわりつく。無くなることはない)
「貴様」
開き直るなよ。
(なら、言い方を変えよう。過去を変えたくはないか?今の過去に縛られ、不公平な気持ちだけが覆い被さる貴様の人生を抜け出し、お前の根拠だけが善悪を極める、新たな一歩を)
「それは」
(怖いだろう、しかし望む。優しさを捨てろ!お前がいくら他人という家族を傷つけまいとしても、あいつらは、お前を幸せにはしない!むしろ縛るのは、わかるだろ!)
「確かに、このままいけば、私は親のコネで社会に出て生活する。それは結局来栖クルスということになる」
(なら、お前は私の手を取るしかないのだ。一生後悔するとわかるから、手を取るしかない!)
「……そうですね」
私の肯定は、目の前の男との握手を生む。
(これで、契約は結ばれた。未来へ進むがいい)
「あの、あなたは、なんなんですか」
威厳を満ちた顔を解き、格好すらフランクな、ただの一般人になって、彼は笑う。
「私は神様。全てを統べ、見て、いつかの未来を作り出す人さ」
神、そんなものは、あるのだろうか。
しかしこの世界を、精神の世界と呼べるここを作ってみせたのは彼なのだから、そういった頂上的な存在なのだとは言える。
「君が行く異世界で、君はどう生きたい?」
その問いは重く、つまり私の軸を問われているわけだ。
面接というのは、こういうものだ。
「私は、私として暮らしたいです。来栖クルスではない、誰かとして」
「なら、名前をつけなきゃね」
「……貴方の名前は、なんですか?」
神の名前を聞こうとしたのは、そう、彼に惹かれたからだ。
今から彼によって異世界へ行くというのだから、父のようなものと思い込みたい。
いや、誰かの名前を真似て、そこに繋がりを求めて、つまり私は彼と、シンパシーを感じたいのだ。
「私?私の名前は光堂リン、凛と、燐と、鈴と。あまねく全ての意味込めて、そうつけられた」
「なら、私は、凛としたい。いつも怯えていたけれど、今度の世界では、ちゃんと人の目を見て話したい」
「じゃあクールだ。クールクルス」