デスペラード
生臭い息がわたしの顔にかかる。醜く肉の付いた顎から濁った汗がわたしの首元を濡らす。
下腹部に挿入された異物が上下に動く度、わたしの身体も連動して揺れ、糊の効きすぎたシーツが背中にこすれて熱を持つ。わたしの大きくはない乳房を乱暴に捕まれ、揉みしだかれる。
あとどれくらいで終わるだろうと、わたしはわたしの上に覆いかぶさっている男の禿げあがった頭皮を見つめながら思った。
□□□□
目が痛むほどのネオンサインが輝く道を俯きがちに歩いて行く。酔った男たちの集団が道の真ん中で騒いでいる。腕を組んで歩く男女が迷惑そうにそれを避けていた。スーツを着たキャッチの男が道行く人全てに声を掛けている。どこからか届く怒号に悲鳴、雑多な靴が奏でる足音、笑い声、それらをイヤフォンによって遮断し、わたしは早足になってこの場所から逃げようと急いだ。羽織ったコートのポケットに両手を入れ、左手でもしもの時のスタンガンを、右手で今日の分の売り上げの四万を握りしめた。
ふと視線を上げると、道行く皆がわたしの事を見つめているような気がした。そう思えば思う程、視線の数は増しているような気がして、気分が悪くなってくる。
わたしを責める視線。
わたしを嫌悪する視線。
この場の誰もがわたしのことを知っていて、わたしの行い全てを否定する。わたしの人生を侮り、そして踏みにじる。そんな想像をすればする程、どうしようもなくそれに囚われ、わたしは殆ど駆けるようにして家路を急いだ。
走りながら呼吸をする度に、先程の男に半ば無理矢理飲まされた精液の生臭さが胃の底からこみ上げてきて、もう一度歯を磨きたい衝動にかられた。男の、あの太くて歪な、芋虫の様な指がわたしの身体をなぞる感覚がまだ全身に残っている。
ふと気が付けば、あの騒がしい風景は既に通り過ぎ去っていて、辺りは暗闇の支配する住宅街に変わっていた。点滅を繰り返す街灯が不規則に視界の中を照らす。どこからか聞こえる野良犬の遠吠えが至る所に乱反射する。欠けた月、ドブの臭い、カラスに荒らされたゴミ袋、それらを包み込む静けさの中、わたしの足音だけがやたらと大きく響き渡っていた。
道の先、わたしの家が見えてくる。先程まではそこが恋しくてたまらなかったのに、視界に入った途端帰りたくない気持ちに支配された。自然と歩む速度は落ち、半ば足を引きずるようにして進む。
それでも進み続ける限り、いつかは目的地に到着する。コートのポケットから鍵を取り出して玄関を開けると、直ぐ左手にあるリビングへと続く扉から光が漏れ出していた。光と同時、テレビの音も聞こえている。
わたしは靴を脱ぎながら、持て余した「ただいま」を口の中だけで転がした。
今すぐにでも手を洗い、口をゆすぎ、シャワーを浴びたかったけれど、でもそれを無理矢理に押し殺して自室へと続く階段に脚を掛ける。三段ほど上った所で、リビングからしゃがれた女の声が投げつけられた。
「ナズキ! 帰ってるの?」
ちっと舌を打ち、階段を降りた。リビングへと続く扉に手を掛け、もう一度小さく舌打ちをしながら扉を開く。
「……ただいま」
薄暗いリビングの中、母はくたびれたソファーに腰かけながら、頭がくらくらするほどの大音量を響かせているテレビを眺めていた。手に持った缶ビールを煽ると、ぎらぎらとした、しかし生気のこもっていない瞳でわたしのことを睨みつけてくる。わたしの嫌いな目だった。
「こんな時間までどこに行ってたの! 夜遊びなんて許さないわよ!」
「……ファミレスで友達と勉強してたんだよ。メール入れたよ」
母がちらりとソファーに投げだされている画面のひび割れたスマホに視線を向けた。どうやらわたしからのメールに気が付かなかったらしい。もっとも、メールを見ていたとしても何か小言は言われるだろうけど。
母は顔を醜く歪めながら再びわたしの顔を見て、唾を飛ばしながら大声を上げた。
「勉強なんて家でできるでしょ! 第一、友達同士で集まって集中なんかできるわけないじゃない! そんな暇あるなら家の事一つでもしなさい!」
「……ごめんなさい」
ごめんなさい。ごめんなさい。視線をフローリングに固定し、そう連呼するわたしに、尚も母は追撃する。
「いつもいつもあんたは身勝手で、育ててやった恩も感じず、そればかりか仇で返してくる。いつもいつもあたしのことをゴミを見るような目で見てきて、避けるように生活する。何様のつもりよ。……何様のつもりよっ!」
ごめんなさい。今まで通りそう言えばよかった。いつものように心ない謝罪を繰り返していればよかった。それで終わる。わたしが大人しく母の悪意を受け止めていれば、いつかは終わりを迎える。
なのに、気づけば口は勝手に動いていた。
「……晩御飯も用意してくれないで、洗濯物だって自分のものは自分でしてる。どこに恩を感じないといけないの? そうやって恩を押し付けるような、見返りを求めるのやめた方がいいよ」
わたしが言い返す事なんて殆どないからか、母は目を丸くしていた。それで満足していればよかった。そこでやめていればよかった。でもわたしの口はひとりで動いて言葉を吐き出し続ける。
「そんなんだから、お父さん、他の女作って出ていくんじゃないの?」
そこまで言ってしまって、わたしはハッとした。しまった、言い過ぎた。
そう思った瞬間、わたしが立っていた場所の真横の壁にバンッと大きな音を立てて何かがぶつかった。床に転がったそれに目を向けると、ひしゃげたビールの缶だった。注ぎ口からこぽこぽと泡立った黄金色の液体が溢れ出している。
母が今までにないほどの大声を出した。
「ナズキィィッ!!」
母がいっそ般若の如き形相を伴い、ソファーから立ち上がった。飛びかからんばかりの勢いでわたしの方へと向かってくる。殺される。そう思った。
わたしはリビングを飛び出すと這いつくばるようにして階段を駆け上がった。その後ろを母が奇声を上げながら追いかけてくる。階段を上り切り、廊下の一番奥の自分の部屋に転がり込んだ。扉を閉め、鍵を掛ける。それでも不安で背中を扉に付けて力一杯押さえつけた。その直後、扉越しに強い衝撃が襲い掛かって来た。
「出てきなっ! 殺してやる!」
何度も何度も扉が破られる勢いで殴られ、ドアノブが千切れ飛ぶかと思う程ガチャガチャと回される。耳を劈く母の奇声、そして罵倒。わたしは目をつぶってそれらに耐えた。コートのポケットの中のスタンガンを握りしめ、その存在を確かなものにする。
「ナズキッ! ナズキナズキナズキィッ!」
手が震えた。血の気が引いて行くのが分かる。
それからどれほど時間が経っただろう。いつの間にか母は怒号を上げるのを止めて扉の向こうで泣いていた。嗚咽と鼻声で何を言っているのかは聞き取れない。ただ、わたしへの怨念が込められているような気がした。
わたしは背中で扉を押さえたまま、冷たい床に座り込んだ。スタンガンが入っている方とは逆のポケットに手を入れ、今日の売り上げである四万円を握りしめた。この薄い紙きれが、幾許かの余裕を与えてくれる。
「どうして」
呟く。
「どうしてこうなんだろう」
ぼやけた黄色い月光の差し込む薄暗い部屋の中、わたしは顔を両手で覆った。完全な暗闇がわたしを優しく抱く。気づくと口の中を噛みしめていたらしく、錆びた鉄の味がした。この血の半分が母でできていると考えるだけで吐き気がする。不意にその生臭い液体が猛毒であるかのような錯覚に陥り、思わず床に向かって唾液を吐きだした。血の混じった赤い唾液がフローリングの溝に沿ってゆっくりと広がっていく。
それを眺めながら、わたしと母を捨てていった父の顔を思い浮かべた。女を作り、母の心を壊し、わたしを苦しめている男の顔。昔は大好きだったのに、今はこの世の何よりも憎い男。殺してやりたいとさえ思った。
わたしはナイフを持ち、父と相対している想像をする。背中越しに――扉越しに聞こえる母の嗚咽をシャットダウンするように、妄想の世界へと沈み込んでいく。
わたしと父以外誰も居ない世界。何もない空間。その世界で父の事をナイフで突き刺す。何度も何度も、突き刺していく。こぼれる内臓、飛び散る血液、響き渡る苦悶の声。その世界でわたしは全能だ。念じればナイフだって、拳銃だって、とらばさみだって、ロープだって、炎だって作り出すことができる。殺した父だって何度で生き返らせられる。そうやって殺しては甦らせるたび、父の輪郭が不鮮明になっていく。最終的にそれは父ではなくなって、かろうじて人の身体を保つ何かになっていた。それでもわたしはナイフを振り上げ続ける。
そこでわたしの意識は現実に戻り、顔をあげた。目の前にはカーテンの締め切った、殆ど漆黒に近い部屋が広がっている。吐き出した血の混じった唾液がヌラリと鈍く輝いている。背後の気配は、既にどこかへと消えていた。
わたしはスマホを取り出し、電話帳を開く。しばらく下へとスクロールして、ある電話番号をタップした。数コールの後、スピーカーから雑音とともに男の声が聞こえてくる。
『ナズキ、どした?』
「アキラ、久しぶり。何してんの?」
『んー、なにも』
「ねえ、しばらくそっち泊めてよ」
『えー』
「ヤらせてあげるから」
『……いいよ。なんかあった?』
「まあ……ちょっと殺されそうになってさ」
『へえ、大変だな。冒険でもしてんの? ……まあ取り合えず迎えに行くわ』
「うん」
スマホを仕舞い、膝を抱えてうずくまった。シャワーを浴びたかったが、しかし恐らく寝たであろう母を起こすことになりそうで憚られた。
耳が痛くなるほどの静寂の満ちた薄暗い部屋の中、わたしはただ自分の体を抱きしめて過ごす。そうしていると、時間の感覚もなくなってきて、最後には自分がどこにいるのかも定かではなくなってくる。上下左右の間隔が希薄になってきて、思考が機能しなくなる。このままずっとこの空間に囚われ続けるのではないか、このまま誰にも会わず、何とも干渉せず、深海の海を漂うクラゲのように眠るように死んでいくのではないか。そんな荒唐無稽な想像をしていると、不意にポケットの中のスマホが振動した。見ると、アキラから『ついた』とメッセージがあった。
音をたてないように静かに部屋を出て、階段を下りていく。リビングの方へ視線を向けるとすでに扉は閉まっていて、照明は消えていた。玄関を出ると白いプリウスが家に密着するようにして停まっていた。ハザードランプの点滅が、暗闇に慣れた目に痛い。
「ありがと」
そう言いながら助手席に乗り込み、アキラの顔を見る。彼はそのパサパサの金髪の向こうから目を向けていた。獲物を狙う狐のような鋭い眼光がわたしの体を隅々まで貫く。
「いーよ。その代わり俺の満足いくまで付き合えよ」
「言わなくたって、そのつもりじゃん」
プリウスが発進する。住宅街の細い道だというのに速度が出過ぎている白の車体は、まるで矢のように街の中を切り裂いていく。わたしはその荒い運転に度々肝を冷やしながらも、その恐怖がどこか心地よかった。生きている実感とでもいうのだろうか。
アキラの住むマンションは真新しく、それでいてどこか上品で小金持ちが住んでそうな見た目をしていた。ただそこの家賃は彼自身が払っているわけではなく、彼の親が払っているようだ。どうも、アキラの親は不動産で一発当てたらしく、彼はその脛をかじりながら自由に生きていた。女に酒にクスリ。やりたい放題で絵に描いたようなクズっぷりだが、しかしそのクズさが生きてるなあと思わせて、少し羨ましかった。彼はわたしには無い、生命力とでも言うのか、そういうものを持っている。
エントランスからエレベーターに乗り、アキラの部屋がある階まで上がって通路に出る。その一番奥の部屋がアキラの住む家だ。彼の後に続いて玄関に入っていく。
まるで嵐でも通り過ぎたのかと錯覚するほど散らかったそこは、独特の匂いがした。アキラの臭い、生ごみの臭い、複数の女の香水に、精液の臭い。それらがごっちゃになったそこは、いっそカオスとでも形容したいが、しかし何故だかその臭いが嫌いではなかった。
リビングへと向かっているアキラの背中に、声をかける。
「シャワー借りていい?」
「ん、ああ」
脱衣所へ向かい、今日一日来ていた服を脱ぎ捨てた。白く、細いわたしの裸体があらわになる。でもそれは健康的なものではなくて、風が吹けば折れてしまいそうなほど脆く、醜いものに見えた。
熱く設定されたシャワーを頭から浴びながら、隅の排水溝に目を向ける。そこには誰のかもわからない髪の毛や陰毛が何かの生物のように溜まっていて、その隙間を透明な水が零れ落ちていく。その数多もの水にはわたしの身体の汚れが、あるいは今日寝た男の体液が含まれているのだろうか。そう思うと、無性に身体中がどうしようもなく汚れているような気がして、ボディーソープで泡を立て、爪で皮膚の表面をはがすようにして全身を念入りに洗った。
風呂を出て、バスタオルで水分を拭いながらそういえば着替えどうしようと思った。着てきた服を着直してもいいけれど、それにはあの男の体液や臭いが染みついていそうでどうも嫌だった。仕方なく、洗った後であろう服の山の中からアキラのシャツを引っ張り出してそれを着た。鏡を見る。そこには男のシャツを気だるげに着た飢えたような女の顔が写っている。でも、これから化粧をし直す気は起きず、この家に置きっぱなしの口紅だけ引いた。
リビングに向かうと、アキラはこの部屋で数少ない人間が生活できる空間であるソファーに座ってスマホを弄っていた。あと一つはベッドの上だ。
「シャワーありがと」
「ああ。ってそれ」
顔を上げたアキラが、自分のシャツ一枚だけを着ているわたしを見た。
「借りてる」
「……いいじゃんそれ、エロい」
これから食らう料理に舌鼓を打つように、アキラはわたしのことを凝視して隣に来るように促した。床に散らばるブラジャーやらコンドームの空き箱やら何かの錠剤のゴミやらを避けながら彼の横に腰掛けた。
アキラがわたしの肩に手を回しながら言う。
「いいねえ、そういうの俺好き」
「化粧してないけど」
「いいよ。ミズキはもともと顔整ってるし。てかやっぱ若いだけあって肌きれいだよな」
そう言って、アキラがわたしの頬に触れた。その男特有のゴツゴツした長い指が顔の輪郭をなぞる度、体の奥底から熱い何かが沸き立ってくる。それを感じ、やっぱり女は男に逆らえないのだと思った。男の道具となって、彼らを悦ばせるだけの道具。
視線がふと、目の前のローテーブルに向かった。カップ麺やら、コンビニの弁当の容器やらでごった返したそれらの端に、カラフルな錠剤の入った瓶が置かれていた。ラベルも何も貼られていないそれを手に取る。
「これ、クスリ?」
「新しいやつだ。すげえぜ、それ。マジでとぶ」
アキラの手がシャツの下から入ってきて、わたしの乳房を揉んでいる。シャツに擦れて勃っていた乳頭を彼の爪が控えめに引っ掻く。
「貰っていい?」
「いいけど、一錠だけにしとけよ。冗談じゃなく死ぬぞ」
瓶を開け、中から薄紫色の小さな錠剤を手のひらの上に出した。何の刻印もないそれを躊躇いながらも、それでも唾液だけで飲みこんだ。飲み込んだと同時、アキラに身体を引き寄せられて唇を塞がれる。閉じていた歯を、うねる舌がこじ開けてきてわたしの舌を絡めとった。お互いの唾液が混ざり合い、食道をゆっくりと降りていく。
「んっ……」
頭の中に靄がかかっていく。粘度の高い液体の中を浮遊するような酩酊感。閉じた瞼の裏を白い光がチカチカと瞬いている。こみあげる胃液。耳鳴りがする。爪が剥がれていく感覚。毛穴が泡立つ。息が出来ない。苦しい。気持ちがいい。気持ちがいい。
気持ちがいい――――
□□□□
父がいた頃のわたしの家庭は、それこそ絵に描いたような幸せに満ち満ちていた。
母は厳しかったけれども、わたしを愛してくれ、父は穏やかで優しかった。わたしはそんな両親が大好きだった。
そんな日々は不変なのだと思っていたし、いつまでも続くのだと感じていた。何の疑いもなく、わたしはその幸せを当たり前のように受け取っていた。
だけど、まあ、万物が終焉を迎えるのがこの世の理であるように、その幸せの形は突如としてわたしん前から姿を消した。神隠しにあった子供が跡形もなく消え去ってしまうように、あるいは吐き出した煙草の煙が霧散するように、わたしの前から消え去ってしまった。
父の不倫が発覚したのだ。
相手は父が勤める会社に派遣で働いていた若い女だった。いつも仕事が終わったら真っ先に帰ってきていた父だったが、ある時から妙に帰宅が遅くなった。残業がある日は欠かさず連絡を寄越していた父がそれすらもなく、深夜になって帰ってくるようになったのだ。
不審に思った母が父を強く問い詰めると、彼は抵抗なくすらりと不倫の事実をこぼし、そして然るべき機関に提示された金額と、やっとの思いでローンの払い終わった家を文句なしに投げ捨てて出ていった。
父が出ていった日、玄関で靴ひもを結んでいる彼の背中にわたしは問いかけた。
「ねえ、なんでわたしたちを捨てるの?」
「ナズキを捨てるわけじゃない。お母さんを捨てたんだ。そしてお前は僕について来るより、お母さんと一緒にいた方が多分幸せになれる」
「お母さんのこと、嫌いになったの?」
「……嫌いになったというより、疲れたんだ」
母と父のことはよく知っているつもりだった。でも、父の話を聞き、わたしは何も知らなかったんだと気が付いた。表面上の幸せが全てだと信じ、水面下で起こっていた彼らのすれ違いを認識できなかった。わたしは所詮、彼らの世界の中心ではなかったのだ。
父が出て行ってから、母は、母の心は壊れてしまった。今までずっと勤めてきたスーパーのパートを辞め、家に引き籠ってはずっと安酒を煽るようになった。そこに厳しく、それでも優しかった母の面影はなく、わたしのことを目に留める度に理不尽に罵るようになった。アルコールによって麻痺し、稚拙化した言葉を呂律の回らない舌でわたしにぶつけてくる。
辛かった。今ままで大好きだった母から投げつけられるそれらの言葉は、わたしの心を打ち砕く凶器としては、十分すぎるほどの威力を誇っていた。わたしは母を嫌悪し、父を恨み、そして自分自身の価値を見失った。何を言っても、何をしても、何を成し遂げても、その全てを否定されるこの気持ちがわかるだろうか?
だからわたしは身体を売り始めた。SNSで適当な男を見つけては彼らに会って、そして抱かれ、対価として幾らかの金銭を受け取った。力を込めれば簡単にグシャグシャに握りつぶせるその紙切れだけが、わたしの心の安定剤だった。
そうして彼らから金を受け取ることだけが、わたしがわたし自身の価値を認識できる唯一の方法だった。母によって粉々になった心を辛うじて繋ぎとめておけるたった一つの方法だった。
□□□□
目を開けると、ベッドの上でアキラに抱かれて横になっていた。どうやら寝ていたらしい。
ズキズキと痛む頭を庇いながら身体を起こすと、隣りのアキラも目を覚ました。
「お前、凄かったぞ」
「んん……きおくない」
「すげえだろ今回のクスリ」
立ち上がり、キッチンへ向かって蛇口を捻った。コップを探すのも面倒くさく、両手で水を受け止めて貪るように飲む。ナイフの如き鋭さを持つ冷たい水が、火照った身体の熱を急速に奪っていく。
顔を上げると、全裸のアキラが煙草に火を灯しながらこちらを見ていた。わたしは口元を拭い、彼の許へと向かった。倒れこむように彼の上に乗ってキスをする。煙草の味がした。
それからしばらく、わたしはアキラの家に居続けた。起きている時は殆どセックスをし、腹が減ったら二人して身体を引きずるように近くのコンビニに向かった。夜はアキラの悪友たちと共にバカ騒ぎをして、その度にクスリで頭をぶっ飛ばした。何も考えなくていい、本能に従っていればいいだけのその日々は楽しかった。ずっとここに居続けたいとさえ思った。こんなにも楽で、楽しいのなら永久にアキラの性処理の道具となる人生も悪くはない。
そんなある日、いつものようにアキラの上に跨ってる時、不意にわたしのスマホに電話が掛かってきた。液晶を見ると、登録されていない番号だった。通話ボタンをタップして耳に当てる。
暫く電話の向こうの相手と会話をして、わたしはスマホの電源を切った。萎えたらしいアキラが煙草を取り出しながら聞いてくる。
「誰?」
「学校の先生。そろそろ学校来いってさ。来ないなら家に行くぞって脅された」
「ふうん。そういうのって、普通親に連絡するんじゃねえの?」
「お母さん、電話でないんだって。悪いけど、明日の朝家まで送ってくれない? 制服取りに帰らなきゃ」
「へいへい」
翌朝、アキラの運転するプリウスに乗って久しぶりに自宅へと帰って来た。「じゃあな」と言って走り去るアキラを見送って、玄関へと向かう。
鍵を開錠して中へ入ると、やけに静かだった。まだ母は寝ているのだろうか。
靴を脱ぎ、リビングの扉を開いた。その瞬間、得体のしれない悪臭が鼻腔を貫いた。思わず鼻と口を手で押さえ、後退る。ふと、薄暗い部屋の真ん中に、何かが転がっているのが見えた。目を凝らしながら近づいて行く。
「……お母さん?」
それは母の死体だった。首に太いロープが巻き付き、傍に天井から無理矢理に剥がされた照明の残骸が飛散している。母は醜く顔を歪め、ロープの食い込んだ首もとを掻きむしるようにして固まっていた。足元に、恐らく糞尿だと思う水溜まりが出来ている。逃げたんだと思った。母はこのクソみたいな世界から逃げられたんだ。羨ましいとさえわたしは思った。
わたしは悪臭から逃げるようにリビングを出ると、自分の部屋に行き、久しぶりに制服に身を包んだ。何も入っていないスクールバッグを手に取り、家を後にする。
学校へと続く道を歩いていると、色んな人とすれ違った。スーツを着たサラリーマン風の男、複数人で駆けていく小学生たち、大型犬の糞をビニール袋に入れている初老の女。わたしは彼らと極力目を合わせないようにしながら早足になって歩いた。
学校に着き、自分のクラスで頬杖をついてぼんやりとする。久しぶりに登校してきたクラスメイトに向ける好奇の視線を感じていると、不意に教室の扉が開いて担任の先生が入って来た。彼は険しい顔をしながらわたしの許までやって来ると、一緒に来るように言った。わたしが立ちあがると、彼は生徒たちにホームルームは自習をするように告げた。
担任に続いてわたしは廊下を歩いていると、生徒指導室に連れてこられた。あらかじめ置かれていたパイプ椅子に座らせられると、彼はわたしと向かい合うように置かれたソファーに腰かける。
暫くの沈黙の後、担任は絞り出すような声を出した。
「……なんで最近学校に来ないんだ? なんか辛いことでもあったのか? 先生で良ければ話聞くぞ?」
わたしは小さく頭を振る。
「いえ、勉強したくなくなっただけです」
「……確かにお前の成績はいいとは言えない。でも、卒業できない程ではないだろう? あと数ヶ月頑張るだけだぞ」
「その数ヶ月が嫌なんです」
わたしは視線を担任から外し、彼の背後の窓の外へと向けた。そこにはグラウンドが広がってて、朝練をしていた陸上部たちが片付けをしているのが見える。そんな彼らを美しく照らす朝の陽光、重たげな雲。
視線を再び目の前の男に戻す。彼はまだ何かを言っている。でも、わたしにはそれを聞きとることは出来なかった。何故彼はわたしなんかに構うのだろう。わたしがこのまま学校を辞めると、自分の評価に響くからだろうか。それとも、本当に善意なのだろうか。
わたしはスカートのポケットに手を入れ、四粒の錠剤を取り出した。オレンジに紫、青に白。カラフルなそれらを口に入れ、噛み砕きながら嚥下する。
「おい、今何を食べた?」
担任が怪訝な表情をする。その顔を眺めながら、わたしはどうにも可笑しくなって声を出して笑った。頭の機能が低下していく感覚が確かにある。手先が痺れ、胃がどくどくと蠢いている。
……もういいだろう? わたしは不幸な女なんだ。男に抱かれることでしか自分自身に価値を見出すことが出来ない馬鹿な女なんだ。逃げだすことすらできない、臆病な女なんだ。
立ち上がり、隠し持っていたスタンガンを取り出した。それを見た瞬間、明らかな動揺を見せる担任へと歩み寄りながら、スイッチを押し込む。
青白い、小さな稲妻がわたしの手元で顕現する。弾けるバチッと言う音が、何かの絶叫かのように、いつまでも尾を引いて耳に残り続けていた。




