第4話 ジャストアモーメント
「はぁ。」
上半身を起こすと同時に大きくため息をつく。この無理やり起こされる感じは未だに慣れない。夢の続きのように起こされて、今見ているこの景色も、まだ夢の世界の一部分なのではないかと錯覚してしまいそうになる。
昨日の夢も結局パジャマで話が進んでしまったことを思い出してまたため息をつく。
とりあえず仕事に行かなくてはいけないので、枕元に置いてある携帯を開き、時間を確認する。
6:37。
今日も早起きだ。夢のせいで眠りが浅いからか、どこか寝覚めはよかった。起きてすぐに昨日言われたことを思い出す。
(明日、がんばってくださいね、か。)
結局、最後まで明確な時間も場所も聞くことができなかったし教えてくれもしなかったから、今日のどこで頑張りを見せればいいのか分からない。
(そういえば、今日の夜は井上と約束があったな。)
井上との約束も具体性がなかったし、今日は一体なにをどうすればいいのか全く分からない。
とりあえずベッドから降りて、少し身体の重さを気にしながら洗面台に向かう。顔を洗って、最後の1枚になったフェイスタオルを手に取り、濡れた顔を拭きながら鏡を見る。今日はやけに疲れているような気がする。夢で絶叫系に連れ回されたからだろうか、それとも夢を長く見すぎたからなのか。人が夢を見ているときは脳は休んでいないという話を聞いたことがある。ここ最近、ずっと相生さんに振り回されていたからそろそろ体に限界がきているのかもしれない。まるで1日1日が2日分に感じるような濃密な3日間だった。
顔を拭いたタオルを衣類の積み重なった山の上に放り投げて元の部屋に戻る。ベッドの上に腰を掛けると同時にお腹が鳴る。昨日の元昼食を昨日の夜ご飯にしたことを忘れたまま、重りのある玄関へ向かう。重りを見つけると、少し嫌悪感が沸き上がる。そのまま重りの目の前にしゃがみ込み、重りを見つめ続ける。
(明日もあるんだよなぁ。めんどくさいなぁ。休みまで長いなぁ。)
と、心の中でぼやく。普通の人は俺が一昨日プレゼンが大きな成功を収めて、井上もいて楽しい職場だと思うかもしれないが、俺にとっては少し違う。成功することが嬉しくて、井上のような人と一緒にいることが楽しいだけだ。だから、この職場が好きなのではない。それに、大抵の人は仕事場と家で気持ちにギャップがあるものだ。これは学校でも同じことが言えるだろうし、なんならジムとか習い事教室などにも言えるだろう。つまり何を言いたいかと言うと、行ったら楽しいが行くまでが辛い、だ。
近づいてすぐに重りのチャックが開いていることに気付く。そこにあると思っていたものがない。
(あれ〜?そういえば、昨日、夜ご飯として食ってたんだっけ?)
脳の大半が考え事で埋まっていてご飯の記憶など曖昧だ。
俺は膝に手を置いて勢いよく立ち上がる。その後、両手をズボンのポケットに入れながら元居た部屋に戻る。
再びベッドの上に腰を落ち着かせて携帯を開くと白い袋が携帯の陰から顔を覗かせている。俺はその袋を引き寄せると、中には未開封の菓子パンが1つ入っていた。やはり、昨日のぼーっとしている時に食べていたらしい。袋の中の最後の1つを取り出し、封を開けて口に入れる。携帯に目線を戻し、すぐさまSNSを開く。パンを食べながらタイムラインをスクロールしていく。以前はやる気のなさからくる倦怠感に負けてSNSすら見ないようになっていたが、ここ最近の相生さんの夢と井上と忙しさで今までよりはSNSへの興味が戻り始めている。しかし、少しスクロールしただけでタイムライン上に流れる情報量の多さに忌避感が生じ始める。鼻から勢いよく空気を抜いてすぐさまトレンド欄に移る。タイムラインよりは情報量が少なくなってご飯も進む。10個ほどあるトレンドを上から眺めていると、少しだけ興味をひくワードがトレンド入りを果たしていた。
(星座占いか。占いなんて信じてないけど、それでもちょっと気になるな。)
タップして開くと最初に目に入ったのは注目されている投稿であった。その内容はハートマークやリサイクルみたいなマークの隣の数字が大きい人が発信した様々な報道番組の占い結果であった。次に最新の投稿が流れている欄に飛び、なにも気に留めることなく、ぼーっと遡っていく。番組の結果を写真で投稿している人もいれば、今日の運勢が良かったの悪かったのだのを投稿している人もいる。中には占いへの勧誘やトレンドに合わせた文章からネットビジネスへの勧誘を行っている人もいて、ネットの混沌さが垣間見える。
そろそろSNSを見るのも飽きて閉じようとしたとき、誰かが投稿した画像をうっかり開いてしまった。そこには、
6位 牡羊座 今日は意外な1日になるかも!? ラッキーアイテムは缶コーヒー
と書かれていた。まるで1位のような紹介文だ。一方、1位はというと、とりあえずなにかいいことがあるらしい。それよりも驚いことはラッキーアイテムが缶コーヒーなことだ。そんなの生まれて初めて聞いた。もっと花とか水色の物とかそういう類のものがラッキーアイテムにふさわしいと思うのだが、なにがどうしてこうなったのかを俺は知る由もない。とりあえず今度はちゃんとSNSを閉じて、中身の無い袋をレジ袋に戻す。焦点のあわないまま、もぐもぐと口を動かしていく。今日のことを気にしたところで、もう対策のしようがないのでいつも通りに生活することに決めた。
いつの間にか口の中が空っぽになっていた。他には特にすることもないので身体を大の字に倒して天井を見つめる。時間はまだ余裕がある。この時間どうしようか。今日もまた、早めに会社に行こうか。そんなことを考えながら、時が過ぎるのを待っている。30分ほど経ったと思って携帯を見るとまだ10分しか経っていなかった。
暇だ。どうしようもなく暇だ。
それならいっそいつも通り会社に人が集まるまで会社で寝ていたほうが少しくらいは幸福を感じられるのではないか。やっぱりそうしようか。今日はゲームもやる気が起きないし、ここれから頑張らなきゃいけないことがいつ起こるかも分からないし、もう家を出よう。
重い体を起こして床に置きっぱなしのワイシャツとスーツを着る。昨日はあんなに元気だったのに1日で少し前のやる気のない自分に戻ったように感じる。なにが俺をそうさせたのかはっきりとは分からないが、疲れが関わっていることは確かである。洗面台に向かい、鏡を見ながら髭を剃ってワックスでオールバックにする。そして、歯ブラシにもう残りの少ない歯磨き粉を出して歯を磨く。口をゆすいで出発の準備は終わりだ。
いつも通り重りをもって、足枷を履いて重い扉を開ける。あいにく今日はまた曇りのようだ。
それからいつものように箱に乗って移動する。窓の外から吹く風も少しは涼しくて立っているのが少しだけ楽だった。車窓から見える景色も昨日ほど輝いては見えなくなっていた。
牢獄につくと今日も扉が開いていて、その奥にパソコンに向かっている事務の人がいる。今日も昨日と同じゲームをしているのだろうか。事務の人は誰が入ってきたことを確認するように背中を伸ばしており、俺も事務の人がやっているゲームが気になったまま事務の人を見つめる。すると、互いに視線があってしまい、気まずくなって互いにすぐに視線を前に戻す。
自分のデスクにつくと、重りを床に置いてイスに座る。すぐさま背もたれに寄りかかって天井を見上げる。特段変わったような所もないし、いつものようにキーボードを叩く音とマウスのクリック音だけが鳴り響くだけの静かな部屋だ。俺は一息ついてからいつものように目をつむる。しかし、いつものようにすぐに寝付けないので、昨日の夢を断片的に思い返していく。
(相生さんの手術上手くいってるかなぁ。やっぱり、あのクマはデザインミスなんじゃないかなぁ。袖擦れ合うもたしょうの縁かぁ。)
……。袖触れ合うもたしょうの縁で思い出した。そういえば観覧車から降りる前に結局なんて言いたかったのだろうか。たしょうに掛けた何かなのか、それともクマのことなのか、やっぱり、夢が終わってしまうことなのか、手術のことなのか。相生さんの考えはいつも突発的なことが多いから、俺が考えても予想はつかないが、今思い返しても観覧車が終わることを本当に伝えたかったようには到底見えなかった。時間が無いことに焦っているような視線の揺れは今でもはっきりと思い出せる。考えていても仕方のないことだと分かっていても、なにもしない時間があるとつい考えてしまう。
そうして暇を持て余した俺が次に考え始めたのは相生さんのことだ。そもそも俺にとって相生さんという存在は異質だ。現状、夢の中でしか会えない上に、相生さん自身の夢に俺を連れ込むなんて普通できるはずがない。仮に俺が相生さんの夢に連れていかれたことが本当に神様のせいだとして、自分の性格を変えたいからという理由で初対面の俺を連れまわすのはなかなか度胸がある。何度も繰り返すが、ぐいぐいと攻めよられる姿勢は苦手だ。ただ、敬語だったからか一般的にぐいぐい攻める人よりは嫌に感じる度合いが小さかった。しかし、隣の人も敬語だったことを思い出して、敬語であることは当てにならないことに気づく。相生さんが最も異質だと感じたのは易々と自分の弱みを他人にに見せられるくらいに相手のことを簡単に信じきってしまうことだ。ICカードを拾ってもらっただけでここまで関係が発展することはなかなかにおかしな話だ。もしかしたら、相生さんは関係を作りやすい素質のある人なのだろう。引っ込み思案と言っていたが、きっとそれは周りに気を使っていることの表れなのかもしれない。俺と同じで友達の少ない人だが、これまでもこれからも何もかもが違う。だから、俺と違って相生さんにはきっと快く話せる友人が今はいるはずだ。片や諦観、片や羨望。神様にどちらの味方につくかと問えばその答えは言うまでもない。
昨日の夢の中での俺の思考が思いやりのないことに気付き、自嘲交じりのため息が大きく
空に吹き上がる。思うだけただとは言えど、少しは道徳心を大切にしたい。
(相生さん。もう十分変われてるよ。)
それから時間が過ぎるだけで考え事だけが大きく膨らんでしまい、寝るに寝れなくなってしまう。
(どうしたもんかなぁ。)
そう心の中で呟いたところでなんの行動も起こす気がないことは分かっている。分かっているがつい言いたくなるものだ。
そんな俺の内心を察したかのように声が飛んでくる。
「センパイ。」
肩を優しく叩かれる感覚と共に誰かに囁かれる。目を開くと目の前にはぽっちゃりとした顔があって、驚きの余り前にのめりこむ。するとあまりにも顔が近すぎたために止まるに止まれず、正面衝突してしまう。
「あたっ!」
鈍い音と共に痛がる声が大きく響く。
「あっ、すまん。」
俺は軽く謝るが、目の前にはぶつけたところを両手で押さえながら丸くなっている丸い男がいる。その様子から相当痛かったことは察することができる。男は痛む場所を片手に押さえながら真っ直ぐに立つ。
「だ、大丈夫ですよ。それよりも、センパイは痛くないんですか?結構強めにぶつかりましたけど。」
心配してくれるのはやまやまだが、大丈夫と言った後に「いたた。」と呟くので大丈夫ではないだろう。それをそのまま言おうと考えもしたが、今日はそんな気分ではないので心の中で言っておく。
「俺は石頭だから痛くないけど、本当に大丈夫か?」
「大丈夫です。」
男はぶつけた部分を何度も撫で、空いた掌をこちらに向けながらそう答える。結構痛そうだ。
「それにしてもまた珍しく早いな、井上。」
井上はそれを聞くと空いた手を下ろして少し照れ臭そうな素振りを見せ始める。
「きょ、今日は少し早く来たくて。それに。この時間ならセンパイもいるかなって思って。」
この時間なら、の後ろから声が途端に小さくなって聞こえなくなる。なんだかすごい隠しているような気がしたが、ここは気になる欲をぐっと抑えて話を進める。
「井上もそういう時あるんだな。」
「はい、まあ、時々、あります。」
実をいうと今まで井上は勤務開始時間の10分前には到着していたから、それよりも早く来たのは昨日と今日の2回だけだ。だから、今日の井上は昨日に引き続きどこか違う。
「……そっか。」
井上はようやく頭を撫で終えると、俺の机の上にあるものに気が付く。
「そうだ、センパイ。その書類いつまで机の上に置きっぱなしにするんですか?」
「あ~、これな~。」
俺は机の上にある書類の山に目を向ける。これだけあると、すべてシュレッダーにかけることも一苦労だし、シュレッダーにたまったゴミを片付けることも大変だ。紙1枚1枚は非常に軽いが、それも積み重なると腰が砕けそうなくらい重くなる。チリツモとはよく言ったものだ。
「シュレッダーある場所に持っていくのも面倒だし、このままでいいかな。」
「センパイ、その考え方よくないですよ。」
井上は少し肩を落としながらも、きっぱりと喝を入れてくる。
「そんなこと言われても、実際めんどいしなぁ。俺しか困らないから大丈夫だって。」
「ダメですよ。僕も手伝いますから、せめて半分くらいには減らしましょう?」
そこまで言い寄られると引くに引けない。好意で手伝ってあげると言われているのだから、その好意をないがしろにするのはやはり失礼だと思う。
「そこまで言われたらさすがにやるよ。俺が持っていくから井上はシュレッダー係でいいか?」
「はい!ちゃんと仕分けもしますよ~。」
「相変わらず、ちゃんとしてるな〜、井上は。」
井上はお菓子をもらえた子供のように上機嫌な様子を見せる。
それにしても井上は本当に人をやる気にさせるのが上手だと思う。よく人を見て動いているだけある。それになんだか妙にやる気な気もする。まるで始めからシュレッダー作業をすること決めていたかのような気がする。単に俺がそうするように乗せられた気もするするが、それでも互いが不利益を被るわけではないから特に気にしなくていい。
とりあえず、最初は2人で書類を抱えてシュレッダー室に向かう。事務所のすぐ隣の部屋なのだが、いかんせん事務所がそれなりの広さなので、特に今のような重い物を持ち運ぶときは少し苦労がかかる。シュレッダー室の前に着いて気づく。
「そういえば、この部屋に入ったことないな。」
「えっ!新人教育の時とかにシュレッダーしておいてって頼まれなかったんですか!?」
井上の大きな声が静かな廊下に響き渡る。そんなに驚くことなのだろうか。他にも入ったことのない人は大勢いると思っていた。
俺は指を巧みに操って横スライドのドアを開け、シュレッダー室に入ると部屋の中央には6人くらいで囲んで座れる高さが腰辺りまであるテーブルが置かれている。その上に書類を置いて軽く深呼吸をする。
「俺が新人の頃はそんなことなかったな~。別部署に移った俺の教育係だった先輩は『シュレッダーなんて新人のやる仕事じゃないよ。先に仕事内容をしっかり覚えてもらわないとね。』って言ってたし。」
「えぇ……。もしかして、センパイって人に恵まれていることに気づいてないんですか。」
口から漏れた言葉を表すかのように、井上と俺との間には遠からずも近からずといった絶妙な距離が開いていた。
「確かに、言われてみれば、恵まれてるかも。」
俺は腕を組みながらただ突っ立って納得していたが、井上はシュレッダーにかけやすいように書類を小分けの山にしながらぼやき始める。
「センパイはだいぶ恵まれてますよ。それと、溜めすぎです。これ何年分あるんですか?」
「え~っと、入社してからずっとだったかな。」
それを聞くと井上は書類を持ちながら両手をテーブルの上に置く。
「センパイ……。それはだらしなさすぎですよ。」
井上が落胆していることはその様子からも分かる。そこまで落胆されると少しは言い返したくもなる。
「い、井上はどうなんだよ。ちゃんと片付けてんのか?」
ほぼ躍起だ。痛いところを突かれて恥ずかしくなって言い返す。自己防衛の自然な流れといえばそうなのだが、あまりにも子供のような振る舞いでもある。
「僕は出社したら毎回ちゃんと掃除をしてますので、大丈夫ですよ。それに書類も会社に提出した後は処分してますし。」
「ぐっ。」
井上の見事なカウンターをストレートに食らってなにも言い返せない。
(この完璧人が。)
と当てつけに思いつつも、井上はちゃんとした生活を送っているため、実際には返す言葉がない。結局俺だけが顔を熱くしてみじめに散っていく。
突如、バリバリバリっ!という音が部屋に響く。音のなる方に顔を向けると井上は大きな箱に紙を差し込んでいた。次から次へと黙々と差し込んでいき、早くも1つの山がなくなりかける。
「1年以内のものは残しておきますね。」
「あ、ああ。分かった。」
2人だけの部屋にシュレッダーの音だけが鳴り響くだけで、少し気まずい雰囲気が漂う。こういう時、なにか面白い話題を持っていればいいと思うのだが、既に色々なことへの興味が薄れてしまった今ではそれも叶わない。2人でシュレッダーをかけようにも衝突によって今以上に気まずい空気になるのも億劫だ。それに、井上も下を向いていてなにか考え事をしているようで、いよいよ手持ち無沙汰になった俺はどうしたらいいのか分からない。
そんなことを考えているだけで頭が疲れてきて、大きなあくびが1つ飛び出る。
「センパイ、眠いんですか?」
「そうなんだよな。最近、早く寝ても早く起きちゃうし、寝たとしてもちゃんと寝れた気しないんだよ。」
「そうなんですね。」
いつもなら井上がアドバイスやらをしてくるはずなのだが、今回はそうでなかった。井上はまた何かを考えるように下を向いて黙り込んでしまう。そして、いつの間にか俺に背を向けてシュレッダーをかけている。
シュレッダーの作業は淡々と進み、5つあった山も残り3つになった。それに加えて、ここ1年以内の書類の山も大きくなっている。俺は窓に腰を掛け、時折外の様子を観察する。人や車通りも多くなってきて、この街の朝がようやく訪れてきたようだ。
「せ、センパイ。き、昨日も、同じ人の夢を見たんですか?」
また夢の話だ。昨日もだが、井上は相生さんとの夢にやたら突っかかってくる。それは会話の内容からも分かる。大抵、夢の話なら「昨日、どんな夢を見たんですか?」という聞き方になる。しかし、井上は「昨日も同じ人の夢を見たんですか?」と聞いてくる。ただ、最近相生さんとの夢しか見ていないのは確かだ。だから井上もそんな異常な状況を気にかけているというだけなのかもしれない。つまり、突っかかっているように感じるということ自体、俺の勘違いなのかもしれないということだ。
「見た、けど。昨日からどうした?井上も夢の中の人のこと気になるのか?」
一瞬紙を掴む井上の手に力が入ったように見えた。既に半分断裁されている紙がシュレッダーに吸い込まれ終わると、井上は微笑みながら振り返る。
「や、やだなぁ。最近センパイがあまりにも眠そうにしているから心配してるんですよ。夢を見ている時はちゃんと寝れていないって言われてますし。」
筋肉がこわばったように引きつった口角。いつもと同じように見えて違和感を覚える。しかし、疑いすぎるのもよくない。井上だって井上の事情があるわけだし、もしかしたら井上も寝不足気味なのかもしれない。根拠がないから、そう自分に言い聞かせて疑心暗鬼にならないよう努める。
俺は窓に頭頂部を当てて空を仰ぐ。広い青空に灰色の雲が点々と浮かんでいるのが目に入る。
「あ~、それな~。俺もそれは気にしてるんだよな。やっぱり眠気取れないのは夢のせいなのかな。」
少し投げやり気味の大きな声で会話を続ける。
「僕はそうだと思いますけど。でも、夢ですし、不可抗力ですもんね。」
「……うん、そうだな。」
わざと少し間を開けて井上の後続の言葉のアドバイスを待っていたものの、それはやってこなかった。再びシュレッダーが紙を断裁する音だけが部屋に鳴り響くようになった。灰色の雲は少しずつ勢力を拡大させながら風に乗って流れていく。
(今日、雨降らないといいなぁ。)
傘を持ってきていないことを憂いながら、雨が降らないことを少しばかり願う。
書類の山が残り1つになったところで井上が沈黙を破る。
「センパイ、そろそろ紙もなくなりますので、僕が取りに行きますね。」
俺は頭を戻して答える。急に明るい外から暗い部屋を直視したため、一瞬何も見えなくなる。
少しずつ見えるようになると広いものを見すぎたせいなのか、井上の背中が小さく見える。
「いや、俺が行くよ。何もしてないし。」
自主的にとはいえ、ここまでやってもらって、さらにやってもらうのはさすがに申し訳ない。それに、このままでは先輩という面子も立たない。だから、たとえ井上の好意だとしてもそれくらいは抗いたい。
「いえ、センパイだと裁量間違えるかもしれにないので僕が持ってきます。その間、最後の1山をシュレッダーにかけてください。」
井上は一向に面と向き合おうとしない。さすがに冷静で淡々としながら拒否されると、俺でも不快感が募ってくる。
「おいおい、さすがに信頼なさすぎじゃないか?俺だって配分くらいー。」
「それでは、行ってきます。」
井上は俺の話を最後まで聞かずに出ていく。一度も顔をこちらに向けずに。
パタパタパタという廊下を走る音が少しずつ近づき、途中で鳴り終えると扉が勢いよく開く。そこにいるのは出ていく時とは違う空気をまとっている井上だった。その手には10センチほどの書類の束を持っている。それでも井上の状況が心配で、俺に非があるなら早めに言ってほしいと思いつつ声をかける。
「井上、もう大丈夫なのか?」
「僕は大丈夫ですけど。センパイ、急にどうしたんです?まさか、僕のいない間に悪いものでも食べました?」
頭をぶつけた後と同じような返しに安堵する。それでも先ほどまでとは大きく変わっていることに不信感が生じる。
「そんな時間ないよ。」
シュレッダー作業を進めながらそう返しつつ、出ていく前と後でなにがあったのかについて考える。好きなお菓子が配られていたとか、楽しい話を聞いたからとか、事務所で起こりそうなことを考えられるだけ一通り考えてあくびが出る。それから考えることをやめた。こういう他人の内心に関わることで自分に分からないことは、下手に探ると厄介なことになるのは昨日の夢で分かっていた。今はその戒めを活かす時だ。
ただ、急に二転三転と様子が変わっていく井上を見て、俺の中の井上というキャラがぶれ始めている。
(なんか、調子狂うなぁ。)
井上は俺の隣に来ると、自分のことを深堀されていることなど露知らずに微塵も期待していない言葉で俺を刺してくる。
「あ、センパイ。ちゃんと進んでたんですね。」
「ひっど。」
言い終えて、3秒ほど間が開くと、2人して吹き出すように笑い始める。どこにも笑う要素などないのだが、その時はとにかくおかしかった。
ひとしきりに笑い、テーブルの上の書類の山が増えた分の1山だけになった後、今度は井上が手に持った書類を次々とシュレッダーにかけ始める。
「センパイ。」
「ん?どうした?」
再び神妙な剱持ちをした井上が現れる。今度は何を言い出すのか、という思いが頭の中に充満する。
「あの~。……。」
井上があまりにもストレートに言葉にしないことを気に掛けながら、その内容を今か今かと待つ。噛むことは多いがここまですぐに言葉が出ないことは珍しい。
「この束を終えると、ちょうど始業10分前には終わると思います。」
待っていた割にはそこまで重要なことではなくてずっこける。しかし、時間計算をしている間だと考えると、納得はいく。しかし、俺は、
「ほんとか~?」
と、冗談っぽいようにそそのかす。こればっかりは本当に信じていない。なぜなら、こういう時間の予想話の類は大してあてにならないからだ。会議でもそう、待ち合わせでもそう。大体が後ろいにずれ込む。だから、今回は始業ギリギリまで時間がかかるだろうと信じて疑わなかった。
結果、井上の言った通り、始業の10分前に終わり、書類の山はちょうど半分に減った。
今日も今日とて井上とペアで営業の仕事がある。今日は通った案の今後の展開や契約期間の決定等の話し合いが多い。これらはプレゼンよりは短めなので、合計6件まわることになった。マネージャーさんもたくさんの営業リストを作るの大変そうと思いながら、どこに置いたのか忘れた俺のリストを探している様子を井上と共に眺めていた。今ではすっかり井上とのペアになって、会社の方でもこれから変更する予定はなさそうに思える。ちなみに、俺たちは各種スキルは井上の方が断然高い反面、俺は経験値という面でなんとか存在意義を保っている。井上は優秀だが、まだ理不尽な対応とか矛盾した物言いとか体験したことがないらしい。それなら、井上のほうが人に恵まれていると思うのだが、仕事に対しても真摯な対応をしている分の徳がまわってきているのかもしれない。
打ち合わせは早いところは早く30分程度で話し合いが終わる。そういう会社は基本的に代替案などもいくつか用意していたり、資料作成済みだったり、経験からのシミュレーションができてたりと準備がいいという特徴がある。相手の立場を理解できていることはこちらにとっても非常に高評価だ。そして契約もしやすいし続きやすい。その反対に位置する会社は言うまでもないだろう。そういう会社の中には通りがかる社員が死んだような所をしていることもあるし、上層部が聞く耳を持たない場合が多い。どうしたらそういう社風、性格になってしまうのか甚だ疑問に思う。これは午前の部は話し合いが2つあって、ちょうど順調に進んだものと、そうでないものが1つずつであったことに基づいている。
携帯を開くと12時を越えている。次の話し合いは14時始まりだから、お昼ご飯を食べるくらいの時間はある。いくら他企業に足を運んで話すだけでも空腹はやってくる。
「井上、ご飯どこで食べる?」
「それ、なんですけど……。」
井上がどもり始める。朝の書類処分作業の時もだったが、今日は何か言いかけて、別な話題に移ることが多い気がする。
「井上、今日調子悪いのか?ちゃんと言ってくれないと俺だって分かんないよ?」
ついに俺の我慢にも限界が来た。何か隠そうとしているときはそれを言いたくない時なのだろうけど、あまりにも繰り返されるとさすがに鬱憤が溜まる。少し口調が強すぎたのか、井上はびくびくしている。反省。
「井上、ちょっと強く言い過ぎた。ご―。」
「あ、あの!きょ、今日、お弁当をセンパイの分も、つ、作ってきたので……。一緒に、食べませんか?」
俺の想像を遥かに上回る発言に俺は一瞬宇宙を見たような気がした。
「あ、あの、センパイ?」
俺は呆然としながら井上のハイスペックさを痛感する。
正直、井上がここまで完璧人だと思わなかった。同じ人間だしどこか抜け目はあるんだろ、と思ってきたが、掃除もできる、料理もできる、気遣いもできる、服装も毎回整っている。そう考えると、俺が今まで井上の髪形を歯磨き粉と思ってきたことがどれだけに馬鹿らしいことだったのかと身の程を思い知る。
「井上。今までスマン。」
搾りカスのようなしおれた声がでる。なんだか身体も急激にやせ細った気がする。
「えっ!なんで突然謝るんですか!?」
「いや、気にするな。……それじゃあ、近くの公園にでも行くか。」
「センパイ、どうしてそんなにお爺ちゃん化してるんですか。」
「それも、気にするな。」
俺はよたよたの足で思い当たる公園へ向かう。
「ここだよ、ここ。」
「まだ、それ治らないんですね。」
容赦のないツッコみが枯れた声の俺に襲いかかる。
俺が思い当たった公園-菊沼公園。そこは子供が遊べるうえに、木陰にベンチが完備されているとても広い公園。昔、先輩と一緒にこの辺の営業に来た時は、食事処ではなく弁当やパン、おにぎりなどを買ってここでよく食べた。先輩曰く、「たまにはこういった休憩も大事なんだぞ。」らしい。後から知ったが先輩は子供好きで自然好きだったから大事だと言っていたのだろう。ただ、俺にとってはあまりにも具体性に欠けているその言葉を当時は食事処に行きたくない建前だと思っていた。今思い返しても建前だと思う。
俺たちは空いているベンチに肩を並べて座る。井上は弁当の風呂敷をほどき始める。俺はその様子を覗き見する。井上がずっとやけに縦に長いものを持っているのを見て疑問に感じていたその正体が今、明かされる。俺の目は自然と丸くなる。風呂敷に隠されていたものの正体、それは4段に重ねられた長方形の重箱であった。井上は後頭部に手を当てて照れ臭そうにする。
「お弁当箱を別々で用意する時間がなかったので、これにしちゃいました。」
俺が驚愕している間に井上は次々と準備を進めていく。
「センパイの分はこの2段です。それと箸もどうぞ。先に食べてていいですよ。」
依然と呆然としながら、震える手で重箱2段を受け取る。恐る恐る蓋を開けると色とりどりの主菜、副菜がきれいに並んでいる。その段を外すと今度は五穀米が顔を出す。動悸と息切れが止まらない。
(も、もうやめて……。身体がもたないよ。)
井上は箸を掌で挟んで目をつむる。そして、目を開けると、五穀米から食べ始める。ちゃんと噛んで食べ進める。一方、俺は未だに弁当の実感が湧かなくて井上の方だけ見つめ続ける。俺の視線に気が付いたのか、井上は俺と目を合わせる。
「センパイ、食べないんですか?」
「い、いや、食べるっ!ちゃんと食べるよっ!」
俺は勢いよくご飯を掻き込んで、主菜副菜を一通り食べる。すると、
「ぐっ!」
当然だが喉につっかえる。井上は苦しむ俺の様子を見るや否や急いで蓋がコップになる水筒からお茶を出し、俺に渡す。俺はそれを受け取ると勢いよく飲み干して、喉のつまりを取り除く。
「ぷはぁ~。死ぬかと思ったぁ~。」
井上は俺の横に置かれた弁当箱の中に視線を移してため息をつく。
「一気にそれだけ入れたらそうなりますよ~。」
俺は一息ついた後に決め顔でグッドポーズする。
「でも、めっちゃおいしかったぞ。」
「あんなに苦しんでおいて、味、分かったんですか。」
井上は若干引き気味の態度をとる。今日の井上はだいぶ乗り気な気がする。そんなにツッコむような性分じゃないと思っていたから、これまた調子が狂う。
「な、なんだよ~。今日めっちゃツッコんでくるな~。」
俺は調子に乗ってからかいながら井上の頬を人差し指でツンツンする。
「ちょっとやめてくださいよ。」
井上はそれを払いのけて、再び弁当を食べ始める。さすがにこれ以上は鬱陶しいだけなのでやめておこう。
「それにしても、井上が弁当作ってくれるなんて珍しいな。」
俺はそう言って、大きく口を開けてご飯を一口食べる。
「センパイは食生活もだらしなさそうだったので、つい。」
なんだか酷く馬鹿にされたような気がして一気に血が頭に上るが、
「それに、センパイには健康でいてほしいですから。」
井上の言葉と共に優しい風が吹き、一瞬にして血が引く。俺は思わず口が止まる。井上のその言葉には後輩として先輩を助けているわけでもなく、人として他人に気遣っているものでも無いような気がした。それならなんだと問われると、俺は雰囲気を言語化できるほど優れていないから分からない、と答えるしかない。ただ、これだけは言える。
ご飯を飲み込み、大きく息を吸う。
「井上は本っ当に優しいな~!」
井上は俺の顔を見るや否や、弁当の方に視線を向けて微かに口角を上げる。
「センパイ、そんな満面の笑みで言わなくてもいいですよ。ちょっと恥ずかしいです。」
「でも、事実なんだから、別にいいだろ?」
井上は口をもぐもぐ動かしながら自分の手元にあるお弁当を見つめる。
「……ありがとうございます。」
昼食後、残り4つの話し合いを終わらせると外はすっかり暗くなっていた。すでに俺の所属会社への連絡はついていて、今日は珍しくそのまま帰っていいことになった。
「午後の4社、どこも人当たりが良くて助かったよ。」
「そうですね~。午前の1社だけが大変でしたね。」
そんな会社いじりの談笑をしながら帰路を歩く。しかし、実はこれは平然を装っているだけに過ぎない。俺は今日この後、井上と予定があることを忘れていないし、頑張り時がこれから来るのかもう終わったのかさえ分からない。今にも吐きそうな気持ちを上手い具合に抑えて足を進めている。
駅前にたどりつくと、井上が足を止める。俺は2歩ほど先に進んでしまったので、振り返ると真剣な表情の井上が目に入る。駅の構内は行き交う人で騒がしいのだが、俺たち2人だけがそこから取り除かれたように静けさを感じる。
「センパイ、今日の約束、覚えてますか?」
「うん。覚えてるよ。」
変に緊張し始め、呼吸を整えながら返事を返す。それに対して井上は心底ほっとしたようで、胸の真ん中に手を当てて溶けるように脱力しながら
「よかったぁ。」
と答える。その後、深呼吸を1回してから再び真剣な表情に戻る。
「では、センパイ。今日は僕についてきてください。」
「わ、分かった。」
井上は俺の横を通り抜けてホームに向かい始める。俺の横を通り過ぎる瞬間、俺は井上の表情がこわばっていて、汗が滴っているのが見えた。それを見るとこっちまで余計に緊張してくる。ただでさえ、これから何が起こるか分からずに緊張しているというのに。
井上の足はいつにも増して速い気がする。電車に間に合わせたくて急いでいるのかもしれないし、緊張で自然と早くなっているのかもしれないし、あるいはその両方なのかもしれない。俺はなんとかついていくも背中が汗でびしょ濡れになっているのを感じる。幸いにもスーツを着ているので、ワイシャツの背中のシミは見えないが下手に脇をさらすことはできない。吊革を持ちたくないので、次に来る電車に人が少ないことを祈りながら目的のホームにたどり着く。その20秒後に電車も到着して、そこに駆け込む。
(助かった~。)
どうやら祈りは届いたらしく、電車内は座れるほどには空いている。醜態を晒すことがなくなったのは素直にありがたい。また、冷房が適度に効いており、熱を持った身体を瞬時に冷やしてくれる。そんな快適な状況の中で、俺たちは近くの空いた席に2人で座り、到着まで揺られる。途中、俺たちは一切目も合わせず、話すこともなくただ揺られるのみであった。
もう何度目かの電車が止まると、井上が立ち上がる。俺も後追いして立ち上がり、電車を出る。降りた場所は一度は聞いたことのある街だった。
(たしか、ここは高級店が数多くあることで有名な所だったような。)
見慣れない場所に辺りを見回していると、井上がいつの間にか遠くに行ってしまっていた。俺は急いで井上の背中を追いかける。改札を出ると、当たり前だが見たことがない店が多く並んでいる。そして、そのどれも高級感の漂うものばかりで目を奪われた。
構内もでると、井上は突如立ち止まる。俺もすぐに立ち止まる。少し距離が開いていたおかげでギリギリぶつかることはなかった。
「センパイ、お腹すきませんか?」
背中をむけたまま尋ねられる。俺は携帯を開いて時間を確認した後に答える。
「もうこんな時間だし、お腹は減った~、かも。」
「分かりました。それじゃあ、行きましょうか。」
井上は振り返らずに淡々と歩き進める。俺はその後ろをついていく。井上の態度が異様に変わったこととどこへ向かっているのか分からないせいで、緊張はすでに不安へと変わっていた。
以前と前後関係は変わらず、お昼のような横並びで歩いていた時間を思い出しては肩を落とす。井上は時々携帯を見ながら歩いている。僅かに見えた画面には地図アプリが表示されていた。それによっていつものような行き当たりばったりじゃないことが分かり、ますます不安に駆られる。
次に井上が左方向を見ると、足が止まる。どうやら目的の場所が見つかったらし。俺も同じ方向を向く。その瞬間ヒュっと息が止まりかける。
目の前にあるのはいわゆる3つ星の高級レストランで、ここは特に和洋中のどれもが一級品なことで有名。足が震え始める。
「センパイ、ご足労おかけしました。こちらでゆっくり休みましょう。」
井上が俺の腕を掴み、店内に入ろうとするも、俺は引け腰でそれを拒む。
「いやいやいや、俺そんなにお金持ってきてないんだけど。」
「大丈夫ですって。」
「こんな状況で安心できないって。もっと他の所にしよう。」
井上は引っぱることをやめないし、俺は抵抗することをやめない。互いに均衡した状態で先に力を抜いたのは井上だった。俺は少し後方によろめく。
「分かりました。それでは、ここで待っていてください。」
そう強く言い残して井上は1人で店内に入っていく。俺は入り口の外からで井上と店員さんのやり取りをじーっと見つめる。やり取りは数十秒もかからずに終わり、井上と一緒になぜか店員さんもこちらに向かってくる。入口の扉が開くと、店員さんは俺のほうを向く。俺は店員さんの救いの言葉を今か今かと待っていると、その口から出た言葉は予想に反していた。
「ご予約の笈川様、どうぞ店内へお上がりください。」
「……えっ?」
身に覚えがない言葉に思考が停止する。ヨヤク?俺がいつどこでこのお店の予約をした?
俺が固まっていると、井上が傍まで歩み寄る。
「以前、センパイが1度は来てみたいと仰っていたので、この日のために予約しておいたんです。行きましょう、センパイ。」
そう言ながら再び腕を掴んで俺を引いていく。もう逃げ道のない俺はされるがままに引っ張られていく。1歩、2歩と確実に店内へ向かっていく。俺の立っている場所から入口までは数メートルしかないのにやけに遠くに感じた。
中は予想と寸分も違わない豪華さに溢れていた。場違いな俺は縮こまりながら予約席に座る。井上は対面になるように座る。それからというのも、俺は上の空で食事を行った。何を食べたかも、何を話したかもわからず、気が付くと店の外に戻っていた。ただ、1つだけ覚えていることがあるとするなら、食事中に話している井上はたくさん笑っていたということだ。井上の話によると、俺もいつも通りに振舞っていたそうだ。本当にそんなこと覚えていないのだけれど。
「センパイ、少し歩きましょう。」
「あ、ああ。」
まだ夢から覚めていないようで現実にいる実感がわかない。どこを歩いているのかもどこに向かっているのかも気にかける余裕が無い。
喧騒のおかげで少しずつ意識がはっきりしてくると、視界が少しずつ狭くなっていることに気が付く。
「井上、ここは?」
「近くの公園ですよ。少し、風にあたって休みましょう。」
井上の声が右から聞こえる。やっぱりさっきまでの前後に並ぶ歩き方は道を知らない俺への優しさによるものだったのだと1人で納得する。
遠くから聞こえる噴水の音と、時折吹く涼しい風が俺に落ち着きを取り戻してくれた。
「風が、気持ちいいな。」
共感を期待して呟いたのだが、返ってくる反応はない。隣にいるのは井上ではないと間違えそうになるほど一言もしゃべらない。試しに、「井上?」と呼んでみたものの無言を貫いていた。申し訳ないが、俺は深く息を吸って鼻息を荒立てる。
物静かな公園で独り言はさすがに恥ずかしいので、俺も口を開かなくなる。道を抜けると真ん中に大きな噴水のある広場に辿り着く。噴水の前を横断しようとしたとき、突如、普段の井上なら言わない言葉が飛んでくる。
「センパイ。い、いま彼女はいるんですか?」
「……いないけど。」
一瞬、無視しようかと思ったが、俺たち2人しかいないこの状況と相手が井上ということでやめた。それに、やられたらそのままやり返すというのはあまりにも大人げない。
俺が次の足を出そうとしたその時、井上は勢いよく俺の1歩先に出て、向き合う。白く輝く電灯は井上の背中を照らし、口元や体が僅かながら震えているのを明白にした。
「じゃ、じゃあ、夢に出てきた人は誰なんですか?その人とはどういう関係なんですか?」
痛いところを突かれる。頭の中では状況が分かっていても上手く言葉に表現できない。
「え~っと。実のところ俺もよく分からないんだよ。こう、上手く言葉にできなくて。……すまん。だけど、好きな人とか彼女とかではないよ。これは本当だ。」
「本当に、センパイが好きな人じゃないんですか?」
「うん。」
「……分かりました。センパイのことですから、その言葉を信じます。」
「ありがとう、井上。」
井上がそこまで相生さんを気にしているとは思っていなかった。だから、緊張の走る中だが、誤解が解けたことは非常にありがたい。
ホッとしたのもつかの間であった。俺はこの話が誤解を解くだけでは終わらないことを知らなかった。その先を予想もできなかった。
井上は大きく息を吸い込んでから、真剣なまなざしと小さくも力強声で話を続ける。
「それなら、今ここで言わせてください。」
(あれ?この流れって。)
俺はその一言で次に言われる言葉を察した。
「センパイ。……いえ、笈川さん!初めて会った時から、す、好きですっ!僕と、結婚を前提に、お付き合いしてくださいっ!」
井上は内に秘めていた想いを打ち明けると、深々と頭を下げて俺のほうへと真っ直ぐ左腕を伸ばす。
「え?ちょ、ちょっと、人違いじゃないか?」
俺はたじろぐ。そうなるのも無理はない。俺は告白されたことなんて人生で初めてだ。流れとして分かっていても実際、自分の身に降りかかるとなると話は別。ましてや、相手が井上だ。動揺を隠せるはずもない。
とりあえず、先ほどのレストランで井上はワインを頼んでいたことをおぼろげに思い出し、酔いのせいにしようと人違いだ、と言ってみたものの、いともたやすくその希望は打ち破られる。
「セ、……笈川さん。僕にはあなたしかいません。」
これは本気だ。井上は本気で俺のことが好きなのだ。
「お、俺って、そんなに仕事でいないし、だらしないし、面白くないし、一緒にいてもあんまり良いことないって。」
とりあえず、自分のダメな部分を列挙して目を覚ましてもらおうと試みる。井上は手を伸ばしたまま顔を上げて反論する。
「そんなセンパイが好きなんです!」
井上が再び顔を下に向ける。俺のあまりにも醜い行為に対抗しようと気持ちが高ぶったのか、いつも通り、センパイと呼ばれた。そして、その凛とした姿勢も相まって想いの強さに圧倒される。このまま言い訳のような行為を続けていては埒が明かない。それもそうだ。井上のその言葉は冷やかしでも冗談でもない、胸の内に秘めていた真剣な想いなのだ。ただ井上には残念だが、俺は今まで一度も井上のことを恋愛対象として見たことはない。それは、井上が男だから、という理由ではない。俺が井上のことを仲のいい後輩としか思っていなかったからだ。
この状況で断ることも、告白と同じくらいの勇気が要ると俺は思う。それは断ってしまったことで井上との関係がぎくしゃくし始めてしまうと思っているからだ。だが、仮にこのままOKサインを出してしまったら、それはそれで真剣な井上に顔を向けられない。井上は人がいいから、もしかしたら俺が嘘をついていたとしてもその嘘すらも受け入れてくれるかもしれない。でも、嘘をつき続けられていることによる不信感は年々大きくなっていくはずだ。井上だって人間なのだから、不信感を抱いたまま生きていくことには不快感を覚えると思うし、きっといつか終わってしまう関係になると思う。では、仮に嘘を突き通せた場合はどうなるか。今度は俺が井上との温度差にやられてしまうだろう。俺も人間だ。こんなに正直で真面目な奴に嘘をつき続けるのは心苦しい。
そもそも恋愛成就は両思いであるというのが俺の考えだから、最初から答えは1つしかないのだ。
「笈川さんの本当の気持ちを、教えてください。」
だから、俺は勇気を出さなくてはいけない。それがお互いのこれからのためになるならば、なおさらだ。
「い、井上……。す、すまん。井上とは、付き合えない。」
心臓が大きく拍をとり胸が苦しい。
井上は腕をゆっくりと下ろし、顔を下に向けたまま姿勢を戻す。目から溢れる雫が電灯に照らされて煌めいては落ちていく。俺が一歩踏み出した瞬間、井上は背中を向けて走り去る。
「あっ!井上!」
俺は3歩前に出て立ち止まる。このまま井上を追いかけていいのか、1人にしておいたほうがいいのではないか。しかし、このショックで鬱になったり、果てには死んでしまわないだろうか。すぐに追いかけようと思ったが、井上の告白を断ったのは他の誰でもない、俺なのだ。無理に追いかける方が井上をもっと傷つけるのではないか。
そっとしておく理由、追いかける理由をそれぞれ考える。普通はそっとしておくことが1番だと思う。仮に俺がフラれた側だったら、そうして欲しいからだ。しかし、このまま1人で帰るのは人として道を外していると思うし、井上を1人で帰らせるのも違うと思う。
このまま考え続けても、最後に判断するのは俺なのだ。だから、少しくらい俺のわがままがあってもいいだろう。そうじゃないと俺は一生ここにいることになる。
この先何があっても受け入れなければならない。そう決意を固めて、まずは井上が去っていったほうに向かって走り出す。
こういう時、電話に出ることなんてまずない。だから、電話はあてにならない。しかし、幸いにも井上の映った写真を持っていたため、それを手掛かりに時々街行く人に話を聞きながら少しずつ井上の走った痕跡を追う。
(ほんとに、一体どこに行ったんだ。頼むから死にはしないでくれ。)
走り疲れて、歩きながら井上を探す。当然だが見つからない。俺が必死に探している間、大きな声が集中することを邪魔してくる。
「新作の缶コーヒー1本無料配布中です~。いかがですか~?」
こんな時間にどうしてそんなもの配っているんだ、と癇癪を起しつつ辺りを見回す。無料配布の声が大きくて少しずつ耳障りになってくる。もうここから立ち去ろうと思った瞬間、理由は分からないが今朝の占いが頭をよぎる。たしか、ラッキーアイテムは缶コーヒーだったはず。理性は、そんなものに頼っても見つからない!早く他のところを探せ!と叫ぶが、こんな状況ではたとえ占いでも縋るものが欲しい。
「すみません!1本ください!」
黒を基調としたデザインの缶コーヒーを受け取り、また走り出す。もらった缶コーヒーは今すぐ手放したいほど酷く冷えている。
情報があまりにも少ない自分だけで探すよりも、もっともっと多くの人に聞いたほうがいい。道を行き交う人、交番の警察官、とにかく手あたり次第に尋ねた。それでも見つからず、警察官から一度別れた場所に戻ってみるといいとアドバイスをもらった。そして、それでも見つからない場合はまた警察を頼ってほしいと言い残して衝突事故現場に向かう。その前に衝突事故の話を少しだけ教えてもらうと、車同士の衝突でありその前後で巻き込まれた人はいないそうだ。井上には関係ないことに安堵する。急いで現場に向かう警察官の背中を目で追いながら、交番にいる警察官も暇じゃないことを知る。その急ぐ様に申し訳なく思いながら公園へ向かう。走り回ったから手の中の缶コーヒーはぬるくなっていた。公園からも遠く離れてしまい標識を頼りに来た道を戻る。
このまま見つからず、明日のニュースで井上の顔を見てしまうことや、告白された時の返答が変わっていたら、という考えが俺の頭を支配する。それは俺の思考だけでなく、足も鈍くさせる。
行き交う人がまばらになっていく中、公園にたどり着く。どれだけ歩いたかわからないし、気にする必要もない。あるのかないのか分からない体力を振り絞って噴水のある場所の入り口までたどり着く。すると、この場所から丸くなっているスーツを着た丸い人がいるのが見えた。見覚えのある雰囲気のその姿に一縷の望みをかけて近づく。
俺が影を作ると、男は顔を上げる。目線が合うと、男は目の周りが赤く腫れた顔で弱々しく呟く。
「センパイ……。」
「……隣、いいか?」
井上が開けてくれた場所に座る。今の俺に元気づけることはできないが、井上を独りにしないことはできる。
お互い、外向きに座りしばらくの間、噴水の音を聞く。
手の中にある缶コーヒーを思い出して井上に差し出す。
「そうだ。これ、やるよ。もうぬるくなっちゃったけど。」
「ありがとうございます。」
お互い、ワンテンポ置いて会話を始める。井上は缶コーヒーを受け取ってすぐに口を開けて一口飲むと、自然とため息がこぼれる。
「センパイ。」
「うん?」
俺は少し顔を横に向けて、横目で井上の様子を確認しながら会話を進める。
「どうして僕を探したんですか?」
「えっと~。その~。」
当たり前の質問に上手な言葉が思い浮かばない。これは井上のためというには浅い理由だ。それは、ほとんど自分のためだからだ。それでも、今話さない理由にはならない。
「井上に、死んでほしくないから、かな。」
井上は少し吹き出してから、肩を震わせて笑う。
「センパイらしいですね。」
「そうか?」
「そうですよ。」
井上は再びコーヒーを1口飲んで大きく息を吐く。しばらく会話が途切れて、井上は缶コーヒーを掌で挟んで転がす。
「僕、やっぱりセンパイのこと大好きです。ずっとセンパイのこと大好きですから。フラれましたけど、この気持ちに変わりはないですから。」
「うん。」
「だから、せめてこれからもセンパイの後輩でいさせてください。」
「それは、俺からもお願いするよ。これからも、俺の後輩でいてくれ。」
「……はい。」
井上は残りのコーヒーを勢いよく飲む。そして飲んだ分だけ大きくため息が出る。
「そうだ。今度、センパイの家に行ってもいいですか?」
「ああ、いいよ。汚いけど。」
「掃除なら、僕、得意ですよ。」
「ああ、そうだったな。」
井上は空き缶を三本指で挟んで小さく揺らしている。
「……センパイ。」
「うん?」
「この缶コーヒー、すごく苦いです。」
その後、俺たちは重い腰を上げて公園を後にする。時間も時間なので既に終電を迎えていたが、電車が来るまでに時間がある。俺は足元を掬われないように踏み込みを意識しながら進んでいく。
駅につくとほぼ同時に電車が到着する。電車内は来た時より空いていて、俺たちは少し感覚を空けて隣り合って座る。幸いにも俺がいつも乗車する駅と直通であったことにありがたさを感じて揺られ続ける。
そろそろ俺の降りる駅に着く。隣には井上がいる。
「あれ?井上、俺の降りる駅まで来て大丈夫なのか?」
「はい。そこからでも歩いて帰れますから。それに、もう少しくらい一緒にいさせてください。」
「……分かった。」
それから俺たちは残り僅かの時間を無言のまま揺られ続けた。
車掌の合図で出入口が開き、俺たちは電車から降りる。空調機で冷やされたホームから階段を上る。階段を登りきると空が見える屋根の下まで歩き、立ち止まる。同じタイミングで空を見上げる。俺が井上の方を向くと井上はまだ見上げたままであった。井上はそのまま口を開く。
「センパイ。今日は僕に付き合っていただいてありがとうございました。」
「俺の方こそ、ありがとう。」
井上は俺に笑顔を向ける。腫れた瞼が目を惹く。
「それじゃあ、また明日、ですね。」
そう言い残して井上はそそくさと背を向けて歩き出す。なにか言わないといけないような気がしているのに声が出ない。離れていく井上の背中を目で追う。俺は誰かに押されたように勢いよく声が出る。
「井上っ!」
井上は立ち止まって一息ついた後、少しずつ振り向く。
「帰り道、気をつけろよ。」
勢いよく声を掛けたまではいいものの思いついた言葉はそれだけであった。
井上は悲し気に笑う。
「……ありがとうございます。」
井上と別れて1人夜道を空を見上げて歩く。星がきれいに瞬くほど晴れ渡り、澄みきっているのは俺に対する嫌味なのか。天気に意味の無い八つ当たりをしても何も変わらないことは分かっているが、そうしたいくらい頭の中がぐちゃぐちゃだ。
家に着くとすぐさま玄関に腰を下ろす。その瞬間、重力が大きくなったかのように体が重さを感じる。疲労感が全身に行き渡り、もう手を挙げることもままならない。もちろん、深く思考することすらもできやしない。そんな生きた屍のような状態で足枷を眺め続ける。これまでこんなに疲れたことはあっただろうか。途切れ途切れになる意識を頭を振ることで意地でも繋ぎとめる。しかし、その抵抗もむなしく、身体は床に崩れ落ちた。
さざ波の音で目が覚める。上半身を起こすと刺すような頭痛がして、頭を押さえる。
目に映るのは星一つない暗闇に右側から射し込む白い月明かり、そして、それに照らされる広大な黒い海。自分の体は少し濡れた砂浜に埋まっており、頭を押さえた時のざらざらとした感覚で掌には無数の砂粒が張り付いていることを知る。押し寄せる波が足元に流れるも冷たくもなく波の感覚さえない。これは見かけ上の海だとしたら誰が何のために作ったのか疑問に思う。いや、理由は知らずとも作りたがる人はいた。遊園地付きのあんなに大きなお菓子の国を作った人を俺は知っている。
(もう、相生さんの夢には来ないと思ってたんだけどなぁ。)
大きくため息をついて立ち上がる。相変わらず腰が重たい。立ち上がるのにも一苦労だ。ひとまず大きな白い月に向かって波打ち際を歩く。ただひたすら歩いてると、砂浜から岩に代わる部分に差し掛かる。そこには寄りかかるにはちょうどいい岩が突き出ていたので、寄りかかって足を休める。俺の影すらも隠すくらいには大きな岩だが、上手く足場を探せば上には登れそうなほど小さい。砂浜に落ちる月明かりを眺めて、夢の中なのだから、せめて疲れくらいは感じないようにできないのだろうかと思う。それほどまでに、いつも以上の疲れを感じる。
1分に1回ため息が出る。そうでもしないと体の中に悪いガスがたまって身体を壊しそうだ。
「そんなにため息ばっかりついていると、幸せが逃げちゃいますよ。」
さざ波に紛れて俺を正そうとする声が上から聞こえる、それも、何度も聞いた、女性の声。
「それに、そんなに浮かない顔して。なにかあったんですか?」
俺が無視していることなど気にもせず話を続ける。しかし、俺の目の前には声の主はいない。ならば、どうして俺の表情が分かるのだろうか。
「顔も見てないのにどうして俺の表情が分かるんですか?」
言い当てられたことが変に気に障り、思ったことをそのまま言葉にする。
「質問に質問で返すのはタブーですよ。」
俺の癇癪に対して彼女は子供を優しく叱るような口調で反抗する。それに対して俺は勢いよく鼻から息を吐いて反抗する。彼女も俺の心情を察してくれたようで、少し間を開けて質問に答える。
「そうですね~。確かに私の方から笈川さんの表情は見えてはいませんが、そんなにため息つかれると今の表情にも予想がつきますよ。」
それはそうだ。こんなにため息ついている奴がいて考えられることは2つ。喜びのあまりため息しか出ないやつか、とても不機嫌な奴。俺がどちらの人間かは言うまでもない。
しかし、このままではずっと彼女のペースに乗せられてしまう。こんな俺だってこんな状況でも聞きたいことの1つや2つはあるので、ここは話の流れを変えるしかない。
「今日はなんの用ですか?俺は昨日でお別れだと思ってましたが、今日の俺の様子でも見に来たんですか?」
「また夢の中に来れているのが不思議なんですか?」
質問に質問で返されてさすがに頭にくる。自分の発言には責任を持ってほしい。それに、質問の内容も俺の話したことと噛み合ってすらない。
「……質問に質問で返すのはタブーでしたよね。」
彼女はふふふと笑ってから
「ごめんなさい。」
と笑いながら謝る。何が面白いのか分からないし、そんな謝り方では誠意も感じない。今の俺の様子を察しているなら、これ以上からかうのはデリカシーがないことくらい分かるはずなのだが、そこをからかってくるのが彼女だ。
彼女は深呼吸して笑いを抑えた後、大きく息を吸い込んで話を進める。
「実は、私も昨日で終わりだと思っていました。でも、またこうして夢の中で出会えている。これもまた、何かの縁なのかもしれませんね。」
ようやく口が閉じたようで、聞こえる音は波の打ち寄せる音だけの静寂に戻る。それも、僅かな時間で終わりを迎えた。
「今日、何かあったんですよね。」
「……ええ、ありましたよ。想像もつかなかったことがありました。」
彼女の性格を考えると、これ以上避け続けても聞かれ続けるだろう。そう考えると諦めがついた。
俺が本当のことを口に出し始めると彼女は下手に口を挟まず、ただ傾聴する。相槌を返されると待って思っていたから思わず上を見てしまう。もちろんそこに彼女の姿はない。きっと岩の上に乗っているのだろうと推測しておく。
それから全く反応がないのでこのまま話を進める。
「今日、後輩の井上から告白されました。俺はずっと仲のいい後輩だと思っていたから、突然そんなこと言われて、まあ、驚きました。」
「そうなんですね。」
今度はすぐに反応が返ってきた。それはあまりにも淡泊なもので共感と呼ぶにふさわしくない。ただ理解を示しただけのものだ。俺はあまりにも素っ気ないその返事に困惑する。
「……あまり、驚かないんですね。」
「はい。昨日、笈川さんから後輩さんのお話を聞いた時点で少しそんな気がしていましたから。それに、今どき男性同士、女性同士が恋心を抱くことも、もはや当たり前の世の中ですし、そもそも私はそんなことを気にしてませんから。」
俺は後輩と言っただけで性別までは伝えていない。それなのに井上を男と断定しているような発言だ。たしかに井上は男だが、本当に頭の中を覗かれているような気がして気持ち悪さを感じる。少し本筋とはずれるが彼女を探るにはいい機会かもしれない。
「井上のことを男だと思ているんですか?」
さあ、どう来る。
「はい。」
即答だ。一切の迷いを感じない。ここはもう少し食い下がってみよう。
「どうしてですか?」
「だって、こんなに近い距離で話している私にも”さん” を付けているくらいですから、笈川さんが呼び捨てにするくらい仲がいいようなので、初めてその方の話を聞いた時から男性だと思いましたよ。」
「……相生さんとは出会ってまだ数日ですよ?呼び捨てにできるわけないですよ。」
「そうですか?たしかに私も笈川さんのことさん付けで呼んでますし、人のこと言えませんけど。……そうですね~。たとえどんなに仲の良い女性がいたとしても、笈川さんならさん付けちゃん付けしてそうだから、ですかね。」
口調から真剣に考えながら発言していうことは感じられたが、なんだか今すごく馬鹿にされた気がする。墓穴を掘ったのが自分であることは確かなのだが、こうもはっきり言われるとも思っていなかった。そして、ここまで深入りして気づいた。こんな状況でも、好奇心が他の何よりも勝ってしまうことを。
そんな自分への落胆を示すようにため息をつきながら話を続ける。
「人のこと、良く見てるんですね。」
「……よく言われます。」
妙に空いた間に違和感を覚えるものの、そこには深入りせずに話を本題に戻す。
「そういえば、今日、俺に何が起こるのかを分かっていたから、昨日、頑張れって言ったんですか?」
「ええ。その通りです。どうに転ぶにしても、決して避けることのできない決断を強いられますから。」
俺の様子を確認しているかのような間が空く。
「でも、その様子だと、ちゃんと頑張れたみたいですね。」
「頑張れたんですかねぇ。今でも、この判断が正しいか分からないですよ。」
不安が募り、ため息交じりに答える。
「判断どうこうは分かりませんが、頑張ったと思いますよ。」
「どうしてそう思うんですか?」
「断るにしてもOKするにしても、井上さんとちゃんと向き合おうとした結果だから、ですかね。」
「でも、井上は俺に追いかけられて迷惑だったんじゃないかと今でも思ってます。」
「笈川さん。話、変わってますよ。」
そう言われて俺は黙る。褒められ続けることに怒りを覚え、このまま会話が進んでもムキになって否定し続けてしまうと、そう思ったからだ。
「私は全てを知っているわけではないですし、誰の未来も分かりません。私だって完璧に生きてきたわけじゃないですから、失敗だってしましたし、何度も後悔しました。だから、私は今、心に決めた言葉に従うことにしてます。これは、昨日、一緒に観覧車に乗った時にお話しできなかったことです。」
「え?」
突然、昨日の話に替えられた事と昨日の気にしていたことの答えが突然やってきて驚きと困惑で一瞬思考が止まる。彼女はそんな俺のことなど見えてもいないので気にも留めずに話を続ける。
「袖振れ合うもたしょうの縁、の話です。実は私の中でもう1つの造語があるんですよ。昨日は、残りの時間と笈川さんに今日起こることを考えて言い出せなかったんですけど。」
(あの時、言いかけたことか。)
俺はすっかり彼女の話に夢中になり、さっきまで熱を帯びていた頭が急速に冷えていく。さらに話を聞き漏らすことのないようにと耳を澄ます。
「この世には他人を傷つけるという意味の他傷という言葉があります。よく問題行動として注目されていますが、今回は読んで字のごとくです。」
「他人を、傷つける。」
「そうです。」
俺は聞きなれない言葉の意味を復唱する。波の音にかき消されるほど小さく呟たつもりだったのだが、なぜか彼女の耳に届いていた。
「そうですね。この言葉だけでもあまり伝わらないので、ここからは私の昔話でもしましょうか。」
そこから彼女の声が聞こえなくなる。異様に間を開けていると思ったら、人影が視界の中に入ってくる。その人影は相も変わらず、フリフリの衣装を着て、ニコニコしながら俺の前で立ち止まる。
「せっかくなので昔話はここでしますね。」
「別にいいですよ、相生さん。」
「やっと名前を呼んでくれましたね、笈川さん。」
「それは、その~。間違ってたら、困るので。」
「絶対嘘。」
しばらく俺は沈黙のまま通そうとするも、震えるお腹を止めることができなくなってくる。結果的に鼻から空気が漏れる。他愛もない茶番に笑わされた。そして、再び黙って、ただ時間の流れに身を任せた。
「それじゃあ、話しましょうか。」
先に口を開いたのはやっぱり相生さんで、俺はこれから話を聞かされる立場であることからそうなるだろうと踏んでいた。
「私、人に迷惑をかけないようにってずっと教えられてきました。家でも、学校でも、たくさんの大人から教えられました。だから、人に迷惑をかけてしまったと感じた時にものすごくショックを受けていました。」
その教育は俺もよく受けた。今では闇だとか言われているけど、そういう教育が根付いているのだから継承されていくのも無理はないのだろうと今は思える。
「引っ込み思案なのも相まって静かに生きてきたんですけど、どうやらそれを迷惑に思う人もいるようで。私はなにもしていないのに一方的に嫌がらせを受けていた時期もありました。でも、その”他人に迷惑をかけないように”という言葉が呪いのように染みついていて、私は一度もやり返しませんでした。いつの日かその呪いは私の身を滅ぼすものになるまで大きくなっていました。ある日、私が死んだらもう誰にも迷惑が掛からないと思って、家の2階から落ちました。でも、それもうまくいかなかったんですよね。結局、手術をするようになって、また、迷惑かけて。」
俺はその呪いの教育にそこまで追い詰められたことはないが、気持ちは分かる。どこまでが迷惑じゃないか、どこからが迷惑なのか。その線引きをするのは、本当は相手のはずなのにいつの間にか自分の思う相手にすり替わっているのだ。相手の立場になって考えなさい、という言葉を体現したようなものだ。
「大人たちってすごいですよね~。子供だった私からしたら何でも教えてくれる神様のような存在です。だからこそ、強い言葉は呪いになるんです。それを大人たちは分かっていません。でも、よく考えれば、自分の言葉が呪いになることを分からないのも無理はないですよね。だって、さりげない一言が呪いやトラウマになる場合もありますから。ただ懸命に生きているだけなのに、ある日突然、こうなったのはお前のせいだ~!なんて言われて、ピンと来るはずもないですよね。と言っても、これもただの愚痴にしかならないんですけどね。」
相生さんは長く話していたせいか、一呼吸置く。
「少し話が逸れましたが、そういう想いが募って今の私があります。いつしか、私は結局どこまでいっても他人を傷つけて、他人に傷つけられて生きているんだって考えるようになりました。……そうですね。」
顎に手を当て、目線を上げて考えているような仕草を取る。しばらく考えてから人差し指をピンと伸ばして口を開く。
「例えば道を歩いていて偶然肩がぶつかってしまったとしましょう。その時、ぶつけられた人は不愉快でしょう?そんな些細なことでも、ストレスっていう名前の小さな傷になるんです。」
確かに、俺だって肩ぶつけられたら少しは頭に来る。相手にぶつかろうとする意思がなくても、そんなこと口に出してもらわないと俺には分からないからだ。
「だからあの時に、袖振れ合うも他傷の縁なんだって伝えたかったんです。例え、私たちの縁は袖の振れ合う程度のことでさえも相手を傷つけてしまうような些細な繋がりなんだって。そう言いたかったんです。」
(どんな些細なことでも、相を傷つけてしまう繋がり。)
頭の中に井上の顔がよぎる。
「私の夢が始まってからも、迷惑をたくさんかけました。最初は笈川さんにお礼を言うだけで終わりたかったんですけど、いざ別れるとなると、また独りに戻ってしまうって思うと、急に寂しくなってしまってー。笈川さんからしたら迷惑な話ですよね。知らない人に知らない場所に連れてこられて、一方的に振り回されて。自分では気づいていないかもしれませんが、だいぶ不機嫌そうな顔してましたよ。」
不機嫌な顔。それは俺も自覚がある。俺は嘘をつくことが苦手だ。苦手なことは苦手なままだ。それが染み付いてしまったものであれば尚更だ。
「それでも、誰かと一緒にいることがこんなに楽しいなんて思えたの、久しぶりで。ずっとこんなに楽しい時間が続けばいいなって思ってました。本当に自分勝手だなって私も思います。……笈川さん、ごめんなさい。」
そう言われて頭を下げられる。こうしてかしこまって謝罪されると罪悪感がわく。俺だって真人間ではないし、つい最近傷を負わせた人もいる。相生さんにも嫌な顔を向けていたわけで、謝られるような立場ではない。
「謝らなくていいですよ。相生さんだけが自分勝手だなんて、そんなこと、ないですから。」
「……ありがとうございます。やっぱり、笈川さんって優しいんですね。」
「そう、ですか。」
俺は俺の勝手で井上を追いかけたことを思い出した。告白をフッた相手が立ち去ったときは1人にさせてあげるのが普通だ。だって、フラれた人はフッた人の顔など見たくもないから。では、本当に優しい人なら、井上に告白されたあの時にどんな答えを出していたのだろう。仮にフッたとしてその後どんな行動を起こしていたのだろう。本当に優しい人なら、きっと井上を傷つけない方法を知っているのだろう。井上とは今後もより良い仲を深めていくという形になったが、俺がフッたという事実は変わらない。そして、それは井上の中で一生残る傷であるということを自覚しておかなければならない。
どんなに些細なことでも傷つけ、傷つけられる。そんな人生なら、俺はその傷に対して真摯に向き合っていくしかない。
「相生さん。袖触れ合うも他傷の縁、覚えておきます。」
「そう言ってもらえると嬉しいです。」
目に映る相生さんに違和感を覚え目をこするも見え方は変わらない。先程まで月の光に照らされていて気が付かなかったが、相生さんの身体がぼんやりとした白い光に包まれている
「相生さん、身体が……。」
相生さんは自身の手を見つめる。その掌から小さな光の玉が少し浮かんでは暗闇に消えていく。そして、その現象は掌だけでなく全身に現れるようになっていく。
「……もうお別れの時間ですね。」
出会いも突然だったが、別れの時は唐突に訪れる。本当にどこまでいっても突然な人だ。
「笈川さん。」
「……はい。」
別れを惜しむように続いていた静寂を名前を呼ぶことで打ち破る。俺は泳いでいた視線を相生さんに向ける。相生さんは深呼吸して再び口を開く。
「奇跡的に覚えていられたこれまでの夢のことは、きっと次に目が覚めた時にはお互いに忘れてしまっているかもしれません。それでも、出会ってから今日まで、私はすっごく楽しかったです。」
昨日とは打って変わった別れの言葉。相生さんにはこの先夢で会うことはないと遠回しに突きつけられる。これまで嫌なことがたくさんあった。でも、それだけじゃないことも知っている。短い間だったが、相生さんという1人の人間に深く付き合ってきたことで、俺にも変化があった。
「俺は、最初は相生さんのこと、苦手でした。今でも、まだちょっと苦手です。でも、俺も楽しかったです。相生さんに少しでも笑ってもらえて、よかったです。」
「私のこと苦手って。それ、最後に言います?」
相生さんは笑って返すが、その声は震えている。少しずつ透明になっていくその身体は小さな丸い光を浮かばせては空に消えていく。笑い声は徐々に涙声へと変わり、咳き上げ始める。
鼻を大きくすすった後にため込んだ息を勢いよく吐き出す。
「笈川さん。本当に、ありがとうございました。」
そう言い残して、相生さんの姿は光となって消えてしまった。
最後まで笑顔を崩さなかったその顔から、一筋の雫が零れ落ちて地面を濡らした。
その跡を見て距離感を感じた。相生さんにとっては別れ際に泣くほど大きな出会いだったのだろう。しかし、俺にとっては一時の新しい出会いに過ぎない。楽しいと感じていたことは嘘ではないと身に染みて分かっているのだが、寂しさを感じない。この場所に唯1人、俺だけが取り残されたことも相まって疎外感に襲われる。
気持ちの吐き先も目的もなく海沿いを歩く。それからのことは、俺もよく覚えていない。
携帯のバイブが頭を揺らし、耳元でデフォルトの着信音を大きく鳴らす音で目が覚める。まだ寝たいと叫んでいる身体を何とか動かして携帯を開くと電話が届いていた。
(こんな朝早くから電話なんて、非常識にも程があるだろ。)
そう思いながら瞼を閉じて電話に出る。
「センパイ!遅刻ですよ!」
それを聞いてから瞼が勢いよく開き、携帯の画面を上からスクロールして時間を確認する。
10:18。
本当に遅刻で一瞬にして眠気が覚める。その勢いのまま飛び起きる。