第3話 夢、再び
大きく息を吸ってゆっくりと吐く。上半身を起こそうと力を入れると腕やお腹に痛みが走る。鈍い痛み、これは筋肉痛だ。
腕で体を支えながらゆっくりと上半身を起こす。動かせないほど痛くはないが、今日の営業には響きそうだ。夢のせいで寝ながら筋肉痛になったのか、それとも昨日の営業後のはしゃぎが今日に響いたのか。どちらにせよ筋肉痛で動けないなんてことを井上に話したらからわれそうだ。
力の入らない自分の腕を眺めてため息をつく。昨日の夢も一昨日と同じく頭に張り付いて離れない。まるで本当に実際に起きたことのように、様々な感覚が鮮明に残っている。2度目のゼリーの上に落ちたこと、空を飛んだこと、変なクマに出会ったこと、相生さんを連れてジェットコースターに乗ったこと、たくさんの恥ずかしいこと、そして、相生さんの別れ際の表情。その全てを覚えている。最も記憶に焼き付いているのは、やはり別れ際の表情。相生さんは自分が落ちているのにどうしてそんなに幸せそうに笑っていられたのか。俺には想像しがたい。手も伸ばさず、重力に身を任せて落ちていくその様を、俺はただ見つめることしかできなかった。手を握ることができなかった。もう少し早かったら手を握ることができていたのかもしれない。ただ、その後どうなるかは想像できない。俺が手を伸ばしたのも身体が反射的に動いたからだ。たぶん、それは人が高いところから落ちるとどうなるかを知っているからだと思う。
なにか嫌な気持ちが募る。それに加えて、相生さんのことがより分からなくて距離感が掴みにくくなった気がする。相生さんは相変わらず無茶苦茶だと思う。突然空飛ぶし、暗い森を見つければ童話の真似事を始めようとするし、変なクマと仲良さそうだったし。でも、いつも無茶苦茶元気なわけではない。深い赤色に対する恐怖と、森に入いる前の催眠状態のような現象。相生さんはいつも大きなことを後回しにするから、俺はそれらの原因が全く分からない。予想がついているものも少しはあるが、あくまで予想だ。真実ではない。それに、仮に俺の予想があっていたとしても、相生さんを助ける方法を俺が知っているとは限らない。あまりにも無力だ。
よくよく考えると、俺たちはまだ出会って2日だ。本来、人間関係の構築には時間がかかるもの。今、かなり近い距離にると感じるのは相生さんが積極的にコミュニケーションを取ってくれているおかげだ。だから、調子に乗って深入りすると地雷を踏みかねない。そして、俺はこのことを戒めにしなくてはいけない。遊園地内ではあまりにお恥ずかしい行動が目立った。急に手を握って連れまわすことなど言語道断だ。
いろいろ振り返ってから携帯を探す。携帯は床に落ちていた。電源ボタンを押すとバッテリー表示が15%を示しているのが目に入る。急いで充電器を探し始めるも筋肉痛が邪魔で思うように動けない。ようやく見つけると今度はコンセントに刺すときに大ダメージが発生する。なんとか携帯を充電し始めることができ、風船の空気を抜く様に勢いよく鼻息を出す。
落ち着いたところで携帯を開いて時間を確認すると、午前6時3分を表示している。あまりにも長い夢を見ていたから寝坊でもしてしまったかと思っていた。これなら出勤までだいぶ余裕がある。今日はいつも以上にゆっくり準備できそうだ。窓の外を確認すると、昨日の昼の雨から一変、今日は一面の青。俺は良くも悪くも単純だから落ち込んだ日も、ちょっとしたことで立ち直うことができる。昨日の営業の件も夢のこともちゃんと反省した。
今日はいい天気でいいことが起こる気がする。
まずはシャワーを浴びて汚れとワックスを落とす。汚れと共に疲れも流れ落ちていく。全身を洗い流してから一度半袖短パンという軽い服装に変えて気分爽快だ。次に朝ごはんの支度を始める。最近はちゃんとご飯も食べていないので、昔に家から送られてきたバランス栄養食を食べる。もさもさとした感じが苦手だが、久々に食べると懐かしい気持ちに包まれた。賞味期限もそろそろ限界を迎えそうだったことと、1箱だと食べ足りなさを感じ、結局合計3箱食べた。こんな地味な見た目をしてしっかりお腹が膨れることに驚く。これを開発した人は天才だ。ご飯も終えたところで一休憩を入れる。埃のかぶったテレビはつける気がなかったから、狩猟ゲームの入った携帯ゲーム機を手に取る。電源をつけて遊び始めると、忘れていた楽しさをようやく思い出す。義務感も使命感もなにもない本当の意味での娯楽。負けることさえ楽しさを感じる。ただ、あまり時間もかけられないのでちょうど今終わったクエストを最後に電源を切る。
時間を確認する。もう7時を回っている。遠くの学校へ向かう子供たちは元気な声が響き始める。
俺も、もう行こう。始業前のいつもの時間を過ごすためにも。
ハンガーに寄りかかるように引っかかっているワイシャツを取り上げ、お風呂場に向かう。ワイシャツを洗濯機の蓋の上にのせてあるスーツの上に乗せて着替え始める。ご機嫌に鼻歌を歌いながら着替える。スーツの襟を両手で持って2回引っ張りしわを伸ばす。歯を磨いてから、いつもの髪形にセットをする。鏡の中にいる俺、今まであんまり見てこなかったけど、今日は元気そうにしている。部屋に戻って携帯を取る。充電は70%近くまで回復していた。今日は難なく乗り切れそうだ。軽い足取りで重りと足枷のある玄関に向かう。この2点セットには義務感を強調させる何かを感じて、未だに抵抗感がある。ただ、今日はそこまで否定したい気持ちでもないので、深呼吸を1回して仕方なく身に着ける。靴箱の上に置いてあるカギを拾い、いざ、外の世界へ。
今日はいつもよりも早く家を出た。子供とはよくすれ違うが、車や大人はまちまちといった様子。太陽が背中に照り付けるが、まだ十分な光を灯していないからかそれほど暑くもない。いや、やっぱり動けば暑かった。スーツだし、黒いし、太陽光吸収するし、やっぱり暑い。ただ、気温自体はそれほど高くないらしい。風が吹けば涼しさは感じる。
足を進めていると、さらに涼しい場所へたどり着く。それは最寄りの地下鉄。この温かくも冷たくもない風は汗をかいたサラリーマンが風邪を引かないくらいの涼しさでちょうどいい。空いているベンチに腰をかけ、スーツを脱いで風通りをよくする。ワイシャツを通る風が次々と熱を逃していく。次の電車まで少し時間がある。目をつむって風に身を任せよう。
遠くからガタン、ゴトン、と聞きなれた音が聞こえてくる。その音は瞬く間に大きくなり、俺の意識を現実に戻してくれる。目の前に止まった鉄の箱は扉を開けて俺を迎える。この調子だと、この鉄の箱の中でもゆりかご状態になっているかもしれない。ただ、目的地にちゃんと着けば問題はない。
静かな揺れ。流れる景色。太陽に照らされた街並みが青空に映える。いつもより輝いて見える。それはこの街に初めてきたときのことを思い出させた。
あの時は目に映る全てが輝いて見えていた。背の高い建物、長い行列のできる飲み物屋さん、おしゃれなレストランにどこにでも置いてあるチェーン店。俺の町に無かったものがここには全て揃っていた。他にも5分おきに置いてあるコンビニ、本数の多い電車、あちこちに置いてある娯楽施設など挙げればきりがない。そんな中、最も記憶に残っているのは車窓から見えた街の景色だ。ちょうど今見ているこの景色と同じような景色だった。川の上を走っているときの水面の輝きや、ホームに掲載されている店舗の看板、電灯で照らされた地下鉄と小さなお店。目に映るものが次々と移り変わるのは子供が遊園地のアトラクションを見つめている様と同じ感覚だった。
今はあの時から数年は時が経って、街の景色も少しずつ変わっているから、全く同じ景色とは言えない。しかし、今日はあの時の景色の方が良かった、とは言えない。つい最近まで俺は飽き飽きした生活を送っていたからだ。
そういえば、いつからだろう、俺の目に輝きが映らなくなったのは。車窓に流れる景色を眺めて昔の記憶を思い出していく。しかし頭の中に思い浮かぶ景色は深い霧がかかったように鮮明に思い出すことができない。景色というものはあまりにも当たり前のものすぎて覚えていられない。それならば、今はそんなことを考えるのはやめておこう。
今はこの車窓に映る景色を静かに眺めているだけでいい。
目的地の最寄り駅に辿り着く。いつものように人の隙間を縫うようにして箱の外に出て、圧迫された空気から解放される。路線図の掲示板の近くに立って服のしわを伸ばす。ホームを通りゆく人が少なくなってから足を踏み出す。この先には牢獄と至福の時が同じ場所に待ち受けている。
牢獄には軽くステップを踏みながら辿り着く。
「おはようございま~す。」
いつもより少しだけ声を張る。小さい声の挨拶が返ってくる。その方を向きながらごちゃごちゃのデスクに向かう。今日は早く出たからか、事務の人1人だけがデスクに着席して机の上を整理している。
(あの人、いっつも早いよなぁ。昨日の帰り際、あんなに元気だったのに朝は元気ないのかな。)
俺は感心と疑問を持ちながら自分のデスクに着くと、床に重りを置いて、イスに深々と座る。天井を見上げながら気になったことを考える。
(事務の人、綺麗に掃除してたな〜。今まで気にしてなかったけど、毎日掃除してんのかな。)
目を瞑って自分の机を思い返す。俺にとっては見慣れた机だが、よくよく考えたらこんなゴミ溜めのようなデスクなんて、誰も近寄りたくないだろう。俺でも寄りたくない。そんな時、今まで面倒くさがって忘れたふりをしていた言葉が何度も頭の中に思い浮かぶ。ため息をついてから勢いをつけて立ち上がる。
(掃除、するか~。)
背筋を伸ばして必要なものを考える。まずは袋が欲しい。が、あいにくそんなものは持ち合わせていない。コンビニで数枚貰っておくのが妥当だろう。有料になってしまったが、そんな細かいことを今は気にしていられない。袋貰うついでに昼飯も買っておこう。掃除と言えば家の掃除もしなくてはならない。家はゴミ屋敷とまではいかないが、とにかく服が散らばっている。きっとゴミもたくさん隠されていることだろう。面倒なので、そっちはそのうち何とかしよう。
とりあえず、今は昼飯と袋だ。
精一杯伸びたところでコンビニを目指す。出入口に差し掛かると、先ほどまで机の上を整理していた事務の人が目に入る。事務の人は眼鏡を光らせてパソコンの画面とにらめっこをしている。仕事をしているのだろうか。まだ始業時間ではないのに仕事をしている、その熱心さには思わず感心した。でも、それを真似する気はきっと一生かけてもこない。仕事は営業時間にやるという契約だ。それ以上もそれ以下もない。
事務の人を後にして牢獄から外に出る。直近の通りを歩く人はまだまばらだ。牢獄に人が入ってくる様子もない。それもそのはず。いくら都会と言ってもこの牢獄のある地域は主要な地域ではない。それに、わざわざ早い時間から牢獄にやってこようとする人なんている筈がないからだ。楽しみにすることがない限り。
周りを見渡して7と11が特徴的な24時間営業コンビニを探す。最近寄ってなかったから位置をすっかり忘れており、近いところにあるという事実だけを覚えていた。朝日の輝きはちょうどいい逆光を作り、掌をおでこにあてて日よけを作る。
お求めのコンビニはすぐに見つかった。5分ほど歩いて自動ドアをくぐると、冷えた空気が吹き抜けて若干身震いを起こす。中に入って菓子パンコーナーへ向かう。なじみのあるものから見たことのないものまでラインナップは様々だ。新作のコロッケパン1つとなじみのあるチョコチップ入りのちぎりパン、そして、メロンパンを手に取り、後ろの飲み物の棚を眺める。昔からコンビニに入ると飲むヨーグルトのイチゴ味を買う癖がある。それは今日も例外ではない。
レジに立ってお会計に入る。買った商品のラインナップも考えて大きいサイズのレジ袋を5つ買っておく。店員は困惑した様子でレジ袋を用意していたが、俺は気にせずただ待っていた。
牢獄に戻ると、事務の人は変わらず真剣にパソコンの画面を見つめている。何をしているのか少しは気になる。遠くから目を凝らして見つめる。すると、相手は視線に気付いたのか姿勢を正してこちらを見る。嫌に白く光る眼鏡を向けられ、俺は急いで反対の方向に頭を動かし、外を見ているように振る舞う。視線を向けていたことを悟られないように必死に外を向いてイスが備え付けられているゴミ溜めに向かう。
ゴミ溜めに辿り着くと、ゆっくりイスに座り込む。ゴミ溜めを見つめる。卓上には空き缶やお菓子の包装、食べカス、そして書類がこれでもかと言うほど散乱している。改めて見ると、あまりのゴミ箱らしさにドン引きだ。
(こんなんでよく怒られなかったな。普通なら厳重注意もんだぞ。)
いや、これは既に飽きられていた結果なのかもしれない。作業するときは書類を適当に積み上げて食べカスを払い除けるから隅の方に少し山ができている。よくもまあ、こんな場所で作業してきたと感心する。
積み上がった書類に頭を乗せて大きく溜息をつく。やる気のない声で呟く。
「やるか~。」
頭を上げて、手にぶら下がっているレジ袋の中からレジ袋を2枚取り出し、昼飯と残りの袋が入ったレジ袋を重りの近くに置く。
まずは取り除きやすい飲み物の空を捨てることから始める。よく飲んでいる飲むヨーグルトの容器と時々飲みたくなる甘いカフェオレの空き缶を分けて入れる。空き缶5本に対して、飲むヨーグルトの容器は10本。そのまま飲むヨーグルトの容器が入ったレジ袋にお菓子の個包装袋を次々と投げ入れる。投げても投げても隙間からドンドン出てくる。無限に湧いてくるように思える。食べたらちゃんと捨ててくれ、俺。
ありがたいことにレジ袋が大きかったので、取りやすいゴミは机の上からなくなった。次は食べカスだ。ここの社員はなにかとお土産にクッキーを選ぶ傾向にある。まあ、クッキーって日持ちいいし、嫌いな人少ないだろうから好まれるのも分かる。かく言う俺もお土産を選ぶ立場なら迷わずクッキーを選ぶ。
みんなそんな感じだから、俺の机の上には茶色の粒がたくさん落ちてる。書類の上にも乗っている。まずは書類の上に乗ったそれを静かに卓上に落として書類をイスの上に乗せ始める。小分けにしながら次々と乗せていくと、書類の右上に描いてある数字がが少しずつ小さくなっていくことに気づく。そして、一番最後の塊に書かれた数字を見て笑いがこみあげる。
(うっそだろ!これ2年前のやつじゃん!)
塊の一番上の紙を手に取り、内容に目を通す。その時の強烈な思い出が蘇る。
(たしか、この後の飲み会で部長が子供みたいに駄々こね始めたんだよなぁ。)
感極まって思わず深呼吸と共に言葉が漏れる。
「はぁ。懐かしいなぁ。」
胸にほのかな温もりを感じる。
「センパイ。そんなにうっとりして、ラブレターでも貰ったんですか?」
「うおおっ!」
ひょこっと現れる声に思わず大きな声が出る。すぐさま後ろを振り向くと、そこには髪型をばっちり歯磨き粉型に決めているふくよかな青年、井上が書類を覗きこむように立っていた。
俺は心臓に右手に手をあてながら安心を噛みしめるような声を出す。
「もぉ~。井上、ビビらせんなよぉ~。」
井上は嬉しそうにしながら後頭部に手をあてる。今日も変わらず元気そうで何よりだ。ただ、いつもより違うことに疑問が生じる。
「井上、今日はやけに早いな。いつも始業10分前くらいの到着なのに。」
井上は顔を赤くして恥ずかしそうにしながら答える。
「昨日、興奮しちゃってたのか、よく寝付けなかったんですよ。」
井上は昨日の案件通ったこと寝れなくなるくらいに嬉しかったのか。先輩として後輩にも喜んでもらえると、この仕事を選んだのもあながち間違いでは無かったのかもしれないと思えた。それと同時にこんなに恵まれた後輩がいることに最近気が付けたことに罪悪感を覚える。もう俺の笑顔はいつの間にか苦笑いに変わっていて、それを隠すために卓上に視線を移して話を続ける。
「そっか~。俺は逆に疲れですぐに寝ちゃったけどな~。」
相変わらず元気のいい声だ。
「さすがセンパイですね!」
途端、井上は明るい口調から一変する。
「……それに、朝は家に居ても立ってもいられなかったんです。」
それは柔らかさを残したまま別なことを考えているような物言いだと感じた。追求するまでもないと思ったが、返す言葉には迷う。
「……まあ、夜更かしに気をつけろよ、井上。」
それとなく気遣いながら話の流れを崩さないような言葉を選ぶ。井上は俺の言葉を聞き入れると、満面の笑みに戻る。
「はい!それと―。」
明るい表情のまま、俺と同じ方向に視線を向ける。
「センパイは今、何してるんですか?」
話が変わり、井上の雰囲気も戻ったところで、俺も平常運転に切り替える。
「え~っと、さすがに机の上酷いなって思ったから、片付けを。」
井上は床に置いてある丸いレジ袋と卓上の食べカス、イスの上に積まれた書類を見て、引く声が漏れる。
「あぁ~。」
「そういうわけで、今ちょっと忙しいんだよ。」
そういって俺は食べカスを手で集め始める。小指球と呼ばれる、手の小指側の横の部分に多数の荒い粒の存在を感じる。多少の粒々は小指球をすり抜けて卓上に手を移動させた痕跡を残す。何度やっても少し残る。そんな困難をしていると目の前に救世主が現れる。卓上向けの小さいブラシとちりとりだ。俺は顔を目の前に現れたそれの持ち主の方へ向ける。その先には井上がいた。キリッと斜めに構えた眉から、使ってくださいと言わんばかりの様子が窺える。そして、その表情から出た言葉は、
「センパイ、僕も手伝いますよ。」
やはりそう来るか。しかし、さすがにこの惨劇は自分のせいだ。自業自得なのだ。だから手伝わせるわけにいかない。
「これは普段の俺への報いだから、井上は手伝わなくていいよ。」
井上を自分の席に戻るように手をひらひらとさせる。すると、井上は右掌を自分の心臓の位置にあてがいながら前に踏み込んでくる。
「いいえ!手伝わせてください!」
ものすごい気迫だ。これはさすがに本気だ。
手伝わせる罪悪感と、井上のやる気と断った後の井上の様子を想像した時の罪悪感を天秤にかけて、結局、俺は井上の勢いに負ける。井上は両腕をお腹の横で90度に曲げて、時々つま先で上下に動いて嬉しさを表現する。その様子を見るに、本当は飛び上がりたい気分なのだろうと想像がつく。俺は、たかが、掃除の手伝いにそこまで感情が高ぶるものなのか疑問に思う。
それにしても、最近、井上は情熱的な感情を表に出してきている気がする。もしかしたら俺が気が付かなかっただけで今までも同じように接してきていたのかもしれない。もしかしたら、昨日、夢の話をした時の興奮も文学的なことについてでは無かったのかもしれない。
……いや、さすがに考えすぎか。
これ以上考えると頭が痛くなりそうなので、掃除に意識を戻す。
「じゃあ、始めるか。井上、そのブラシ借りるぞ。」
「はい!では、僕は缶を捨ててきます。」
俺が井上からブラシを受け取ると、井上はすぐに空き缶の入ったガラガラの袋を持ち上げ、ゴミ捨て場に向かう。軽快な足取りからも嬉しさが滲み出ているのが分かる。
井上を見送った後に卓上に視線を移す。借りたブラシで食べカスを集めていく。さすが文明の利器。跡を残さず次々と食べカスが集まっていく。ちりとりを机の天板の下に掛けてそこに集めていく。跡を残さず集まる様子を見ていると少し快感を覚える。
全部取り終えるとちりとりには底が見えないくらいの食べカスが集まっている。加えて、その中にはホッチキスの針や折れたシャーペンの芯が散らばっている。改めて自分のだらしなさに感心する。
カスをゴミ袋に入れ終えると、井上が手を振りながら返ってくる。俺の近くまで来ると、目を輝かせて次の指示を待ち始める。
「次は、え~っと。やることないかな。あと、これありがとう。」
井上にブラシとちりとりセットを返しながら書類の山と綺麗になった卓上を見て、何もやることはないと確信する。すると、井上から言葉が飛んでくる。
「センパイ、机の上拭きました?」
井上は俺が特に気にしていなかったことを聞く。
「いや?拭いてないけど。」
「そうですか。それでしたら少しお待ちください。」
井上はそう言い残して1度自分の机に戻り、円柱型の容器を手に持ちながら帰ってくる。
「センパイ、このウェットシートで机の上を拭いてください。」
差し出された容器には除菌と書かれている。
「え~。別にそこまでしなくても。」
今までこの机で生活してきて病気にかかったことは一度もない。むしろ除菌しないことで自分に耐性が付いたのかとさえ錯覚している。
「ダ、メ、で、す。そんなにゴミが溜まっていたんですから、隣の人のことも気遣って、せめて除菌くらいしてくださいよ。」
井上の言っていることは正論だ。確かに正論だ。ただ、拭くだけの作業がとてつもなく面倒くさい。ただでさえ、ゴミを集めたり紙をどかしたりしたことで疲れを感じているのに、それ以上のことはできない。業務も掃除も決められたところまでやるのがモットーだ。それに、昔のような無尽蔵の体力は既にないのだ。だから、なんとか逃げようと策を講じる。
「井上は几帳面だな~。」
「センパイが雑なだけです。」
褒めて話を逸らす作戦は一瞬で打ち破られた。井上は面倒くさがる俺を断固として許さない様子だ。俺は仕方なく除菌シートを受け取り、しかたなくテーブルを拭く。
使い終えたシートをゴミ袋に捨てて袋の口を閉める。
「除菌シートありがと。」
少しずつ騒がしさが増していくのを感じ、周りを見渡すと案の定、少しずつ人が増えてきている。掃除に集中して気が付かなかったが既に社内の半分以上の席が埋まっていた。
なんとか始業までには間に合ったと一息ついて、袋を持ち上げる。
「じゃあ、これ捨ててくるよ。」
ゴミ捨て場に向かおうとすると、またまた井上が俺を引き止める。
「センパイ、一緒に行ってもいいですか?」
「ん~、まあ、いいけど。」
引き止める理由はないので適当に返事をしておく。
「ありがとうございます!」
腰から90度に曲がった姿勢から感謝の大きさが伺える。掃除と言い、普段の態度と言い、真面目を体現したような人なんだと思う。ただ、大袈裟すぎるとは思う。
「じゃあ、行くか。」
「はい!」
ゴミ捨て場は作業部屋から少し距離がある。俺たちはその間、談笑しながら歩いていく。
(なんだか久々だな、この感覚。友達とバカやってたあの日々みたいだ。)
昔を思い出してくすぐったいように感じる。突如、俺の頭に出社した時に感じていた疑問が浮かび上がる。
「あ、そういえば、井上はここに一番早く来る事務の人のことで何か知ってることあるか?毎回、俺が来る時にはもういるんだよな。」
井上は手を顎にあてて険しい表情を浮かべる。その後、パッと明るい表情に戻り、広げた左手に右手の拳を打つ。
「あぁ~。入間さんのことですか?」
「あ、ああ、そうかもしれない。」
人の名前は覚えてないので適当に話を合わせる。
「入間さんはここの鍵担当なんですよ。なにやら噂によると、人の少ない社内でパソコンゲームしたいから鍵担当になったとか。」
「えぇ……。」
「あくまで噂ですけどね。誰もゲームをしている姿を見たことがないらしいですから。」
俺は事務の人、いや、入間さんの秘密に驚愕すると同時に引いている。
(真剣な表情でパソコンに向かっているから仕事熱心なのかと思ったら、ゲームしてたのかよ。真面目だと思ってたけど、意外な一面があるんだな。)
俺は人は見た目に寄らない、という言葉を思い浮かべながらゴミ捨て場に着く。手に持った袋を可燃ごみの場所に投げ捨てる。両掌を互いにはたいてから話を続ける。
「そういえば、井上はなんで、事務のひ、じゃなくて入間さん?のこと知ってんだ?」
2人で帰りの方を向きながら歩き始める。井上は時々俺の顔を見て話しながら歩き進める。
「少し前に同期から教えてもらいました。と言ってもその同期も先輩から聞いた話らしいですけど。」
「井上って結構顔広いんだな〜。俺とは全然違うな。」
「そんなことないですよ。会社に入ったばかりの時に少し親睦があったってだけです。」
少し照れ気味の井上を見て、友好的な性格に感心した。そして、現在の話題に釣られて入社時のことを思い出す。
(入社したてか〜。)
俺は初っ端からヘマした。
俺は人に話しかけるのが苦手だ。それに受け答えするにも話が続かないほど会話が苦手だ。そんな俺は結局深い交流もなく、命令を受けて業務を行うだけの人になった。
色々な面で会話を重要とする会社に俺は当然浮いていた。これはこの会社で生き残るという面においてヘマをしたと言える。とは言いつつも無理して手を伸ばして、ようやく手に入れることができた場所だ。そう易々と手放す訳にはにはいかない。
感極まって話が逸れた。人間性のところまで話を戻そう。
井上と俺とでは性格的に水と油なはずなのにどうして俺と一緒にいるのか疑問に思う。
「じゃあ―。……いや、なんでもない。」
言いかけて、やめた。井上から出る言葉を考えた時に恐怖を感じた。俺の唯一の繋がり、ここで切られるにはまだ早い。
井上は俺の覗くように見つめる。
「センパイ、どうしたんですか?」
井上が詮索しようとしてきたので、俺は話の広がらない方向に軽く受け流す。
「なんでもないって。」
「そうですか。」
井上は深追いをしてこなかった。それだけのことだが、少し助けられた。
会社の部屋に戻る。自分のデスクに戻りながら、事務の人を少しだけ見つめる。変わらず真剣な表情でパソコンを見つめている。たぶん、今はもう人が増えてきたので、業務関連の作業に移っているのだろう。しかし、その真剣なまなざしがゲームにも向けられていると思うと、事務の人もまた、やっぱり真面目なのだと確信する。ただ、ゲームするのに会社のパソコンを使うのは真面目かと言われたら、それは違う気はするが。もしかしたら、攻略サイトや動画を見ているだけかもしれないと勝手に弁明するが、世間一般的には結局不真面目に属するので不真面目なのかもしれない。最も俺は人を批判できるほど偉くはないので、そのままでいいと思う。
自分のデスクに戻り、イスの上に積みあがった書類の山を卓上に戻す。空いたイスに腰を下ろすと、あまりの心地よさでイスに根を張りそうになる。時間を確認すると、始業まで残り30分を切っている。短い間ではあるが、体をいたわるには十分な時間だ。井上は軽く挨拶をした後、そそくさと自分のデスクへ戻る。
忙しかった後は休むに限る。今日は始業までに寝ないようにと思いつつ目をつむる。しばらくして、空間認識ができなくなってくると、聞きなれない声が聞こえる。
「あれ?今日は机の上がずいぶんキレイっすね。」
目を開けると天井が見えて、上を向いていたことを思い出させる。声の聞こえたほうを向くと、ビジネスバッグを肩から降ろしている社員がいた。どうやら隣の席の人のようだ。今まで会話という会話をしてこなかったから、すでに見捨てられていたと思っていたのだが、気が変わったのだろうか。しかし、突然会話を振られて戸惑う。ここは当たり障りのない会話で切り抜けよう。
「ああ、まあ、さすがに掃除しないとかなって、思いまして。」
「へぇ~。珍しいこともあるんっすね。明日、槍でも降るんじゃないですか?」
なんというか、すごく子供じみた返しだ。ただ、俺も気さくに話しかけられる人だったら同じことを言っていたと思うと、それはブーメランなのだろう。
しかし、この質問、どう答えようか。この手の返し方には疎いし、そこまで仲のいい人でもないからツッコむわけにもいかないし。ここは1つ、適当に返してみよう。
「まあ、降るかもしれないですね。」
少し間が開く。俺は顔を一切合わせていないので相手の正確な表情は分からないが、この間はきょとんとしているときの間だ。一応、胸元のネームプレートを見ているので完全に顔を合わせていないわけではない。
(隣の人、腹田さんっていうのか。原田じゃなくて腹田なのか。初めて見たな。)
俺が腹田さんの苗字の珍しさに感心していると、突然笑いだしてひっくり返った声で応えられる。
「笈川さん、面白いっすね~。」
腹田さんはウケているが、俺には何が面白いのかさっぱり分からない。軽く感謝を述べて終わりにしようとしたところにさらに突っかかってくる。
「今度、飲み、行きましょ。面白い話、いっぱい聞かせてくださいよ~?」
「えっ、いや……。」
どうしてそうなるのか。たった少しの雑談から飲みに行くほど仲良くなったのか。それとも人と話すとそういうノリになるのかは分からない。改めて自分と属性が異なる人の違いを感じた。
腹田さんとの会話はそれで終わった。腹田さんは鼻歌を歌いながらイスに座る。表情を見なくとも鼻歌とリズムを取っている足の動きで気分がノッているのが分かる。
思えばつい最近まで死んだように生きていた俺はここ2日で正常な方向に変わっている気がする。大きな成功と元気と掃除のやる気。それもこれも最近の夢のおかげなのだろうか。それともレストランでの井上のおかげなのだろうか。
どちらにしても、俺を元気にしてくれたことには感謝している。
イスの背もたれに寄りかかり、ぼんやりと天井の電灯を眺める。変わらない景色を見つめていると、自分がどこにもいないような気がしてくる。いくら元気になったとはいえ、この感覚はすぐには抜けない。
そんな独りの時間も校長先生の言葉ですぐに崩壊してしまう。
「朝礼はじめま~す。」
無駄に長い無駄な時間が始まる。時々思うが、この校長はよく話が尽きないなと思う。会社のある日に毎日行われる朝礼を振り返ると、毎日別々の話をしていたような気がする。そう考えると、この校長はやはり部長になるだけの優れた能力は持っているのだろう。ただ、あいにく話を簡潔にまとめられないのは如何なものかとは思う。
退屈な時間が終わって始業になる。今日も井上と各会社をまわる。
今日は行く先々で契約することができたり、見送りになったりしたが、昨日のように酷く落ち込むことはなかった。会社の規模も関係していたのかもしれないが、やはりここは自分の気持ちが安定していることが関係していると思う。少しの影はまだあるが、常に足元を掬われているような感覚は今はない。
空が少しずつ深みを増していく中、俺たちは牢獄に戻る。今日は近場5件と、遠方1件の計6件まわった。3勝3敗で悪くは無い。それに、3敗した方は俺たちを見てすぐに話を聞かないような素振りを見せてきたため、最初から負け戦のようなものだった。興味のない人に興味を持たせることも営業の仕事だと思われているかもしれないが、俺は人の気持ちを変えられるような技術も能力も持ち合わせていない。 それに、自分でできる所までをなんとかこなすことだけで精一杯だ。
今日の成果を改めて部長に報告した後、帰る用意を始める。まずは、今日の営業で使用した書類を机の上の紙の山の上に置く。続いてスライド発表のために使用したパソコンを指定の場所に置いて充電器を刺す。その後、結局外食によって食べられなかった昼飯をカバンの中に突っ込む。そして、井上と一緒に帰路につく。
夜になると昼までの暑さが嘘のように冷えている。この時期の肌寒さは風邪の原因にもつながるので、軽く羽織れるスーツは必需品だ。
俺と井上は月明かりに照らされて、今日の負け戦のことを談笑しながら足を進めていく。俺たちを見た時の相手の表情や仕草は笑えるほど分かりやすいものであった。例えば、嫌気のこもったため息や書類を机の上に投げ捨てるように置いたりすることだ。俺はそれを見た後笑いを必死で抑えていた。そして、その会社を出てから盛大に噴き出した。その人の話題はマネしたくなるくらい面白くて、何度も話したくなるほどおかしかった。
話題も尽きてくると、フッと静寂が訪れた。もともと人と話すことが得意ではない俺は、話題にできるようなことをこれ以上持っていない。それに加えていつも話の尽きない井上が今は何かを考えこんでいるように黙っている。気まずさが少しずつ大きくなる。俺は視線を井上のいない方へと移す。猫の1匹でも出てくれればいいのだが、猫は警戒の強い動物だからはわざわざ俺たちの前には現れない。
さすがにこれ以上沈黙が続くと気持ち悪くなるので、とりあえず名前だけでも呼んでみようと思う。
「いのうー。」
「センパイ。」
俺の呼びかけを遮るかのように井上の呼びかけが重なる。その声のトーンはいつものほんわかなものではなく、真面目なものだ。俺は気圧されるように少し体を後ろにそらす。あの井上から営業以外でこんな声が飛んでくるとは想像もしていなかった。
俺は井上の声に戸惑いつつも、ちょうど話題が欲しかったのもあり、そのまま井上の話に乗ることにした。
「ど、どうした?井上。」
井上はすぐには答えなかった。薄ら明るい道中に映る井上は、神妙な表情で道路を見つめている。なにかを話しすことをためらっているようだ。
「せ、センパイ。昨日も、一昨日と同じような夢を見ましたか?」
次に出た声は少し震えていた。井上が緊張していることが聞いているだけで分かる。しかし、そんなに緊張するような内容ではないことなので疑問を感じる。俺はそんな拍子抜けしてしまう質問にとりあえず答える。
「……ま、まあ、昨日も一昨日に夢で会った人を夢で見たけど。」
話のオチが全く見えない。俺の夢と井上にどんな関係があるのか、情報が少なくて分からない。井上はずっと道路を見つめているため困惑している俺のことなど知らない。だから、スイッチが入ったように質問を続ける。
「夢の内容、覚えてますか?」
「お、覚えてるよ。」
「どんな内容でしたか?」
「えっと、スカイダイビングと遊園地に行った。」
「遊園地では何に乗りましたか?」
「その時は〜、ジェットコースターだけだったよ。」
これ以外にも井上のガトリングのように飛んできて、質問する速度は後半になるにつれて少しずつヒートアップしていった。そうして質問責めされていると、いつの間にか分かれ道に着いていた。俺と井上は分かれ道のちょうど真ん中に立ち止まる。普段ならこのまま挨拶してすぐに別々の道へ行くのだが、今日はいつも通りにはいかないようだ。
質問の速度のせいで俺と井上の間で空気が張り詰める。井上は背筋をピンと伸ばして、俺に向き合う。
「センパイ。明日の会社終わり、僕に付き合ってください。」
そう言い残すと、井上はさっそうと右側の道に入っていった。
火照った体を冷たい風が通り抜ける。分岐点に立ち尽くしながら、走り去る井上の背中を見つめる。しかし、どこか焦点が合わない。俺は呆然としながら左側の道へ入っていく。いつもの景色も見覚えがないように見える。1歩1歩確かに歩いているが、頭の中では井上の言い残した言葉がぐるぐると駆け巡っている。その言葉だけならいつも通りのノリで振る舞えたものの、今回は状況が状況だ。明日の夜に何が起こるのかもわからないし、井上がどうするのかもわからない。ただ、からかっている雰囲気でもなかった。
困惑だけが駆け巡り続けた。
それから家に着くまで、明日のことを考えることしかできなかった。焦点は未だに合わずどこを見ているのかさえ分からない。昼飯という名の夜ごはんを食べているときも、シャワーを浴びているときも、虚空を眺めては時々意識が戻るのを繰り返している。すべてのことが明日のことに意識を奪われてしまっている。何度も帰り際の光景を思い出す。
電気を消してベッドの上で横になる。天井を見つめてなお明日のことを考える。このまま明日を迎えたら仕事をすることもままならない状況だ。なんとかして気を紛らわせることができればいいのだが、いつの間にか明日のことを考えてしまっている。
このまま寝付いてしまっては夢の中にもこの困惑を持ち込むことになりそうだ。正に夢現と言えるのでは無いだろうか。
今日もこのままあの夢の中へ行ったとすると、相生さんに多大な迷惑をかけることが目に見えて分かる。だから、今日は夢を見ない方がいいと思う。夢は夢なのだから、昨日一昨日と相生さんに会う夢を見たからと言って今日も同じような夢を見るとは限らない。一縷の望みに賭けて、この祈りが届いてほしいと切に願う。
井上のことと相生さんのことで頭がいっぱいになり始める。脳がキャパシティを超えると、瞼が少しづつ重くなり、意識が途切れ途切れになっていく。もう、げんかいだ。
このままでは、めいわく、かけ―。
俺の頭を風が撫でるような感覚がある。少しくすぐったい。それに後頭部に柔らかい感覚もある。枕の柔らかさとは少し違うがとにかく柔らかい感覚。
意識ははっきりしているのに身体が縄に縛られたかのように動かない。そこに最近よく聞く声が聞こえる。
「笈川さん、起きてください。」
起きられるならとうに起きている。それができないから困っている。どうにかしてこの暗闇から抜け出す方法はないのか。これでは本当に目を覚ましたくないみたいだ。
じたばたと動いて俺を縛り付けるものに対して必死に抵抗する。
「笈川さん、動かないで。じっとしていてください。」
言われた言葉を真に受け、じたばたするのを止める。すると、目の辺りに温かさを感じる。この温かさは人の温もり。この温もりに包まれて暗闇の中で静かに目を瞑る。途端に解けるように身体の力が抜けていく。
髪の毛を撫でられる感覚がはっきりしてようやく目が覚める。視界の焦点が少しずつ合うと、目の前には見覚えのある女性の顔がそこに映った。この見え方、後頭部の感覚、これは―。
俺は勢いよく上半身を起こす。後ろを振り向くと、俺の体を避け、少し仰け反った姿勢の女性がこちらを向いている。その幸せそうな微笑みを見て、すぐにここがどこであるか理解した。
ここは、相生さんの夢の世界だ。
とすると、先程の金縛りはもしかしたら自制心が働いていた結果だったのかもしれない。
大きく溜息をついて顔を下げる。
(どこまでも中途半端なんだな、俺は。)
こんな情けない自分を笑おうにも、とっくにそれは乾いている。
「笈川さん、大丈夫ですか?ずいぶんうなされてましたけど……。」
あろうことが相生さんに心配をかけてしまった。本当に、情けない。
「大丈夫ですよ。ただ、自分の情けなさに嘆いていただけです。」
大丈夫なわけない。強がりだ。本当は今すぐにでもここを離れて1人になりたい。早く目を覚ましたい。
「笈川さん!」
大きな声に反応して顔を上げる。その瞬間、両手で頬を挟まれる。
「本当に大丈夫ですか?今日、ここに呼んだのは私ですよ。もしかして、本当は来たくなかったんですか?」
「い、いや。」
そんなことはない、と言いかけて止める。すぐに井上の言葉が頭の中に蘇って迷いが生じると、意図せず視線が横に移動する。
「やっぱり、来たくなかったんですね。」
「ち、ちがっ!」
小さくなった相生さんの声から後ろめたさを感じ、必死に否定する。
「違くないですよね。無口は雄弁に勝る、とも言いますし、否定した割には視線が泳いでましたよ。」
先ほどから俺の考えを次々と言い明かされている。まるで胸の内を透かされているようだ。それに、声のトーンからは怒りを感じない。むしろが、その柔らかい話し方は俺に抉るような傷を与えてくる。本人にはその気はないのかもしれない。むしろこんな俺にさえ寄り添うよう気持ちが表れている。それでも、今の俺にはとても痛い。
「なにか理由があるんですよね?はっきりしてくれないと私も分かりません。」
真っすぐに澄んだ瞳。この瞳を前にしてなお、嘘を突き通すには無理がある。もう意気地になるのは諦めた方がいい。
「ええ、その通りですよ。」
今でも口に出すことにためらいが生じる。元々、これは俺と井上のことであるから、そこに相生さんを巻き込むわけにはいかないのだ。ただ、ここまで真摯に向き合う人に対して、その気持ちをおざなりにしてしまうことはあまりにも失礼だ。
ここは、思い切って話してみよう。なにか解決の糸口が掴めるかもしれない。
未だ消えないためらいで言葉が塞き止められるように途切れ途切れになる。
「少し、悩み事が、ありまして。」
自然と視線が下がる。それに応えるように相生さんは俺の頬から手を離す。
「分かりました。それなら場所を変えましょう。ここだと落ち着かないでしょう?」
そう言われて気づく。周りを見渡すと鮮やかに彩られたアトラクションの数々に囲まれている。ここは昨日の遊園地だ。
「場所を変えるって、また空でも飛ぶんですか?」
「いいえ。今回はもっと別な方法で移動します。」
相生さんはそう言いながら閉じた傘を無から取り出す。その時に生じたピンク色の花火の様なエフェクトは魔法を連想させる。その後、取り出した傘の持ち手を握り、先端を俺に向けると、空を奏で始める。その様子は夢を奏でる指揮者とも呼べるし、夢を描く魔法使いとも呼べる。
相生さんが奏で終えると同時に俺と相生さんを中心としてリボンのような光が周りを覆い隠していく。周りが完全に真っ白になると俺と相生さんもそれぞれその光に包み込まれる。
包んでいた光が解けていくと薄暗い場所の上に立っていた。上を見ると、黒い雲の隙間から月の光が僅かに射し込んでいる。自分の後方遠くには木々のようなものが広がっていることが分かる。そして、ここが広い場所だということ分かる。足を踏み出すと、少し身体が地面に埋もれる感覚に襲われる。大きく息を吸うと少ししょっぱい空気が肺を満たす。耳を澄ますと、一定の間隔で波が押し寄せる音色が聞こえる。
そうか。ここは海か。
ズボンのポケットに手を入れて月を見上げると、思い出が懐かしさを乗せて押し寄せてくる。
海なんて来るのが久しぶりだ。俺が小学生のガキだった時、夏といえば親と一緒に海へ行くことが楽しみだった。日差しの強い中、海を泳いだり、きれいな色の貝殻を拾ったり、ヤドカリと戯れたりした。空がオレンジ色に染まると、その楽しい時間が終わり、帰ることが嫌になりながらも、車の中で眠ってしまっていた。疲れていたからか、寝るときはいつも熟睡してたなぁ。
子供の頃の楽しい思い出は大人になった俺に考えないようにしていたことを浮かび上がらせる。
親、か。お母さんもお父さんも今頃何をしているのだろうか。大学時代、親の心配が鬱陶しくて、早く離れたくて適当に就職。それから親から入社祝いとして送られてきた食べ物と10万円。それから親とは連絡しないで、生活してきた。今思えば、親不孝だと思う。感謝の1つも言えたためしがない。
こんな俺が今更どんな顔を合わせればいいんだ。
視線を足元に移して口から後悔の念を吐き出す。すると、
「感傷に浸っているんですか?」
後ろから問いかける高い声に一瞬、体が上に反応する。後ろを振り返ると、そこにはこの場所に連れてきた張本人の陰が俺に向かって動いていた。
「ビックリしました?」
問いかけるその声から無邪気さを感じた。あまりの薄暗さに表情は分からなかったが、俺を驚かせることができたことを子供のように喜んでいることだけは確実に分かった。
「相生さん……。驚かせないでくださいよ。」
暗くて表情が見えないことを分かっていても、笑顔を作って返事をする。相生さんは
「ごめんなさい。あんまり動かないもんだから、つい驚かしたくなっちゃました。」
と言いながら、俺を振り返らず横を通り過ぎる。俺はなにか言い返したかったのだが、単純な返答も思いつかず、ただ相生さんの背中を目線で追いかける。
相生さんが波打ち際に立ち止まってからも俺たちはしばらく言葉を交わさなかった。2人の時の静寂は嫌いだから、波の音が静寂を打ち消してくれていることに少し感謝している。
「笈川さん。」
先に口を開いたのは相生さんだった。その声は問いかけというより、語りだしという感じがして、俺は相生さんの背中に意識を向ける。
相生さんは背を向けながら話そうと少し顔を横に向けているが、髪で表情が隠れて口元だけが見えている。顔を合わせていないのに口角が上がっている。本当に笑顔の絶えない人なのだと感心する。
「悩み事ってなんですか?」
来たくなかった理由について触れられ、胸に痛みが走る。さっきまで感じていた懐かしさも波にさらわれたように無くなる。
井上のことと相生さんのこと。どちらもないがしろにしたくない気持ちはあるものの、今日は井上のほうに意識が偏ってしまったというだけだ。いつかちゃんと説明をしようとは思っていたのだが、いかんせん唐突に夢に連れてこられた挙句、意気地になってしまったためにこのような状況を招いてしまった。これ以上は逃げるこなどできない。今こそ意を決する時だ。
拳を握って大きな声を出す。
「あ、あの!今日、この夢に来ることをためらっていた理由、話します!」
その声は静寂を打ち破り夜の海岸線に広がる。
ちゃんと言い切った。これだけ大きな声で伝えれば、相生さんもわかってくれるだろう。
すると、相生さんが振り返る。微かな月の光を背に浴びて映るその表情は、俺の言葉を待ちわびていましたと言わんばかりの笑顔であった。
「お願いします。」
本当に、相生さんには振り回されてばっかりだ。しけし、今回ばかりは振り回してくれたことに感謝している。この人には敵わないことを身に染みて、ため息をつく。不思議と肩の力も抜けてて、身体が軽くなったような気がする。そのまま相生さんの隣へ向かう。
波打ち際までたどり着くと、波の音がより鮮明に聞こえる。周りが静かなせいもあってか少し耳に障る。
「このまま立ち話もなんですから、座りましょう。」
下から声が聞こえて隣を見ると、相生さんはすでに座っていた。俺は言われるがままその場に座り込む。お尻が少し砂浜に埋もれる。この包み込まれるような軟らかい感触に乗っていると腰が喜んでいるように感じる。そして、そう感じたことで自分がもう子供ではないことを悟る。
「それで、どうして来たくなかったんですか?」
相生さんは待ってましたとばかりに俺が座ると同時に話しかける。俺は右腕を支えにして座る位置を微調整しながら返答する。
「あんまり責めないでくださいよ。ちゃんと段取りがあるんですから。」
何度も座りなおしたからか、ようやく砂がいい形状になり落ち着く。その後、暗い空を見上げ、昨日の会社帰りのことを思い出し始める。
「今日というかもう昨日ですかね。その会社帰りの事です。井上っていう、俺を慕ってくれる唯一の部下がいるんですけど、別れ際に気になることを言い残していったんですよ。たしか、『明日の会社終わり、僕に付き合ってください。』って。セリフは別に不自然なところはないですけど、それを言う前にどうもこの夢のことを気にしていたといたんですよね。それに普段、あまり真剣な表情を見せないヤツなので、それが引っかかって、家に帰ってからもずーっとその言葉が頭から離れなくなってしまって。……それで、このままだとこの夢に来た時も心ここにあらずっていう感じになりそうだったので今日はあまりここに来ることが乗り気ではなかったんですよ。」
言い終えて相生さんのほうを向くと、相生さんは少し眉をひそめて俺をじっと見つめている。俺の顔に穴が開きそうなその眼光は俺の話が嘘か本当かを見極めようとしているのだろう。
正直、嘘はついていない。それに嘘をつく理由もない。しかし、その視線は未だに輝きを失わない。
これで嘘だと思われたら困る。さすがにそれだけは避けたいので思い切って踏み出す。
「あのっ!」
言い出してすぐに、俺の目の前に掌が現れる。その先は言わなくて結構、という意味だと思うが、相生さんの答えがどっちになるのかはわからない。掌が下に降りると、まだ険しい表情の相生さんが現れる。これは困ったな。完全に嘘だと思われていそうだ。固唾を飲んで答えを待っていると、相生さんの表情が緩む。
「嘘じゃないって、分かってますよ。お話してくれてありがとうございます。」
緊張が走っていた分、反動とも言える大きなため息が漏れる。
「あんまりからかわないでくださいよ~。こっちの身が持ちませんって。」
本当にこういうのやめてほしい。ただでさえ、大の仲良しの井上でさえあまりからかいあうような仲ではないのに、それをあまり親しくもない人にされたら動悸が激しくなって心臓が持たない。相生さんとは出会って3日目だ。おしゃべりしたり、遊園地行ったりと濃密な日々を送ったが、それでも3日であることに変わりはない。よく話しかけてくれるしよく話を振ってくれる、とても話しやすい人だが、自分の気持ちにまっすぐというか、人の話を聞かないというか。とにかく自由奔放で無茶苦茶な人は正直苦手な部類の人だ。それでもどことなくこの夢の生活が吐き気をするほど嫌にならないのは、積極的に構ってくれるからだろうか。それとも会社の隣の席の人のようにカテゴリー化していないからだろうか。
「……そっか~。そんなことがあったんですね。笈川さんって本当に優しいですね。」
頭が考えることに集中して、近くにいるはずの相生さんの声が遠くに聞こえる。それにこもったような声で内容が全く頭に入ってこない。代わりに思考はますます深まっていく。
相生さんはゼリーの上に落ちたがったり、変なクマのマスコットと異様に親しかったり、空飛んでみたりと活発なことは間違いない。行動1つ1つを思い返してみると純粋な気持ちが垣間見えるし、やはり悪い人ではないように思える。さすがに、人に慣れていない俺でも今回ばかりは失礼すぎるほど疑ってしまった。苦手なノリだからと言って早計に距離を置くのはよくない。
「話、聞いてますか~?」
再び声が聞こえるも、それはもうほとんど鮮明に聞こえず、さざ波と一体化したように聞こえるまで聴覚が鈍り始める。目の前の明暗が一定間隔で切り替わるもそれを気にしないほど、意識が遠のいている。すると、
「笈川さん!」
両頬を軽くたたかれて頭が周りの状況を意識し始める。いつの間にか目の前には相生さんがいた。口をつぐんで目を鋭くしている。
「何度も呼んだんですよ!」
「あっ……。」
深く考え込んで周りを意識していなかったことに言われて気づく。罪悪感が津波のように俺を飲み込む。
「……ごめんなさい。」
頭を下げて謝ることしかできない。それ以外できることもない。
「そんなに考え込むことってなんですか?」
言えるわけがない。本人が目の前にいるのに胸の内を胸の明かすことなどチキンな俺にはできない。それに相生さんを疑うような、傷つけてしまうような事だ。仮にここで行ってしまったら夢から覚めても悪夢にうなされそうだ。
頭を上に動かして、相生さんの顔を少し確認する。まだ眉間にしわを寄せたままだ。
顔を戻し、音を立てないように深呼吸をする。このままずっと黙っていてはより不快感を与えてしまう。断腸の思いだが、言うしかないだろう。
「俺、相生さんのことよく分からないんですよ。ここに 連れてきた本当の意味とか、どうしてそこまで友好的なのかとか。それに起こしてくれた時、膝枕してましたよね?俺たちそんなに仲良くないですよね?」
相生さんは未だに表情が変わらない。むしろ余計眉間にシワが寄っている。ならば、もう少し踏み込む必要があるだろう。この状況はまさに石橋の上だ。ならば叩いて渡るのが道理。
自分が逃げないように拳を強く握る。
「……俺たち、出会ってまだ3日なんですよ?それに、俺は相生さんみたいに友好的じゃないし。正直、相生さんのようなノリに慣れていないというか、なんというか。」
少し言い過ぎた。
途端に後に続く言葉に詰まる。再び頭を少し上げると、相生さんの表情が驚きに変わっていた。
「そう、ですよね。私たち、まだ出会って3日しか経っていないんでしたよね。……なんだかもっと昔から面識があった気がしてました。」
危ない石橋だったが、なんとか渡り切ることができた。安心しきって口が滑る。
「それは相生さんが友好的だからじゃないですか?誰とでもすぐに友達になれるタイプなんでしょう?」
そう言いながら立ち上がる。視界に相生さんの頭が入ってこない。下を見ると、しゃがみ込んだまま動かない。いつものように元気な姿で立ち上がると思っていたから、疑問に感じる。
「相生さん?どうしました?」
そう問いかけると、相生さんは少し間を置いてから立ち上がる。
「大丈夫ですよ。」
俺を向いていることは分かるが、光が十分射し込んでいないため表情が分からない。
相生さんは波打ち際を少し歩き、俺と距離を置く。小さな背中はなにもしなくても壊れてしまいそうに弱々しく見える。
「それにしても、笈川さんには私がそういう風に映っているんですね。」
大きく張った相生さんの声が耳に届く。俺はその言葉の意味をすぐに理解できた。この状況で自分と比較するような言い方。本来はそうではないという意味の表れ。
「……そういう風にしか、見えないですけど。」
波音に打ち消されない程度の声でそう言い返す。俺はただ今まで感じていた感想を述べる。
会話が途切れる。波音が時間の経過を刻々と伝えてくる。
「それなら、今度は、私が話す番ですね。」
相生さんは背を向けたまま話し出す。漂う哀愁。俺は固唾を飲んで気を引き締める。
「私、ずっと引っ込み思案で友達を作るのが苦手でした。上手く話しかけられなくて。でも、よく勉強を教えているクラスメイトを見ていて、それなら私でもできると思ったんです。伸び悩むこともありましたが、やればやるほど成績も伸びていきました。それでも、私には友達ができませんでした。成績が優秀になればなるほど神格化されるようになってしまって。それで、もう逃げたくなって、結局飛び降りて、それも上手くいかなくて。私はその時に自分の体から流れる真っ赤な液体が記憶に染み付いてしまいました。そこから思ったんです。せめてよく見る夢の中だけでは、明晰夢の中だけではそんな自分とさよならできるかなって。嫌な記憶も思い返さなくて良くなるかなって。……でも、そんな夢の中でも上手くいかないこともあるみたいですね。」
なにも言い出せない。それは相生さんがそんなことになるまで追い詰められていたからということよりも、俺がそんな経験をしたことがないからだ。俺は中学生、高校生になって離れていった友人を何人も見てきた。友達を作りたいなら話しかけられることよりも話しかけるほうができやすい。周りを見ても自分の記憶を思い返しても、この状況を鑑みてもそれは確かな事実だ。だから、上手くいかないほうがおかしい、と俺は思う。
相生さんは元気な声で話を続ける。
「実は、私、今病院にいるんです。そして、目が覚めたら手術日。難しい治療みたいで失敗する可能性も高いんですって。そんな私に神様が同情でもしてくれたんですかね~。お礼を言えずじまいだった笈川さんにこうして夢で会えるなんて。」
少し間が空く。
「だから、こんな私に付き合ってくれてありがとうございます。」
「どう、いたしまして。」
と返しつつ、俺は違和感を覚える。お礼を言うという目的は既に達成しているはずなのだが、こうして今も夢の中にいる。
(これも、神様の同情か。)
神様の同情だけならまだしも、俺としては相生さんが俺を振り回したいだけであれば、それこそイタズラなのではないだろうか。
「そういえば、遊園地に行く前の森のことですけど、実は目が覚めそうになってたんですよね。なんとか戻ってこれてよかったです。今日も、まだ覚めたくないですから。」
その時、お菓子の森の入口で相生さんが呟いていた瞬間を思い出す。
まだ覚めたくない。
あの時の口の動きと完全に一致していたことに衝撃を受ける。そして、相生さんが目覚めかけていた時と時系列が同じ。
(あの時は催眠状態じゃなくて、夢の方が意志の力的なもので無意識に動いていた、ということなのか。半分起きてるような状態だったから、夢のその時の部分は印象が弱くて覚えてなかったんだな。)
自分1人で勝手に話が進んで納得がいく。
……。
ハッと我に返って咳ばらいをする。
「そうですね。俺も、夢からは覚めたくないです。」
危ない。また同じ過ちを犯すところだった。心臓をバクバクさせながら相生さんに視線を戻す。しかし、こんな状況で答えが飛んできて、わだかまりが1つ解ける。
「笈川さん。」
名前を呼ばれて身構えるが、何を言われるか分からない状況でとりあえず返事だけ返しておく。
「……はい。」
俺の返事に応えるように相生さんが横目で俺を見つめる。
「私、笈川さんに話したら、なんだか気が楽になりました。今なら怖がらずに手術を受けられそうな気がします。」
いつの間にか相生さんが横目を向けていることに気が付いて空を見上げると、光を遮る雲はすでに遠くへ流されていた。先ほどとは打って変わって景色が鮮明に見える。
満月の真下。
月明かりに照らされる相生さんは神秘的で思わず息を飲んだ。それに釣られ感謝の言葉が小さく漏れる。
「お役に立てて、何よりです。」
その小さな声が聞こえたのか、相生さんは俺が言い終えてからすぐにゆっくりと目を閉じる。その姿は月に祈っているように見える。
相生さんはゆっくりと目を開けると、俺のほうに向かってゆっくりと歩いてくる。相生さんの足跡は次々と波にさらわれ、消えていく。そして、俺の目の前までたどり着いて立ち止まる。いつもの微笑みで俺の顔をじっと見つめる。
「明日、笈川さんも頑張ってくださいね。きっとこれまでの人生の中で1番のサプライズデーになるでしょうから。」
「ああ、はい。ありがとうございます。」
その時の相生さんの目は俺を見ているようで俺は未来を見透かしてされているような気がした。そして、俺は意味の分からない言葉に動揺もしている。それもそのはず。サプライズと言われても、明日は俺の誕生日でもないし井上の誕生日でもない。それにサプライズなのに頑張るという意味が分からない。なにか重労働でもさせられるのだろうか。それとも案件がたくさん没になるとか。
考えたところで何もわからないし、思いつくことも悪いことばかりだ。それならもう考えることをやめよう。
「この後、どうしますか?」
「そうですね……。」
相生さんは顎に手を当てて考え込む姿勢をとるが、それも物の数秒。すぐに明るい顔に戻る。
「そうだ!遊園地に戻りませんか?私たち、まだジェットコースターにしか乗ってないじゃないですか。だから、他のアトラクションにも乗ってみたいです!」
その瞬間、さっきまでの暗い雰囲気が一変する。そして俺は、相生さんの明るい顔を見てほっとする。
「あぁ~、そうですね。じゃあ、戻りましょうか。」
と言ったものの俺は戻り方を知らない。ここにも来たというよりは連れてこられたという方が正しいし。
俺は辺りを見回して遊園地の目印を探す。しかし、それらしきものは見当たらない。時間帯が違うことも考えると、やはり遊園地からは遠く離れた場所に来ているということだ。それでも諦めきれずにきょろきょろしていると、お腹を2回指でつつかれる。その方向を向くと、相生さんが右手を掌を上にして差し伸べていた。
「笈川さん。今度はショートカットで移動しますから、私の手を握っていてもらえませんか?」
「あ、はい。」
また傘と魔法的なもので移動するかと思っていた。今回は空を飛んで移動するお予想しながら手を重ねる。
「それでは一緒にせーのでジャンプしてください。」
(ジャンプ?)
移動方法の予想が外れて困惑する。しかし考える間もなく相生さんが号令をかける。
「いきますよ~。……せーのっ!」
2人とも飛び上がろうとしたその瞬間、俺はどうしても確認したいことを思い出す。
「ちょ!ちょっと待ってください!」
俺の大きな声が抑止力となり俺たちは少し浮く。場所は変わっていない。着地してすぐに相生さんが俺の方を向く。
「笈川さん、突然どうしたんですか?」
「あ、いや、少し気になることがありまして。」
「なんですか?」
「あの、その……。」
俺は少しの間口をつぐむ。これを言うことで相生さんが俺に気があることが分かってしまったら、今の関係に気まずさを感じてしまうからだ。だが、このままでは気になりすぎて何にも集中できなくなる。今日は思い切りの日だ。なんでも思い切って言い出す日なんだ。
「な、なんで、膝枕、してたんですか?」
「それは、笈川さんがあまりにもうなされてたので、寝ている場所が悪いかなと思ったからですよ。」
「……そうですか。」
即答だった。しかし、まだ確定したわけではない。こうなったら最後まで聞くのが筋だ。
俺は質問を続ける。
「それ以外は何かないですか?」
「ないですよ。もしかして、笈川さん、私が笈川さんのこと好きだと思ってるんですか?」
「え〜っと〜。」
またもや即答。それどころかカウンター質問を食らって俺の方がたじろぐ。相生さんはふふふと笑って話を続ける。
「残念ながら、私は笈川さんに恋愛感情は全く抱いていませんよ。でも、一緒にいて楽しいのは確かです。質問はそれだけですか?」
「あ、はい。」
全ての質問に対してあまりの即答に熱が急激に冷めていく。今、相生さんはただ楽しそうに笑顔を向けている。顔が赤らんでいるわけでも、手が震えている訳でもない。今の表情やこれまでの言動から相生さんには俺に対して全く恋愛感情がないと確信できる。正直、俺も相生さんに恋愛感情を抱いているわけではないので、双方に重荷になるものがないと分かると今までよりは接しやすさを感じる。
俺が考え込んでいると、相生さんが再び号令をかける。
「それじゃあ、今度こそいきますよ~。」
俺は軽く頷いて手を少し強めに握る。
「せーのっ!」
若干タイミングが合わないまま一緒にジャンプをすると、なんと、映画の瞬間移動のように景色が流れて一変する。着地した時には遊園地に着いている。これはあれだ。テレビとかでよくやるジャンプしたら瞬間移動するように見せるやつだ。こっちはそれの本物版か。ここでこんな貴重な体験ができたことに感動する。まさに夢の中でしかできないことだ。しかし、こんなに簡単な手段があると疑問が生じる。
「そういえば。相生さん、どうして最初からこれを使わなかったんですか?」
「それは……。」
相生さんは少し頬を赤くしてそっぽを向く。
「せっかく夢の中なので、できる限り遊んでおきたいじゃないですか。」
「ん〜、まあ、そうですね。」
その時俺は初心を忘れていたことに気が付く。大人になればなるほど子供心が恋しくなるものだ。頭でわかっていても、いざ何でもできる場面が訪れると利益や効率を優先してしまう。成長とはいいことばかりではない。
せっかく遊園地に戻ってきたんだ。今楽しまずにいつ楽しむ。しかし、楽しむと言っても俺1人ではないのだから、まずは乗りたいアトラクションの擦り合わせだ。
「遊園地着いたはいいですけど、まずは何に乗りますか?」
「そうですね~。コーヒーカップはどうでしょう?」
無難だ。というより、本当はどのアトラクションも大体無難だ。しかし、夢だからお昼時というか、ご飯時のタイミングをつかむことのほうが難しいかもしれない。
「いいですね。早速行きましょう。」
俺は相生さんの方を向きながら先に足を進める。少し歩いたところで突然大きな音と振動が響く。晴れ渡る遊園地の中、俺を覆うほどの大きな影がそこにはあった。俺はその正体のことで身に覚えがある。
こいつは、クマの、マスコットだ!
相生さんはクマを見ると目を輝かせて駆け寄る。
「わぁ~!昨日ぶりだね~!」
腕を大きく広げて抱きつく。そして頬ずりする。俺はその光景に再び引く。本当にそのクマのどこがいいのか全く分からない。すると、クマは相生さんを両腕で抱き締めながら瞬時に俺の方を見る。一瞬目が会ってしまい、すぐさま目線を逸らす。下手な口笛で適当な音階を鳴らしてクマの気を逸らそうとする。
(あのクマやばいよ!一瞬にしてこっち向いたもん!絶対俺の心読めてるよ!顔怖いよ!早く帰ってほしいよ!)
冷や汗が頬を伝う。横目で相生さんの状況を確認する。クマは相生さんの頭をポンポンと軽く2回叩く。俺はクマが相生さんの方を向いている隙に頭を真っすぐに戻す。
クマは何かをバッグから取り出すように身体を横にねじる。姿勢を元に戻すとその手には黄色の風船が浮かんでいた。絶対そこにバッグはないはずなのだが、これも夢と言うことで特に気には留めなかった。取り出した風船を相生さんの手首に括りつけると、再び俺と目を合わせる。その様は見るというよりは睨みつけるの方が正しい。俺はその圧に耐え切れず、再び目線を外す。
いつの間にか妙に静かになる。俺は疑問を感じて正面に向きなおる。
(クマの姿が、ない?)
あの巨大で衝撃な印象を受けたクマが俺に何もせずにいなくなることなど考えられない。さっきまでクマと一緒にいた相生さんは、俺のほうを向いてニコニコいている。相生さんは素直な時もいたずらな時もいつもニコニコしているから参考にならない。
(ヤツはどこにいったんだ。)
俺は辺りをキョロキョロと見回した後に相生さんのいる方へ1歩踏み出す。すると、目の前に茶色の毛をもつ大きな存在が落ちてきた。突然現れたそいつに度肝を抜かれて思わず「ひいぃぃ!」という情けない声が漏れる。地面を見ると相変わらず遊園地のタイルにそいつを中心とした亀裂が多数生じていて恐怖を感じる。とにかくここから逃げようと、そいつに背を向け相生さんの下へ向かおうとすると、大きな2つの腕に捕らえられる。その力は骨が折れそうで折れない程の力で、息をするのも苦しい。体をばたつかせて必死の抵抗をするも、その抱擁の前には無力であった。抵抗しても意味が無いことが分かったので仕方なく脱力し、もう抵抗の意思がないことを示す。すると、そいつは俺を地面に下ろし、相生さんの時と同じように自身の身体をねじる。そうして取り出したのは昨日もらった風船の色と同じ、水色の風船をそいつが右手に持っていた。そいつは手を出せと言わんばかりに何度も左腕を引いたり伸ばしたりしている。示されるままに左腕を差し出すと、そいつは結ばずに俺の左手首に風船を括り付ける。そして、相生さんの下へ歩いて戻っていった。
俺はその行動を見てしらける。
(普通に歩けるなら最初からそうしろよ!)
相生さんは帰ってきたクマと再び抱きしめあい、癒しを得ている。そんな時間もかれこれ10分。もう2時間ほど経っていると思い、近くの時計を繰り返し確認していたのだが、ただ待っているだけというのは思ったよりも時の流れが遅く感じるようだ。
(いつまで続くんだこれ。あんまり長くやってると目、覚めちゃうぞ。)
すると、クマが抱擁を解き、お腹に張り付いている相生さんの脇の下を抱えて引きはがす。相生さんはきょとんとしながらクマの顔を見つめる。クマは張り付いた表情のまま相生さんおを見つめる。その様はまるでガンをつけているクマとそれを知らない少女そのものだ。
しばらく見つめあった後に、クマが口元に手を当てる。相生さんはそれの意味を察して耳をクマのほうにむける。相生さんが時々頷いたり、目線を泳がせていることから話はしているであろうことは察せるが、内緒話にしてはあまりにも無音すぎて本当に話しているのか疑わしい。
話が終わるとクマと相生さんは再び抱きつきあって、すぐに離れる。相生さんの目には一筋の光が浮かんでいた。それは別れの時が来たことを暗示していることがすぐに分かった。
「クマさん、ありがとう。私、元気になれたよ。」
クマはそれに応えるように1回頷くと、足を踏ん張って一瞬にして空の彼方へと消えていった。あんな威圧的なマスコットキャラがいてたまるかとは思っていたが、いざ、別れるとなると名残惜しい。俺は相生さんの傍まで歩き、なんと声をかけていいかもわからず、ただ名前だけを呼ぶ。
「相生さん……。」
相生さんは肩にかけたバッグからハンカチを取り出して目元に当てながら答える。
「もう、大丈夫です。」
その声は、まだ少し震えていて、まだ大丈夫でないことを教えてくれた。
こんな時、他の人ならどんな言葉をかけているのだろう、と考える。
俺には泣いている人にかけてあげられる言葉はない。慰めの言葉はどんな言葉も中身のない上っ面のものだと信じて疑わないからだ。だから、この状況は非常に気まずい。
隣に並んで横目で相生さんの状況を頻繁に確認する。むせび泣くほどではないが、止めどなく溢れる涙を何度もぬぐっている。こんな時でも太陽は俺たちを照らしている。こんな時くらい曇りとか雨になってもいいと思うのだが、そんなのお構いなしだと言わんばかりに照り続けている。
しばらくして相生さんの呼吸が少しずつ整っていくのが分かった。
「こんな情けない姿をさらしてしまってごめんなさい。」
「……大丈夫ですよ。」
俺は気にしていないのでそう答えたが、本当は慰め方が分からなくてありきたりに返しただけだ。相生さんは涙を拭き終えると、大きく息を吸う。同時に腕も大きく広げ、吸った分の息を吐きながら体を丸める。そして、上半身を起こして濡れたハンカチをバッグに戻すと、俺の手を握り駆け出す。
「さあ、行きましょう!」
俺たちはコーヒーカップを起点にゴーカート、メリーゴーランドに乗り、昼下がりのような時間にレストランで食事をした。遊園地内の広々としたレストランに2人しかいないというのは逆に落ち着かなかった。それから、食休みもかねて売店へ行き、そこで相生さんはバッグに下げられるほどのクマのぬいぐるみを1つ購入した。あのクマはぬいぐるみになっても威圧感が変わらないことを知った。こんなに威圧的なのに相生さんは相変わらず「かわいい。」の一辺倒で俺には理解できなかった。徐々に空が赤く染まり始めると、メリーゴーランドの空飛ぶバージョンのもので油断させられてから、垂直落下させられたり、大船に揺られたり、ジェットコースターに乗せられた。この時の相生さんは笑う悪魔だった。こんなに楽しそうに笑う悪魔には生まれて初めて出会った。俺は立て続けに絶叫系のアトラクションに乗せられたことで意識が朦朧としていた。ジェットコースターを乗り終えた段階で意識が飛びかけていた。さすがの相生さんも俺の具合に気を使ってか、しばらく各売店でアトラクションごとで特徴の異なるクマを眺めることになった。たしかに衣装や装飾で各アトラクションごとの特徴が出ていたが、正直どのクマもクマ本体の見た目は同じであった。
しばらく歩くだけが続き、さすがに体調がよくなった。ふと空を見上げると、いつの間にか空は星や月が顔を見せていた。
「笈川さん、次はあれに乗りましょう。」
相生さんが指で示した先には大きな観覧車があった。きっと空から落ちていた時に見えていた観覧車だ。
時間も時間だし、観覧車を乗り終えたらこの遊園地から出ることになるだろう。楽しかった時間を噛みしめて賛同する。
「いいですよ。」
これは俺の固定観念だが、遊園地の締めは観覧車だと思っている。今回は俺も相生さんも乗り気なので、同意の上ということで問題ないだろう。
観覧車の真下に到着すると、その大きさに圧倒される。このまま乗っていくと、天まで昇りきれそうな気がする。
回ってくるゴンドラには相生さん、俺の順で飛び乗り、対面する形で席に座る。窓の外では暗闇の中を様々な光が園内を鮮やかに彩っている。一方、反対側の森は遊園地の光さえも届かないほど暗く鬱蒼としている。俺は綺麗な景色の方に向き直る。今では遊園地や街をこうやって上から眺めるのが好きになった。昔は観覧車なんて暑苦しくて息苦しくてスピード感もない1番つまらないアトラクションだったのだが、歳を取って素敵な情景に心を奪われるようになってきた。これも老化したせいなのだろうか。
「外、綺麗ですね。」
俺が窓に張り付いて外の景色を眺めていると、相生さんが口を開いた。相生さんの方を向くと姿勢よく座りながらも顔を傾けて外の景色に見惚れているように見えた。いくら夢の世界だろうと、人工物であろうと、美しいものには人の心を奪える魅力があるのだと改めて感心する。
「笈川さん、袖擦れ合うもたしょうの縁って知ってますか?」
「えっ?……えっと~。」
突然、ことわざの問題を投げかけられて戸惑いを隠せない。身体を相生さんの方に向けて頭を前にもたれながら後頭部を掻く。何が目的なのか分からないが、とりあえず質問には答えておく。
「えっと~、聞いたことはありますよ。確か、袖が触れ合うくらいでもその人と少しの縁があるよって意味じゃないんですか?」
相生さんは俺が間違えることを分かっていたかのように「ふふふっ。」と笑う。俺は恥ずかしい思いをさせられて言い返そうとしたが、先に口を挟まれてしまう。
「違いますよ。その多少でじゃなくて、他生です。他に生きると書くんですよ。」
そんなこと、生まれてこの方聞いたことがない。ここに来てまで俺に間違わせて笑いものにしようとしているのか。相変わらず意地悪な人だ。
「へ、へぇ~。そうなんですね~。それで、どんな意味なんですか?」
「ことわざの意味は、道で人と袖を擦れ合うような、ささいなことも、前世からの因縁によるものだ 、なんですよ。」
いたずらが成功したことがそんなに嬉しかったのか相生さんは目を細めて笑う。
「でも、私は多少でもいいと思いますよ。言葉的には間違えですけど、私たちって仲が良くてもその人のことを全然知らないこともありますから。それに、道ですれ違う人のことなんてもっと知らない。仮にぶつかったとしてもそれっきりじゃないですか。私たちは前世のことなんてわかりませんから、その人とは大なり小なりその程度の縁なんだと私は思います。」
確かに、俺が相生さんに現実で初めて会った頃のことを俺はもう覚えていない。しかし、相生さんは俺のことをずっと覚えていた、出会い1つ取っても人によって何が大事なのか何がそうでないかなんてそれぞれだ。相生さんの解釈も一理ある。
「って、それなら俺の考え方も正解じゃないんですか!?」
俺は自分の答えがあながち間違いでは無いことに気づいて声を大にする。相生さんはそれを再び「ふふふっ。」と笑う。やっぱり笑いものにされているような気がしてならない。
「そうですね。でも、本当の言葉と意味も知ってないとダメですよ。」
俺へのいたずらで相生さんが楽しそうに笑い続ける。こういう恥ずかしさを感じさせるいたずらはよくないと今でも思う。そして、相生さんはひとしきりに笑った後に窓の外に視線を移す。
「それにー。」
相生さんはそこで口を閉ざす。少し待っても俺はその言葉の先が気になり、勢いで問いかける。
「それに、どうしたんですか?」
少し間が開き、相生さんが俺のほうに向きなおる。少し横に泳ぐ目はなにかに気づくと、残念そうに目を細める。
「観覧車も、もう、終わりですね。」
その言葉を聞いて俺は後ろを振り返る。目の前には従業員さんの姿が見える。本当にもう終わりだ。もう少し時間があればその先を知ることができたと思うが、まるで相生さんが狙ったかのようなタイミングで終わりを迎える。
「あっ!」
俺が従業員さんを目で追いかけている間にゴンドラの扉が開くと、相生さんは颯爽と外に出る。
「早く降りないと今度は15分間1人ですよ~。」
笑顔でせかされ、俺は背中を押されたように飛び降りる。膝に手を置いて深く息を吐く。危うくもう少しで2周目に入るところだった。
「なんとか降りれましたね。」
「危なかったです。」
観覧車から離れると、園内に音楽とアナウンスが流れ始め、従業員が片づけや清掃を始める。スーパーとかでよく聞く閉店間際の音楽。俺は何となくシンデレラを思い出した。12時の鐘と同じような音楽に相生さんという名の女性。ガラスの靴こそ履いていないもののなんだか状況が少し似ている気がした。
俺が出入口を目指して歩いていると、相生さんは別な方向に向かって歩き始める。
「相生さん、出入口はそっちじゃないですよ。」
相生さんは振り向き様に笑顔を向ける。目元が下がって、眉尻も下がった弱々しくて物憂げな笑顔。
「さすがにもう、ここには居れない時間ですから。」
そう言って、また前を向いて歩いていく。俺はその言葉にハッとさせられた。いつもよりずいぶん長い時間ここにいたからか、いつの間にかここが夢の世界という事実から目を背けていた。
(ここにいるのも、もう終わりか……。)
天を仰いで息を吐く。目をつむると今日の思い出が星のように瞬く。
井上のこと、相生さんのこと、遊園地を遊びまわったこと、観覧車でのこと。これでもかというほど激動の1日だった。そして明日もまた、今日のように大きな変化のある日になるのだそうだ。ほんの少しの間だけど、相生さんと関わってきた。いつも突拍子でいたずら好きで、嫌なことがそれなりにあったが、楽しい時間のも多かった。
空気を抜くように息を吐いて、ゆっくり目を開ける。俺も前を向いて相生さんを追いかける。
相生さんは中央広場で足を止める。俺は向き合うようにして立ち止まる。様々なアトラクションの電灯が俺たちを囲むように照らしている。
「今日もとっても楽しかったですよ。」
「俺も、遊園地なんて久しぶりだったし、楽しかったですよ。」
「……よかったぁ。」
相生さんは下を向きながらそう言う。その言葉には安堵感が含まれていて、その顔には祈るような笑みが浮かんでいる。それから相生さんは口をつぐむ。その沈黙は安堵感の余韻からくる幸福を大切にしているように見える。
「笈川さん!」
「は、はい。」
「明日、頑張ってくださいね。」
その言葉は不思議と俺の中にスッと入ってきた。明日何が起きるかなど分からないけど、応援されたからにはそれに応えられるようにはしたい。
俺もなにか言わないといけないという焦燥に駆られ、口に出た言葉は
「相生さんも、手術、成功してください。」
だった。それは願いとも言えるようなもので応援ではないということを言い終えてから気が付いた。変なことを言ってしまったことに申し訳なく思いながら相生さんを見ると、目と口を丸くしていた。無理もない。何度も言うが、その言葉は激励でも何でもないからだ。しかし、相生さんの表情は驚愕から満面の笑みへと移り変わる。そして、
「はいっ!」
と、大きな声で返事をしてくれた。
その瞬間、時間がゆっくりになるような感覚に襲われる。瞼が思いの外ゆっくりと下りてくる。そして、5秒ほど暗闇を見つめる。
次に目を開けた時には、そこはもう、見慣れた地味な光景になっていた。