第2話 雫、落ちる
俺たちは互いに自己紹介を終えると各々紅茶を1口飲む。紅茶が喉を通っていくと俺は目を大きく開き、ティーカップに残った紅茶を見つめる。
(なんだこの紅茶。今まで飲んできたやつよりずっと紅茶してる。)
紅茶の香りは鼻をつきぬけ、全身を包んでいるようだ。目を瞑るとより香りを強く感じ、別世界にいるような感覚にさえ襲われる。
これが、余韻。
このままいつまでもこの余韻に浸っていたい。そう思った矢先に、
「今日はここまでみたいですね。」
その一言で一瞬にして紅茶の香りが消える。せっかく至福の一時を楽しんでいたのにと癇癪が起きる。これはさすがに問いただす他あるまい。
「それってどういう―。」
イスから立ち上がったが最後であった。踵が地面に支えられている感覚がなく、身体が後ろに傾く。さっきまで座っていたイスやティーセットの乗ったテーブルがいつの間にか重心に従って上下左右あべこべの状態で宙に浮いている。上には穴が空いていてそれ以外の部分は真っ暗闇だ。この状況から考えて、俺は今地面の下に落ちている。しかし、落下速度は不思議と遅く、下を覗く相生さんの顔がはっきり目に映る。相生さんは微笑んではいたが、眉尻が下がっている。その様子から察するに彼女もここで別れるのは本望では無いのだろう。
次の瞬間、全ての風景がガラスのように割れて上空に吸い込まれていく。隣で共に落ちていたテーブルやイス、ティーセットでさえ割れて吸い込まれた。そして、俺だけが暗闇に取り残された。とても冷たくて、とても寂しい色。そして、空から降ってきた時とは違う、この身に染み付いた感覚。
ああ、嫌だ。
同期が出世をした時の感覚と同じだ。真剣に考えた一大プロジェクトが目の前で一瞬にして没になった時と同じ感覚だ。友人が先に寝てしまって1人で狩猟ゲームをやっている感覚と、同じだ。
この現実に引き戻される感覚。
ここから意識だけでも今すぐにでも逃げ出したいと無意識に感じたのか、突如として稚拙な思考が浮かび上がる。
一体いつまでここのままなんだ?
先程までは落ちる感覚が強かった。しかし、風景が変わらないからか今ではその場に留まっているという感覚の方が強い。このままここに閉じ込められてしまうような気がする。それだけは避けたい。
俺は力もなく伸びている足や手を無我夢中でバタバタと動かす。
せめて、蜘蛛の糸かなにかに捕まることができたら、こんな場所から抜け出せるのに。
すると、ゴツンっ!という大きく鈍い音で意識がハッキリとする。それによって暗闇は一瞬にして消え去り、代わりに焼肉でシミのついた見慣れた天井がぼやけて見え始める。加えて、走ってもいないのに荒い呼吸。そして、ふくらはぎに感じる違和感。頭を動かしつつ視線を下げると、そこには自分の体より高い位置に足が落ちていることが分かる。
状況を把握し終えると、再び後頭部をつける。
「ベッドから落ちたのか。」
ポツリと呟き、大きく溜息を吐く。
俺がいつもの光景を見ているということは先程まで見ていたものは夢だということが分かった。久々に夢を見れたことは願ったり叶ったりなのだが、現実より夢の方が疲れる内容だったことは残念だ。
小学生の元気な声と横目に見える重い雲が、今日の始まりを告げる。
打った頭を押さえながら床に落ちているクシを拾い上げ、洗面台へ向かう。
鏡の前に立つと、前髪も目元を隠すほどの長さと量になっていることを見せつけられ、顔を曇らせる。
(そろそろ減らさないと邪魔だなこれ。)
クシで髪をある程度整えてからいつものワックスを手に取り、髪の毛をオールバックにする。金髪を辞めてからもう随分経ったからそこまで髪に気を使わなくなった。それでも派手髪でイキっていた昔の名残で、毎日、髪をオールバックにすることだけは意識していた。俺にオールバックが似合っていないことは目に見えて分かっている。それでも辞めるつもりはなかった。
お湯が出る方の蛇口をひねり、ティッシュで手についたワックスを軽く拭き取る。その後、石鹸で手を満遍なく洗ってぬるま湯で流しきる。濡れた手のまま歯ブラシを手に取り、その上に歯磨き粉を垂らす。その歯ブラシを口に放り込み洗面台にかけてあるタオルで手を拭ってからその場を離れる。昨日床に落としたスーツを拾い上げながら寝室に向かう。寝室に着いてからは、まずしわくちゃのズボンに足を通す。その後にテレビのリモコンを拾う。リモコンをテレビに向けて腕を少し下ろす。そのまま腕を真っすぐに降ろし、ベッドの上にリモコンを放り投げ、片手でズボンを上げてベルトを閉める。
廊下を渡って洗面台に戻り、口をゆすぐ。
曇りのせいか昨日の夢のせいか変に気分が落ち込んでいる。なにをするにもやる気が起きなくて、身体に刻み込まれた義務だけが機能している。
床を見ながら部屋に戻り、ワイシャツとスーツを着て、掌で埃を払う。重い板を胸ポケットに入れて、重りと足枷のある玄関へ向かう。
玄関に置かれた重りは取っ手が酷使されてもう少しで取れそうになっているし、ファスナーが所々壊れている。足枷は既にいろいろな部分が擦れている。それぞれ買い替えの時期が来ているのは火を見るより明らかなのだが、こんなものを買い変える気も起きない。
玄関マットに腰を下ろして足枷を履き、足が逃げないようにしっかりと紐で蝶結びに縛る。両足に足枷をつけ終えると、重りを持ちながら立ち上がる。その後、ズボンのケツポケットに入っている鍵を取り出して家を出る。
自宅から最寄り駅まではに少し長く歩かなくてはいけなくて、道中は不思議なほどに一言一句思い出せるほど鮮明で、脳に張り付いているように忘れることができない昨日の夢のことについて考えていた。
上空から落ちる俺。メルヘンな国。そして、なんか助けていた女性との再会。
考えるだけでも頭が痛くなりそうで、まるで意味の通じないギャグマンガを読んだ後の困惑を覚える。夢に一貫性を求める事自体間違っていると思うが。
今の俺は目的地に向かって歩いてはいるものの視界は焦点が定まらず、もはや感覚だけで動いているようなものだ。すれ違う小学生の元気は、傷に塩を塗るようにこの身に染みて痛い。夢のことを考えても、通勤路に意識を置いても気分は上がらないどころか悪化していく。もう考えることは止めようと思った時には駅についていて改札も通り過ぎてしまっていた。ここまでくるともう後戻りができない。後はこのまま牢獄に向かうだけだ。憂鬱極まりない。
きっと今日も各地を歩き回ることになるだろう。それならばいっそのことそのまま逃げ出そうと考えてみたことはあるが、できたことはない。
何両にも繋がった人の詰められる箱に身を投じて何を考えるまでもなく目的地へ向かう。俺はその間本を読むこともなく、ゲームをしたりアニメを見たりすることもなく、果てには寝もしないのでいつも相当な暇を持て余している。今日も変わらず暇なので結局夢が気になってしまい、当時の状況を思い出そうとし始める。
ぎゅうぎゅうに詰められたこの箱と通学時という話から当時もいつものように混雑していたのだと予想がつく。混雑時には人と衝突する可能性が高くなるからだ。しかし、予想は予想のままで結局頼りになるのはちゃんとした記憶なのだ。だから、彼女の話は今でも信じられない。
(それにしても、”今日は”か。じゃあ、次はいつなんだ?)
悶々と考えていると、箱から出られる場所に着く。自分と同じような黒服の合間を縫って外に出る。それでもまだ人の流れが激しいので、空いたベンチを見つけて座り込む。
ようやく得られた解放感に胸を撫でおろし、落ち着いたところで目を瞑って昨日の夢を何度も繰り返し思い出していく。
思い出すには短くて、体験するには長い、妙に現実的な夢。
足音が少なくなり、ホーム内の人通りも少なくなってきたことを察する。重りを持って重い腰を上げる。続きは牢獄に向けて歩きながら考えることにする。
(手がかりは、容姿と名前、話の内容だけだもんな。……何もわからん。そもそも相生雫、なんて名前聞いたこともないぞ。)
そうなると彼女は本当のことを言っていて、自分はそのことを覚えていないだけと言うことになる。しかし、そのことに納得はいかない。さすがに失礼だと思ったからだ。ただ、落とし物を拾った相手の顔を覚えている方が難しい。
落とし物を拾った話をされた時に下手に合わせてしまったことが自分の首を絞める。次会った時にどんな風に弁解すればいいのだろうか。
「おはようございま~す。」
牢獄にだらしない挨拶が響く。それもそのはず、まだこの時間帯は出勤するには早い。いつも事務の人が始業の準備をしているだけでそれ以外には誰もいない。俺は自分のデスクに向かう。紙が高く積まれ、お菓子の袋や空き缶の乗っただらしのない机を見つけると、その前に置いてある回転イスに座り込む。背もたれに寄りかかりイスを回す。自分と一緒に回る天井を見つめてリラックスしようとする。
俺はこの静かで人の少ない時間が好きだ。誰にも邪魔されず、なにも考えずにいられるこの時間が大好きだ。だから、この時間のためにこの牢獄に早く来ていると言っても過言ではないのだ。
イスを回すのを止めて天井を見つめていると大きなあくびが出る。夢は眠りが浅い時に見るという話を思い出す。きっと、今眠いのは昨日の夢のせいだ。そう決めつけて目を瞑る。固い素材だが体が伸びているからか、やけに気持ちがいい。家のベッドもこれくらい寝心地が良かったら安眠できたかもしれない。
「―パイ。」
暗く遠い所から声が聞こえる。聞き覚えのある声だ。
「―ンパイ!」
少しずつ大きく近くなってくる。頼むからもっと寝させてくれ。
「センパイ!起きてください!センパイ!」
うるさいほど大きい声が脳まで響く。そして身体が異様にぐらつく。
ゆっくり目を開けると、よく見る顔がそこにはあった。後輩の井上だ。
「センパイ、もうすぐ朝礼ですよ。」
そう言われて置時計を確認すると朝礼の5分前だ。俺は井上の方に向き直り、もう少しとだけ言って再び目を閉じる。
「センパイ、起きて~!」
井上はそれを許してくれなかった。俺の肩をしっかり持って横に揺らす。さすがに気持ち悪くなってきたので肩にある手の上に手を置いて、井上の手を引き離す。
「起きるよ~。」
と伝えて座面を押しながら姿勢を直す。井上は俺がちゃんと座っていることを確認すると、体を90度に曲げて、
「センパイ、おはようございます。今日もよろしくお願いします。」
と威勢良く挨拶する。井上はいつもそうだ。見た目は黒髪で歯磨き粉みたいに前髪を横に流してセットされている。体形は少し小柄でいわゆるぽっちゃり系だ。そして、この態度からも分かるようにかなり真面目な奴だ。
「よろしく~。」
俺は元気なく挨拶を返すと、井上は軽く頭を上げて自分のデスクへ帰っていく。そして、それは朝礼が始まる合図でもあった。自分含め社内全員が立ち上がり、部屋の窓際の中央に身体を向ける。高そうなイスに座っているおじさんが立ち上がり、咳ばらいをしてから話始める。
「え~、みなさん、おはようございます。」
おじさんの少し高い声が社内に響き渡ると、社員は口を揃えて挨拶を返し、会釈程度にお辞儀をする。俺も一応みんなに合わせて挨拶と会釈をする。おじさんの話はここからが本番だ。
「え~、今日はですね。その―。」
朝礼と言うよりは校長先生の挨拶のようなものだ。同じような話を繰り返す無駄に長くてつまらない話。周りの様子を確認をすると大抵みんな聞いていない様子なのが分かる。もちろん俺も聞いていない。だから別なことを考えていた。なかなか取れない貼り付いたもの。つまり昨日の夢について考えていた。
(なんかもっと気にするべきことがあったような……。)
よくよく思い返していくと、かなり恥ずかしい部分に気が付く。
(あれ?俺、夢の中でどんな格好してた?)
夢とは不思議なもので自分を客観視している描写を見ることがある。主観視点が多いという異様な夢の中で僅かにある客観視点頼りに思い返すと、顔が火照り始めるのが分かる。それに伴って右手で口を押さえて右斜め下に視線をずらす。
(やっべぇ。俺、パジャマ姿で相生さんに会ってたじゃん。……はっず。)
そんな燃えるような恥ずかしさも、1つの気になることが頭に浮かび一気に冷める。
(ん?これから相生さんに会うなら、ちゃんとした格好で寝ないといけないのか?私服見られるのも嫌だけど、あんまりスーツで寝たくないしなぁ。)
”今日は”という言い方に今でも引っかかりを感じながらも、どうせ夢だから次は無いと一蹴しておく。
校長先生の話が終わると、それぞれ業務に就き始め、社内は騒がしくなる。
俺は机の空いた隙間に両肘を起き、手で頭を支える。ただの夢のはずなのに気になって仕方がない。頭を悩ませている時、右耳から「センパイ!」と呼ぶ、明るく大きな声が耳に入る。
俺はその方向に頭を少し動かしながら、疲れ切った声で返事をする。
「なんだ~、井上。」
井上は近づきながら嫌気も感じていない様子で話し続ける。
「センパイ、具合悪いんですか?」
主に昨晩の夢がぐるぐると巡るせいで具合が悪い事は確かなので、適当に返す。
「あぁ~、そうだよ~。」
横目でチラッと井上の様子を確認すると心配そうに俺を見つめている。
こんな子供みたいな先輩に嫌気もなさそうに接してくれるのは井上だけだ。他の社員や後輩はこんなにグイグイ来ないし、やる気のない返事をすると見るからに嫌そうな顔をされる。あえて聞こえるように陰口を叩かれる時もある。それらは当たり前の反応だ。こんな見るからに元気のない適当な奴と一緒にいて楽しい人がいるはずもない。
この状況下で1人だけで考えていても悶々としたままなのでそれならば井上に聞いてみようかと考えるもそこまで乗り気ではない。とりあえず、この状況を何とかしようと上半身を起こそうとすると、またまた井上が聞いてくる。
「センパイ、なにかあったんですか?」
子犬のようについてくる。俺は上半身を起こしきって、井上を向いて答える。
「あぁ~、うん。まあ。」
井上は口を紡いで真剣な表情で俺を見つめる。俺はここからあまり引き延ばしても井上が下がる気配がなさそうに感じ、仕方なく話す決心をする。
「え~っと、昨日のことなんだけどな。めっちゃ変な夢を見たんだよ。それがず~っと頭を離れなくてさ~。」
「夢、ですか?」
たどたどしくなるのも無理はない。陰口ならいざ知らず変な夢で落ち込む奴なんてなかなかいないだろうから。
「そう、夢。なんていえばいいのか分からんが。う~ん、そうだなぁ。」
俺はいつの間にか話に夢中になって、右手の親指と人指しの間に顎を置いて話す内容を整理していく。
自分が空から落ちていく夢?そのまま巨大なゼリーに突っ込む夢?気が付けばお茶会していた夢?いや―。
「なんか、落とし物拾ってあげた人にお礼を言われる夢だった。」
その話を聞くと、井上は目を輝かせて急接近する。俺はすこし身体を後ろに下げ、ぶつからないようにする。
「ほんとですか!?素敵なことじゃありませんか!」
社内に井上の声が響き渡り、視線が集中する。俺は周りを確認して自分の口の前に人差し指を立て注意を促す。井上はそんなこと気にしてないどころか注意も見てない様子で俺を見つめ続ける。が、注意はちゃんと聞いていたみたいで少しボリュームを下げて話を続ける。
「想い続けたが故に想い人が夢に出てくる、なんて言い伝えが古来からあるそうですよ。」
そんな言い伝えは聞いたことはない。井上は文学が好きだからこれもまた文学のどこかから引っ張ってきたものだろう。
俺は呆れて溜息をつきながら背もたれに寄りかかる。
「はぁ~?そんなんじゃねぇよ。俺、その人の落とし物拾ったこと覚えてないし、その人のこと自体知らなかったし。」
「センパイはそうかもしれませんが、お相手は分かりませんよ?」
得意げな顔が若干ウザい。今日の井上はやたらとグイグイ攻めてくる。そんなに夢に人が出てくるシチュエーションに憧れがあるのかもしれない。しかし、今はそんなことの真相は知らなくていい。
そろそろ話を切りたくなってきた俺は置時計を確認して立ち上がる。
「井上~、そろそろ行くぞ~。」
「承知しました!」
井上は小さいながらも張りのある声で返事をして自分のデスクへ向かう。
(なんか、今日は調子狂うな。)
外に出ると、曇りのせいで少し蒸し暑さを感じる。俺はスーツを脱いで左腕に掛ける。隣を歩く井上は熱さなど知らないような素振りでスーツを着たままバッグを背負っている。見ているだけでこっちが熱くなりそうで、できるだけ視線を逸らして目的地へ向かう。正直面倒くさい。コミュニケーション能力は生きるのには問題ない程度で、業務中に取り繕うことはそれほど下手ではない。ただ、今日のような憂鬱な時には取り繕うための気力が必要になる。だから、今日は特に仕事をしたくない。ただ、横にいるこの子犬は別だ。あまりにも元気すぎて、その元気で雲を消し飛ばして欲しいくらいだ。どうやったらあの牢獄の中で元気に活動ができるのか疑問に感じる。
しばらく歩いていると背中に汗が滲むのが分かる。もう梅雨に入った上にそこらじゅうに建物があるせいで熱が外に逃げない。
隣を見るとさすがに井上の額には汗を浮いているのが見て分かる。俺は携帯を取り出し営業先の近くのカフェを探す。ちょうど営業先の目の前に緑色のチェーン店があったのでそこへ向かうことに決めた。
自動ドアをくぐって店内に入るとひんやりと冷たい空気が全身を包む。一瞬にして身体の熱が冷めていくのが分かる。井上は困惑しながら後ろをついてくる。身体を縮めて挙動不審、そして、見るからに分かりやすい表情。思っていることは―。
「センパイ、営業中なのに寄り道していいんですか?」
思った通りだ。すぐに解答したかったのだが、たとえ人が少なくても入り口で立ち話をするのはさすがに良くない。そのため、井上の腕を引いて注文カウンターまで強行突破する。
「ご注文はお決まりですか?」
差し出されたメニュー表を見ながら、顎に親指と人差し指をあてがう。井上は俺とメニュー表を交互に何度も見ているが、気にしないでメニューを軽く確認する。俺はコーヒーが苦手なお子ちゃまだから、注文がすぐに決まる。
「アイスティーブラックのショートで。」
井上は俺が先に注文したことで余計な葛藤が生まれ、余計にうろたえ始める。そして、最終的には目を瞑りながら、
「コールドブリューのショートで。」
と注文する。
「かしこまりました。お会計、693円になります。」
俺は携帯を取り出し、交通系ICですぐにお会計を終える。
「あちらの方でお待ちくださいませ。」
俺はありがとうございました。と伝えて再び井上の腕を引く。手渡し口に向かうと外から見えていたよりも空いていて少し驚く。5人ほどの客がポツ、ポツと座っている。ある者は窓際でパソコンに向かい、あるものはソファで本を読んでいる。変わらない日常と冷気の中で、気分が落ち着く。1人を除いて。
「お待たせ致しました〜。」
手渡し口にお盆に乗った2つのコップが置かれる。
俺はまた、ありがとうございました。と伝えると重りを一の腕にかけて目の前のお盆を持ち上げる。近くの席にお盆を置いた後、重りを床に下して座りこむ。
落ち着きのない井上は恐る恐る正面席に座る。大きく首を振って周りを見渡すと、か細い声で話しかけてくる。
「あのぉ〜。」
井上はひどく怯えてるような子犬だ。俺は小さいその姿を見つめて口を開く。
「こんなことしてていいのか、だったな。」
子犬は目を瞑って首を縦に大きく振る。俺は子犬の様子を見ながらストローに口をつけ、アイスティーを1口飲んで一息ついたところで答える。
「井上はさ、面談で汗だくのまま来られたら嫌だろ?」
子犬はこの質問の意図を察したようで急に顔が晴れる。
「なるほど!さすがです!センパイ!」
俺はそれに頷いて応え、再びストローを加えて先程より多い量飲む。アイスティーの冷たさと香りが全身に広がる。夢ほどではないが。ただ、これがあるから紅茶は止められない。目の前の子犬も満面の笑みでコーヒーを飲み始め、ようやく平穏に戻る。
俺は携帯の画面を開き、時間を確認する。
そろそろ時間だ。
井上は既に飲み終えていて、テーブルに肘を立て、頬を両手で支えて俺の顔を見つめている。なにがそんなに嬉しいのかと思いつつ、俺は井上の腕の隙間に置いてある結露したコップをお盆の上に乗せる。井上はその様子に気が付かず、こちらに笑顔を向け続ける。俺はお盆を持って何も言わずに立ち上がる。イスの足が床に擦れる音が店内に響き渡る。井上はその音に気付き、急いで立ち上がって服装を整える。その間、俺はお盆を返却口に置き、ストローをゴミ箱に入れる。後ろを向くと、満面の笑みで俺のスーツを持っている井上がいた。
「あ、ありがとう。」
俺はスーツを持ち上げて羽織る。腕を真っすぐに伸ばしてしわを伸ばす。その後、襟を握ってしっかり伸ばす。
「それじゃあ、行くか。」
重りを持って外へ出る。
目の前の建物を見て急に緊張が走る。その建物はもはや壁と言ったほうが正しいのかもしれない。仕事には慣れてきたと思うが、まだ大きい会社からの威圧感に慣れたわけではない。固唾を飲んで足を踏み出す。井上も緊張しているのか、歩みが固くなっているのが分かる。
雲は朝よりも重さを感じる色になっている。自動ドアをくぐると、空気が重いような気がする。エレベーター内では冷やしたはずの顔に汗が垂れる。
自動ドアを抜けて外に出ると、バケツをひっくり返したような雨が激しい音を打ち鳴らしていた。
俺は右手に掴んだ重りに引っ張られて肩を落とす。井上は折り畳み傘を開き、俺を入れる。1人用の傘に成人男性2人。俺は一切濡れることがなく前へ歩く。
言葉も交わさず、前へ歩く。
次の営業まで2時間ほど空いている。俺と井上は緑と赤と白で彩られた看板が目立つファミレスチェーン店に入る。俺はすぐ店員について行き、井上は傘を傘立てに入れてから後ろについてくる。
案内された場所は窓際だった。
俺はソファ型のイスに座ると窓枠に寄りかかる。後ろから来た井上はスーツを脱いでおり、ワイシャツ姿になっている。スーツから水がポタっポタっと滴るのが分かる。今まで気づいていなかったが井上は水色のシャツを着ていた。絶妙にマッチしている。
窓の外に視線を移して外の景色をぼーっと眺める。時々横目で井上を見ると、井上は相変わらず俺を見つめ続けている。
外を見ていても身体に溜まった毒気が流されず、横になっていた身体を正面に向けながら視線を下げ、溜息をつく。両肘を両ひざの上に乗せ、頭をテーブルに近づける。すると、ゴトンっという音が耳元に届く。俺は音のした方に頭を上げる。すると目の前にお冷が置かれていた。そのお冷の奥には両手でコップを抱えて水を飲んでいる井上の姿が見える。
「井上。……すまん。」
井上は水を半分くらい飲み終えると、コップをテーブルの上に置き、
「大丈夫ですよ、センパイ。」
と言う。いつもの明るくグイグイと来るような声ではなく、同情のような慰めのような、そんな優しく穏やかな声だった。
俺は再び顔を下に向ける。水に解けていく氷がパキッと音を立てる。携帯を取り出して時間を確認すると、かれこれ30分は経っていた。腹の虫が鳴き始める。
さすがにこのまま沈黙を続けても空腹が続くだけだ。ため息をしてから無理やり上半身を起こす。重りに身を任せて移動していたからか、やたら肩に重さを感じる。その重さに逆らうように腕を上げ、メニュー表を手に取る。軽く見ていたが、これといって目に付く商品が無い。
俺はメニュー表を閉じ、背もたれに寄りかかる。すると、今度は井上がメニュー表を手に取り、すぐに後ろのページを眺める。その後、前のページを全く見ずに店員呼び出しボタンを押す。
俺は自分の手に視線を移す。
頭の中はすっかり先ほどの営業のことで埋め尽くされている。今回のプレゼンでは緊張のあまりにセリフが飛んだ。それだけでも酷いのに、質問に慌てて対応してしまい、突っかかった所全部を井上がカバーしてくれた。それでも、今回の俺たちの案は営業先に却下された。それは単に今は必要なかっただけだと思いたい。そうでなかったら、俺は―。
「ご注文を伺います。」
店員の声がちょうど最後まで出かける言葉を遮る。俺はその声に反応するように頭を上げる。すると、井上がメニュー表の裏を見せながら注文を店員に伝えていた。店員は井上が指でさす商品を機械に入力していく。
「ご注文確認します。クラシカルティラミスが2つ。以上でお間違えないでしょうか?」
井上が「はい。」と答えると店員は頭を90度に下げて他のテーブルへ向かう。
先ほどまで店員を見ていた井上は片手でコップを掴み、正面に向き直る。井上は俺と視線が合うと斜め下に視線を逸らす。
「センパイ、今、かなりショックを受けているのは分かります。だから、少しくらい休みましょう。今日の分は僕がおごりますから。」
そう言うとコップを口元まで持ち上げ、傾ける。俺は自分の手に視線を戻し、
「ああ……。すまない。」
とだけ答える。とても先輩とは思えない言動。本来なら断るべきところであり、俺のセリフだ。頭では分かっている。分かってはいるんだ。はたから見たら井上の方が先輩で、俺の方が部下だろう。井上はとても気が利く。だから、余計に劣等感に苛まれる。
ゆっくりと時が流れる。俺は、相変わらず背もたれに寄りかかり、太ももの上に乗った自分の力のない手を眺めている。
無様だ。
俺が大きく溜息をついて姿勢を正すと、ちょうどティラミスが届く。店員は井上に商品と数を確認すると、
「伝票はこちらに置いておきます。ごゆっくお召し上がりくださいませ。」
という定型句を述べ、伝票を置いていく。
目の前のティラミスは成人男性1人で食べるには少ないが、今の俺にはちょうどいいサイズだ。前方に視線を移すと、井上が縮こまりながらティラミスをじっと見つめている。様子を見るからに何を待っているのか察しが付く。食べたくて仕方のない様子がおやつを預けられた子供のようで笑いのツボが少し刺激される。
「先に食べてていいよ。」
俺は少し意地悪をしたくなってそう勧めると、井上はなにか言いたげな表情を向けてから少し前かがみになる。俺は自分の胸元で右掌を井上の方に向けて後押しすると、不服な顔でフォークを手に取り、ティラミスに切りこみを入れていく。
「ふふっ。」
ここまでの一連の流れがツボに深く入り、さすがに笑いが漏れる。俺の様子を確認しながら我慢をする井上の表情がおかしかった。ティラミスを見つめながらぷるぷると震える体がおかしかった。曇っていた井上の表情が晴れていくことが分かると俺はまた、口から空気が漏れた。表情が晴れることのどこにも笑う要素などない。本当に笑いのツボとは恐ろしいものだ。
「あ~あ。なんかもうどうでもよくなっちったよ。」
俺はフォークを取り上げて、ティラミスを一刺しする。井上は安心しきった表情でティラミスを食べ進める。俺も少しずつ食べ進めていくと思い出し笑いをして、ココアパウダーが気管に入る。口に入れたティラミス丸ごと戻しそうになったが、何とか耐えて飲み込んだ後に、しっかり勢いよく咳き込む。井上は口に入れたティラミスを急いで飲み込むと、立ち上がって俺の近くに置いてあるコップを手元まで移動させながら心配する。
「センパイ!だ、大丈夫ですか!?」
「思い出し笑いしたらココアが気管に入った。ゴホッ、ゴホッ。」
手元にあるコップに入った水を一気に飲み干す。喉は正常を取り戻す。空になったコップをテーブルに置いて前を向くと井上は頬を膨らませている。
「センパイ、僕のことディスってるんですか?」
「そんなんじゃないって。」
俺はバカにはしていないという意思表明を軽くする。今の会話の感覚、雰囲気、悪くない。調子が戻ってきている。それに、久しぶりに大きな声で笑った。そんな気がする。加えて、情緒不安定な俺を切らないで対応してくれる後輩の存在がありがたい。
少しずつ笑いが引いて脳が落ち着きを取り戻してきたところで咳ばらいをする。
「井上。」
ここは真剣なトーンで苗字を呼ぶ。井上はその声に反応して面接を受けるようにピシッと座り直す。
「あの~、その~。」
井上の姿勢の良さも相まって、こうして面と向かって真面目に言葉にしようとすると恥ずかしさがある。しかし、ここで言わなくてはそれこそ人としておしまいだ。
「きょ、今日まで、こんな俺をサポートしてくれて。あ、ありがと、な。」
顔が熱い。それに、テーブルを見つめて井上を正面から見ていない事が自分でもわかる。ただ、今は合わせようと思って合わせられるものでもない。それに気が付けば両手を強く握りしめている。
お互い口を開かなくなり、むずがゆい空気になる。なにか話そうにも上手く言葉にできない。すると、井上は糸が切れたように笑いだす。その大声に余計恥ずかしが膨れ上がり、ついには耐え切れなくなって正面を向いて口を出す。
「な、なんだよ!」
井上は苦しそうにヒーヒー言いながら涙を拭いて答える。
「だって、センパイの顔赤いんですもん。くふっ。それに、今日まで、ってなんなんですか。これから午後の営業あるのに。」
まだ肩を震わせて笑っている。俺は顔を赤らめながら歯を食いしばる。井上の軽やかなディスりが俺の恥ずかしさを増長させる。
「はあ~、お腹痛い。」
井上はお腹をさすりながら深呼吸して息を整えていく。そして、呼吸が少しずつ整っていくと、大きく一息を吐いて視線を合わせる。
「センパイ。僕、これからもサポートし続けますよ。ずっと、サポートしていきます。」
俺は井上の姿勢に息を飲んだ。口元は緩んでいるが、真っすぐ輝いた目。言葉の奥からも感じる強い意志に圧倒された。
一度目を閉じてから、井上に真っすぐな目を向けて応える。
「ああ、よろしくな。」
その後、俺と井上は談笑しながら残りのティラミスを食べ進めた。通勤時間に見つけた猫の話だとか、退勤時に両肩に寝ている人の頭が乗ってしまったとか、本当に他愛もない話をした。その後、午後の営業の開始時間が近づくと、俺は伝票取り合戦を勝ち取った。そう、ティラミスのお代は最終的に俺が払ったのだ。井上は頬を膨らませながらぽかぽかと俺の体を軽く叩かれた。
お店の外に出ると、気付かないうちに雨がすっかり止んでいて、遠くでは雲間から光が差し込んでいる。俺はその景色が好きだ。理由は単純。その景色が息を飲むほど綺麗だからだ。この景色がずっと続くなら、小一時間程度は見ていられるだろう。
そういえば、雲間から光が差し込む現象のことを薄明光線と言うらしい。子供の頃に見た光景が忘れられなくて親に聞いたり、本を探したりしていたことは昨日のことのように思い出すことができる。結局小さい頃には分からなくて、今の会社の入社日に起きた大規模の薄明光線を見た時にすぐにネットで検索して名前を知った。薄明光線と言えば他に光芒、天使の階段、ゴッドレイと色々な名前がついている。それを示すには申し分のない名前だ。ちなみに俺は天使の階段という名前が好きだ。俺は、入社日に見た天使の階段を天使が下りていく姿を見たからだ。ただ、この話をすると大抵バカにされる。当たり前と言えば当たり前だが、俺は自分の見たものを信じる。そして、俺は天使の話を二度と口にしないようにしている。
しばらく遠くの薄明光線を見つめ、気持ちを落ち着かせながる。入社日二見た光景と同じ光景をまた見たいと、そう思う。
光は少しずつ大きくなりながら弱くなっていく。
「よし、次の取引先に行くか~!」
「はい!センパイ!」
軽い足取りで駆け出す。今ならこのままどこまでも行けるような気がする。
「ありがとうございます!」
俺と井上は腰を90度に曲げて頭を下げる。
「いやいや、こちらこそこんな良い企画をありがとう。」
目の前に厚く優しい手が差し出される。涙ぐむ目を必死に抑えるために強く目を瞑る。涙が引っ込むと体を上げて、握手を交わす。
「これから、よろしくね。」
「よろしく、お願いします。」
分かりやすいほど声が震えた。横を見ると、井上が笑顔を向けている。その目尻は逆光の太陽光で煌めいている。
やめてくれ。こっちまでこらえきれなくなる。
こうして今日の取引が終わった。外に出ると星がポツポツと顔を出し始めており、空が温かみを失いつつある。携帯を取り出し、会社に報告をする。俺の声がいつも以上に明るいからか、電話先の従業員の声も明るいように感じた。
電話を終えて、空へ息を吐く。
「センパイ、良かったですね!」
「ああ!ありがとうな、井上!」
俺たちは横にならんで歩みだす。
今日の営業はたったの2件だったが、如何せん1件目から2件目までの移動時間と面会までの空き時間があまりにも長かったのだ。それに新企画ということもあり、1回当たりのプレゼンの時間が長めに取られていた。もちろん質問時間も長いし、内容の濃い質問が数多く飛んできた。
こんなに長いプレゼンは初めてだったからさすがに疲れは感じている。しかし、これから上の命令で会社に帰らねばならない。いつも通りであれば、足取りが重く、電車に揺られて寝ているところなのだが、今日は自然と足が前に進む。
周りの建物が灯りを失う中、俺の牢獄はぽつんとした灯りがついている。廊下は俺たちとは逆方向に流れる人通りができている。合間を縫って、ようやくみんなの作業部屋に入ろうとしたとき、右の肩甲骨あたりをツンツンと指される。その方向を振り返ると、とても嬉しそうな表情の女性が立っていた。
「笈川さん。久々にやりましたねっ!」
彼女はガッツポーズを見せる。どこか聞き覚えのある声だと思い、視線を若干上へ向ける。答えは5秒後に分かった。今日、連絡した時に電話に出てくれた人だ。同時にその容姿からいつも1番乗りで牢獄に来る人であることも分かった。それらが相まって名前を呼んで感謝を述べたかったのだが、肝心のネームプレートがガッツポーズで見えずに参ってしまう。
「あ、ありがとうございます。」
とりあえず最低限の感謝を述べると、彼女はそのまま手を振ってさっきの人通りを追うように去っていく。残念なことに俺は人の名前を覚えにくいようで、その酷さは今日の電話対応で聞いているはずの名前すら覚えていないほどだ。この牢獄の中で名前をちゃんと覚えているのは井上だけだ。理由は付き合いが長いから。他の人の名前も始めは覚えようとしたが時が進むにつれ、ネームプレートと役職名で呼ぶことに甘えた。
(今度から、ちゃんと覚えようかな。)
心の中でそうぼやきながら、ようやく部屋に入る。奥にいる貫禄のある座り方の校長先生もとい部長の下へ向かう。彼もまた、いつもとは違う表情で俺たちを迎える。その様子に嬉しくもあり、嫌悪感もある。
「いやいや、今回は素晴らしい活躍でしたよ。今後もこのように頑張ってくださいね。特に、笈川君、君はあんまり成績がふるってないんだから。」
その後、何を言われたのか全く覚えていない。しかし、少しの感謝の言葉と言い方を変えただけの説教がつらつらと並んでいたことだけは覚えている。さらに、感謝の言葉を述べる時はべた褒めと言う言葉が似合うほどのウザさ。
話を流していると、ある時点で嫌悪感の正体に気付いた。それは分かりやすい掌返しだ。校長先生に言われた通り、俺の成績はぶっちぎりで最下位。いつもなら1件契約が取れてもまったくもって感謝はしない。それなのに今日だけは感謝に説教。大手へ採用されたことで気分がいいことが手に取るように分かる。
両手を前で組んで視線を向けることだけはしておく。同じ話はせめて2回までにしてほしい。
ようやく校長先生の説教が終わると、俺たちは逃げるように帰った。あの空間にいるだけで幸せが逃げていきそうだ。
俺たちは帰路をキビキビと歩く。校長先生のせいで少し残業をさせられたようなものなので、早く家に帰りたい気持ちが前へ前へと足を動かす。ただ、校長先生の話を聞いているときはとてもつまらなくて内容を無視していたが、営業成績が1番悪いという事実を思い返して現実に引き戻された。
「井上、ごめんな。」
「なにがです?」
井上は不思議そうな顔を向ける。その純粋な表情に本心は打ち明けられず、適当にはぐらかす。
「あぁ~いや、なんでもないよ。」
「なんですか、それ。さっきまで元気だったのにもったいないですよ?」
それはそうだ。せっかくいいことがあったんだ。今日くらいは嫌なことは忘れよう。
「今日、酒飲みに行くか?」
「いえ、僕はお酒が飲めないので結構です。」
「つれないな~、井上君は。」
「センパイ、その言い方やめてください。」
きっぱりと断られる。そもそも俺もそういうノリではない。ただ言いたかっただけだ。それに、結局俺たちは飲みにはいかず、それぞれの家に向かった。
井上と別れると、静寂が身に染みてくる。今日は月明かりが出ているため、なんとなく心強かった。もっとも、いつもびくびくしながら帰っているわけでもないが。
月を見上げ、今日を振り返る。
取引は1勝1敗。1敗の価値の大きさが1勝よりも大きかったことは否めないが、勝ちは勝ちだ。そして、井上との絡み。今までと同じようでどこか違う感覚があった。それは今までの俺がそれほど無気力で生きてきたからなのかもしれない。とにかく、今日はとこか違うように感じたのだ。そのため、その違和感を具体的な言葉で表すのは難しい。そして、今日1番のハイライトは飲食店でのもじもじだ。今思い返しても少し吹き出すくらいには面白かった。
足を進めていくと、月明かりが別な明るさにぼかされ始める。視線を下に向けると、いつの間にか駅についていた。駅内をすれ違う人は1人か2人程度で、ホームにもそれくらい。人で溢れた場所は疲れた体の追い打ちになるのでちょうどいい時間に着いた。
ホームはとても涼しかった。明日も雨が降るのか、それとも雨が降ったから空気が冷たいのか、とにかく涼しい。歩いて火照った体にちょうどいい。朝から昼にかけて異様に暑かったからそのギャップで風邪をひかないかだけは少し心配だ。耳を澄ますと遠くから電車の揺れる音が聞こえてくる。家に近づいていることを実感する。
満員ともガラガラともいえない電車に乗り、つり革につかまる。はしゃぎすぎたせいか、頭が思うように持ちあがらないし、ゆりかごに揺られるように身体が動く。遠くから囁くような大きさで独特なイントネーションが聞こえ、薄目を開く。目の前にはいつも通る駅の名前がかかれた看板がかかっていた。俺は目をこれでもかというほど開いて、急いで電車の外へ飛び出る。いきなり動いたからか心臓が少し強く絞まる。がらんとしたホームで膝を抱えて呼吸を整える。動悸ともいえる胸の痛みが引くと、身体に冷たい空気が肺を満たす。
ここまできたら家まであと少しだ。気持ちがそこまで悪くない内に寝よう。
玄関をくぐり、少しの間立ち止まる。重い扉は大きな音を立てて外界を遮る。扉にロックとチェーンをかけてから、足枷置き場から部屋の中へ腕の荷を降ろす。軽くなったことを実感すると体を捻り左右の腕を1周させて、腕の疲れを少し飛ばす。濁った空気を吐き出し、足枷を取る。マットの上に乗ると、いよいよ外の世界とはおさらばだ。
今日はもうお風呂に入ってしまおう。
とりあえず、洗面台へ向かいウェットシートで服の隙間から身体を拭く。シャワーほどではないが気持ちがいい。寝室に入り、一旦ベッドに向かって腰を下ろす。電気もつけていない薄暗い部屋で、給料をはたいて買った質の良いベッドに乗っていると、電車に揺られていた時の心地よい感覚が再び襲い掛かる。俺は抵抗する術もなくその感覚に飲み込まれてしまう。そのまま暗闇だけが視界に広がっていく。
目を開くと白い壁が広がっていた。
(またここか。……ということは、本当に”今日は”だったんだな。)
冷静な判断をしながら頭を下にして空気を突き抜けていく。今日もなぜか甘い雲を通って、でかいゼリーの上に落ちるのかと思うと少し嫌気がさす。それは全身ベタベタになるからだ。昨日は頭が追いつかなくて気にする余裕がなかったが、今日は気にする余裕しかない。
雲が目の前まで近づくと、意を決して目を閉じる。すると、突如腕を引っ張られる。それに伴って落下の勢いはなくなる。あまりに突然のことに目を開いて掴まれた腕の方を見ると、昨日の女性が、相生さんがいた。
「えっ!?うえぇっ!?」
予想だにしない出来事に汚い驚きをあげてしまう。あまりの汚さに恥ずかしさが沸々と湧いてくるが、口から出てしまったものは取り返しがきかない。俯きながら、おとなしく彼女に腕を掴まれてゆっくりと下降していく。
ゆっくり?
すぐに見上げると昨日もさしていた日傘が大きく開いてパラシュートになっている。
夢なら何でもありなのか。
俺は体の力を抜いて吊り下げられた状態になる。勢いのある風も好きだが、こういうゆっくりとした下降もたまには悪くない。
会話もなく下降していく。俺は相生さんの様子が気になって上を見つめていると、ずっと陽の差す方を向いていた相生さんが視線を合わせる。
「こんにちは、笈川さん。」
「あ、こ、こんにちは。」
たどたどしく挨拶を返す。俺はそれ以上の語彙を持ち合わせていなかった。
いつの間にか雲は頭上の遥か遠くまで離れていた。いつ通り抜けたのか全く分からなかった。そして、雲を抜けたということは同時にもう少しで巨大ゼリーが待ち受けているということを示唆している。今日は相生さんの日傘パラシュートがあるため、急速落下する心配はないだろう。
下を見ると、昨日は主に風のせいで気が付かなかったことに気付く。この場所、いや世界は鮮やかに彩られたお菓子で構築されている。この前落ちたゼリーや飴の花畑にクッキーの床。遠くに見える緑は森だろうか。あれは昨日は見なかった気がする。森をよく見ると中にぽっかりと穴が空いていて、そこには観覧車やジェットコースターなどのアトラクションのようなものが見える。それらはお菓子で造られた見た目はしていない。
こうして風景を眺めているのは単に話題がないからか、緊張しているからか話すことがないからだ。相生さんは空の遠くを見つめながら微笑んでいる。その様子は一向に変わる気配がない。このままゆっくりと降りていくことが楽しいのだろうか。それともなにか別な考えことでもしているのだろうか。
「笈川さん。」
「あ、はい。」
噂をすればなんとやら、話はあちらから飛んできた。相生さんは、微笑みを崩さずにこちらを見つめる。なんだかしたり顔のように見えて少し嫌な気がする。そして、悲しいかな。それは的中してしまう。
「今から降りましょう。」
始めは何を言っているのかピンとこなかったが、傘のパラシュートが閉じられ、腕から手を離された瞬間に言葉の意味を理解した。大声を出して、急降下。頭を上にしているとどうも落ち着かないので下に向ける。俺が慌てている間にいつの間にか相生さんも下を向いて降下していた。まさにスカイダイビングだ。そう考えると、現実では絶対にやらないし、できないことを体験できていると考えると悪くはない。悪くないけど2回目は嫌だ。相生さんは身体を大の字に広げて降下し始める。まるでジェットコースターに乗った子供のように無邪気に楽しんでいる様子が見て分かる。その元気の良さを俺にも少し分けてほしい。
俺が頭頂部を地面に向けて降下している間、相生さんは変わらず大の字になったままじっと地上を見つめている。
「笈川さん!そろそろ着きますよ!」
その言葉にハッとさせられて顔を地上に向ける。そこにはヤツがいた。
「げっ!」
ヤツは既に目の前。何とか身をひるがえして背中をヤツに向けて突っ込む。落ちた場所はまた巨大ゼリーだ。
ゼリーは昨日と同じように俺たちの落ちた場所に向かってへこむと、勢いを殺しきったところで崩れ始める。その後、ゆっくりと俺たちを地面まで流す。ゼリーが全身にまとわりつく。併せて手や服がベタベタし始める。眉間にしわが寄る。一方、相生さんはというと空を見上げながらお腹を抱えて笑っている。顔や服にゼリーがついているというのになんてお気楽なんだ。さすがに虫の居所が悪いので上半身を起こして問いただす。
「ちょっと聞きたいんですけど、なんでゼリーに飛び込もうとしたんですか?」
相生さんはひとしきり笑ってから涙を拭いて答え始める。
「笑いすぎてしまってすみません。……この前、笈川さんが空から落ちてきたのを見て、私もこのゼリーに飛び込みたいって思ったんです。だから、今日その夢が叶って良かったです。」
「あ、そうなんですね。……え?それだけですか?」
「はい。」
あまりの意味不明さに聞き返してしまったが、即答された。それにしても、わざわざゼリーに飛び込むなんて俺には到底理解できない。俺が着地する場所を選べたなら、極上に柔らかい布団の上にする。
俺は答えを聞いた時、失礼ながら変な人だと思った。それに、夢の中なのに夢が叶うという表現がどことなく鼻についた。
「笈川さんは楽しくないんですか?」
相生さんが上半身を起こしながら問う。俺は突然質問を向けられ解答に困った。本当のことを伝えた方がいいのか、それとも取り繕った方がいいのか。
「俺は、ちょっと嫌ですね。このゼリー、ベタベタしますから。」
後頭部を掻きながら、眉尻を下げて笑う。結局、取り繕うのが苦手なので楽なほうに逃げた。しかし、すぐにやらかしたと思った。相反する思想はショックを与えやすいからだ。鼓動が妙に大きく聞こえ始める。
「そうなんですね~。でもこうすれば大丈夫ですよ。」
声に身体がビクッと反応して相生さんの方を見る。相生さんは俺に右指を向けて、胸元で小さな円を描くように動かす。すると、俺の顔からゼリーの感覚がなくなる。身体を見るとどこにもこびりついたゼリーがなくなっている。心配が一瞬にして唖然に変わる。服を撫でると止まることなく手が動いていく。ベタベタも取れている。理解が追いつかない。
相生さんは俺の間抜け顔を軽く笑う。
「どうして?って顔ですね。でも、ここは夢ですから。」
だからなんでもできる、と言うわけか。なんでもできることの一例を目の当たりにしているのだから嘘をついていないことは確かだ。
色々なことが立て続けに起こって、今日も腰が抜ける。相生さんは軽々しく立ち上がる。そして。俺の前まで歩き、影を作る。逆光で上手く表情が見えない。
「笈川さん、立てますか?」
相生さんの手が目の前に現れる。昨日と同じようなこの状況、相生さんだけにスポットライトが当てられているように感じる。
(もしかしたらこの夢は―。)
いや、馬鹿馬鹿しい。そんなこと、あるはずがないのだ。
意識を視界に戻すと、目の前に差し出されている手が存在を主張している。長い時間放置してしまったことに申し訳なく思いながら、その手を左手で横にのける。空いた右手を支えに立ち上がろうとすると、
グジャっ。
嫌な音が聞こえた。それにこの感触。一気に気持ちが冷める。相生さんは空いた手で口元を押さえ、フフフっと笑う。
「笈川さん。そんなにゼリー触るの好きなんですか?」
皮肉を言われる始末。手につけてしまったものは仕方がない。そのまま立ちあがると案外小さい相生さんに少し驚く。ただ、平均的な差ではあると思う。
両腕を横に移動させてゼリーのついた手を払う。相変わらず嫌なベタベタ具合だ。
互いに視線が合うと、相生さんは待っていましたと言わんばかりに口を開く。
「今日はスーツなんですね。それに髪の毛も昨日とは違って印象が変わりました。」
その言葉を聞いて頭を触ると、ワックスの感覚があることが分かる。そのまま視線を落とし、自分の姿を確認する。少し縦線の入った黒い服の隙間から、ワイシャツが見える。それを見て状況を察した。今日は家に帰ってそのまま寝てしまっているのだ。スーツで寝るのは身体が痛くなるので好きではない。そもそも好き嫌い以前に、スーツのまま寝る方がおかしい。
相生さんは視線を落としている俺を見て、落ち込んでいるように見えたのか、フォローのようなものを出す。
「スーツ姿も似合ってますよ。」
それは昨日パジャマ姿で会っていた事実を暗示している。余計に恥ずかしさが助長されて、あまりの恥ずかしさで話題を変える。
「あ、あの、今日はなにするんですか!?」
勢いあまって大きな声が出てしまう。相生さんはキョトンとした顔で俺を見つめた後に相生さんは目を細め、頬を溶かすように笑う。その表情の奥にはどんな感情が隠れているのか、少しだけ気になる。
「そういえばまだ話してませんでしたね。今日は、お菓子の森の中の遊園地に行きますよ。」
森の中、遊園地。その言葉から大体の場所と外観は予想できる。上空から見えた観覧車のある場所はやはり遊園地だったのだ。
それにしても遊園地とはこれまた懐かしい響きだ。
(遊園地か~。長らく行ってないな~。)
子供の頃の思い出にふけっていると、声がそれを遮る。
「遊園地、久しぶりですか?」
考えていることを言い当てられ、正直エスパーかと思った。ただ、よくよく考えれば大人になって遊園地行くとなるとそういう話題になるのも当然ではあると納得する。
「まあ、久しぶりですね。小学生以来、行ったことないですから。」
「そうなんですね~。」
そういうと、相生さんは口を閉じる。俺も口を閉じる。歯切れの悪い間が開いて、若干気持ち悪さを感じる。相生さんは目を閉じてにこにこしている。俺は苦い顔でこの気まずさをどう解消するか考える。
「と、とりあえず、遊園地行きませんか?」
「いいですね。徒歩で行きますか?それとも空を飛びますか?」
提示された移動法に俺は面食らう。徒歩はまだ分かるが、空を飛ぶとはたまげた。上空から落ちてくる、なんてことがなければまちがいなく空を飛んで移動したかった。
「徒歩がいいで―。」
「空を飛びましょう!」
最後まで言い終える前に手を掴まれて身体が浮き上がる。なんて無茶苦茶な人だ。全く話を聞いていない。相生さんは本当に人なのか?仮に夢だとしてもこんなに人を乱暴に扱う人は初めだ。俺の苦手意識が前面に出てきそうになる。俺は相生さんのようなタイプを避けて生きてきたからだ。このまま同じ調子で過ごしていくとなるといずれ爆発する可能性がある。
10、20分ほど滑空して森の入り口らしき場所の前に降り立つ。その入り口らしき場所の脇にはボロボロの看板が立てられている。そこには”この先お菓子の森→”こんなに明るい光に照らされて、なお暗いこの森にお菓子とはおかしな話だ。お菓子が果物と同じなら暗い場所では育たないからだ。それに、森の中には沼だったり穴が開いているような場所にお菓子が置かれ、それに誘われて罠にはまった人を生け捕りにするつもりだろう。
なんて時々幼稚な妄想を巡らす。初心を思い出したい時はいつもそうしている。それに、考えるだけだから誰も傷つかない。
「森の中、暗くないですか?どうします?」
「この先に行きましょう。迷ってしまわないように、私がパンくずを置いていきますから。」
なんてことだ。相生さんはまたもや俺の想像を軽々と越えていく。相生さんはいつの間にか腕に食パン一斤を抱えていた。本当に意味が分からない。これから有名な童話の真似しようとするつもりだろう。俺は夢以外で相生さんのことを何も知らない。だから余計に相生さんのノリについていけない。
一度、気を紛らわすために、森を見ると、ある木にはオレンジ色のグミがなっていて、ある木には上半分がピンクで下半分がチョコ色の歯車のような三角錐のチョコレートがなっていて、ある木にはパイ生地の中にチョコレートが入っている六角形のお菓子が実っている。そんな木々を眺めていると、ある疑問が生じた。それは、この木自体もお菓子なのではないか、という疑問だ。
気になってしまったが最後、答えが知りたいと居ても立ってもいられなくなる。
「相生さん、この木々って、なにでできているか知ってます?」
俺が声をかけると、相生さんは食パンを両手で抱えて森の入り口を見つめていた。俺の声が聞こえていなかったのだろう。こちらを全く振り向く気配は無く、獲物をとらえるように一点を見続けている。そして、若干口が開いている。
さすがに話を無視されるのは癪なので、手を少し伸ばして声をかける。
「あの!」
すると、相生さんはなにかを呟いた後、同じ方向を見つめ続けながら静かに歩き出した。この森の入り口には催眠術にかかるような何かがあるのかと思い、相生さんの足元に視線をずらした。俺まで催眠術にはかかりたくないからだ。すると、相生さんは何かに導かれるように、誘われるようにゆっくりと進み始める。申し訳ないが、俺は相生さんが無事に遊園地にたどり着けるかよりも、このままどこに向かっていくのかが気になり始め、何も言わずに後ろをついていくことに決めた。
森の中は外見通り、外の明るさとは無縁であった。ただ、完全に真っ暗と言うわけでもなく、人影、物陰が見える程度には明るさがある。これでは本当にヘンゼルとグレーテルじゃないか。パンくず一個も落としてないけど。
相生さんは時々、木のすれすれを通っており、いつ顔面衝突するか分からない怖さがある。そんな相生さんの背中を追っているものだから、通りすがりの木々を確かめたくなってくる。まず、お菓子の森と謳っているものの、お菓子の甘い臭いはしない。むしろ、本物の森同様の清々しくて身体を癒してくれるような優しい香りを感じる。手触りを確かめるために木を1本触ると、滑らかとも荒いとも言えない感触があった。その感触には懐かしさを感じた。それもそのはず、子供の頃に好きだったグミの手触りそのものだからだ。その後、確信を持つために通る道にある木を次々と触っていった。どれも同じ手触りだった。
まさかここまで現実的なお菓子の国を徹底しているとは思わなかった。仮に今まで見てきた場所全てが魔女の家の中であったら、俺たちはどこかで魔女に出会って、俺だけ先に食われてしまうだろう。
そんなことを考えていると、まばゆい光が差し込んできた。その光は出口を示している。やっとこの鬱蒼とした場所を抜け出せることに開放感がある。再び相生さんを見ると、眩しさなどものともせず、ただ一心に出口を見つめている。さすがの俺でもその様子には少しの不安を感じる。
森を抜けるとそこには赤レンガ造りの大きな外壁とカラフルなアーチ、そして、空の上から見えていたジェットコースターのレールや観覧車が外壁の上から顔を出している。よく見るとアーチにはドリームパークへようこそ!と大々的に書かれている。
夢の世界の中のドリームパークとはこれいかに。
「相生さん、夢の中なのにドリームパークって面白くないで、す、か?」
あまりの滑稽さに相生さんを尋ねたところ、変わらぬ様子であったため言い終えるにつれ、ゆっくりになっていった。既に立ち止まってはいるものの、なにもしなかったらずっとこのままでいるような気がする。試しに大声で名前を呼ぶが反応はない。こうなると、もう叩いて起こしてあげるしかないだろう。女性の身体に触れるのは抵抗があるが、致し方無い。
俺は相生さんの肩を軽く2回叩いて名前を呼びかける。すると息を吹き返すように勢いよく空気を吸い込みながら、少し身体が飛び上がる。その後こちらに顔を向ける。口を半開きにして何かにおびえているように見える。そのまま遊園地と俺の顔を交互に見続ける。突然のことだ。そうなるのは無理もない。
「あ、あの、私いったいどうしてここにいるんですか……。」
さすがに覚えてないか。俺の中では催眠術説が濃厚だ。森の入り口から始まってから、ここまで来れば何によって催眠術にかかったのかも分かると思っていたが、そう上手くはいかない。いくら夢の中でもなんでも思い通りにはなってくれないようだ。それに加えて森に入る前に呟いていた言葉が気になる。つまらない忘年会のためだけに覚えた腹話術を頼りに言葉を作っていく。
(あの口の感じだと、「ああ、あえあうあい」って感じだったな。それに1文字目と3文字目はマ行か。……。)
正直それだけでは分からない。ただ、何かに抗っていたような、そんな雰囲気を感じた。
これ以上訳の分からないことに時間を割くよりも、取り乱している相生さんを落ち着かせることが先だ。まずは森の入り口にいたことを覚えているか確認し、食パン一斤を持っている理由も確認する。ここまでは俺の見ていた記憶と同じであったため、大丈夫だ。しかし、そこから先は何をしゃべったのかもどこを歩いたのかも何も覚えていなかった。俺は催眠術仮説をそのまま話した。すると、相生さんは思いつめたように顔が険しくなった。なにか身に覚えがないかと尋ねたところ、
「すみません。私にも分からないです。」
と笑顔で答える。ただ、眉尻が下がっていた。俺はその時、嘘をついていると感じた。正直そうは思いたくないが、嘘をつくほど話したくないことであれば無理に聞く道理はない。そもそも俺と相生さんは赤の他人だ。その距離感を見誤ってはいけない。
相生さんは口を閉じると、なにかを祈るように固く目を瞑る。得体の知れないものに怯えているような気がして、見ているだけで苦しさが伝わってくる。この状況をどうにかできないかと必死に思考を巡らせる。周りを見回して大きなアーチが目に入る。
「あ、あの!」
相生さんは俺の大声に度肝を抜かれ、両腕を胸の前に寄せる。びっくりさせてしまったことの負い目を感じ、声の勢いが衰退する。
「その、一緒に、遊園地に入りませんか?元々、ここに来ることが目的でしたし。」
相生さんは驚いたままだ。意を決した行動だったのだが、それでも届かないのか。もう他の方法が思い浮かばない。自分の無力さに打ちひしがれていると、
「はい!一緒に行きましょう!」
元気で大きな声が返ってきた。よかった。これで多少は苦難から逃避することができるはずだ。
俺たちはアーチの方を向く。少し恥ずかしいが、俺はアーチの方へ招待するように掌を広げ、軽くお辞儀をする。相生さんは俺の前を通り過ぎると突然掌を重ねる。一瞬にして緊張が走り、困惑が駆け巡る。心臓がバクバクと加速していく。手に汗をかき始め、申し訳なさも募る。手を離そうと引っ込める、も、相生さんはそれを許さなかった。さすがにこのまま握り返すのは気が引ける。無茶苦茶といえど、相手は人であり女性だ。理由を話せば分かってくれるだろう。
「あの~、俺、手に汗かいてますし、手を繋ぐのはまた今度にしてもらっていいですか?」
俺の問いかけに相生さんはアーチの方向を見つめたまま答える。
「ダメですよ。」
その手は力強く俺の手を握り締めていた。
もう、泣きたい。
俺は相生さんと歩調を併せて園内に入る。タイル敷きの園内を少し歩くと、上からまん丸の目をしたクマの着ぐるみが落ちてくる。ドスンっ!という鈍い音と大きな振動が伝わる。着ぐるみはしっかり足を曲げて着地している。まるでアニメの中から出てきたようなクマだ。だから正式にはこの遊園地のマスコットキャラクターなのかもしれない。しかし、クマは約2メートル程の大きさもあり、その大きさとデザインは子供向けとは思えない。右手からはたくさんの風船を浮かべており、足を伸ばしてから左手を差し出す。
「入場料はパン1斤です。」
クマの声を聴いて、俺は少し飛び上がる。俺はクマの怖さのせいで入場料がパン1斤ということがすぐに耳に入ってこなかった。
マスコットとは思えないほどひっくい声。よくこんなんでマスコット務められたな。それに前かがみになることで、変わらない表情に影ができ、圧をかけてきているよう見える。俺は少し身体を逸らし、頭も少し横に傾ける。
相生さんは微動だにせず、笑顔のまま片腕に抱えていた食パンを丁寧に両手に持ち替えてからクマに差し出す。
「ええ……。」
相生さんがクマに怖がらないことに思わず引いた。無茶苦茶な人は肝が据わっているのかもしれない。パンを渡した相生さんはクマから水色の風船を貰っていた。その後、クマは俺の方を向く。そしてまた目と鼻の先まで近づく。
(ち、近いよ!なんなのクマ!)
近づくだけでメンチ切られてるような圧。こんなに威圧的でマスコットキャラの自覚はあるのだろうか。クマは俺をじっと見つめた後、赤色の風船がついた紐を俺の手の中に押し込む。俺はしっかり紐を握ると、クマは落ちてきた場所に戻る。
「2名様、それでは当テーマパークをごゆっくりお楽しみください。」
と言い残して空へ向かってジャンプする。空に飛んで行ったクマを見上げると既に点になっていた。異様な程の脚力だ。さすが夢だと感心する。むしろ感心することしかできない。
あの圧からようやく解放されたことに安堵し、相生さんの方を向く。相生さんも空を見て唖然としている。もう一度空を見ると青い空に白い雲が浮かんでいるだけであった。そしてまた視線を戻す。
「さっきの、なんだったんでしょうね。」
「……そうですね。」
相生さんは嬉しそうに笑いながら答える。あのクマに嬉しくなる要素などあったのだろうか。単に相生さんは見覚えがあるのか、それともデザインが好きだったのかもしれない。どちらにせよ俺は全く理解できないのでこれ以上深く考える必要は無い。
俺は我に返る。あのクマに呆気を取られて放心状態になっていた。せっかく遊園地に入ったのだから行く先はまだ決まっていなくても、ここで立ち往生しているわけにもいかない。
「入場料、払えたみたいですし、どこか行きましょうか。」
「……はい。」
俺は足を踏み出す。もうこの身に襲いかかる恐怖がないと思うと、安心して園内をまわれる。
「相生さん、最初はどこ行きますか?」
俺は立ち止まる。相生さんが隣にいないし、返事もないからだ。その瞬間、すぐに相生さんを置いてけぼりにしていることが分かった。その原因は自分の歩幅が大きすぎたのか、それとも歩速が速かったのか。そんなことを考えながら相生さんの方へ振り返る。すると、そこには風船を持っていない手で口元を押さえながら、身体を震わせて立ち尽くしている相生さんの姿があった。
「ど、どうしたんですか!?」
俺は駆け足で相生さんに近づく。俺が近寄ると、相生さんはすぐに視線を斜め下に送る。
「い、いえ、なんでも、ないです。」
そんなわけない。見るからに俺を避けているような状態だ。
「そんなに身体を震わせて、なにもないわけないですよ!」
原因が思い当たらない焦燥感と、避けられているという疎外感が異常状態なのに何も無いと言う嘘に対する怒りに入り交じる。そして、それはすぐに落胆へと変わる。
「もしかして、俺のこと、嫌いだったんですか?」
声が震える。指も熱を持ち震え始める。胸を強く締め付けられる。心臓が口から出そうになる。それに加えて、後頭部から光が当たってできる影は惨めな俺を嘲笑しているかのように見つめてくる。
「そ、そんなことありませんっ!」
相生さんが俺の怒りに対抗するかのような大きな声で否定する。しかし、視線は変わらないまま。
「じゃ、じゃあ、どうして顔を向けてくれないんですか?」
高くなる声で問う。すると、俺の顔の前に細い人差し指が現れる。俺を指しているようで違う。俺はその指先をたどると、そこには赤色の風船がふわふわと浮いていた。
「受け取った後で、すみません。わ、私、赤い色が、苦手なんです。」
相生さんは絞り出すように指差しで足りない情報を付け足す。
「えっ!あっ!す、すみません!」
俺はとっさに手を後ろに回し、風船が見えないように背中に隠す。原因が分かると全身の熱が急速に冷えていく。
(な、なんだ。俺の思い違いだっただけか。良かった。……良かった。)
張り詰めていたものが切れ、溜まったものを外に追い出すように勢いよく息を吐く。頭の中で何度も良かったと安堵を繰り返す。聞き間違えをしていないかもう一度確認する。
「この風船の色がダメなんですよね?」
相生さんは怯えたまま頷く。
「それなら、アトラクションに乗るまで風船を交換しておきませんか?そしたら、俺の方見た時に赤色が見えませんし。」
「……わ、分かりました。」
相生さんは俺の方を見ずに風船を持った手を差し出す。俺は空いた手で水色の風船を受け取り、赤色の風船の紐を相生さんの手の中に収める。
「もう、大丈夫ですよ。」
相生さんは少しずつ俺に視線を合わせ始める。俺と視線が合うと風船の方にずらす。ちゃんと確認できたのか大きくため息をついて俯く。
「少し、落ち着きました?」
「はい。取り乱してしまって、ごめんなさい。」
相生さんが落ち着いたことが確認できると俺もようやく落ち着く。相生さんは俯いたまま先に歩き始める。俺は追いかけるように歩き、横に並ぶ。
「今日のことも、そのうち話しますね。」
「分かりました。」
それから一言も交わさずにただ園内を歩いていく。それにしても相生さんが赤色にトラウマを持っているとは思わなかった。正確には赤というより深紅の方が正しいか。怯えるほどの赤色と言えば、1つしかないだろう。ただそれを聞き出してはならない。今はこの風船のように、頭の中に浮かべたままがいいのだ。
風船の紐を握る手が疲れてきた俺たちは紐を腕に括りつけてから、各アトラクションを見て回る。その時は共に惹かれるようなアトラクションに巡り合わなかったので、真ん中からの方が各アトラクションに行きやすいという理由から、中央広場に辿り着く。そこには片手で食べられる食べ物を売っている移動販売車のようなものが左右に2つ備え付けられている。それぞれの販売店に数十名は休憩できるほどのパラソル付きテーブルとイスが完備されているのだが、悲しいほどに客がいない。1人もいない。歩き回っている最中に、もしかしてとは思ったが場所には俺と相生さんの2人以外、従業員とあのクマしかいないようだ。
さすがにこのまま何もしないで歩き回るのも退屈さを感じてきたので、休憩がてらポテトとフランクフルトを1つずつ買って近くの席に斜めに向き合うように座る。周りを見渡してアトラクションの動いてない様子を見ていると、どことなく物足りなさを感じる。
「貸し切りって、こんな感じなんですかね。」
言い終えてからフランクフルトを一口頬張る。少し辛さの効いたマスタードに若干目が潤う。
「そうですね。」
そう言って相生さんはポテトを2本口に運ぶ。俺は相生さんを横目で見つめながら、口の中のフランクフルトだったものを飲み込む。ポテトを食べ薦めていく相生さんに哀愁を感じる。理由は分かっている。
あまり見つめているのも迷惑なので、再び周りを見渡す。その時、ようやくこの物足りなさの理由が分かった。食べている音だけがいつもより響うことが気に障って、俺はわざわざ言わなくていいことを口に出す。
「子供の頃、遊園地を貸し切って自由に遊ぶことが夢だったんですけど、なんか遊園地って人がいっぱいいて、人の声、アトラクションの音、自然の音が聞こえていたから楽しかったんだなって、今思いました。」
「そう、ですね。」
さっきと同じ、たった5文字の言葉。さすがに聞いているのか聞いていないのか分からないような返答を繰り返されると、俺でも話したくなくなる。トラウマはそう簡単に拭い去ることができないことは分かっている。でも、今は、今だけはそこから逃げられるようにしてあげたい。
この状況を打破できる方法を他に考える。ふと相生さんの後方に視線を移すとなにかと吹っ切れそうなアトラクションが目に入る。
一か八か。
「相生さん、ついてきてください!」
俺は相生さんの手を掴んで走り出す。
「ちょっと、笈川さん!私まだ食べ終わってません!」
相生さんは机の上のポテトを気にしているようだったが、俺は気にせず走る。さっきのフランクフルトが効いて若干気持ち悪いが気合で乗り切る。そのまま階段を上り切ると、目の前にはジェットコースターが止まっている。
俺たちは膝に手をついて大きく呼吸をする。俺は若干吐きそうだ。
「笈川さん、突然、どうしたんですか。」
相生さんが息を整えながら話しかける。俺は気持ち悪さを必死に抑えながら答える。
「せっかく、夢の中に、なのに、そんな顔、してたら、もったいないですよ。」
酸素が足りなくて脳が思うように働かない。だから、感じたことをそのまま言うことしかできなかった。
俺は深呼吸を何回か繰り返して呼吸を整えると、姿勢を直す。相生さんも2回深呼吸をして姿勢を真っすぐに戻す。
「そう、ですよね。」
相生さんは右手の甲を左手で握りしめながら答える。俺は焦り始める。これで相生さんの身になにかあったら、いくら不可抗力とはいえ、相生さんのトラウマを呼び起こしてしまったことへの罪悪感が一生ぬぐえないまま生きていくことになると思ったからだ。それは互いにとって良くない。
「ここまで来たんですから、とりあえず、このジェットコースターに乗って色々忘れましょう?」
さすがに強引な物言いだ。優しさの欠片も感じられない。それにここまで来たのは俺に来させられたからだ。今になって反省する。普通に考えて、夢の中で2日しか会ったことのない男に、無理やり引き連れ回されたら誰でも嫌な思いになるだろう。
相生さんはお腹を抱えて前かがみになりながら肩を震わせ始める。さすがに急に走ったから体調を崩してしまったのかもしれない。俺は手を伸ばしながら相生さんに近づく。手が届く距離になってから気付く。
「相生さん、笑ってるんですか?」
微かに漏れる吐息はたしかに笑いをこらえているようだった。
「だ、だって、あまりにも強引すぎますよ。」
相生さんはお腹を抱えたまま、口を大きく開けて笑いだす。俺は必要以上に笑われて恥ずかしさを感じ始める。たしかに強引だったし、俺の思いつき起こした行動ではある。だから余計に恥ずかしい。穴があったら入りたい。穴に入ることができるアトラクションはないのだろうか。
「はぁ~、お腹痛い。」
相生さんは右手でお腹を押さえたまま、左手で涙を拭き取る。俺はそんなに笑われたことがあまりにも恥ずかしすぎて、相生さんに背中を向ける。
「笈川さん、ありがとうございます。」
背中に向かって感謝される。俺は横目を向けながら右手の人指し指で頬を掻く。感謝されるのもむず痒い。
「笈川さん、ジェットコースターに乗りましょう。」
相生さんは俺の手を引く。俺は突然引っ張られて体勢を崩す。俺たちはその勢いのままジェットコースターに乗り込む。この勢いの良さ、突発的な行動、いつもの相生さんだ。俺がしたことが相生さんにとって悪いことではなかったようだ。ひとまず安心した。
イスに座り安全ベルトを締めて一息つく。すると制御室の中にいる従業員さんが俺たちに近づく。金髪ではあるが元気な青年だ。
「風船をお預かりします。」
俺たちはお互いの腕に括り付けられた風船の紐を解く。その後、俺は相生さんから風船をもらい、そのまま従業員さんに渡す。相生さんは風船を見ずに既に前を向いてい、楽しみにしている様子が窺える。俺も前を向いて心を落ち着かせようとした時、視界の端に赤色が映り込む。その瞬間、俺は風船を交換した時のことを思い出す。
「す、すみません。ちょっといいですか。」
振り返る従業員さんに手を振って用があることを合図する。従業員さんが俺に近づくと姿勢を低くし、目線を合わせて要件を待つ。俺は一度振り返り相生さんの様子を窺う。相生さんは手すりを強く握って正面をまじまじと見つめている。こちらの様子を全く気にしていないことが分かると、自分の口元に右手を当てる。従業員さんは内緒の話であることを察し、俺の手に耳を当てる。
「あの、できればでいいんですけど、赤い風船を赤色じゃない色の風船に変えていただけますか?」
隣に聞こえないように小さな声で確実に伝える。大して従業員さんは、
「承知しました!降車されるまでにはご変更いたします!」
と、普通にお客に声をかけるほどの大きさで受け答えする。頭を横にして後ろを確認すると、相生さんは当然のようにこちらを見つめている。わざわざ内緒話にしていたのに台無しだ。元気なのはいいが、あえて内緒話にしていることには意味があるのでそこは察してほしかった。
とりあえず、対応はしてくれるようなので軽く頭を下げて感謝の意を示す。従業員さんはそれに応えて帽子を外しながら深く頭を下げる。
ため息をついて前を向く。相生さんは手すりに掴まったまま顔を覗いてくる。
「なに話してたんですか?」
絶対話しかけてくると思っていた。興味のあることには目がない。それが相生さんだ。ただ、正直に話して話を膨らませてしまうと厄介なのでここは話を断ち切る方向で進めていく。
「なんでもないですよ。」
「なにか隠したいことだったんですか?」
「まあ、そうではありますけど。」
「へぇ~。そこまでして隠したいことって何ですか?」
「教えませんよ。」
「そこまで言うなら、当てちゃいますよ。そうですね~。私のことですか?」
悪い顔。目を細めてにたりと笑うその様は意地悪を楽しんでいる顔だ。しくじった。あんなに近くで内緒話をした後では、火に油を注ぐようなものだった。それに、必要以上に隠さなくてもいいことを必要以上にいじられると余計に隠したくなる。
プルルルルルル。
これからアトラクションが動くことをお知らせする合図が鳴り響く。ちょうどいいタイミングだ。これ以上隠し通さなくて済む。従業員さんが再び俺たちに近づく。今度は注意事項の連絡と安全装置の確認を行う。先ほどと変わらず、元気な姿が目立つ。
「それでは発進いたしま~す。素敵な夢の中へ行ってらっしゃ~い。」
夢の中なのに夢の中に行くのか。ジェットコースターは上り坂に差し掛かり、下るための準備を始める。正直言うと、この少しずつ上がっていく時間が苦手だ。早く落としてくれと何度思ったことか。この状態で外を見るのはもっと嫌なので、おでこを手すりに付け自分の足元を見つめる。
「笈川さん。」
頭を手すりに付けたまま声のする方を向く。相生さんの口元が見える。口角が上がっている。ジェットコースターに乗ることがそんなに嬉しいのだろうか。
「私、昔からジェットコースターが嫌いだったんです。」
「う”っ!」
突然鋭い言葉が俺の身体を突き抜ける。
(それ、今ここで言うのか。)
相生さんは俺の様子など気にすることなく口を動かす。
「速いですし、高いところから落ちますし、それに対して、この上っている時間が長くて、まるで悪魔に料理されている気分でした。」
もうやめてくれ。次から次へと飛んでくる鋭い言葉が全身をめった刺しにして俺のライフポイントはとっくに0だ。
「でも。」
相生さんの口が俺の方を向く。小さな唇が太陽の光で艶を魅せる。
「今もまだ少しだけ怖い気持ちはありますが、笈川さんのおかげで楽しい気持ちの方がいっぱいです。」
俺は唇に目を奪われたまま上半身を起こす。ここまで言われてこんな情けない姿をさらし続けるわけにはいかない。
「相生さん、ー。」
「あっ!落ちますよ!」
その言葉に反応して正面を向く。目の前に広がる絶望。手を上げ始める隣。心臓が縮まる感覚。純粋無垢な笑顔の隣。急降下するジェットコースター。風のせいで崩れる顔面。
(タイミング、良すぎだろ~!)
ジェットコースターは出発地点に滑り込んで止まる。手すりに掴まった手は優しい風に撫でられる。さすがに1回で限界だ。こんなもの人が乗るものではない。
「手すりに頭を付けてどうしたんですか?」
優しく問いかける声が聞こえる方を向くと、相生さんはすでにジェットコースターから降りて、俺を上から見下ろしている。俺は再び下を向いて答える。
「ちょっと、気持ち悪いです。」
頭を少し動かしただけで履きそうなくらい気持ち悪い。脳が揺れる感覚が嫌というほど続く。辛い。苦しい。帰りたい。
「笈川さん、ジェットコースター苦手だったんですか?」
痛い。さっきからこの人はどれだけ俺のことをいじめれば気が済むんだ。真の悪魔はジェットコースターではなく相生さんなのかもしれない。
「まあ。そうですけど。」
「苦手なのに私を誘ったんですか?」
痛い。正論はより鋭さと重さを増す。確かに墓穴を掘った自分が悪い。それに強引にここまで来させたことが相まって酷く惨めだと心の底から思う。
「笈川さん。」
俺の名前に応えるように横を向く。そこには相生さんが右手を差し伸べている姿がある。本当に情けない。男として、いや、人間としてここまで無様な姿を晒すことになるとは思わなかった。ただ、思い返せばこれは夢だ。もしかしたら相生さんという存在も本当は夢なのかもしれない。そう言い聞かせて、俺は差し伸べられた手を握ってジェットコースターから降りた。
アトラクションの出口へ向かおうとすると、従業員さんに預けていた風船のことを知らされる。相生さんの好意でまずは俺が先に水色の風船を右腕に括り付けてもらう。次に相生さんが右腕を差し出す。すると、黄色の風船が括り付けられる。相生さんは驚いた後、すぐに俺の顔を見る。俺は斜めを向いて後頭部を掻く。そのままアトラクションの出口である階段を下りる。やはり、慣れないことをするものではない。カンっ、カンっ、カンっという急ぎ足の金属音と共にふてくされた声が聞こえる。
「もう、おいてかないでくださいよ。」
さすがにもうこれ以上、恥ずかしい思いを経験したくない。今日だけで何度空回りして、何度恥ずかしさを体験したのだろう。ここまでくると穴があったら入りたいどころではない。枕とベッドがあったら枕に顔をうずめて足をバタバタさせたい、だ。
「風船の色を変えてくれたんですよね。ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
小さく返事をする。全ての気力がなくなった。文字通り燃え尽きた。それも恥ずかしさで。
相生さんは俺の視界に頭からつま先まで見える位置に向き合うように立つ。
「楽しい時間って、あっという間ですね。」
「……そうですね。」
「また明日、ですね。」
その言葉が合図だった。 今日もまた、今日が終わる。別れを惜しむ間もなく相生さんの足元がガラスのように割れ、そこにできた暗闇の穴の中に背中から落ちていく。
その腕に風船を浮かべながら。その顔に幸せを浮かべながら。
一方、俺は突然落ちる相生さんの手を取ろうと手を差し伸べるも、虚空を掴む。そして、雪崩のように押し寄せる夢の欠片に背中から巻き込まれ、
目が覚める。いつもよりも体勢が乱れていて体が少し痛む。右腕を上げると黒い服とそれについた3つの黒いボタンが目に入る。そのまま目を覆うように腕を下ろす。夢の内容を思い出し、天に向かって不満を吐き出す。
「……だっさ。」