第1話 夢に落ちる。これは現実か?
「ただいま~っと。」
俺は誰も迎えてくれない玄関に灯りを点け、窮屈な革靴を脱ごうとする。
(さすがに徹夜後の仕事はもうきついな。)
昨日の自分の生活に反省しながら革靴と格闘する。革靴は思ったよりも窮屈で、自分の足が一回り大きくなったように感じる。実際、足はむくみによって一回り大きくなっていて、パンパンになっていた。革靴が簡単に脱げると思って片手に持っていたビジネスバッグが以前より重く感じ始める。それはあまりにも脱げることに抵抗してくるため、さすがに大きく溜息を吐き捨てる。さすがにビジネスバッグを床に下ろしてしゃがみ込む。橙の温かみのある電灯が自身の背を照らし、影を作る。右靴の靴ひもに手をかけながら、家の静けさに耳を傾ける。
もう慣れてしまった1人暮らし。慣れたとはいえ、家の中でも少しは人の温もりが恋しくなることもまた事実。星マークのついた玄関マットに目を配らせながら、左靴の靴ひもに手を移す。
(慣れたと思ったけど、まだ慣れないな。)
昨日の徹夜の原因を思い返しながら、心の中で独り呟く。
昨晩と言えば、仕事先が別々になってしまった友人と通話しながら新作の狩猟ゲームを進めてた。
それは夢のような時間だった。
嫌なことから逃げてしまえることがこんなにも幸せなことなのだと、心の底から感じた。しかし、悲しくも幸福の時間とは永遠ではない。それに、充実感を十分に感じるほど長くもない。夢のように一瞬で終わりを迎えてしまうものだ。
かくして俺は現実に引き戻された。
先に寝てしまう友人に挨拶を交わした後、虚無感が俺を襲った。それを紛らわすために狩猟ゲームを1人で進めた。それは非常に無機質なもので、あまりにも意味を感じない時間であった。
出勤までの時間が残り2時間になると、もう寝る気も起きなく、どうせならこのまま先に進めてしまおうという空元気で眠い目をこすった。昔であればお酒片手に様々なことを楽しんでいたのが、最近はお酒に頼ることもなくなった。それはお酒を飲むと余計に寂しさが寄り添ってくるからだ。そして、その寂しさは影のようにピタリと俺にくっついてきて、いつ間にか俺を飲み込んでいる悪魔だ。そんなことがあるから、今日は魔剤と言われるエナジードリンクをお供にした。ただ、これが嫌になるほど甘ったるくて、何度か吐きそうになった。俺はそれをぐっとこらえて、夜を明かした。
今思えばバカなことをしたと分かる。どんな酒よりも、どんな魔剤よりも、睡眠に勝てるものはない。それはボロボロになったこの体が証明している。
もう子供じゃないんだから。
そんな無慈悲な言葉が背中から心臓を突き刺す。そして、図星な自分を自分で嘲笑う。
わざと靴ひもを面倒くさく解いた俺はその僅かな時間でさえも安らぎを感じていた。だから、靴ひもが両方ほどけるとゆっくり流れる時間から解放されてしまった気がして少しショックを受けた。これ以上はもう抗えないから、靴紐の下に指を入れて靴を緩める。その後、立ち上がると少し立ちくらみを感じ、靴入れに寄りかかる。そのまま左靴の踵を右靴のつま先で押さえて靴を脱ぎ、玄関マットの上に乗る。もう片方の靴は脚を上げて自分の右手で脱ぐ。落ちていくそれは軽快な音で床にぶつかる。
「うっ!くっさ!」
思わず鼻をつまんで口を手で覆う。異臭は乱雑に置かれた足枷からだ。さすがに不意を突かれた。立っている成人男性の鼻にまで届くとは思っていなかったからだ。俺はとっさに除菌スプレーを手に取り、足枷の中へ向けて吹きかける。除菌スプレーはその強力さを余すことなく発揮し、瞬時に臭いを消す。俺は少しずつ手を緩め、臭いを確認してから止めていた息を大きく吹き出す。
しばらく無気力にあべこべな方向を向いた足枷を眺める。しかし、この場所にはもう用はない。
だから、そのまま玄関を後にした。
さすがの徹夜×出勤ではゲームに手を出す元気もなく、すぐさまお風呂に入って全身を洗い流す。髪の毛を乾かすのも億劫で、タオルで軽く拭いた後、部屋の電気もつけずにベッドの上に腰を掛ける。じんわりと濡れた髪の毛は正直鬱陶しいし気持ち悪い。しかし、いつもより深く沈むベッドの前にして、動く気力さえベッドの中に沈んでいた。寝る前は色のついたボールを並び替えるパズルゲームをよくしていたのだが、今日は携帯すらも重く感じる。その重い板を枕元に投げ、身体を横に倒す。
枕は右目の視界を遮り、左目には窓の外の様子が映る。
「……寝よ。」
外は車も通っていないのか、あまりにも静かだ。
まだ座っていたいと宙に浮いた足をベッドの中に押し込み、疲れすぎてきっと見ないであろう夢に夢を抱いて目をつむる。
暗闇の中で前髪を後ろになびかせるほどの何かが自身の顔を次々と通り抜けていく感覚がある。
(これは、……風?)
俺はこの感覚の正体を知っているが、自分の身に起きている出来事の説明ができない。その正体を知るべく思いっきり目を開ける。
目の前に広がるのは綿菓子のように真っ白でふわふわな雲だ。俺は一瞬にして頭の中も真っ白になった。できる限りの情報を集めようと無意識に脳が作用したのか顔は勝手に左右に動く。俺の左右には白い雲の延長線上に透き通った青い空が広がっている。さすがに血の気が引いた。
自分が頭から落ちていると分かったからだ。状況が分かったと同時に押し出されるように声が出た。
「ええええええええ!!!」
叫びのような泣き声のような、そんな潰れた声を出して落ちていく。そんな叫びも虚しく目の前の柔らかい白い壁に少しずつ近づいている。
(なんなんだよ、これ!どうすりゃいいんだよ!)
急行落下のせいで単純な言葉しか口に出すことができないため、心の中で必死に叫ぶ。こんな状況で勢いを殺す方法が思い浮かぶはずもなく、壁が目の前まで迫ったところで目を瞑る。全身を冷気を帯びた蒸気が襲い、叫びによって開いていた口からはなぜか甘さを感じる。そろそろ息が苦しくなってきたところで身にまとう蒸気が風に変わる。
俺は壁のゾーンを切り抜けたことを確信して再び目を開ける。すると、そこにはメルヘンなお菓子の世界が広がっていた。というのも、今、目の前には、プリンの山、チョコレート色の水たまりのような場所、色とりどりの棒付き飴玉のようなものが無数に刺さっている場所、そして、極めつけは目の前にあるピンク色のゼリーの山。すでに情報量が多くて目がくらみそうだ。しかし、そんな目のくらみも許してくれない程に、目の前のゼリーが大きく見えてくる。このままゼリーに着地するのは歴然。ならばもういっそのこと、このまま落ちるしかない。
死を覚悟して目をつむり合掌する。
頭からゼリーに衝突。ゼリーは俺が衝突した部分に向かって勢いよくへこみ、膜がはじけて崩れ始める。
俺は崩れるゼリーに乗って仰向きで地面へと流される。俺は勢いがなくなったことが分かると、瞼越しに明かりの存在を感じる。その明かりの眩しさもあって俺は恐る恐る目を開ける。俺へと降り注ぐ光は黄色の蛍光灯のような明かりをした太陽で、目を開けたばかりだからか当然眩しい。しかし、本当に蛍光灯のような光だから目が少しずつ光に慣れていくと、目を閉じるほど眩しいと感じることはなくなった。
俺は呆気に取られていた。さっきから起きている劇的な変化に頭が追いついていない。だから、こう呟くしかできなかった。
「ここは、……天国なのか?」
呟きか虚空に消え、俺は本当に天国に来てしまったのだとそう思うことにしようとした時、
「いいえ、違いますよ。」
足音もなく俺の呟きと視界を遮る黒い人が目の前に現れた。俺の顔を覗いてくる顔は逆光になっているのだが、この光ならうっすらと顔が見えた。その人は知らない女の人だ。よく見たらその知らない人は大きな傘をさしていて、どうしてか俺に微笑みかけている。
その笑顔を見ていると、なんとなく無邪気と言う言葉がお似合いだと感じた。
俺は死んだように彼女の顔を見つめ続ける。すると、彼女は俺の目の前に手を差し伸べる。
「立てますか?」
俺は視線は彼女の指先に焦点を集中させる。言葉の意味は分かっているつもりだが、起きようにも手を伸ばそうにも腕が動かない。それどころか全身の筋肉が綿に変えられたように身体中が動かない。一方、動ける彼女はというと、手を差し伸べてから微動だにしない。表情すら変わらない。それが逆に怖い。それに加えて何が目的なのかも分からない。これも怖い。ただ、こんな俺にさえ手を差し伸べてくれるということは悪い人ではなさそうだ。表情からしても、悪い人ではなさそうだ。
人を見かけで判断してはいけないとよく言われるが、頭の働いていない俺が裏事情を勘ぐるなんていう高等テクニックを使えるわけがない。そもそも俺はそういう腹の探り合いのようなことは苦手だ。
俺たちはしばらく互いに見つめ合い続ける。俺がこの状況の切り抜け方を考えている間に彼女は俺を助けるのを諦めたのか、姿勢を戻す。
「今、助けてあげますね。」
彼女がそう言って傘を閉じると真っ白い光が俺を包んだ。日差しより眩しい光に思わず目をつむる。次に目を開けると彼女は日陰の中でイスに座ってお茶を飲んでいる。急に場所、姿勢が大きく変わったことに疑問を感じ無いわけがなく、状況理解のために頭を動かす。
今この場にあるのはテーブル、パラソル、2つのイス、2つのティーセット。景色は、日差しの色合いと空から見た大地の色から同じ場所であることが分かる。再び彼女の様子を確認するとティーカップをカップを置く皿の上に置いて目を閉じる。きっと余韻を楽しんでいるのだろう。なにせ優しい風だけがなびくこの空間で時間を気にしなくていいのだ。余韻を楽しむには最高の環境だと思う。
風が幾度となく俺たちを通り過ぎると、彼女は余韻が抜けたのか、目を半分だけ開けて問いかける。
「気分は、悪くないですか?」
俺に向けられた言葉だと思うが、視線が俺に向いていない。俺はまだ状況が飲み込めず、困惑しながらも返答する。
「悪くは、ないです。」
彼女は再び目を閉じる。
「……良かったです。」
そう安堵すると彼女は再びティーカップを持ち上げ、紅茶を1口飲む。ホッと一息つくと思いもよらない言葉を口に出す。
「お久しぶりです。」
お久しぶり?
この穏やかな環境のおかげでようやく頭を空っぽにできたというのに、彼女はそれを許してくれないようだ。俺はその言葉に応えるために記憶を頼ろうと眉間にしわが寄るほど目を強く閉じる。
なにも思い出せない。どこで会ったのかも、いつ出会ったのかも記憶にない。それならばこれ以上無いことを考えるのも無駄だ。
俺は早々に諦めて、作り笑顔を引きつらせながら問いかける。
「あの~、どこかでお会いしましたっけ?」
この状況、非常に気まずい。言うなれば久しぶりに帰った地元で、ばったり同級生と会ってしまったが名前を思い出せない現象に非常によく似ているからだ。彼女の言い間違えだと信じるしかない。
そんな想いも虚しく彼女は俺に釘を刺す。
「お会いしてますよ。」
頬がより引きつり、そこに冷や汗が垂れてくるのが分かる。
その言葉は終わりの合図だ。処刑宣告のようなものだ。しかし、いくら思い出そうとしても思い出せないのは思い出せないのだ。
(ほんっとに思い出せねぇ。いつ会ったんだ?忘年会?5年前の婚活?それともオンラインゲーム?)
自分の記憶力の無さを恨みながらも頭を抱える。そもそも自分の会社の社員の顔と名前すら覚えてないことが多い俺からすると、毎日顔を合わせない人は余計に覚えているはずがない。
そんな俺を見越してか、向こう岸から助け船が渡ってきた。
「あなたは覚えていないのかもしれませんけど、私は通学中に駅でICカードを落とした時にあなたにそれを拾って頂いた者です。」
目が点になる。
そんな些細なことをいちいち覚えていられるわけがない。しかし、ここで覚えてませんと言うのもなんだか悪いような気がして、とりあえず話を合わせておく。
「あ、あぁ~。ありましたね~。」
声が突っかかる。目が左を向いている。はたから見てもはっきりと分かるだろう。必死にごまかすも身体の癖は治らない。彼女は俺の目をじっと見て少し時間を開けてから話を続ける。
「あの時、あなたはICカードを落としたことに気が付かなった私を呼び止めて、カードを渡して頂きました。そのお礼をちゃんと言いたかったんですけど、あなたはすぐにどこかへ行ってしまって。」
話の状況的に通勤時間だし、会社には早く着いておきたいしで仕方がないと言えば仕方がない。ただ、心底残念そうな声色で当時の状況を教えてもらうと、申し訳なさが更に募る。
「なんか、すみません。」
俺は目の前にあるティーカップの中に視線を落とす。彼女の顔が紅茶の水面に反射して俺の目に入る。彼女は真っ直ぐに俺を見て話しかける。
「いえいえ、もう大丈夫です。確かにあの時からずっとお礼を言えなかったことが胸に引っかかっていましたけど、あなたとはまたこうして出会うことができたんですから。」
今度は身体を左右に動かして姿勢を整える。
「あの時は、ありがとうございました。」
視界に彼女の頭頂部が入り込む。俺は慌てて立ち上がる。
「あ、頭上げてくださいよ!落とし物を拾っただけでそこまでしなくても。」
彼女は言われたとおりに頭を上げる。その表情には今までの微笑みはなく、どうしても感謝の意を表明したいという決意を感じる。俺は少しひりつく真面目なこの空気が苦手で、どうにか和ませようと目を泳がせる。そこで目に留まったのはティーカップであった。
「そ、そうだ。お礼は受け取ったので、お茶でも飲みましょう。」
少しの沈黙が広がる。その沈黙は彼女の表情を緩め、空気をやわらげた。彼女はクスリと笑って答える。
「そうですね。」
そして、既に冷めてしまった紅茶が入ったティーカップを口元に近づける。俺も座り直した後に後を追いかけるようにしてティーカップを持ち上げる。自分の胸元程の高さまで持ち上げると彼女の動きが止まる。当然、急に動きが止まったことに疑問が生じる。だが、答えはすぐにやってきた。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私、相生 雫と言います。今後ともよろしくお願いします。」
俺はティーカップを胸元の高さでキープしながら挨拶を返す、
「俺は笈川 航です。よろしくお願いします。」