とある夏の神社にて
夏が本格的に訪れたあと…… ちょうど、お盆くらいの時期になると、私は決まって『ある出来事』を思い出す。
別に毎回、しつこく思い出しているわけではなく、お盆の用事を済ませているあいだに、フッと思い出す程度であった。
その思い出は、大学で再会した旧知の一人にうっかり話してしまったこと以外、誰にも話したことが無い。
話したところで誰も相手にしないだろうというのが一つ。もう一つは、信じてもらえるはずがないという、一種の思い込みだった。
現に、話を聞いたその子は、昔懐かしい感じの怪談話として受け取っていたし、仮に私が、他の人からこの手の話をされたら、間違いなく信じないだろう。
しかしこれは、仕方のないことである。
想像もできない体験とは、得てして、この世に存在しないものと認識される。それが一般的に言われるところの、正しい感覚というものだ。
そういう持論もあって、今の今まで話さずにいた。
でも本当は、何かしらの『秘密』を持っているという、ある種の優越感と背徳感を得たかっただけなのかもしれない。別に、悪いことをしたという秘密ではないけれど。
大体、子供の頃というのは、考えが直感的で利己的で、どれだけ大人のように振る舞って考察していても、想像の範疇を出ない。何より、自分の弱点をよく隠す。隠して人の弱点を突こうという、弱者がよく使う戦略を取る。
私は特に気恥ずかしく思う人間だった。
他人に優しさや弱さなどを見せるのが苦手で、嫌っている節があった。
だから、自分が見つけた『秘密』を他人に教えたり、共有したりするのが嫌であり、以ての外だった。
しかし、あれからもう十年がたっている。
隠しておく必要もないだろう。
事の始まりは、小学生の頃である。
今もそうかもしれないけど、私はあまり大人の考え方ができない子供であった。それに加えて、感情にまかせて動き回るような子供だったかもしれない。
夏休みに入ってお盆がやってくると、よく、母方の実家――要するに祖父の家へ連れていかれた。私個人としては『遊びにいった』という感覚ではあったが。
山の上側に家があったから、そこから下の港町へ向かい、まずは海で泳ぐ。
これは外せなかったし、お盆になる前に泳いでおかないと、クラゲやらなんやらで大変なことになる。
そうして、町のお祭りへ行く。
毎回、知らない子供と適当に話をしながら回ったりして、別れる。
今の今まで、その子達と再会したことはない。今後も、一生ないのだろう。だけど、それでいいんだと思う。祭りでの出会いは夢の中の出会いで、一時の出会いだと思うから。
他にも親戚の子たちと遊んだりすることもあったけれど、なぜか日課のようにしていたのは、神社までの道を蝉取りしながら歩いて行く、というものだった。
海とか祭りもあったけれど、これが私にとっての、夏の風物詩である。
神社の名前はよく覚えていない。ただ、それなりに大きかったことは覚えてるし、幼少の頃は、よく祖父に連れられて、神社へ向かったのも覚えている。むしろ、蝉取りをしながら神社へ行くという謎の風物詩を設けたのは、祖父の影響だろう。
神社への道は、駄菓子屋のある住宅を横切り、竹林が隣に鬱蒼と茂っている道路を進んで、大きな杉の木が並ぶ、緩やかで細長い坂道を登ることで到着する。
私はその登り坂にある杉の木を、なぜか蹴りながら走って駆けあがるという儀式をやっていた。
これに意味なんかない。
単にやってみたかったから、やっていただけである。
子供はこういう、妙に無駄なことに労力を費やすものなんだと思う。
こうして神社に到着した私は、中央にドラム缶が置いてある、広場みたいな境内を駆け抜けて遊んでいた。
そんなある日のこと。
祖父の家から立ち去る前日に、神社へと向かった。
蝉の抜け殻を取っていたついでに、立ち寄ったんだと思うけど、記憶があやふやだから、違う目的で向かったのかもしれない。
とにかくいつも通り神社に到着して、いつも通り境内を見渡すと、真ん中のドラム缶があるところに、見知らぬ女の子の後ろ姿があった。
背は私より弱冠高く、髪は長くも短くもない。髪型は詳しくないけど、普通に垂れ下がっているだけだったから、セミショートというヤツかもしれない。
服装はどこにでもある一般的なものだったように思う。あんまり覚えていないが、おそらくスカートに半袖のシャツみたいな、そういう服装だった気がする。
だが、肌がやけに白かった。
それは今でもよく覚えている。
文字通り透き通るような白い肌で、よく目をこらすと、うっすら血管の緑掛かった色が見えるんじゃないかと思うくらいだった。
木の枝でも焼きに来たのかと思った私は、ちょっと妙なことを思い付く。それで、女の子の近くまで慎重に、気付かれないように歩いて行った。
あんまり何も考えていない子供だったから、驚かしてやろうと企んでいたのだ。
悪巧みというのは、慎重で臆病な人間がやって、始めて成功するものである。
私のような人間だと、大胆が過ぎてすぐバレてしまう。
もちろん、近くへ寄る前に、彼女に気付かれてしまった。
「あっ……」
あんまりにも早く振り向かれたものだから、私は思わず声を出してしまった。
女の子は私の姿が滑稽だったのか、警戒していたのか、その丸い瞳を使って、こちらをマジマジと見つめてくる。
おそらく、世に言う『一番恥ずかしいヤツ』という失敗であった。
耐えかねた私は、逃げるように走って帰った。
それからまた、一年がたった。
私はすっかり去年のことを忘れ去って、祖父の家に到着するや否や、海やら祭りやらを楽しんだ。
神社へ遊びに出掛けたのは、到着して三日後のことだった。
特に用も無く神社へ行く。すると、女の子がドラム缶の側に立っていた。
それでようやく、私は去年の出来事を思い出す。
思い出したと同時に、女の子がこちらを振り向く。
なんとも間が悪い…… 向こうは何一つ覚えていないだろうけど、こちらは覚えているから、惚けるにも無理がある。
とにかく、さっさと挨拶しながらこの場を立ち去ろう……
そう考えて、私は頭を下げながら駐車場の近くにある、階段の方へと向かって走った。
走っていると、枯れ葉か木の根か分からないものに足を取られ、前に転んでしまう。
「いってぇ~……!」
私はゆっくりと膝を立て、痛みが走る膝小僧を見下ろす。
血が滲んでいた。
「大丈夫?」
その声にビックリして、私は振り返った。
いつの間にやら女の子が傍に立っていて、こちらを覗き込んでいたのだ。
口から心臓が出るかと思った。
ひょっとすると顔が赤くなっていたかもしれない。
それを見られるのが嫌で嫌でたまらなかったから、私はなるべく無表情のまま立ちあがって、無言のまま、さっさと階段を下りていった。
坂道側ではなく、駐車場や階段側から帰ると、坂道の方へ戻るように移動することになる。つまり、神社を迂回するように、グルリと回るのだ。
遙か下にある家々の屋根や、自分がいる道のすぐ下側にある、古いお堂の屋根を見下ろしながら、私は走った。振り返らずに走った。
女の子が追ってきていないかを確認したのは、駄菓子屋の前に着いたときであった。
その数日後、祖父の家から発つ前の日だった。
朝から母も父も出掛けてしまい、何もすることがなかった。
暇で暇で仕方がない。
アニメもゲームも、ちょっと飽きていたし、早く読み終えるマンガは言わずもがな。持参した本も読み終わっている。テレビはつまらなく思っていたから見ていないし、動画も少々、見飽きていた。
こんなときは、少し散歩をしようと思って外へ出るに限る。そして、適当に散歩しているようでも、結局は神社へと向かっている自分がいた。
これはもう、仕方のないことだ。
なぜなら、海の方はすでにクラゲだらけだし、行こうとは思えない。釣り人が多い港には行かないようにと、両親から釘を刺されている。
同年代の子がいれば話は別だが、山の上にいるから、周りに年頃の子供がいない。一昨年までは、二歳くらい上の兄妹が近くにいたけれど、引っ越してしまったから、誰もいない。
そうすると残るは、神社しかない。だから神社へ遊びに行こうとするのは、ごく自然なことであった。
竹林を越えたあたりで、私はあることを思い出した。
カブトムシというのは、『蜜の木』と呼ばれる木に集まってくるらしい。叔父さんの話では、その木が神社に存在すると言う。
これは、ぜひ確かめなければならない。
急にワクワクしてきた私は、杉並木の坂道を、いつも通り蹴りながら登って、神社の境内に出てきた。
出てきて早々、やっぱり女の子の姿があった。しかも今度は、こっちを向いたまま立っている。
やけに出会うなと思いながら、そういえばと、数日前のことを思い出す。
ちょっと恥ずかしいけれど、ここで引き下がっては男がすたる…… なんて、仕様も無い自尊心を燃やしながら、ズカズカと女の子の傍へ近付いていった。
少し声の調子を整えてから、
「ねぇ、この辺りに住んでるの?」
と、いきなり突拍子もない訊き方をした。
このあいだ、格好悪いところを見せたばかりだし、舐められては困るからと考えたからだ。
でも、女の子は普通に答えてくれた。
「住んでるよ、この近くに」
「じゃあ、この神社って、蜜の木が生えてたりする?」
「蜜の木って…… 何?」
「カブトムシを取るんだ。カブトムシが寄ってくる、蜜の木だよ」
私の方は、なんで分かってくれないんだという思いであったが、分からない方が当たり前だ。
でも、驚くことに彼女は理解してくれた。
「ああ、樹液の出てる木ね? あるよ」
「本当?!」
私のワクワクしていた心に火が付いたせいで、嬉しさと期待の感情が溢れた。
ぶっきらぼうな私の表情が一転したからなのか、女の子が少し和らいだ顔になっている。
「どこにあるの?」
「こっち」
そう言って、彼女は樹液がある木のところまで案内してくれた。その木は、特になんの変哲もない普通の木で、黄色くも無ければ、液体が流れ出ている様子もない。想像とは随分と違った木だ。
「まさか、これなの……?」
「そうだよ。ほら、あの部分を見て」
女の子は人差し指を、木の幹にある、少しくぼんだ穴のあいている部分へ差していた。
その部分は黒っぽく湿っていて、光沢のある何かが付いている。
「何、あれ?」
「あれのことでしょ? 蜜って……」
「あれが蜜なの?」
「そうよ。知らなかったの?」
「始めて見た…… 蜜って言うから、黄色かと思ってたのに……」
「それ、蜂蜜でしょ?」
女の子が少し笑った。
「蜂蜜みたいな味なのかな?」
「試してみたら?」
私は好奇心から、樹液を指ですくい取って、そっと舐めてみた。
「うえぇッ……?!」
苦くて渋くて、舌をイガイガさせるような不快感…… およそ蜜とは思えぬ味に、私はビックリしながら唾を吐きだした。
「うわっ、マズッ! なんだこりゃ! 渋柿みたい……!」
顔をクシャクシャにしかめている私を、女の子はあきれ笑いしながら、
「本当に舐めるなんて思わなかった…… 近くの水場で、口でもゆすいだら?」
「水?! 水、どこにあるの?!」
「――こっち」
女の子に連れられて、『水浄清』と横書きで書かれてある、神社のお清めの水に案内してくれた。ちなみに、これを右から左に『清浄水』と読むことを知らず、しばらく『水浄清』と読んでいたのは内緒である。
「これ、飲めるの?」
自分でも分かるくらい険しい顔で、水場を指差して言った。
女の子が首を横に振って、
「ゆすぐだけ。飲んじゃ駄目だからね?」
と言いつつ、尺で水をすくって、私に差し出してくれた。いそいでそれを受け取った私は、水を口にふくむ。
そうして、うがいをして口の中の苦さを取り除いた。
「うげえぇ~…… こんなに不味いの、渋柿以来だ……」
「渋柿まで食べたの?」
「だって、お父さんが食べてみろって言うから……」
「だまされやすいって言うか…… そもそも、アレは虫が舐めるモノよ?」
「でも、蜂蜜は虫の作ったヤツだけど甘いし……」
「そういう美味しいものは、ちゃんとご先祖様が全部、見つけてくれてるから。――キノコなんかは、絶対に口に入れちゃ駄目だからね?」
「知ってる。お婆ちゃんに言われた」
こうして、私と女の子は突然に知り合いとなった。
昔の私は、こんな感じで知り合いを増やしていった。
まだまだ謎の多い子だったけど、とにかく話をするのが楽しかったから、お互いに色々と話した。
夕方まで話をしたと思う。
どんな内容を話していたかは、残念ながら覚えていない。
ただ、女の子は分かったような分からないような表情で、相づちを打ってくれていた気がする。
それから数日間、毎日のように彼女と神社で会っては、探検みたいな散歩をしたり、話をしたり、色々とやっていた。
具体的にどこへ行き、どんなことをしていたかは、やはり覚えていない。
だが、話の内容に関しては、最近のゲームやら動画やらの話と、学校の話だったように思う。
なぜ、そこだけ覚えていたのかと言うと、たまに女の子が語る話題がブレて、ちょっと分からないことがあって、首を傾げることがあったからだ。
最初は学校でも話題にあがるような時事ネタを話し、それが好きなのかと思えば、次の日、本のオマケで集められるカバヤ文庫がどうとか言うし、流行のゲームやアニメの話をしたかと思えば、ビニール紐をリリアンで編んだとか、ビーズの装飾品の話とか、いまいちピンと来ない話題が出てきたりした。
でも、言いたいことは分かるし、楽しそうなのも分かる。別に、それらがどういう意味を持っているかなんて、子供の頃はどうでも良かったんだと思う。ただ、同じ時間の中で過ごしたことが、私にとって重要なのだ。
私が自分の家へ帰る日も女の子と会い、太陽が落ちる前に別れた。
いつも通りの別れ方であったが、次回は一年後となる。
別れ際の話の内容は忘れたけど、私も彼女も笑顔だったことだけ、ハッキリと覚えている。
それからまた、一年後の夏。
祖父母のお墓について親戚と話があるらしく、私は一人で留守番していることになった。
こういうときは、神社へ行くのに限る。
今回は親戚の家にあった、オレンジ色の古くさいオモチャのキックボードを使って、神社を目指した。
以前は忘れていたけれど、今度は女の子のことを覚えている。だから、いるなら一緒に遊ぼうと思っていた。
神社への坂道を登る。杉の代わりに地面を蹴って、キックボードを進めた。
やっぱり、女の子は例の如くドラム缶の側に立っていた。
私は近くへ寄って行って、「こんにちは」と、声を掛けた。
「また会っちゃったね」
女の子が振り返って言った。
「ん…… また会ったね」
私は少し、ぶっきらぼうに答えた。
年を重ねる毎に思考能力があがっていく。
物事をハッキリ捉えるようになってくる。
そのせいで、異性への意識も強くなっていて、そんな感情を見せないようにしようという行動を、無意識に取る…… そんな年頃だった。
でも、こういう風に知り合った子と再会するのは珍しいことで、その分、嬉しいことでもあるから、その気持ちが前面に出ていたのかもしれない。
女の子は微笑んで、「カブトムシは元気?」と、尋ねてきた。
「うん、まぁ…… そこそこかな」
「習い事は、まだ続いてるの?」
「辞めたいんだけど、辞めさせてくれなくって……」
「やりたいことをやった方が、続くよ? もうちょっと好きになれること、探してみたらどうかな?」
「あるのかな、そんなの……」
「探さないと、あるのかどうかも分からないと思うけどね?」
私は前述通り、頭の中身が子供っぽい。
今にして思えば、女の子の言動は妙に大人っぽかった。
どうしてなのかは分からないし、そこはどうでもいいとも思っていた。
このときの私は、言動の大人っぽさよりも疑問に思っていた質問をすることに集中していた。
「そう言えばさ」と、私は言った。「去年、聞くのを忘れてたけど…… どこに住んでるの?」
「この近く。蜜の木を探したとき、言ってなかったっけ?」
「言ってたと思うけど、そうじゃなくってさ……」
この辺りに、私たちと同じくらいの年頃の子はもういない。神社へと続く長い階段を、ずっと下りて行った先には、まだたくさんいるだろうけど……
でも、わざわざ山の上にあるこんな辺鄙な神社にまでやって来て、この時期の同じ時間帯に、ここに立っているのは、どう考えても不自然だ。
「君は、遠くから来てるんでしょ?」と女の子。
「うん、そうだけど……」
と言ってすぐ、私はフッと思ったことを口にした。
「君って、いつも同じ服装だね? 背もあんまり変わってないような……」
「夏はいつも、この格好が好きなの。それに学校じゃ、いつも列の前の方だし。――君は、随分と大きくなったね」
「そう?」
「だって、前に会ったときはあたしと同じくらいだったのに」
そう言って、彼女は右手で自分の頭をポンポンと触った。
「そうだっけ……?」
「うん、大きくなったね」
言っていることが母親染みていて、ちょっとおかしかった。だから私は、少し苦笑ってしまう。
「それより、暑くない?」と女の子。
「え? そうかな?」
「熱中症になると大変だから、そこへ言って話さない?」
私は「分かった」と答えて、女の子と適当な話をしながら、木漏れ日が揺れる青いベンチへ移動し、座った。
「――ねぇ」
女の子は聞く素振りをして、振り向いた。
「ひょっとして、この神社に住んでるの?」
「ううん」
「じゃあ、港の方とか?」
「違う。この辺りだってば」
「ん~…… じゃあ、駄菓子屋さんの近く?」
「前はそうだったけど、今はこの辺りになったの」
「なんか、勿体振るなぁ……」
「住んでるところなんか聞いて、どうするの?」
「別にどうするって言うワケじゃないけど、なんか、気になって」
「じゃあ、逆にあなたはどこに住んでるか、答えられる?」
「市内のアワノってところ。この辺はお爺ちゃんの家が近くにあるんだ。だから、毎年ここに来るんだよ」
「お爺ちゃん、か……」
女の子の独り言に、私は首をかしげた。
でも、あまり気にせずに女の子と話したり、蝉を捕まえたりして遊ぶ。
そうこうしているうちに、夕方となった。
空はもう薄暗くて、周囲は闇に沈む寸前だ。
帰る時間が刻一刻と迫っていたけれど、そのことを、私からではなく女の子から言ってきた。
「そろそろ、夕飯の時間じゃない?」
「あっ…… そうだね、忘れてた」
私はキックボードのところまで行って、女の子の方へ振り返る。
「また明日も、ここにいるんでしょ?」
女の子はおもむろに私の傍に来て、貧弱なキックボードを見つめていた。
「どうかしたの?」
「明日ここへ来るのなら、この変な乗り物、今日は貸してくれない?」
「えっ……」
「明日、必ず返すから」
私は悩んだ。
と言うのも、これは私のではなく、親戚の子から借りた物だからだ。
色々と考えていると、女の子が、それこそ女の子らしく首を傾けて、
「駄目かな?」と尋ねてきた。
再三言う通り、私は頭が悪いから、女の子の女らしい仕草というのに、それほど心を奪われることはなかった。
それよりも、彼女がキックボードに興味があって、それで遊んでみたくて仕方ないんだなって思って、いつもの大人ぶったところが消えて子供っぽく見えたから、なんだか嬉しくなっていた。
「んじゃ…… 明日、ちゃんと返してよ?」
「うん、分かってるって!」
「そ、それじゃあ、また明日」
「うん、また明日……」
嬉しそうに返す女の子とキックボードを残して、私は家路をたどった。
フッと、無意識的に足を止める。
坂道を下る前に、私は後ろを振り返った。
もう、女の子もキックボードも、姿を消している。
私は不可解に思って、周りを見渡すために境内へと戻った。
しばらく見渡したけど、暗くなってしまったせいなのか、私の知らない道を通って行ったのか、どこにも見当たらなかった。
次の日の正午過ぎ、私は走って神社へと向かった。
杉の木を蹴るという儀式さえもすっ飛ばして、坂道を駆けあがって、境内にたどり着くや否や、少し息を切らせながら、ドラム缶のところまで寄って行った。
そこに、女の子がいなかった。
私は少し不安になって、周囲を見渡した。
ちょっと早く来すぎたのだろうか? いや、いつも通りの時間のはずだ……
「ごめん」
その声に反応して、私は階段側の方を見やった。
鳥居の近くに、キックボードと一緒に女の子が立っていた。
「少し遅れちゃったね」
そう言いながら、女の子はキックボードを進め、こちらの近くまで来た。
私はなぜか、安心してしまった。
「今日は君が、私の場所にいるんだね」
「あっ、そうだね。なんか、ごめん」
女の子が笑った。
「変なの。謝らなくていいのに」
私は照れ隠しに頭をかいて、
「いつの間に、そこにいたの? 気付かなかった」
「ついさっき」
「ついさっき……?」
「うん。――でもね、今日はあんまり長いこと、ここにはいられないの」
「どうして?」
「引っ越しすることになったから……」
「ひ、引っ越し? どこに?」
「分からない。多分、遠いところだと思う」
「そうなんだ……」
「ちょっとショックだった?」
「何が?」
「また惚けて…… まっ、いいけど」
「なんだよ、その言い方……!」
ちょっと強めの口調で言ったが、女の子が妙に寂しそうな顔をしていたから、怒りはすぐさま鎮火して、そのまま黙ってしまった。
「ねぇ」と、女の子から話しかけてくれた。「この変なヤツ、もう一日貸してくれない?」
「えっ?」
「明日、ここに置いておくから…… 駄目かな?」
駄目なわけがないし、気に入ったのなら、それでいいと思った。だから、
「別に…… 好きにすればいいよ」
と、少々ふて腐れるように言った。
そんな子供っぽい私が面白かったのか、悪い気がしたのか、
「ありがとう」と、なぜかお礼を言ってくれた。
私は嬉しさの照れ隠しと、遠くへ行ってしまって、もう会えないんだという寂しさを隠すように、目をそらし、無表情を装った。
「――じゃあ、こういうのは?」
間をあけてから、女の子が私の正面に立って、目を合わせて、話しかけてくる。
「十年後、またここで会うの。いいでしょ?」
「え? 十年?」
「そう、十年」
「なんで十年なの? 長すぎない?」
「そう? 結構、あっという間に過ぎちゃうよ?」
彼女はそう言って口角をあげ、話を続けた。
「それに、あなたがどんな大人になっているのか、興味がある……」
「どんなって…… 今と、そんなに変わんないと思うけど?」
「変わらないの?」
「いや、なんて言うか…… 姿とかは大きくなるだろうけど」
「ふ~ん」
女の子がニンマリと笑みをたたえて、後ろ歩きで、私から少し離れた。
「じゃあ、十年後に会おうね。あたしはいつも通り来るから、あなたも絶対に来てよね?」
「う、うん……」
「楽しみにしてるから!」
女の子はキックボードに乗った。
そうして、楽しそうに境内の端にある、駐車場の手前まで移動した。今日は車が止まっていない。
彼女は振り返って大きく手を振りながら、大きな声で、
「本当にありがとう~! さようなら~!!」
と言って、そのまま駐車場を駆け抜けていった。
私も大きく手を振り替えしながら、あんな悪路を走っていたら、転ぶんじゃないかという心配が脳裏をよぎった。
それに、昨日は帰るところを見逃したけれど、今日は追い掛けることができる。
だから、急いで彼女の後を追い掛けた。
でも、案の定と言うか、彼女の姿はもう見えなくなっている。
――きっと、この近くにいる。
そう確信した私は、近辺を虱潰しに捜し回った。
近くに長屋があったから、片っ端から呼び鈴やノックをして、中の人に声を掛け、女の子について質問する。
だけど、長屋にはお爺ちゃんやお婆ちゃんばかりが住んでいて、女の子なんていなかった。
神主さんの家らしき場所も行ってみたけれど、やっぱり分からないと言われる。
この他には、めぼしい家がない。
諦めて帰ることにし、いつもとは違う、階段を降りて迂回していく道を通った。
ボロボロのお堂っぽい建物を上から見下ろすように歩いていると、見慣れた形と色が視界の際に入り込んだ。それで、パッと反応して振り向く。
キックボードが置いてあった。
道順通りにお堂の敷地内へ入るのは面倒だったから、斜面を滑りながら降りていった。
塀や壁は特に無かったから、簡単にキックボードのところへたどり着く。
キックボードの前に、とても小さなお墓があった。
周りは、霊園というわけでは無いけれど、ちらほらお墓があるのが見える。
私はそれからずっと、夏の長い長い陽が暮れるまで、その場に立ちすくんでいた。
この日を最後に、私は祖父の家にも神社にも行かなくなった。
行かなくなって時間がたっても、どこかで十年の約束は覚えていて、私が小学校から中学校、高校へと進み、大学へ進学した今でも覚えていた。
ちょうど十年に達したとき、法事の準備のために祖父の――いや、叔父の家へ行く用事ができた。
これ幸いと思ったすぐ後に、あのときの約束をどうするか考えてみた。考えた結果、やっぱり確認したいという衝動に負けてしまった。
ホラー映画なら、私はこれから死んでしまうんだろうと思う。むしろ、あのとき何もなかったのが不思議なくらいだ。
それにしても、彼女の言う通り、十年は長いようで短い絶妙な期間だった。
町並みも私自身も、すっかり変わってしまっている。キックボードだって、もう錆び付いて動かない。
あの女の子は、私をどう見るのだろうか。
そもそもの話、彼女は幽霊とか亡霊といった類いの存在なのか? それとも、あそこにキックボードを置いて、そのままどこかへ引っ越していったのだろうか? 本当に神社へやって来てくれるのだろうか? ただ単に、私をからかって楽しんでいただけなのか?
色々な考えや思いを胸に、私は車を運転して、久しぶりに叔父の家へ向かった。
法事の準備が一段落して、時間を確認したら昼過ぎとなっていた。
私は頃合いだと思った。だから、飲み物のペットボトルを手に持ち、一緒に来た恋人や両親を残して、夏の神社を目指した。
――いつも通りの道を歩く。
駄菓子屋はもうなくなって、ボロ屋になっていた。竹林は相変わらず真っ直ぐ並んでいる。
坂道を歩く。
杉も相変わらず立派に立っていて、何も変わっていない。
境内に入る。
ドラム缶はすっかり赤茶に変色して、ボロボロになっている。
だが、女の子の姿はない。
私は木漏れ日がゆれる、色あせた青いベンチに腰掛けて、蝉の音を聞きながらドラム缶を見つめた。
心地よい風に、美しい青天井と白い雲が流れていく。
散歩に来た人に挨拶を返したり、お孫さんと歩く高齢者の方などを見送った。
暇だったのか、祖父の家で待っていた彼女も、得意のイタズラをしに境内へ来てくれた。だから、色々な話に花を咲かせた。
もうちょっと神社にいたかったから、適当な理由を言って、彼女を家へ帰らせる。
久しぶりに、境内を彷徨きながら過ごしていると、次第に、虫の鳴き声がチラホラと聞こえてきた。
知らぬ間に、空が茜さす色となっている。
しかし、女の子は現れない。
ここまで来たら、もうちょっと待ってみようという気になって、またベンチに腰掛けた。
外灯が付いて、境内が薄らと浮かびあがっている。
人によっては色々いわくがあるからと怖がるけれど、私は全く、これっぽっちも怖く思わなかった。
何も考えず過ごしていたら、いつの間にかぬばたまの夜空になっていた。
結局、彼女は来なかった。
ベンチから腰をあげた私は、あのときのお墓に手を合わそうと思って、階段側から帰ることにした。
さすがに夜の墓地に入る勇気は無いから、上の道から覗くだけにしよう…… そう思っていると、あのボロボロのお堂は無くなっていて、お墓のあったところは全部、更地になっていた。
不意に、携帯電話が鳴る。
「もしもし?」
『いつまで神社にいるつもりなの?』
「ゴメン、待たせちゃったね」
『みんな、そろそろ帰ろうって』
「ああ、分かった。もう戻ってるから心配しないで」
『気を付けて帰ってきてよ?』
「分かってるって。前みたいに転んだりしないよ」
『本当に?』
「大丈夫だよ」
『それならいいんだけどね』って、彼女が明るい調子で言った。『じゃあ、待ってるから』
「うん、またあとで」
そう言って、携帯をポケットへ入れる。
こうして彼女の正体は永久に明かされることなく、私の『秘密の探求』は、十年の歳月を経て幕を下ろした。
結局、あの子が幽霊だったのか、性質の悪いイタズラ娘だったのか分からず仕舞いとなった。
ひょっとしたら、どこかでこっそり私を見ていたのかもしれない。そう考えたら、私と彼女は再会したと言えなくもないだろう。
だが、どちらに転んだとしても、私にとってはどうでもいいことだ。
彼女のお陰で、他の人には理解できないような出来事を、ちょっとした『秘密』として持ち続けることができた…… 自分だけの思い出深い秘密となった。
私からすれば、これだけで充分である。
空のペットボトルを手からぶら下げながら、夜空を渡る月を見上げ、それこそぬばたまの色に沈む、不気味さと神秘的な美しさとを放つ神社を背に、彼女が待つ祖父の家を目指して歩いた。
帰りしな、イタズラされないようにと祈りながら。
少し時間が出来たので、短編を書いてみました。
初めての一人称でしたが、どうだったでしょうか?
もし「応援してもいい」、「気に入った」と思われた方は、
下部にあります『星(☆☆☆☆☆)』から作品の評価をして頂けると、励みになります。
なお、過去作(完結済み)もありますので、よければご覧下さい。
ここまでのご精読、誠にありがとうございました。