5 はじめてのお出かけ
落ち着く声はハーディンだった。
彼は僕に気付いていない。そうだ、僕は姿も見えないし声も変わった。
帳面を繰っていき、記録を探した。ハーディンは何を使っているのか、どれぐらいの頻度でここに来るのか……。俯いて必死に文字を辿っていたら、ぽた、と水滴が落ちた。いったいどこから水が来たのかと慌てて天井を見上げたら、視界が歪んでいる。まるで水底にいるように。
「なんで、いまさら」
僕の境遇はそう酷いものじゃない。食べるものだって与えられていたし、住むところも着るものもあった。何処に行っても、いつだって僕を気にかけてくれる人がいて、一人だけど一人じゃなかった。
今更泣くようなことは、ないのに。
ここままでは帳面を傷めてしまうから、目元を袖で押さえて横に避けた。少々お待ち下さいの立札を置き窓口を閉じて、顔を洗いに水道のあるところまで出た。
「何を泣いているんだ。仕事が辛いのか?」
そこにいたのは粗末な官服を着た陛下だった。あたりを見回しても誰も連れていない。後宮を出てから一度も会っていなかったから、もう二度と会えないと思っていた。
「陛下?」
「おう。ああ、擦るな、目が赤くなる」
袖口で目元を拭おうとしたのを、腕を取って止められた。そのまま引き寄せて抱きしめられる。背が伸びたといっても、まだ陛下より僕の方が小さい。
「あの……もう子供じゃないので」
「大人の男は人目のあるところで泣かない」
「それは、誰もいないと思っていたから」
陛下の胸を押して、そっと距離を取った。小さな子供にするように頭を撫でられて、温かい気持ちになる。僕はこの方を父親のように慕ってしまっている。もう幼い子供でもないし、ひとり立ちした人間なのに。
「ほー。ノジョウが俺の愛人だからと厳しいか」
「ノジョウさんはそんな方ではありません。むしろ、愛人でなければ婿にとも言って頂けました」
「ほう!」
そのまま根掘り葉掘り今の生活や仕事を知りたがられたけれど、僕は仕事中だ。
「申し訳ありません、仕事中だから」
「今夜部屋に行く」
「え」
「準備、しておけよ?」
意味深な目配せをして、ふっと少し離れたところの茂みに視線を投げてから陛下は去っていった。準備とは、陛下の好きなお茶の用意のことだろう。淹れ方の難しいお茶で、陛下の侍従と僕だけが完璧に淹れられるようになっているらしい。
久しぶりに陛下と話ができるのが嬉しくて、早く仕事が終わらないかとそわそわして残りの時間を過ごした。
仕事が終わって自室に戻った。本当に陛下は来るのだろうかと考えながら、いまはベッドになっている棺の蓋を開けた。僕が入っていた棺は小物を入れるために大きめに作られていたから便利で、蓋を閉めて上に寝具を敷いてベッドにしている。
棺の中には僕が入れたかったものと、陛下やタリャが持たせてくれたらしい小物がいくつか入っていた。
茶器もそのうちの一つで、陛下にもう会うこともないと思っていたから不思議だった。陛下用のものだから良いものだ。茶葉もちゃんと入っている。
後宮を出て半年ほど経った。淹れ方を忘れてはいないだろうかと不安だったけど、試してみたら良い香りが立った。成功だ。
「本当に茶を淹れている」
出来に満足して、陛下が来た時に淹れられるように湯を用意しようとしたら、扉の所に陛下が寄りかかっていた。全く気付かなかったが、後宮にいた頃も気配もなく部屋の中にいたからあまり驚かなかった。
「扉の鍵は閉めろよ?」
「いつもは閉めています」
「俺が来るから開けておいたか」
「はい」
ここは官舎の端で、隣は勤務時間帯が違うから他人を気にしなくていいのが良い部屋だ。僕が人に慣れていないのを考慮して、ノジョウさんが手配してくれたと聞いている。
陛下は僕からお茶のカップを取ると、立ったまま飲み干した。
「外に行く。どうせ出かけたりしていないんだろ」
「え!? あ、でも」
「見えないところに護衛はいつもついている。外で陛下とか呼ぶなよ、呼ぶならメレと呼べ」
陛下の名前とは似ても似つかない言葉に戸惑う。名を呼ぶのも立場上許されるものではないのに。
「メレ……様?」
「様はいらん」
「ええ?」
話しながら、迷いもなく外への道を歩く陛下は慣れている。こんなところに道があるのかという茂みを抜けて、あっさり王宮の外へ出てしまった。ひと気のない路地は足元も見えにくいのに、僕の腕を掴んで明かりのあるほうへぐいぐいと進んでいく。
大通りに出ると夜だというのに明るくて人も多い。実家は王都の端で、外に遊びに行っても人が多いということはなかった。ぼうっとしていたらぶつかってしまいそうだ。陛下に腕を掴んで貰っていなかったら、あっという間に迷子になっていただろう。
「ルート、酒は?」
「飲んだこと、ありません」
「もう十八だろう。飲んでおいて損はない。いくぞ」
馴染んだ様子で陛下が入って行ったのは、古そうな間口の狭い店だった。
中にはテーブルと椅子が乱雑に配置されて、いろんな人が飲み食いをしている。店の奥には一段高くなっているところがあり、ほとんど裸のような女性が甘い声で歌っている。
「今日はアンナの日か。得したな。あの身体は一見の価値があるぞ」
「あんな、裸みたいなのに、じろじろ見るのは失礼じゃ」
「慣れろ。それとも男の裸のほうがいいか?」
首に腕を回されぎゅっと近付いて陛下は言った。後半は耳元で囁くように言われて胸がキュッと縮み上がった。




