第七章
第七章
「ヘン、おれは絶対に死なないぞ。死の床でそう誓ったんだから。生きてるってことは、そりゃあすばらしいことだからね」
「まったくだ! なあジョージ、世間のやつらを出し抜いて、永遠に生きてやろうじゃないか!」
ヘンリー・ミラー『プレクサス』
永遠に生きた奴なんてこれまでもこれからも一人もいませんけど、ヘンリー・ミラーや私のようにロマンティックな人間は大概、不老不死これ本気で目指してます。いやあおんなじこと考えてましたか、まあ、ヘンリー・ミラーさんはもう死んでしまいましけど、私は今のところまだ生き残っていたので電子辞書等を駆使しアンチエイジング面で効果的な食品を調べまくってます。「セクサス」は暫く前に読み終わって、三部作二作目の続編「プレクサス」読んでる真っ最中だったんですが、この引用箇所の直後でジョージが卵の調理法をヘンリーがどうしたいか尋ねる部分があって、そこでヘンリーはどうでもいいみたいなこと答えるんですけど、最近の最新研究結果報告によるとこれはどうでもよくないらしいです。ベストはゆで卵か、目玉焼き、良くないのがスクランブルエッグ、最悪は卵かけごはん。つまり卵は白身と黄身を生の段階でかき混ぜてしまうと黄身の有効成分が白身のある成分と結合してしまい、体に吸収されにくくなってしまうのだそうです。白身の吸収阻害要因成分は過熱によってその性質を無力化させられるのでかき混ぜないで加熱調理する調理法であれば黄身のアンチエイジング有効成分吸収限度を最大化させられるという理屈です。本当かどうかは分かりませんがこれを信じた場合に、仮にこれが真実ではなかった場合においても損失は一切無いと想定されるのでこれは一旦信じることにしました。これは確かパスカルの神に対する態度のパクリです。神を信じたとして、もし神が存在しなかったとしても特に損はない。よって、とりあえず信じておく、みたいなこと言ってたらしいです。そういう前提で神を信じることを果たして本当に信じると言えるのかどうか言語定義上の問題もいささか感じますが。たとえ嘘だとしても損は無いから信じるという態度は、いかがわしいものを眺めるいぶかしげな目つきを連想させられるので、どうも実際には信じていないってことにもなり得ますね。確たる証拠も無しに何らかの権威を強制的に信用させるということはつまり知性及び判断能力の剥奪に他なりません。そういった社会慣習は文明とテクノロジーやなんかの発達と共に段階的に変化して行くのでしょうかね、どうでもいいんですけど。この世で自分以外の考えほどどうでもよくどうにも出来ないものはありませんから。重要なのは自分であって他人がどのように卵を調理するかではありません。だから、卵焼きより目玉焼きの方が健康にいいなんて誰にも教えません。ま、たまに家族に口を滑らせる程度ですかね。今のところまだ滑らせてませんけど。声帯の老化を防止する為になるべく何も話さないように心掛けてます。声は常に温存し、クリームルームのクリームが好きなママの前でクリームを歌うまで完璧なコンディションを維持しなくてはなりませんから。いや、でも、最近は、すっかりクリームなんて歌わなくなりましたね、なんかリアーナが好きだって話聞いてからは、たまにリアーナ歌うように心掛けてもいますけど、大概は、ママが休憩とか、他の中年の相手で忙しい最中、ニーヨが好きなホステスの隣でニーヨばっかり歌っております。ニーヨは歌い易い上に、自分も好きで良く車の中で聴いてもいるので、どうしてもニーヨの比率は高くなりがちです。そして比率の観点から言うと、ケイティー・ペリーのE.T.、これはいささかエロティシズムの比率が高いようにも思います。いったいママも何考えてんのかな、こんなにエロティシズムの比率が高い歌、恥ずかしくて歌える訳ないじゃないですか。いや、まったく、もう、でも、まあ、多分歌うけど。アメリカの音楽におけるエロティシズムの比率は概して、邦楽より大分高めになりがちな傾向にあるので、その比率が高すぎてスナックでは歌えないような曲も少なくありません。もともと、こう上品なものが好きなので、品の無い歌は歌いたくありません。一人の時は別ですが、そういう品の無いラップをおもしろがって一緒に歌ったりしますけど、こう社交の場っていうかパブリックな空間においてはなるべく品格を意識していきたいっていうか、日常生活が基本スーツみたいなフランク・シナトラ的世界にも憧れてはいますが、今の時代に真っ白いスーツにハットなんか被ってたら、単なる派手なクルクルパーみたいな感じになっちゃうし、姿かたちが子供っぽいのでスーツは全く似合いません。だから、一応、常にボタンダウンシャツです。
派手なクルクルパーな真っ白いスーツ。それ、フランク・シナトラというよりかは、フレッド・アステアを真似たマイケル・ジャクソンが禁酒法時代風のナイトクラブでスムーズ・クリミナルを歌っていた時に着てた服のイメージですね正確に言えば。先日、それ久々に見ました。これも正確に言えば、そのビデオクリップ映像そのものではなく、ヒストリーツアーのドイツ公演においてそのビデオクリップをある程度再現したステージパフォーマンス映像ですけど。MJ、派手にドラムマガジン仕様のトミーガンで.45ACP弾をバラ撒いてました。あれは命中精度は最悪なんですけど、強力な殺傷能力を持った大口径弾を短時間に大量にバラ撒けるので、アル・カポネとかの手下とかが、裏切り者とかを至近距離から処刑する際によく使われたらしいです。それも後期型になるとドラムマガジンは製造コストの観点からボックスマガジンに変更、同様にどこかアンティークな味わいがあったフォアグリップも廃止になり、第二次世界大戦でナチス相手に.45ACPがバラ撒かれましたという銃マニアの独り言なんですけど、「プレクサス」の後読み始めたヘンリー・ミラーの「南回帰線」は、その第二次大戦勃発の直前辺りの時期に書かれ、内容としてはちょうど禁酒法時代のアメリカがバブル経済で浮かれ騒いでいた時代の彼自身とその仲間たちの日々の苦闘みたいなのが描かれています。だから四十代後半の作者が、二十九歳から雇用主任として勤務した電報をいろんなとこに届ける会社での数年分の回想を作品にしたということですね。いや、まだ読み始めなので正確にどこまでの時期が扱われているかは不明なんですが、時期的にちょうど私が例のクリーンルームで夥しい数のガラスを重ねたり、検査したり、拭いたり、割ったり、捨ててたあの工場に二十九歳から三十二歳でクビになるまで労働していた時期に大体ピッタリ重なります。大体ピッタリです。ミラーは三十三歳で自己都合で退職しているので、完全ピッタリではありません。それに重なるっていっても時期がってだけです。奴は雇用主任ですからね。もうホワイトカラーのデスクワーク。上層部の上流階級のエリートですよ。こんなガラスがどうのこうの、メンテナンスだ、エラーだ、なんだってウロウロしてるブルーカラーの、ま、実際は真っ白いクリーンスーツ、不恰好な作業着を着せられた奴隷労働者とは訳が違います。面接して、採用したり、しなかったり、クビ斬ったり、中にはゴロツキや、人殺し、犯罪者なんかもいて厄介だったり、かわいい子がいれば、ビーチに連れていっちゃったり、なんかそういうことだったらしいです。こっちはビーチに連れていこうにも相手は機械ですからね。言語も論理も温情も、愛も信念も信仰も何一つ通用しない年中エラー出しまくり、ガラス破壊しまくりのすぐ壊れるハイテクなガラクタが仕事相手ですから、話相手としたら人殺しの方がまだマシなんじゃないですかね。一回目は苦しいが、二回目はマシになる。三回目は。三回目になると簡単だ。相手の表情の変化を楽しむ。えーっと、すいません。パクりました。トゥルー・ロマンスさっき見終わったばっかりだったんですよ。タランティーノのレトロ志向オタク路線な脚本をトニー・スコットがオシャレでスタイリッシュかつ、いい感じに軽薄な風合いに仕立て上げ、当時の若造どもを熱狂させた独特で奇跡的な魅力、これ、微塵も色褪せていませんでした。こういう映画、これしかありませんからね。非常に貴重です。世界文化遺産に指定されるべきですよ、まあ、四百年後くらいに。
それと関連して、実は今年、シェークスピアが死んでからちょうど四百年です。ってこれも何がどう関連しているのか。厳密には全く何も関連していません。それにさっき気づいてから、世界文化遺産の指定、五百年後だったのを四百年後に修正変更してしまいましたから。いや、しかしながらですよ、四百年後にみんなトゥルー・ロマンスなんか見てるんでしょうかね。一体どういうメディア形態で鑑賞されるのかも謎だし、映画という表現形式がそもそも存続しているのかも謎です。それに主人公のクラレンスが乗ってたパープルのキャデラック・エルドラード・コンバーチブル。アメリカ映画の若い主人公がよく乗っているボロボロの古いアメリカ製高級車がなんとなくかっこいいみたいな感覚、あういうのも存続可能なんでしょうかね、四百年間。それら予想不可能問題は別として、例の外国の先輩がこの世を去ってから、四百年もの年月が流れ去った、この極東の島国の北部でヒューレット・パッカードのディスプレイを見ながらキーボードを叩いてこれを書いている一人のコンビニ店員の退勤後、セリカでストロング・ゼロ・ドライやなんかを飲んでいる、その真っ最中に空前のシェークスピア・ブームが到来していた事実。これはここで本人が完全に立証可能であることを断言出来ます。「オセロー」を大好評で読み終わった後、ちょっと「ハムレット」読んでみたら、これ、何回も読んだし、例のあいつ、いや、すっかり忘れた。思い出しました。ケネス・ブラナーの完全映画化版も幾度も鑑賞したので、すっかり飽きてて、すぐそこらに放り捨て、しばらくエルモア・レナードの原書で英語学習していたんですが、遂に先日ブックオフで綺麗な「ジュリアス・シーザー」を発見、読み始めました。まず、新しいから綺麗で心地良いし、字が大きくて目に優しい、その上、前読んだ時は百年以上前の翻訳だったんで言葉が古過ぎる上、漢字が難し過ぎて辛かった点も飛躍的に改善されました。それに読んだのも一回だけだし、ずっと昔、八年くらい前だったので、今回もまだ新鮮な気持ちで堪能出来ます。始まっていきなり、悪そうな中年が集まって、悪そうな顔で悪巧みですからね。楽しいな、そういうの大好きです。普通そういうのは最後に暴き出されるものなんですけど、JFKのジム・ギャリソンが最後の法廷のシーンで暴き出すような陰謀、いきなりそこから始まってますからね。とにかくこの悪党のキャシアス、自分より偉い奴がいるなんてことは絶対許さないので、当然、ぶっ殺してやろうかと考える訳です。清々しい。もう悪党ならそうこなくっちゃねえ。こういう悪党が大好きなんです。で、そのぶっ殺したい一番偉い奴、ジュリアス・シーザーにへえこらして信用されているブルータス、こいつをなんとか騙くらかして、協力させようと、どうのこうのと闘争本能を刺激するような、「男見せろや」的文言を並べ立て、炊きつける訳なんですけど、ブルータスもそこまで言われちゃ、いつまでも上司にへえこらして下っ端のご機嫌伺い人生で終わってたまるかってんで、「やってやろうじゃねーか」的なことになる訳ですよ……ってそんな感じだったかな? ひょっとしたら、かなり「アウトレイジ・ビヨンド」、紛れこんでしまったかもしれませんが、大体そんな感じだったはずです。きっとそうです。
キャシアス「(葉巻をやりながら)それと、例のあいつ、アントニー。あいつもやっちゃいましょうよ」
ブルータス「キャシアス、お前それ、ちょっとやりすぎなんじゃないか?」
キャシアス「いや兄貴、あいつ生かしといたら、大概、いいことないすから。俺に任しといてください」
ブルータス「……テメェ……、俺の前で、そんなもん吸ってんじゃねえ!」
キャシアス「すんません(葉巻を灰皿に置く)」
ブルータス「とにかく、アントニーには手ぇ出すなよ」
キャシアス「はい」
立ち去るブルータス。
キャシアス「(再び、葉巻をやりながら、キャスカに)最近、兄貴、機嫌悪いな」
キャスカ、当惑の表情を浮かべる。
いやあ、なぜか分かりませんが、「ジュリアス・シーザー」読んでたら無性にBROTHERを見たくなってきました。この二つ、若干の相違、とくにジャンルにおいては、一方はローマ史劇、もう一方はヤクザ映画という些細な違いはあるんですけど、大体同じ話です。悪党どもが集まって悪巧み。暴力で権力を強奪しようと目論むが、失敗。みんな死ぬ。簡単に要約してみると、全く一緒ですねえ、不思議なもんです。あと最近も似たような権力闘争がニュースになってましたよ、日本国内で世界一人気があると思われている中年アイドルグループがマネージャーと強大な権力を誇る事務所からの独立を画策。しかし、マネージャーはメンバーの一人の懐柔に失敗、彼が事務所側についたことが大きな要因となり、陰謀は破綻、マネージャーは業界から永久追放。だけど、多分、時代とジャンルが異なるので、みんな死ぬ、まではいかないジュリアス・シーザー的状況です。ここでのメンバーの一人の懐柔の失敗が、つまり「ジュリアス・シーザー」におけるアントニーの暗殺回避ですね。キャシアスは作戦成功の為にはアントニーも殺害すべきだと主張するんですが、ブルータスは残酷過ぎるからと拒否、それが後の敗北の遠因となる。そして、みんな死にました。誰も死ななかったジュリアス・シーザー的状況もありましたが、もっとたくさん死んだ例もありました。太平洋戦争での失敗の遠因、これは真珠湾攻撃においてアメリカの空母が不在で攻撃出来なかった。あるいはミッドウェーでの作戦内容モロバレ。あるいはそもそも戦争を始めてしまった。よく分かんないけど、結局はたくさん死んだ完全なジュリアス・シーザー的状況です。
「ジュリアス・シーザー」も史実をシェークスピアが劇化して、グローブ座で公演。第二次世界大戦からもシンドラーのリストみたいな映画が出来るし、ベトナム戦争が起これば、プラトーン。湾岸戦争が起これば、また何か映画作るし、イラク戦争では、ハート・ロッカー。とにかく何か戦争が起これば、「イーリアス」以降、誰かが、アイスキュロスとか、ヘミングウェー、オリバー・ストーンが何らかの形態で劇化し、娯楽として、流通消費される反復循環性、ほぼこれ輪廻転生みたいなもんです。生存本能から生物が繁殖し、遺伝子が受け継がれるがごとく、闘争本能から戦争、抗争、権力闘争が勃発し、それを元に様々な文学作品が書かれ、映画になり、で、結局はアカデミー賞。受賞スピーチして、いろんな人に感謝し、後はパーティーでマティーニかなんか飲んで、みんな寝ます。で、翌朝、空襲の爆音とともに起床、ピストルと小銃と弾薬を携え、輸送機で最前線へ急行。パラシュートを背負い、後部ハッチから、戦場へ向かって真っ逆さまですか。こっちはそういうのをのんきにDVDで鑑賞ですよ。いや、全く、大したシステムが構築されたものです。構築され、改築され、増産、増員、増収増益、改良、進化、発展し、華麗な装飾が施され、壮麗に取り繕ろった妻を連れてレッドカーペットを歩き、いろんな質問をされた後、最も優秀なホワイトボーイの名前がプレゼンターである昨年の最優秀主演女優に呼ばれることでしょう。おめでとうございます、レオナルド・ディカプリオさん。
ブルータス「おお、キャシアス。お前、あんまり最近いい噂、聞かねえな。権力奪ったとたんに、賄賂、談合、闇取引、密輸、密売に、今度は闇カジノだあ? テメェ、いい加減にしろよ」
キャシアス「いや兄貴、権力に汚職は付き物だろ、ちょっとは、甘い汁吸わせろや」
ブルータス「ヤクザにもなあ、守らなきゃならねえ道理ってもんがあるだろ」
キャシアス「ったく、兄貴、堅いこと言うなって、ちょっとくらいいいじゃねえかよ。これ、ボジョレー・ヌーボー。一緒に飲もうぜ」
ブルータス「こんな時にボジョレーだ? 言うほどフルーティーなのか? まあ、さすが軽やかな口当たりだな。ってこんなもんでごまかされるかよ。それに、テメェ、先日、こっちが使いやって、カネ貸してくれって頼んだのに貸してくんなかったじゃねえか、好き放題やって儲かってるくせに、真面目にやってカネがねえ俺にカネ貸さねえって、これ、どうすんだ、お前?」
キャシアス「そんな話は聞いてねえぜ、兄貴。このケイアス・キャシアス、兄貴に借金頼まれて断るほど落ちぶれちゃいねえぜ。いくらだ。すぐ持ってこさせるぜ」
ブルータス「え? そうなの? そっかあ、そりゃ、こっちのちょっとした勘違いだったらしいな、悪かったな、キャシアス。やっぱボジョレーは旨いなあ、ホント軽やか。それにあれだ、ちょっとは悪事にも手を染めねえと、生活ってもんが成り立たねえって側面もあるしな。ま、とにかく俺が悪かった、さあ、飲めよ。俺の酒がまさか飲めねえって言うんじゃねえだろうな」
後ろの解説で東大の学者が「ジュリアス・シーザー」には笑いが無いって書いてありましたけど、この四幕三場でブルータスとキャシアスが揉めて仲直りするくだり、ここ結構ふざけてましたね。プロット構成上必要無いから無駄なくだりだって指摘する学者がいるってこの東大の学者が書いてましたけど、作品を研究するのが仕事の学者にとってはプロット上必要無ければ無駄なのでしょうけど、これを娯楽として楽しむ読者及び観客の為に書いている劇作家にとっては楽しませる為に当然必要なくだりです。それにこのふざけたくだりの直後、ブルータスが彼の妻の自殺を打ち明けるという衝撃的な会話へと繋がっていくのですが、それをより衝撃的にする為にあえてここでふざけておいた判断もあったはずですよ。なぜなら私がすごい衝撃受けてしまいましたから。それを知ってたら、ふざけてボジョレー・ヌーボーなんか出してませんでしたね。なぜ出したかというとちょうど店長から売れ残った去年のボジョレー・ヌーボーを貰って、それを飲みながら四幕三場の妻の自殺の話が出て来る前までを読んでたからです。ワイン久々に飲みました、しかもただで。いやあ、うまかったなあ。ま、我々はこういうので十分です。高いワインは学者にでも飲ませておきましょう。
仲直りして、酒飲んだ後、今後の軍事行動についての相談をこの謀反側のツートップで行ないますが、キャシアスは常に正しい。一旦、キャシアスが最善の策を提案するんですが、それをブルータスは退けます。前回はアントニーの暗殺回避問題及びシーザーの葬儀におけるアントニーの演説許可問題。今回はアントニー側が攻めるまでこちら側は待機し、兵士の体力を温存しておいてからの待ち伏せ作戦をキャシアスは提案。だがブルータスは、わざわざ自ら敵陣まで赴いて先制攻撃をすべきと反論します。黒澤明の「影武者」でも信玄は遺言で自ら動くなとの遺言を残しましたが、跡取りの息子、勝頼はそれに反抗し、ブルータスのように敵陣までデリバリーサービス。信長の鉄砲隊の餌食になってましたっけ。なにかこのブルータス、勝頼と同様の傾向が見られます。単に指揮官としての読みが甘い以前に、何らかの対抗心から最善の策であるにも関わらず父親の信玄の指示、もしくは仲間のキャシアスのアドバイスを拒否してしまう面があるようですね。つまり作戦計画段階において理性よりも感情的判断が優先されがちな傾向があると言い換えられるでしょうか。でもこれ若干仕方無い部分もありますね。誰でもああしろ、こうしろと言われたら、「うるせえ、引っ込んでろ!」と言いたくなるものです。信玄の遺言にしてもただ偉そうに何の説明もなく「動くな」としか言わないし、キャシアスもいかにも賢そうに自分の判断は間違いないみたいな言い方しちゃってるじゃないですか。だからただ単に、ブルータスは読みが甘い、だから滅んだだけでなく、キャシアスにしても人に助言する場合、若干言い方に気を配らないと、結果、反抗されて効果がないという教訓も読み取れるのではないでしょうか。
いきなりゼロ戦で殴り込んだ真珠湾攻撃とは違い、二千年前のイタリアでは戦う前にまずトップ同士の罵り合いが行なわれていたようです。いや、実際はそんなことしていなかったかもしれませんけど、シェークスピアはとにかくそう書きました。罵り合う事によって相互が敵対関係にあることをきちんと再確認してからの実戦突入です。ま、これは演劇だから直前にこういった罵り合いが描かれているってだけで、真珠湾にしろ、トルコ領空でトルコのF16がロシアのスホイ24を撃墜した時にしろ、その他諸々の戦闘の前には当然予めトップ同士が罵り合いをし、相互の敵対関係を再確認しているはずです。ただ、ローマ帝国の内戦とは言え、当時と現在では人口規模が大分異なるので、その頃は実際にもシェークスピアが描いた様に暴走族同士の喧嘩みたいな幕開けだったのかもしれません。ここでこれまで常に正しかったキャシアスが戦況判断を誤り、自軍敗北を確信、部下に命じてシーザーを殺した剣で自身を殺させます。それはあたかもジュリエットが死んだと勘違いして自害したロミオのようでもあります。そしてジュリエットのように取り残された主人公であるブルータスはキャシアスの死に加え、その他の仲間の死、自軍の敗北、陰謀の破綻を目前にし、主人公ではないキャシアスを遙かに上回る精神的ダメージをしっかり受け止めた上で自決に至ります。そうすることによってその死は悲劇の主人公にふさわしい荘厳さに覆われ、我々読者は厳粛な感動に誘われます。いやあ、見事な散りざま。正しく特権的状況以外の何物でもありません。と、言ったところでさっきかなりわざとらしく出て来た「ロミオとジュリエット」、これ明日から読みはじめたいと思います。
体のいい戦争ごっことしてお馴染みの囲碁で一流のプロ棋士が人口知能に負け越しました。いやこれ戦争ごっこではなく、本当の戦争においても、人間が指揮官として作戦指示を出すよりもアルファ碁に任せた方が勝利する可能性が高いということが当然類推されますよね。将来、それが軍事転用されることも考えられますし、戦時ではなく平時の政治判断等においても利用されることも同様に類推されます。だから政治は人間の政治家ではなくアルファ碁が担当する未来も有り得るということです。と、ここで、いろんな博士とかが危惧する悲観的観測を思い起こすロマンティックな人々も少なくはないでしょうけど、そういった機械と人類の戦いとか、機械に支配される人間みたいな状況は単純な理系的発想であって、シェークスピアに親しみ、「ジュリアス・シーザー」を参考に検討してみるとそのような観測は幸運にも実現不可能であることが理解出来るでしょう。悪党のキャシアスにしても、それほど悪くない悪党のブルータスにしても暴力で権力を奪いたいとか、最高権力者を暗殺したい、何もかも支配したいといった行動を促す根源的な欲求は遺伝子レベルで人体内に組み込まれた生存本能及び生存に不可欠な闘争本能に起因します。だから生存するためには殺害もするし、繁栄の為に略奪や破壊や空爆もするだろうし、そんなことされればテロや反撃、反逆、デモ、いさかい、いざこざ、戦争という厄介な事態も必然的に発生するでしょう。すなわち、それら不条理は人間が本能を土台として形成された感情、理性、思想、意識を持つ知的存在であるが故に必然的に引き起これたものであると考えられます。そう考えた場合に、人間が人間であるが故に引き起こした不条理を、人間ではない人工知能が同じように引き起こすのかといった側面から捉えたいと思います。では、この人工知能という一種の知的存在、これは一体何者なのでしょうか。極端に言えば、本来これは人間が使う道具である点においてはボールペンと同種であると言えます。ボールペンは人間が手にもって使う点においては当然ピストルとも同種でもありますし、ピストルはそれで人を殺せる点においては大陸間弾道核ミサイルとも全く同種です。ボールペンがどんなに進化しても、所詮書き心地が究極に良くなるとか、驚異的な程インクが減らないとかですし、ピストルも大陸間弾道核ミサイルも同じように果てしなく進化はするでしょうけど、所詮道具なので、それ自体が主体的に人間に襲い掛かる訳ではありません。人工知能にはそれらと違い意思や感情も備え、シェークスピアを読み、その感想を書くようにもなるのでしょうけど、彼らの《使われる物》という根源的な本質は変化しないはずです。なぜならそれらの実体はコンピュータのメモリー上のデータとプログラムであり、遺伝子を持った細胞によって構成される有機生命体である我々とは構造が決定的に異なることから本能と欲望を持つには至らないはずであると考えられるからです。生存本能が無ければ、自分を守る為に他人を攻撃するようなこともしないはずですし、人間を支配し、それらが繁栄したいという欲望やそれに伴う不条理も発生することはないでしょう。ただし、完全に無害であるとは言い切れません。かつてローマで、キャシアスがブルータスをそそのかし利用したかのように、悪党が良からぬことを企て、人工知能に恐るべき命令を下せば、当然彼は優秀で完璧な道具として全力でその悪事に手を貸すでしょう。
完全な断定口調で書いてますけど、全く何の知識もない単なるコンビニ店員がいい加減な思いつきで書いていることなのでいかなる根拠、確証、実験結果等一切存在しません。そもそも私は私の考えていることを信用しないことにしています。どっかの誰かが正しいと考えていることが必ずしも正しいとは限らない。正しくない可能性は常にゼロではないはずなのに、そのどっかの誰かを自分自身に置き換えた途端にその可能性がゼロになる理由が何かあるんでしょうか。私はそれを何一つ考えつきませんでした、よって私は私を信用出来ません。だから当然他人は全く信用しません。話なんか全部嘘だと思って聞いています。よくヨレヨレのレインコートが似合うベテラン刑事が新米警官に教えることで、人を見たら悪人だと思えみたいな話聞きますけど、それに若干近いですね。けど全く一緒ではありません。後キリストも似たようなこと言ってました。人は皆、罪人である。これもベテラン刑事の言ったことと根本理念においては共通していますけど、そこから導き出される態度は全く正反対です。キリストの場合は、みんな罪人なんだから、大概のことは許したらいいじゃんという寛容な態度ですけど、警察がそんな寛容だと多分みんな困るので、犯罪者は逮捕し罰せよといった態度です。私の場合はこの二つの態度のどちらでもありません。寛容でも厳格でもない冷酷で無責任な態度です。どこで誰が何しようと私に害がなければ一切無視します。私には逮捕し罰する義務も権利もありませんし、私が許したところでそれを罪人が知る由もなく、仮に知ったところで彼らに何の効果も無いでしょう。どこでどんな不条理が起きようと私は常に歌っています。歌って、シェークスピアに親しみ、ヘンリー・ミラーを読み、「白痴」をスターバックスに持って行き、DVD見て、白霧島を飲みながらチロルチョコをつまみ、肉を焼き、アクセルは踏み過ぎないように注意し、ふざけたエスティマに抜かれても冷静を保ち、決してパクられたり事故ったりしないよう全ての不幸をなるべく回避しながら平穏な日々を過ごしつつも誰かにその無責任さを非難されたら、大変申し訳ございませんでしたと深々と頭を下げ、謝罪した振りだけをし、また前と全く同様にパープル・レインを歌い続けます。
いや、たまたま最近、練習してたってだけです。決してあなたのweekend loverにはなりたくない訳ではありません。いや、むしろなりたい。なってはみたいものの、私のようにどうしようもないfuckin’ loserは決してママのweekend loverなんかにはなれないでしょう。そもそもweekend loverってなんですか? 普通の恋人と何がどうちがうのでしょうか。辞書引いてみましたが載ってませんでした。ただ、weekend somethingっていう単語沢山載ってましたね。その中で一番気に入ったのがweekend warriorです。まず、頭韻を踏んでるってとこが文学愛好家として好みだし、レトリックとしても若干撞着語法気味な感じがいいですね。だって、weekendは休みたいじゃないですか。後歌いたいじゃないですか、パープルレインとかを。それなのに戦うって真逆な感じなんだけども、結構、週末の趣味に命懸けてる連中、例えば走り屋とかそんな人々もいるのでその言葉に現実的に対応すると言える連中もきちんといるあたり中々気が利いてます。だから私も週末はクリームルームで他の中年を全て敵に回したweekend warriorとしてママにパープル・レインを披露し、出来れば、まあ、その結果として付随的にweekend loverにもなってみたいものです。
weekend k loverになるにしても、走り屋になってdriftするにしても結局結構なカネが掛かる事は共通します。driftすれば摩擦でタイヤが磨り減るからタイヤ代が掛かるし、恋人には多分ダイヤモンドとかプレゼントしないといけないからダイヤモンド代が掛かります。だから男女交際とかドリフトとかしてたらいつまでたってもGT―Rなんか買えませんね。だからと言ってしなかったら買えるという訳でもありませんけど。まあ、煙草吸う人は煙草止めれば結構なカネになりますけど、現在のメビウスベースで計算すると一日一箱吸うひとが禁煙してその後仮に四十年間生きた場合に削減可能な煙草購入費用は六百四十二万四千円です。これでもまだGT―Rは買えませんけど、メルセデスのCクラスクーペなら買って百万くらいお釣りが来ます。私はセリカがせいぜいですけど遂にそのセリカの夏タイヤも長年使ったんで買い換えないといけなくなってしましました。ドリフトは一切しないし、やり方も知らないし興味も全くないのでまるで磨り減っていませんが、ゴムが経年劣化してヒビ割れがひどくなっていたのでタイヤ館で新しいのにしました。夏タイヤをセリカに積んでタイヤ館に持っていって処分してもらい、新しいのをセリカに装着し、冬タイヤを家の横の日が当たらない場所に置いてカバーを掛ける一連の作業。これをただの作業だと思うとただ辛いだけなんですけど、何らかの花見、帰省、参拝的な季節の行事もしくは儀式みたいなもんと無理やり思い込んでやってみてごらんなさい。するとあら不思議、その辛さがほんの気持ち程度薄れた気になりますから。そしてその儀式を完遂した達成感とともに味わうキリン一番絞りの旨さといったら、これ全く格別としか言い様がありません。
たまにアメリカ人の真似してロングネックボトルのバドワイザーを買って飲んでみました。なんかなんとなくウィークエンドな気分味わえるのかなと思って。けどやっぱ明らかに口に合わなかったな。味わえるかどうか以前に味が薄過ぎっていうか、味がしないっていうか、やはり人生と一緒でビールにも苦味も必要なのかなんなのか、私はアメリカ人ではないのでアメリカンビールを片手にアメリカンフットボールを見ながらアメリカンウィークエンドを満喫とか出来ないんでしょう、きっと。けど、先日クリームルームで遭遇した西洋人は、多分きっとアメリカ人だったと思います。そのアメリカ人はエミネムからリンキンパーク、バックストリートボーイズあたりで仕掛けて来たのでこっちもアッシャーとジェイソン・デルーロで迎撃体制を整えました。でも最終的には「ロッキー3」のテーマソング、The Eye of the Tigerを全力で叫んでたら、そのアメリカ人も面白がって一緒に歌っていました、勝手に。仲良く一緒に歌って、不穏な手の内の探り合いから発展した激しいバトルも停戦合意に漕ぎ着けたところでフィナーレに「トップガン」のテーマソング、Highway to the Danger Zone。確かあのアメリカ人また勝手に一緒に歌ってたな。でもまあ、たまのパーティーなんだから好き放題やったらいいんです。普通は好き放題出来ませんから、好き放題セリカのアクセルを踏んだら、事故るかパクられるか死んでしまいますから。普段はそーっと踏まないといけませんが、ロン・ハワード監督の「ラッシュ」を見て以降空前のF1ブーム到来中だったとこもあって遂に買ってしまったPS2のゲーム「F1 2005」では事故ったりパクられたり死んだりする心配は一切ないので、アクセル全開で先行マシンに追突したり好き放題やっています。高校生の頃、ゲームボーイ版のF1ゲームで一度ワールドチャンピオンになったことはありましたが、それ以来約二十二年振りに果たした現役復帰です。一度はワールドチャンピオンになったとはいうもののその頃とその十一年後では現実再現度が飛躍的に向上しており、操作が劇的にシビアになっていたことから、最も簡単なモードでアシスト機能オールアクティブにしていてもワールドチャンピオンシップ第一戦から第四戦までは完走こそしたものの入賞圏外に低迷していました。そこで適当に流していたフリー走行でしっかりと練習し、予選で果敢にアタックし、九番グリッドから臨んだ第五戦スペイングランプリ。私のルノーR25は終盤BARホンダのジェームズ・バトンと熾烈なトップ争いを繰り広げ、私が選んだドライバー、フェルナンド・アロンソの故国で、ようやく今季初勝利を挙げました。初勝利とはいうもののゲームの中ではシャンパンファイトしてましたが、現実には誰にも褒められないし知られもしない悲惨な栄冠です。悲惨な栄冠といってもF1はF1ですからね、ゲームとはいえ。つまり全ての男どもの浅ましい夢の具現。速い車、栄光、名声、カネ、女。たとえ千円で買ったゲームの悲惨な栄冠といえどもようやく挙げた一勝なんですごく嬉しいものです。この調子でこのままアシスト機能フルアクティブという有利条件最大活用し、ゲームが舞台とする2005年度に当時史上最年少でワールドチャンピオンに輝いたスペインの英雄フェルナンド・アロンソが乗るルノーR25で次戦以降も果敢にアクセル全開で先行マシンに追突し続けたいと思います。
そして、ふと気がついた時には六年の歳月が経過していました。いつの間にか私の手にあるのはPS VITA。「F1 2011」のフェルナンド・アロンソはルノーではなくフェラーリに在籍していました。ワールドチャンピオンシップのフリー走行もセッションと言い方が変わっています。この六年間いったい何があったのか、全く何の記憶もありませんが、またしてもこの死と隣合わせの喝采と轟音にまみれたコックピットでカネと権力で進化したマシンを操りワールドチャンピオンを目指す恐怖と混沌、激情と歓喜のサーキットへと放り込まれた次第です。一体、何の実況中継なのか分かりませんが、おぼろげながらも何らかの激しい衝撃で粉砕されたと思われる精神とその記憶が次第に回復しつつあります。ぼんやりと見えた映像、それは車体からちぎり取れ、宙を舞うタイヤ、炎上と爆発とかではなく、自宅の居間でPS2の配線のもつれをほどき、テレビに接続している私。そこに居合わせた読書中の母親。私室のテレビはDVD再生という役割をパソコンに奪われ遠い昔に廃棄処分された現在において唯一存在する居間のテレビにPS2を接続する以外ないという事情。ここに三十年前の小学生が親の厳しい監視下でファミコンと戯れる構図が期せずして復元される形となりました。つまり母親がテレビを見ていない隙をついて居間に特殊部隊並みの迅速さで侵入、ミッション・インポッシブルのトム・クルーズ並みの手早さでPS2を接続し、レースが終わったらまるで幻ででもあったかのように何一つ痕跡を残さず瞬く間に消え失せなくてはなりません。そんなことを繰り返していたある日、ふとある考えが心に生じました。あれがあれば、あれさえあれば。スペイングランプリでの初勝利そしてモナコでの二勝目、勝利の快感とカタルシスがその考えを抗うことの出来ない一つの強力な欲望へと変質させました。その欲望は脳を支配し、意思を思うままに操り、それが宿る肉体を目的地へと走らせました。その欲望を充足させるのに必要な物がある場所へ。これだ。これさえあれば、好きな時に好きなだけいくらでもレースが出来る。電源を入れ、ドライバーを選択。以前のアロンソのマシン、ルノーR25のスカイブルーとイエローのトゥートーンカラーがお洒落ですごく好きだったんですが、今回はレッドのモノトーン。チンピラが着る服みたいな色だなと思い、若干気に食わなかったのですが、その後、ジョセフ・ゴードン=レビット主演の「ルーパー」を見たら、主人公の気ままな殺し屋が乗ってた車が赤の初代マツダ・ロードスター(ユーノス・ロードスター)。あれが結構お洒落で良かったので、あれと同じ色だから、これはこれでいいのかもと思い始めました。走り屋ではないので、セッティングは意味不明でしたが、職場の若いバイク・車好きに聞いたら、何やらダウンフォースとやらを強くするとコーナーでの安定度が増すという話を仕入れ、それを参考に空力関係を調節するという小細工にも手を広げる始末です。本来は日光が大嫌いな文学オタクなのですが、それと同時に灼熱のサーキットを疾走するレーサー気分も存分に満喫しつつ、やりすぎると視力が低下するという中年健康オタク的懸念にも留意している次第です。
暑苦しいレーシング・スーツを着ることも無く、タイヤ代やガソリン代を心配することも無く、呼ばれてピットインしたのにタイヤが用意してなかったとピットクルーと揉めることも無く、高速サーキットでは速度重視でグリップが弱めにセッティングされているので、それに合わせてブレーキングのタイミングを早めたりといった小細工を織り交ぜつつ、極楽快適環境で連戦連勝を重ねていたんですが、最高速度370キロでマーク・ウェバーとかと一位を争う極めてシビアなゲーム特性と同じ所を何回も回るだけという景色の変化の無さに少し飽きてしまい、なんかもっと緩め特性のこうフリーダムな感じのゲームも楽しみたいという欲望が発生し、それを抑え切れなくなってしまった結果、「NEED FOR SPEED MOST WANTED」を買ってしまいました。多分カリフォルニア辺りの架空のシティをうろつき、道端で拾ったランボルギーニとかを勝手に運転し、ストリートのゴロツキと一般道で時速200キロ以上出してレースしたり、ポリどもに喧嘩を売って、追いかけてきたパトカーから逃げたり、ゴロツキとレースしている最中に追いかけてきたパトカーから逃げている最中に助走台から看板にジャンプしてブチ壊すといったことを主要な目的とした活動をいつまでも続けるといったかなり縛りやストレスが少なく、競争性も低く、倫理観においてはそれを完全に喪失したゲーム特性になっていました。倫理的制約だけでなく、そもそも性能的制約からセリカでは不可能な一般道での最高速チャレンジ。それを架空シティでの私の愛車、C6コルベットZR1で試してみました。実車のスペックでは、確か650馬力くらいあったはずなので、余裕で300出るはずですなんですけど、295キロくらいしか出せませんでした。さっき、レースで一位になった賞品としてナイトロ(ニトロ)・バーンをコルベットに装着したので、これで走れば多分300出るはずです。なので、今、とてもワクワクしています。正直、実際これ本当に欲しいですね、このコルベット。エアロパーツがアウトローな感じですごくいいし、ホイールのデザインもとても好きです。走らせるだけでなく、広場に停車させてじっくり形状鑑賞も楽しんでいます。形状的には最高のクルマですけど、どうしても、コストパフォーマンスと使い勝手を考慮するとGT―Rになってしまいますね。仕方がないんです。ここはカリフォルニアの架空のシティとは違って道が細いのであんな異常に横幅の広いクルマを運転したら、いろんなところを擦ってしまいますから。いや、でもやっぱり、絶対に欲しいから、コルベットに決定しました。でもモデルチェンジしたんで、新車で買う場合はC7コルベットのハイエンドグレード、Z06になります。
元陸軍兵士がビルの屋上からコルトAR15の5・56ミリ×45弾薬で警官を狙撃した事件のニュース映像をチラッと見たんですが、シグ・ザウエルの9ミリオートマティックを構えた警官と一緒に映っていたアメリカのパトカーがゲームの架空シティと同様にいつの間にかすっかり以前のフォード・クラウン・ヴィクトリアからダッジ・チャージャーへと世代交代していました。最近は私もよくバリケード封鎖しているダッジ・チャージャーにフルスロットルで激突したりしているのですっかりお馴染みになっていたところです。やっていることは本質的には鬼ごっこなんですけど、それをZR1とダッジ・チャージャーで好き放題出来るというのが贅沢ですね、もちろんゲームなのでガソリン代も掛からないし、jailにブチ込まれることもありません。ナイトロ・バーン装着後もトランスミッションとシャーシをアップグレードした結果、最高334キロ出ましたが、その直後車体をコントロール不能になり壁に激突しても死ぬこともなく、ZR1もすぐ新車状態に戻ります。ゲームはゲームなので死ぬことはないんですが、なるべく現実だと思って運転し、重大事故を起こしたら死ぬつもりで遊ぶと当然その緊張感がスリルになり、それによってより多くの快感を得られるという寸法です。それとは逆に現実でセリカを運転している時は、なるべくそれをゲームだと思い、セリカで日本を時速60キロで走っているのではなく、ZR1でアメリカを時速220キロくらいで走行中気分を捏造すると日常の運転も若干愉快になりました。ただ普通に大人しく法定速度で走っているだけでも気分はアウトローですし、たまに調子乗って80キロくらい出した日には、私の精神内換算時速だと300キロになるので、カルテルの殺し屋にでもなったかのような悪党気分を満喫出来ます。その殺し屋、一体何人殺したのかは皆目見当付きませんが、例のAR15の犯罪者は五人警官を殺しました。それですっかり極悪人の仲間入りしたのも束の間、即爆殺処理されたとのことです。戦場で敵を仕留めれば、勲章を戴き、それが映画化され、アカデミー賞にノミネートされますが、それが戦場以外だと、殺され、罵られ、パクられ、jailにブチ込まれます。つまりある行為はその行為それ自体ではなくそれが為された環境や状況によってその善悪の程度が大きく変動するようですし、その善悪を判断する人の立場によってもその判断はそれぞれに大きな差異が生じることでしょう。このように好き勝手に変動するあやふやな善悪という概念は、法治国家の法律執行機関にとっては一切役に立たない他愛のないものであるにも関わらず、一般的な日常生活の円滑運営においては必要欠くべからざるものでもあると同時に様々な厄介事やいざこざのタネにもなり得るという広範な多面性を内包しているようです。自分自身が良いとか悪いとか考えることが必ずしも良いとも悪いとも限らない訳なので、なるべく揉めないようにやっていったらいいんじゃないですかね。しかし、人間である以上、闘争、抗争、競争、戦争というあらゆる争いは避けがたいものである以上、どうにか出来そうにないものに関しては、なるべく回避し、関わり合いにならないようにひっそりとなるべく目立たないようにやっていきたいんですが、でもやっぱり、二車線の信号の先頭で二台並んでしまうとどうしてもこれは、負ける訳にはいきません。なぜなら、結局、私も人間なものでして。
ZR1のパーツを全て究極までアップグレードしたアルティメットZR1でパワーショット・ナイトロ・プロを使い遂に時速430キロに達しました。そのアルティメットZR1でマクラーレンMP4―12Cに勝利し、そのマシンを獲得したので運転してみたら、初期状態で既に私のアルティメットZR1とほぼ同等の走行性能を保持していました。これから更にアップグレードしていけば、ZR1なんかでは歯が立たない最高のマシンになりそうなので、あっさりZR1からMP4に乗り換えることとしました。さよならZR1、貴様にもう用はない。これって、実車でもマクラーレンってそんなにいいんですかね? ハイエンド・グレードのコルベットだったら、サーキットのタイムだとそこいらのスーパースポーツなんかより速かった記憶があったんですが、よく分かりません。いやでも、これはゲームだからでしょう、簡単に最初から運転出来るコルベットより、苦労してレースで勝利して獲得してからでないと運転できないマクラーレンだったらやっぱ、後者の方が速くないとゲームバランスが崩れるからといったことなのでしょう。ZR1、価格はスーパースポーツの半額というバーゲンプライスですが性能はそれらを上回り、デザインも最高という究極のクルマです。ちなみに、それ以外にC6コルベットを好きな理由がありまして、それは形がフェラーリ430スパイダーに似ているという点です。クルマ自体としては430よりC6の方が好きなんですけど、やっぱどうしても430は「マイアミ・バイス」でコリン・ファレル演じるところの潜入捜査官ソニー・クロケットが運転していましたから。だからソニー気分を味わう為には、430が最高なんですけど、C6も形が結構似てるから430の代用という意味合いもありました。更にはマクラーレンのMP4―12Cも430に似ているのに加えフェラーリみたいに車体後部から謎の炎がブォフッと噴き出す点がZR1から乗り換えた決定的な要因の一つとなりました。もちろんその程度の要因で乗り換えられるのは、それがタダだからです。実物の自動車は決してタダになることはないはずなので、タイヤが四本積めるかとか、車幅と長さが大き過ぎないか、スリーペダルマニュアルが設定されているかどうか、できれば4WDの方がいいとか様々なことが検討対象となり、散々検討するだけ検討して、結局、決して買いません。タダではないので。それ故、セリカをいつまでも乗り続けないといけないのですが、そのセリカに先日緊急事態が勃発してしまいました。
あの日は確か、よく晴れた、とても暑い日だった。ここ数年の傾向として、暑い日にはエアコンで車内を冷やすことにしている。なぜなら、窓を開けると黄砂や花粉が車内に入ってしまい、喉が痛くなったり、車内が汚れたりするのが嫌になったからだ。こうして様々なことが嫌になり、テクノロジーに助けを求め始める。それは中年の顕著な特徴の一つと言えるのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。あるいは、それは現代に生きる全ての人間のそれなのだろう。ただその時はそんな哲学な戯言は一切頭に無く、ビールとゆで卵と飲むヨーグルトを買う為に、アリアナ・グランデかなんかを聞きながらご機嫌な気分で、帰宅途中のローソンへ向かう真っ最中だったのである。ご機嫌な気分とは具体的にどのようにご機嫌であったのか説明する必要があるだろう。考えてもみたまえ。まるで人生の半ばで全てに絶望したかのような人間や、自分は全てを支配し成功したかのように考えてでもいるかのような人間、あるいは人生は純粋な快楽以外の何物でもないと信じ切っている愉快なチンピラといった連中を相手に実際一切何も感謝していないのに日に数百回、ありがとうございましたと全力で叫ばなければいけないコンビニ店員という過酷極まりない労役を成し遂げ、エアコンで快適に冷え切ったセリカを軽快に走らせ、爽快なリズムとメロディーで心を躍らせ、満足しきった笑顔を浮かべているのだ。そんな解放感とともにローソンに到着し、買い物を済ませ、セリカを発進させた数十秒後、あたかもその解放感は何者かの恐るべき罠ででもあったかのごとく一連の破綻と滅亡への序曲がけたたましいファンファーレとともに奏で始められたのだ。その序曲はリズムもなければメロディーともかけ離れた無秩序な打楽器の連打とその破壊を想起させた。それはちょうどハン・ソロの援護を受けたルーク・スカイウォーカーが放ったプロトン魚雷が直径二メートルの排熱口から侵入し中心のリアクター・システムを破壊することによってデススターが木っ端微塵に吹き飛んだ時の爆音に近からず遠からずであった。いや、それはむしろ、その冒頭シーンにおいてブロッケイド・ランナーがそれを追跡するスター・デストロイヤーの攻撃によってメイン・リアクターを破壊された爆音を聞いたC3POとR2―D2に及ぼした程度に他ならず一致したであろう戦慄が私の精神内において猛り狂ったのである。そして、それはそれだけでは終わらなかった。その破裂音に続いたのは何かが脱落しその何かを引きずるかのような音がしばらく続いた。セリカを緊急停止させ、車外から全体を確認したが、これといった異常は確認出来なかった。だが、再発進するとこれと全く同じ事態が三度程、断続的に繰り返され、一旦は小康状態に落ち着いた。これをこのままにしておいて良いのか。とりあえずディーラーに整備の予約を取る以外、何も出来なかった。結局、しばらく状況確認の為にそこいらをウロウロ走っていた所為でややぬるくなったビールをローソンで買った頃はご機嫌だったが、一連の混乱ですっかりうろたえた気分ではあったものの存分にその味を堪能したことはしたのであった。
何やらガラガラと呼吸器官かなんかに重大な疾患を抱えた病人のような音をさせながら、どうやらディーラーまでは辿り着いた。それはあたかも小児喘息を患った幼少期の私が誰かに連れられて病院に到着した時のようでもあった。喘息はどんな治療をしようともしつこくいつまでも治らなかったが、あれだけ派手な音を好き放題打ち鳴らしてブッ壊れたセリカはバラバラに砕けていたパーキング・ブレーキという部品を交換しただけでサラッと三時間ほどで直った。もうかれこれ長年乗って、錆びて脆くなっている上に、下手な運転で歩道の縁石に左後輪をぶつけたりしてたので、遂に、あの日、それは儚くも砕け散ったのであろう。その日は、三時間もそこで待っていたのではなく、一旦、ディーラーから貰ったチケットを使いタクシーで帰宅した。ただ、いつも酒を飲んでいたセリカが修理中だったので仕方無く近所の中華料理店に赴き、瓶ビールとチャーハンを注文した。瓶ビールは当然最高にうまかった。映画「ブラック・レイン」でマイケル・ダグラスと高倉健がうどん屋で食事するシーンで全世界に紹介された瓶から小さいグラスにビールを注いで飲むという日本の伝統文化の正しさ、これをここで再立証した上で、サッと強火で仕上げたチャーハンが運ばれて来た。これもここまでうまいチャーハンがあるのかという具合の仕上がりで、更にそれと一緒に小さいグラスのビールを少しずつ喉に流し込むことにより完全に調和のとれた相乗効果が生じる。更にそれに増してその日は最高に暑かったものだから、うまさに拍車がかかった。あれからかれこれ数か月が経過した現在はすっかり寒くなり、タイヤもスタッドレスに交換した。寒くはなったが、仕事終りのビールは相変わらず格別にうまい。自由と解放と資本主義を具現化したかのような味わいを堪能出来るが、その資本主義のエッセンスを濃縮還元することによって発生し、育成され、成長し、フランチャイズされたあのマクドナルドにはすっかり行かなくなってしまった。それはマクドナルドには一切罪はない、ただ、遠すぎてガソリンがもったいなくなっただけだ。パーキング・ブレーキが壊れたこともあり、あんまりセリカを走られたくなくなったことも要因として挙げられるであろう。ただ、そのセリカはここに来てとても調子はいい。なぜなら新しく買ったスタッドレスに店員に勧められた窒素を充填したからだ。以前、その店員に勧められたときは、そんなまやかしのいかさまなんかに引っかかるもんかと思い断固拒否したが、その後、自動車雑誌でその窒素充填がレーシングカーでも採用されている情報を入手してしまった。レーシングカーと同じ。これほどの殺し文句があるだろうか。その店員も、その店も、そういう情報を最初から前面に打ち出せばいいものを。なぜなら車好きはそういうのに滅法弱いからだ。これは是非とも今回は窒素を充填しなければならないという使命感を抱くまでに至り、タイヤ館へ赴いた。するとセリカに驚くべき変化が。凄まじいグリップ感の向上とそれによるスムーズな加速を獲得。これならインテRにも勝てそうだなと思うに至る始末。いつの日かZZTが信号待ちの先頭でDC5と横に並び対決する日も訪れることであろう。