第三章
第三章
マツオカは死んだ。めんどくさくもなってきたから、死んだってことにしておこう。あたかも神のように。悪口を書き過ぎ、書き飽き、もう、さすがにうんざりしてきたので、その悪口を書かなくて済むように、死んだってことにしておこう。ニーチェが神を殺害したわけではないのと同様にわたしが、マツオカを殺したわけでは決してない。なぜなら、多分、奴は、あらゆる神々のように、ピンピンし、カートのアクセルをベタ踏みし、おもしろおかしく、相変わらず変なメガネをかけて、この上なく健やかにそこらをうろついていらっしゃるのでしょうから。だが、ニーチェが神を死んだことにしてしまいたかったのと同様に、わたしも、マツオカを、死んだことにしておきたかった。もう、奴の悪口は存分に書ききってしまったから。人の悪口なんてそもそも書くものではない、と、多分、ゲーテか孔子か誰か、ひょっとしたらセネカも言ったことだろう。なんのメリットもないのだから。ただ気晴らしになるだけで、結局は、敵を増やし、その代償が、自らに、まるで奇跡かなんかのように、あるいは、デカルト風の数学的正確さで、神学的にも解釈可能であるところの、聖書級の天罰がわたしにくだる。カミナリが落ちたり、交通事故にあったり、誤認逮捕されたりし、結局はブチ込まれ、取調べする刑事は、愉快なお話が書かれた調書という名のフィクションに暴力と、恫喝と、おいしいタバコでサインさせようとする。そんな天罰をニーチェが殺しそこなった神様に下されるのはまっぴらごめんだ。なので、もう、マツオカの悪口は終了。つまり、マツオカは、もう死んだってことにしてしまって、そいつ以外のネタを探し、この作文を続行させていただこう。
いかなる天罰が、いかなる罪人に下されようと、死刑はいつか執行される――と同時に、待ちに待った週末は、極刑の執行とは無関係の臨終と同様に、やがては万人へとおとずれる。いわば、それは、狂喜狂乱のパーティー三昧。酒、歌、ダンス、ミュージック、セックス、ロマンスなパラダイス。うん、週末。休日。魂の解放、麻痺、泥酔、倒錯、そして、ダンス、セックス。でなかったら、マクドナルドと安い焼酎に、DVD鑑賞! ワイルド・スピード! ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン! そして、もちろん、アマデウス! ロマンスとは無縁の肥満、アル中、抗うつ剤依存にはその程度の気晴らししかないのも無理はない、それでも、週末は間違いなく、パーティーであり、狂乱と、大音量のリアーナと、プリンスの絶叫とももに、焼酎は果てしなく消費され、空のペットボトルは大量に廃棄され、不法投棄され、リサイクルされた体にされることもないとは限らない。
ヒトラーにさえ、ブッシュにさえ、そう、もちろん、わたしにさえも、その週末は平等におとずれる、まことにありがたいことに。でなかったら、マツオカは間違いなくわたしに殺害されていた。Oops. そんなこんなで、面白くも楽しくも、快くもない、アリどもの強制労働がようやく、終了し、無塵衣は丸められ、クリーニング籠に乱暴に放り込まれ、労働者どもは、アクセル全開で、家、スナック、パチンコ屋、ネットカフェ、もしくはレトロなゲーム喫茶かなんかに向かって発進し、工場の駐車場もつかの間は空っぽになり、野良犬か、森の鹿かなんかがうろうろすることでもあろう。サイノスに乗り込んだわたしも、もちろん、アクセルはベタ踏みで、工場、墓場、牢獄、白い監獄を、フルスピードで、脱出し、ファミマに急行し、フライドチキンは買い込まれ、焼酎はラッパ飲みされ、食べカスは、なぜか、そこいらじゅうにこぼされ、マイケルは大音量で、サイノスのスピーカーから踊り出し、食い過ぎのリル・ウェインはスクリームし、誰にもケア・アバウトされることなく存分に歌い、飲み、もちろん、飲み過ぎ、気絶し、サイノスのエンジンは、永久に回り続け、騒音は一晩中撒き散らされ、通報され、ることもなく、翌朝目覚めると、その月極めの駐車場のやかましいサイノスのエンジンを切り、ようやく、優しい母の待つ、我が家へヨロヨロ歩み出す。お疲れ様、サイノス。
俺の疲れは、サイノスでの、酒と、ミュージックで癒された。さあ、いよいよ、待ちに待った休日の始まり、始まり。始まりは、もちろん、そう、一本のポールモール。インスタントコーヒーを飲みながら、それで、脳にニコチンを充填する。うまいコーヒーと安いタバコ、最高の組み合わせだ。モーツアルトを聞きながら、日記を書き、母の声を待つ。実際はそんなもんを待つことなく、二度寝という極上の贅沢のうちに、その甘い声は完全に無視され、モーツアルトはかけっぱなし、フィガロは勝手に結婚し、ラジオ英会話はすっぽかされる。ようやく、昼前あたりに、飲み過ぎは、遅い朝食を、存分に味わい、即座にマクドナルドにサイノスで急行し、肉をパンで挟んだアメリカ人のエサをごっそり買い込むという任務においても、かわいらしい愛車は期待以上に活躍する。アクセルは常にベタ踏みなのだが、わたしの運転の下手さを気遣ってか、奴がスピードと呼ばれるものを出した記憶はない、ま、最悪、クーペであれば、スピードなんか出なくても、フォレスターにあおられようと、それなりに我慢しておいてやろう。いつかフォード・マスタングGT500を買ったら、二速でベタ踏みし存分にフォレスターに仕返しすればよい。フォレスターのバックミラー。かっこよく、はやく、もてそうな車だが、後ろに赤いマスタングが見えたら要注意だ、馬力は少なくとも、サイノスの五倍はあろうし、そんな車を日本で買う奴はたいてい、フォレスターを追いかけたくてウズウズしているような、キチガイの肥満か、食い過ぎのウィル・スミスくらいだ。
店員の女性「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ」
サイノスに乗った食い過ぎ「えーっと、チーズバーガーを三個と、ハンバーガーを三個」
店員の女性「ありがとうございます。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
サイノスに乗った食い過ぎ「はい」
店員の女性「それでは、合計600円かそこらでございます」
サイノスに乗ったエミネム聞き過ぎの食い過ぎ「エディで」
店員の女性「エディ? お客様、大変申し訳ございません。この時代には、まだ、そのような近未来っぽい電子マネーはこの極東の東北の僻地には普及しておりませんが」
サイノスに乗った食い過ぎの頭のおかしなマクドナルド中毒「そうでしたか……。では、百円玉、六枚で支払いお願いいたします」
店員の女性「ありがとうございます。では、こちらレシートとお品物でございます」
サイノスの男、品物の入った紙袋を受け取ると、
店員の女性「ありがとうございます、また、お越し下さいませ」
アクセルをベタ踏みする足。
手、ギアを二速に入れると、
走り去る、ポンコツのちっちゃいクーペ。カットして――
ハンバーガー三個と、チーズバーガー三個を、インスタントコーヒーで流しこんだあと、チョコレートを食べながら、ぼくのパソコンに向かう。安物の韓国製のノーパソに向かいやることといえば、もちろん、日記を書く、それ以外にも、そのノーパソの使い道はかろうじてあった。作家でもなかったのなら、パソコンなど、ただのインターネット閲覧、ネットゲーム、アマゾン、年賀状印刷、なんかしんないけどそんなことにしか使い道のない、シャンデリアなのでしょうが、作家にはものをかくという重要な使命を果たす道具としての役割はあてがわれることも、ま、例えば、手書きが大嫌いな俺という人種においては有り得るのかもしれない。
で、作家でもなんでもない俺は一体なにを書いていたのか? もちろん、そんなくだらなく、小恥ずかしいことをここに書く必要性など一切ないのではあるが、ま、誰も読むこともないであろう、この飲み過ぎのウィル・スミスかなんだったかの作文の中だったら、そのような小恥ずかしいことを書いたところで、どっかのだれかに、バカにされることもないかもしれないので、勇気を出して書いてみようかとは思うのだが、やっぱ、やめた。そんなことは、過去の、恥辱として、永久に葬り去ろう。あたかも高濃度放射性廃棄物のように。
放射性廃棄物ほど、放射線もまきちらすこともなく、危険でもない、当時の創作活動、果たして、そんなものを、この作文でいちいち、馬鹿みたいに、報告する必要や、義務などあるのでしょうか。そんなものを、これの、ま、いたとしての、読者が、知りたいなどと、万が一にも思うのでしょうか? ま、そんなこといちいち考えていたら、いつまでたっても、原稿用紙に字を埋めるという作家と呼ばれる、役立たずの人種の唯一の下らない役割もおろそかになりかねないのかもしれないという、出来損ないの作家志望の懸念から、やっぱ、これから、それについて、いくらかは、つまり飽きられない程度の字数は、稼がせていただきたい、という切実な実情から、わたしは、あの頃、つまり、チキンとじゃがりこチーズ味の食い過ぎ、インスタントコーヒーとウィスキー、安物のサントリー飲み過ぎの頃、チョコレートを食いまくり、デプロメールと抗不安剤を飲みながら、何の必要もなかったのに、なぜか、必死で書いていた、映画用脚本について書かせていただかざるを得ないのではある。
いや、もちろん、そんなことは書きたくはない。書きたくはないのだが、工場での労働者として働いていたころ、やたらとあった休日においては、サイノスで、マクドナルドにチーズバーガーを買いに行ったり、デートしたり、病院に抗うつ剤を買いに行ったり、彼女とビリヤードしたり、食事したり、シネコンへ一緒に行ったりなんかしたりする以外、一切、文字通り一切することが、全くなにひとつなかったので、書かざるを得ないという実情のため、そのまったくおもしろくない映画用脚本について、二、三、書かせていただこう。
書かせていただけるのであれば、もちろん、書かせていただくのではあるが、その書かせていただけるところのものであるところの、例の、脚本、日記を読むと、実際そんなものは、その頃は一切書いていなかったということが発覚いたしました。その、例の、全くおもしろくない脚本とやらは、はるか以前に完成され、キャノンで印刷され、応募され、落選されていたことでもあったのでしょう。もちろん、全くおもしろくないのですから! でしたら、一体、その代替として、ここに、そのおもしろくない、たけしを真似した、ヤクザ映画の脚本以外に書くことなど、なにか残っているのでしょうか。一体、どこの、誰に何を聞いているのか? それに対し、どこかの、だれかが、たとえ万が一にも、なにかを答えたとして、そこで、それになにが、どのように、どうなるというのか? その答えによって、俺が、なにかを解決しなんらかの恩恵を享受するとでもいうのか、なにが、どうにかなって、最終的に、この作文が、幾らかの字数でも稼ぐという不毛な恩恵の為に問いは発生し、読者は、思考し、まったく何の役にもたたないその回答が、どこかのだれかに送り伝えられたところで、その問題は、解決されることもなく、インテリはそれをアポリアと名づけ、問いは、そのカタカナの、外国語の、ギリシャ語の、かっこいい、ような気もなんとなくする無意味なインテリ用語で、保留され続け、つまり、ほったらかしにされ、中間貯蔵されつづけさせられることであろう。中間貯蔵。いったい、なにをいつまで、なんの目的でそれを、中間貯蔵などするのか、そんなことしているうちに、人類は滅亡し、地球は破裂し、新しい宇宙のビッグバンが何万回か起こるうちに中間貯蔵された、それは、そうされていた間に、いつのまにか、天使となり、神か、精霊かなんかとなり、崇拝され、恐れられ、崇められ、忘れられ、蔑まれもされ、ドストエフスキーとかの題材にもなりそこね、存在していたかどうかも、はっきりしなくもなり、その存在とか、どうか、そんなことを気にする者も既に存在しない、何世代目かの、何ビッグバン目かの、美しい宇宙の、心地良い、どっかの惑星とかなんかにおいて、作家のネタにされているかいないか、わたしには分からないし、わたし以外の誰も、なにもわからのないかもしれないし、つまり、アポリアかなんかとして、例えば、どっかのフィッツジェラルドかなんかと、俗物談義にうつつを抜かし、ウディ・アレンは、それをネタに、映画の脚本、それも、もちろん言うまでもなく、とてつもなく素晴らしい脚本を書き、いつか、そのデジタル撮影されたアカデミー賞オリジナル脚本賞受賞作が近所のシネコンで公開もされ、わたしは、彼女と、愛人と、妻かなんかと暇つぶしにそれを見に行くためという不毛な目的かなんかのため、サイノスのエンジンをかけ、資源を無駄にし、クラッチをつなぐこともあるのであろう。ま。いつか、そのうち。
近所のシネコンに、彼女と、ウディ・アレンを見に行く。そもそも、近所にシネコンはない、あるのは、ファミマくらいだ。彼女? そもそもそんなものは欲しくもなんともないかどうかに関わらす、その頃ももちろん、全くもてなかったので、そんなもんは、もちろん出来るはずもなかった。肥満の、デプロメール依存のアル中、チョコ中の食い過ぎのドラえもん、その四次元ポッケは絶望と暗黒で埋めつくされていた。一番近くのシネコンに行くにはサイノスで、半日もかかる。ウソだが、それでも結構な時間とレギュラーガソリンを消費する。サイノス。ちっちゃいクーペのくせにやたらと燃費は悪かった。なにしろ、マニュアルといっても四速マニュアルですもの。そんなものはマニュアルとは今は呼べない、今乗ってるセリカは六速マニュアルだし、最近は七速マニュアルも普通になってきてしまっている。最近。ま、何ビッグバン目かの最近においては、七億速マニュアルでさえ当たり前であろうが、シフトジェンジは文字通り思い通り、何億何千何万何百速目で、マッハ六百万かなんかで、近所のシネコンに、彼女を連れ、風のように一瞬で乗りつけ、ウディ・アレンの「アニー・ホール・ビヨンド」かなんかを見にいかされたりもするのであろう。
近所のどこに、なにを誰と見に行くって? 別に、ウディ・誰それでなくても、なんとか・ビヨンドでなくても、何ビッグバン目かでも、何臆速のコルベットだろうが、ガヤルドだろうが、ドアがガルウィングだろうが、戦車だろうが、オスプレイだろうがICBMだろうが、なにがマッハ何億で飛ぼうとどうだっていい、そんな浅ましいことで思い煩い、増税し、インフレなんとかを設定し、ウソと、セシウムと、使用済核燃料、ないしは高濃度放射性廃棄物(ああ、なんと美に満ち溢れた語であろう)を中間貯蔵されている隙に、高濃度汚染水は海に、つい、うっかり、垂れ流され、チーズは値上がりし、支持率は不思議と物価とともに上昇し、電気料金と正社員の給料も、当然、そこそこ上がっていくのにも関わらず、奴隷は、最低賃金で使い捨てされ、役立たずは、恣意的に雇用されもすれば、つい、うっかり、解雇されもし、難民となったり、亡命もしくは強制送還もされ、でなくとも、マクドナルドで一夜を過ごすかなんかしそこねれば、やがて、凍死したり、自殺したり、さもなければ、生活保護のおかげで、生かされもし、つつましくカップ酒を買い、パチスロに巻き上げられ、それを罪悪として、犯罪として、ゲシュタポは、取締り、国家は、監視を礼賛し、監視カメラはそこいらじゅうに増設され、その設置費用が業者に税金で支払われ、いつかどこかの国家のような、つまり、全体主義は美徳となり、プラトンはニーチェとともに、崇拝され、永劫回帰という意味不明の思想において、経験主義と、弁証法は、仏教とともに焼却、埋葬および廃棄、ないしは中間貯蔵とかもされ、かくも美しかった人類は、ファシズムとテクノロジーとトラクションコントロールの奴隷として、運命を愛し、不条理は天動説と同様に、演繹法における正義と規定され、定言命法および、憲法として、絶対厳守を義務化され、物価は程よく上昇し、景気も向上、ボーナスも存分に振り分けられていく一方、奴隷は、その振り分けられた分を恐るべき手段で補填させられ、サービス残業は合法化され、なくとも、告発者は即刻、解雇、逮捕、拷問、流刑され、極刑は執行される。つまり暴力は、談合、密談され、合法化および民営化されもしたあげく、その利益を享受するマフィアとそのアンダーボス連中は、週末は回転寿司に行列し、ステーキはミディアムレアでオーダーしてみたりもし、ホステスにボッたくられつつも、休暇は南仏で過ごし、あぶく銭をヨーロッパとマルセイユにバラまき、白人は、ファッキン・ジャップと蔑み続けることなのであろう、少なくとも、次回のビッグバンあたりまで。
マルセイユでカフェラテを飲みサルトルを語る。ま、当然、それは、パリでもいいであろうし、ドトールでも、スターバックスででも、カプチーノでも、フラッペチーノでも、何を飲みながらでも、何を語っても良いはずではある、もちろん、ウォッカを飲みながら、トルストイを語っても良いし、多分、コニャックを飲みながら、スタンダールを叫んでも良いのであろうと同時に、焼酎を飲みながら、ドストエフスキーを論じても、それに異論を挟まれることもないであろう、なぜなら、サルトルも、ドストエフスキーもメルロ・ポンティーも既に死んでしまっているのですから――一体、奴らになにを歌ったり、語ったり、論じたり、思考したり、認識したり、しなかったりしたところで、どこの誰かから文句を言われたり、ないしは書かれたり、告発、起訴されたりなんかするとでもいうのか。そんな権利は数万世紀前にすでにスピノザによって無効とされ、神は、ニーチェに殺される以前に、エピクロスに絞殺され、プロタゴラス、ないしはブッダ、ヒューム、かなんかによって、焼却処分及び中間貯蔵かなんかされているのにも関わらず、いまだにカトリックは、祈り、法王は、継承され、歌舞伎も上演され、地盤は、一層堅固となるが為に世襲も当然歓迎され、チャイコフスキーのオペラも、ワーグナーも、地獄の黙示録も、演奏、上演、襲名披露およびリバイバル上映されつつ、俺は、アマデウスをDVDで存分に堪能し、フィガロは、幸福に結婚もし、不幸にもマリー・アントワネットは、ルイ十何世かなんかともに、ブルジョワ革命の犠牲となった、とかいう昔話は、教科書に、数万ビッグバン目後かにおいても、永劫回帰という法則のもと、印刷されつづけ、中学生に配られつつも、優秀な日本人は、教育、製造、梱包、される前に必ず出荷検査され、不良品は――白い刑務所かどこか、に収容されそこねれば、どこか別のなんらかのどこかしら、多分、森の中にある施設に隔離、ないしは保護、されつつも、そこにはそこのニーチェが、そこのナポレオンが、ワーグナーが、歌い、戦い、闘争し、過酷な適者生存サバイバルは第二中学校と同様、第二次世界大戦でも勃発したかでもあるかのごとく、コーチにけしかけられ、暴力は合法化されなくとも禁酒法時代のムーンシャインのごとく、脱法ドラッグはそこいらいじゅうにバラまかれる。あたかも花粉、農薬、黄砂、ないしは高濃度放射性物質のごとく。
どこになにがばら撒かれようと、正直、そんなことはどうだっていい。ま、せいぜい黄砂で、ポリマー加工でピカピカにしたフルエアロのセリカが汚れるくらいだ。洗車すればいい。フルエアロであろうと、後ろにでっかい羽根っぽいものが無意味に付いていようと、ミニバンよりは、はるかに洗車は楽だ、そんなことはデカルトに聞かなくても一目瞭然、空気摩擦を最小化するために、当然、スポーツカーは、ティッシュ箱と本質的に同じ形のミニバンより、はるかに表面積が小さい、よって、当然、言うまでもなく、洗車すべき面積もはるかに小さいがゆえに、わたしのフルエアロのセリカは大した意味もなく、常に、ピカピカであった。とにかく、その頃はサイノス、今は、セリカの洗車で、休日は忙しいので選挙に行く暇などない。政治はゲーテか、ゴルバチョフあたりにまかせておいて、わたしはただ、洗車し、飲み、食い、歌い、脚本以外のなにかしら、例えば、悪口だらけの日記とかも書き、そしてたまにスナックにいき、大抵、巧みに巻き上げられる。そう言えば、わたしは半年くらいスナックに行ってなかった。つい、うっかり、正直どうでもいいことを書いてしまったのかは、多分、あまりに長期間スナックに行ってなかったせいででもあろう。つまり、肉体の奴隷としての精神の判断とはなんの関係もなく、わたしの肉体は、身体は、精神を、事もなげに論破、説得、懐柔し、隷属、服従させ、洗脳、マインドコントロールさえもし、それ自体を、つまり、わたしの身体と、そのおまけとしての、奴隷としての精神をまんまと、スナックに引き込み、席につかせ、鏡月の水割りかなんか、ひょっとしたら、ただの氷水かもしんない得体もなにもしったものでない液体を飲ませ、バツイチ子持ちだとかのホステスは、別料金の生ビールをまるで魔法かなにかのように、わたしの勘定書きにすべりこませ、それを彼女の喉はゴクゴクと飲み干した。つまりそこは、言うまでもなく、当然、快楽、悦楽、歓喜、喜悦に満たされた、天国そのものとしか言いようがなかった。
いやあ、またついうっかり例のスナックに行ってしまった。しかもそのバツイチホステス、今回はダブルで別料ビールを勘定にすべりこませた。もう、これは、魔法を超越している。魔法を超越したもの、そう、もう、つまり、それは奇跡そのものとしかいいようがない。そのバツイチ子持ちホステスはまるで、キリストが復活したかのように別料ビールをダブルで勘定にすべりこませ、まんまとミルク代をまきあげている間、俺はバカみたいにエアロスミスを叫んでいた。アメリカンプロパガンダの最高傑作アルマゲドン。核は世界を救った。いや、関係ないけど、エアロスミスといってもそのマイケル・ベイ映画の主題歌しか知らないものでして。とまあ、エアロスミスも歌えば、シカゴの甘いバラードも熱唱し、ニーヨから、シンディー・ローパー、リアーナ、ガガ、ジャスティン・ビーバーあたりを肥満児の名残、例のハイトーンボイス、なぜか肥満者は声が高い、タバコをやめてからは、一層高くなったその声で、アメリカンプロパガンダのテーマソングや、甘いバラード、ガキンチョのラブソングなどを、ダムのリモコンで立て続けに転送し、わめきたてまくりあげ、ミルク代、二歳と五歳っていってたから実際はミルクでもないんだろうが、ま、その換喩か定喩だったかの使用法は別として、いくらばかしのカネはまんまと巻き上げられる。そのホステスももうちょっとキレイだったら、また、行ってしまっていたかもしれないが、わたしの足は、例のミルク代調達魔法スナックとは別方向の、ま、また似たような飲み放題スナックへと向かうのであろうか。向かうべきか、向かわないべきか。別にそれは大した問題でもなかったが、それ以外に大した問題、つまり育児や夫婦関係、パワハラ、サービス残業、大気汚染、病気、離婚、介護、受験、失業。そういったレベルの大した問題など今は一切ない、ストレス完全回避の幸福の境地にあり、つまり、悩む時間があまってもいたので、その大した問題でもない問題、問題ともいえさえもしない問題を、果たして、身体の命令で自動的に飲みに行ってしまうのは確実なので考える必要など一切ないのではあるが、なんの意味も効果もなく、わたしは、その無駄な思考を繰り返しあまった時間を費やしながら、それでもあまった時間はモーツァルトかなんかを聞きながら作文しインスタントコーヒーを飲む。そう、まるで、ちょうどたった今そうしているように。
我々は突然、何の前置きやなんかもなく、この世界内での存在を義務付けられる。で、あるものは自由という刑とかいうものに処せられアンガージュマンを担当。あるものはどこかに立てこもり政治的要求とかを担当し、当然、その現場制圧担当もいないと、収拾がつかないと同時に、収拾されるほうでも騒ぎの起こし甲斐というものがない。アメリカはエンターテインメントを担当し、モーツァルトはシンフォニーを書き、それを、トム・ハルスが演じ、ミロス・フォアマンが演出する。あるものは戦場を担当。それ以外は大抵、営業かなんかを担当し、ノルマでうつ病やなんかになるものもいれば、そいつらにデプロメールを処方して金儲け担当の精神科医やなんかもいることでもあろうか。そういうわたしは社会の最底辺コンビニ店員を現在担当させていただいている。なにかと最低の尺度とされる被差別職業。コンビニ店員より低い賃金! 中卒はコンビニ店員にさえなれない! なんというひどいいわれようであろうか。だが、まあ、しかたがない。ハンバーガーなんか難し過ぎて作れないですもの。わたしに出来るのは、それを電子レンジで十五秒あたためてプラスティックの袋につめて渡すことぐらいです。小3でもできる仕事だ。だが、ある意味、簡単で、気楽で、ストレスもない幸福な職業とも思える。なにをどう思おうと、各自の自由ですもの。営業でうつ病になって、デプロメール依存やなんかになるよりはよっぽどよい。ひとりぼっちの夜勤。歌いながら作業し、雑誌は読み放題。クリーンルームから追い出され現在はそのような楽園での労働を担当していた。
楽園での労働。だが、それが労働であるという時点で、週末がなければ疲労の過剰蓄積に殺されてしまう。その必要不可欠であるところの週末。といっても現在は水曜日のことになるが、その朝に夜勤が明ければ、フルエアロのセリカは軽やかにわたしを自宅へ運ぶ。軽やかに運ばれたるところのわたくしは、赤いボルボにあおられ、そのあげくに、つい、うっかり追い抜かれた日には、アクセルベタ踏みでそのボルボを追走する。140キロでボルボに突っこみ、赤いステーションワゴンを抜き返したりもたまにしでかす。ごくたまに、千年に一回くらいの割合で。その割合のお陰で、現在も無事故無違反ゴールド免許を維持できているのかもしれません。軽とかカローラとかBMWとかだったら、抜かれても平静を装ってはいられるが、ボルボみたいな間抜けな高級車もどきにでも抜かれようものなら、一切の仮借無く、それはフルエアロのセリカに抜き返される運命に定められている。なぜなら、BMWはきっと速すぎて多分追いつけないですもの。ドイツ最高の自動車会社。速く、かっこよく、美しいが故になんとなく女にとてつもなくもてそうなクルマ。間違いなくベンツでもなく、過剰デコレーションの上に退屈なアウディ、ないしは公務員好みのVWとかでもないBMW。ギャングスタあたりが大好きなビーマー。でなかったら、成金のデブか不細工が新車オーナーであるところのアウトバーンの支配者。あ、そうだ、ポルシェもあったか。でも、あんなのたとえ万が一、どっかで拾ったとしても、雪国の、東北の僻地だから、タイヤ交換にタイヤ館にいくのにタイヤ積んでいけないですものねえ。320ⅰクーペだったら、後部座席倒してタイヤも積めるし、右ハンドルだし、六速MTもあるしで、やっぱセリカの次は、かっこいいペダルシフトマニュアルトランスミッション仕様の真っ白いドイツ製クーペ以外選択肢はない。そこで唯一問題があるとすれば、そのかっこいいおもちゃを買う為には、五百万貯金しないといけません。少年時代の八十年代にお年玉とかを貯めて買ったタミヤのラジコンと違い随分と値が張るものでして。と、さて、ま、かと言ったところで、毎週スナックに行く回数を減らしたり、やめたりとか出来れば良いのですが。ビーエムを買う為にスナックに行かないなんてそんな退屈不毛な人生設計も当然有り得ませんし、一旦、ベーエムは保留といたしまして、ホステスに頼まれた、ワンダイレクションのアイドルソングを練習し、紺のブレザーを羽織り、のど飴をなめ、魔性が集い血と欲望でいかがわしくうごめく夜の歓楽街へとまたぞろ今週も繰り出してしまうことなのでもありましょう。
いやあ、すれ違ってしまいましたよ。退勤後の帰宅途中、3シリーズの多分M3クーペと。とてつもなく大きなチタン製ホイールに例の薄っぺらいタイヤ。渋めのエアロパーツで完全武装したシルバーの恐るべきマシーン。M3クーペだと一千万くらいしちゃいますからね。その後すれ違ったスカクーなんかとは比べ物にならない金持ってる感、女にもてて、愛人を囲っている感、下手したらカタギではない感が否応もなくその見事な芸術作品をいかがわしく不穏な紫のオーラのように包み込み周囲のスカクーとフルエアロセリカ、あるいはアクアとそれ以外の間違いなくカタギで善良な会社員の出勤途中乗用車を長ドスの抜き身をちらつかせるかのように威嚇、圧倒、およびその完成された美で魅了しておりました。いやあ、これだけ書いたらBMW。カネかクルマくれないものかね、全く。でまあ、そうやってBMW欲しいなとか、カネ落ちてないかな、酒飲みたいな、ホステスに頼まれたアッシャーの歌を練習しないといけないななどという浅ましい煩悩の中を、何の深刻な問題もなく、酒を飲み、歌い、叫び、高音域を調節したりやなんかという幸福な日々は、黒いピカピカの最終セリカ前期型でのご機嫌なドライブに彩られ、モーツァルトの奏でるシンフォニーの如くその均整は絶妙に保たれ、セリカも永久にピカピカであるかのような錯覚に陥っていた裏で、そこにひっそりと隠されていた歪さは、いつのまにか、その日々を根底から破壊しようと、表面の均整という心地良い覆いの下、虎視眈々とその奇襲攻撃のタイミングを計り、その牙は、あたかも鋭い抜き身のように研ぎ澄まされつつもあったのであろうが、残念ながら、奇襲のその瞬間になるまでその徴候に気づくことは全くもって一切なかったのである。