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Clean Room  作者: 嵯峨一紀
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第二章

第二章


 ブラームス!

 正直、なにがいいのかさっぱりわからん!

 この世に芸術があるというのなら、わたしに分かる芸術とは、シーバス・リーガルくらいだ。おいしいウィスキー。これほど分かりやすい芸術があるのだろうか? なぜなら、まずいウィスキーだらけだもの。高いワインはいくらでもある(つまらない芸術家のように、ないしはロシアの文豪のように)。でも、あんなのがうまいのか? シーバスほどに。うまく、そんなに高くなく、強く、かっこいい。これぞ、庶民の芸術たるゆえん。ああ、ウィスキー。ベートーベン、わたしはわかりやすい芸術しか味わえそうもない。高いワインとブラームスは、どこかの大学教授の餌にでもしてやればよい。

 だが、六年前は、酒の質とか味やなんかに気をつかうといった、気長で、優雅なくつろぎとは無縁の、サントリーの一番安い、でっかいペットボトルに入った、まるで毒のようにまずい、色だけは、同じ琥珀色のアルコールをゴクゴクとサイノスの中で胃に流し込み、マクドナルドをつまみに、エミネムを聞きまくり、叫んでいた。近所に、ファミマができてからは、フライドチキン中毒になり、その恐ろしく厚い(油を吸いまくった)衣のカリカリとした快い食感を味わいつつ、例のペットボトル入りの邪悪な液体を毎日、胃に、流し込みつづけ、腹は奇怪な化け物のような形状に変形していった。全身にしみ込んだトランス脂肪酸のことなど、全く、気にすることもなく、エミネムを聞き続け、そいつと一緒に、サイノスの中で叫んでいた。エミネムは聞いていなかったし、毎日は叫んでもいなかったが、父のアルコールに関しての思想もほぼ、わたしとアイデンティカルだった。当然、悪性新細胞は彼の中で勢力を拡大し、抗いがたい強大な支配力を獲得しながらも、それが支配しようと目するところの父は、私が、イシカワさんとガンダム信仰についての愉快なおしゃべりを楽しんでいた時期に死んでしまっていた。

 なぜ、サイノスの中で叫んだり、サントリーをゴクゴク流しこんだりしていたのか? なぜなら、自宅では酒を禁止されていたからである。なぜ、禁止されていたのか? なぜなら、酒など禁止するにこしたことはないではありませんか、ガン! 犯罪、アル中、ガン! 肝硬変、そしてガン! 特に、食道、ガン! 発ガン性リスクナンバー・ワン! だったら、禁止したほうが健康によさそうではありませんか、シャブのように。発ガン性のものは全て禁止しましょう! 酒、ウィスキー、日本酒、タバコ、マクドナルド、シャブ、放射線、プルトニウム。発ガン性リスクのあるっぽいものは、全て廃止、禁止し、サイノスの中で叫んだりなんかしたりするキチガイ生活から脱出し、脱原発された、電力供給のなかで、エミネムをきき、いっしょに叫びましょう、ジャック・ダニエルズを飲みながら。そうすれば、六十前に、死ぬこともないでしょうか。わかりませんよ。ジャック・Dだって体にいいことは多分ひとつもないような、熟成期間の短さを砂糖でおぎなったような、正にアメリカンな人工的なおいしさではないですか。ですが、シーバスの高貴な甘さを味わうほどの収入のない、奴隷階級にはサントリーとか、ジャック程度の幸福とガンリスクの綱渡り人生という選択肢以外は残されていそうにもありません。

 この男には、酒を飲ませるべきではないという、あまりに正しい判断と、飲酒禁止というあまりに無意味な命令をするという美しく清らかな過ちを犯した母の「ゴハン出来たヨォ」という声を聞き、わたしは、下へ降りる。つまり、自宅の二階の自室から、母の作ったおいしい朝食をとり、インスタントコーヒーをのんだりするために、階段を降りる。父、母、ないしはそれ以外の家族、親類。それらについて語るべきことも語る必要も一切ない、なぜなら、それをしたことによって得られるメリットなどなにひとつないであろうから。プラグマティズム。役に立たないことにはなんの価値もないという宗教。そのような新興宗教もあったりもする。ただし、役にたつかどうかよりも、それが、誰の役に立つのかという問題のほうがより重要であるようにも感じる。自分の役にたつのか? それともそれ以外の。例えば、人間とか、地球とか、世界とか、いう、自分以外のなにかに。自分以外のなにか、労働、マツオカ総統のもとでの。あの愉快な日々は正に、自分以外のなにか、例えば、マツオカとか、それを雇う工場とかの為に費やされ、モノは組み立てられ、検査され、梱包され、出荷され、自分以外の全てに貢献することによって、わたしという商品を出荷した派遣会社から給料が振り込まれた。奴隷商品の対価としてのピンハネ分を控除され。でも。そんなピンハネなんかで誰も文句は言わなかった。バブルは崩壊しても、それでも、はるかに、よその国よりは豊かだったからだからなのであろう。そうでなければ、拡声器や意見、デモの代替として、爆薬とマシンガン、脅迫と犯行声明、空爆と身代金という名の市場が沸き立ち、石油価格は高騰し、ハイオクは値上がりし、ハイブリッド車の普及とレアアースの需要増に導かれるであろう恐るべき環境破壊とともに暴力はカネと同義語となる。

 母に呼ばれる一時間前に、私は目覚まし時計に起こされる。四時。ベッドからでると、椅子に座りポールモールを吸う。一日一本、あんなまずいタバコはそれだけ吸えば十分だ。禁煙なんて簡単だ。嫌いなタバコを買えばいい。ポールモールでニコチンを脳に補充したあと、パソコンで日記を書く。日記を書く、これほどゆかいな趣味などあるのか? たいがい、死にたいとか死んでしまえ、ないしは人の悪口の羅列された、おもしろい文章に仕上がり、酒飲んで読むぶんには、エルモア・レナードあたりよりははるかにましな娯楽になったりもする。こういうのは書いておいたほうがよい。なんらかの虐待行為なんかがあったときには、法的な証拠となり得るし、なんなくても、苦しいときの記録は、消さずにハードディスクに残しておけば、いつかきっと、酒のんだときの最高の娯楽になる、ジャック・Dとの相性も最高であろう。

 総統との日々は、言っても、それほど苦しいってほどでもなかったかもしんない。それは厳しい寒さが続くと、零下でも暖かいと感じる冷帯にすむ田舎者に喩えられるかもしれないが、おかしなボス連中を相手にしまくってきた、わたしにとっては、総統のおかしなメガネも普通に見えたし、その偉そうな言動もコメディとして楽しみ、いつかブッ殺してやろうという願望も生じはしたが、ファミマのチキンとサントリーのガブ飲みと50セントで解消できる程度だった。どんなおかしなやつにも生きる権利はある! だが、果たして、俺にそんな権利があるのか? もちろん、そんなものはわたしにはなかった。だが、権利とかなんとかいう(俗に言う自由、平等、博愛、友愛)、ブルジョワ革命のお土産なんかいったいなんかの役に立つとでもいうのか? 生きる権利、投票権、教育を受ける権利。パチンコのやり方を理解できる程度、すなわちサルをはるかに凌駕する高等な義務教育をうけたものたちの借金によって、ヤミ金は日銭を稼ぎ、パチンコ店はドーパミン中毒者を支配し、国はそれらの税収によって、治安を守り、ゴミを収集および焼却、ないしはリサイクルしたふりをする。

 まあ、それで、日記をどうのこうのとテキトーに書いてから、例の母の、例の声を聞いて、下へ降りる。で、インスタントコーヒーやなんかを飲みながら、例のどうしようもない芸人とか、出来損ないの脚本家か、映画監督なんかがコメントする、朝の情報番組という名の文化の廃液を、おいしいコーヒーをチェイサーに、食道に流しこみつつ、ゆで卵と、おにぎりと、おしんこという最高の朝食を味噌汁で味わう。ブラウン管から垂れ流される最高の娯楽を味噌汁とともに堪能し、映画監督のコメントを聞き、インテリのコメントで洗脳され、脳は、過剰飲酒ですでに老化しきっているのにも関わらず、さらに劣化し、時間がくると、準備を済ませた従順な労働者たるわたくしは、例のちっちゃいマニュアルのクーペに乗り込み、ギアを一速に入れ、アクセルを踏みクラッチをつなぎ、サイノスはそーっと発進する。古いポンコツはやさしく扱わないと長持ちしませんから。

 始業は八時だったが、サイノスは六時半に発進した。道はとてもすいていた。マニュアルは大好きだったが、運転はあんまり好きでも得意でもないわたしにとっては、朝の渋滞という、連日の災害はなんとしてでも回避されるべきものであった。ついでになるべく右折も回避した。右折事故。そんなものは右折そのものの回避によって、数学的にリスクを最小化可能であるというデカルトの学説を採用した。デカルト、懐かしい名前だ、彼の著作に心酔し、哲学を学ぼうと志したが、メルロ・ポンティーの意味不明さであっけなくその志は、消滅し、女の子目当てで、女だらけの英文学コースを選択し、シェークスピアの魅力にひきこまれた。とにかくおもしろいもの以外にはなんの興味もなかったので、哲学の先生のおそろしくつまらない講義で、完全に哲学に失望し、愉快で女好き、常にスリーピースで決めた元ジャズドラマーのシェークスピア専門の先生(白髪は、確か、マイケル・ダグラス風にオールバックに撫で付けられていたっけ)の講義でイギリス文学にひきこまれたが、今になってまた、ブックオフで買った、愉快な哲学解説本で哲学熱が再燃し、ニーチェを読み、フォイエルバッハを立ち読みしたことはしたが、いまだに、メルロ・ポンティーがなにをどうしたかったのかは、理解不能のままである。現象学。なんでも学をつければ、大学に科が出来る。文学。文に学など、いっさい必要ないようにも思われる。なんの学がなくても、ブックオフで本を買い、読んで、おもしろかったら、それでよい。そんなものにカネをはらって、学問として、しょうもない学者気取りの、作家志望崩れの集まる大学院にいくヒマとカネがたまたま運悪くあまってただけの大学講師に教えていただくなどという不毛な目的の為に必要不可欠な授業料へ、食道ガンで死んだ親が(文字通り)必死で稼いだカネはまるで、パチスロにそうされるであろうように、吸い込まれ、巻き上げられ、学者は住宅ローンを組み、ボルボかヨットを買い、休暇を南仏で過ごす。マルセイユ? 「フレンチ・コネクション2」参照。

 南仏とはなんの縁もない派遣の俺は職場の工場の駐車場に到着する。砂利をはじく、はきかえたばかりのスタッドレスの音を聞きつつ、そこのなるべくはじっこの、つまり工場の入口から最もはなれた位置へサイノスを停車させる。日差しは弱く、木の葉は紅葉し始めた、ある秋の早朝、私はサイノスでマイケル・ジャクソンを聞きながら、週刊文春の記事に目を通す。いちばんましだったのは劇団ひとりのエッセーだったか、それ以外の文化人系エッセイはまるでおもしろくなかった。けど、それら以外よむものもなかったので、全てしっかり読み、三日後にはなにもかもすっかり忘れていた。「罪と罰」にもあれほど感動したにも関わらず、十年たてばすっかり忘れてしまう。でも、その感動それ自体、その価値自体への感嘆は、たやすく忘却されもしないし、しようと思っても逆に、不可能なくらいだ。だが、雑魚の文章はすぐ忘れ、CDはブックオフに売りとばされ、文春はいつのまにかサイノスから姿を消す。その内容も、思い出されることはない。時間は残酷であるかもしれないが、公平で正確な価値の基準ともなりうる。いい車は、年月とともに、その価値を高めるであろうことと同じように。つまり、ポルシェは古ければ、それだけ美しい。あのプロポーションの悪さが逆に美学的に正しく、崇高でさえあったのに。

 わたしはプロポーションは悪かった、特にそのころは。それに比べれば古いポルシェはスーパーモデルだった、ミランダ・カーだった。アレッサンドラ・アンブロジオだった。なんだかわかんないが、スーパーモデルはやたらとへんてこりんな名前が多い。マイケル・ジャクソンは名前はへんてこりんではない割りに、そうおもわせさせる報道が多かった。おもわせさせる? おもわせる、か、文法的には。日本人なら誰もが知らない、日本語の文法。日本語の文法用語なんてちんぷんかんぷんだ。形容動詞、いったいなんなんだそれは? 形容したいのか、動作させたいのかなんなのかなにがなんだかさっぱりわからん。頭が悪すぎて、文法が全く理解できん。だが、やたらと言葉は出て来る。言葉。言葉。言葉。なんの役にもたたない音の羅列、もし、理解されなかったら。理解されるために必要であるところの文法は常に厳守されなければならないのであろう。だが、常に、その時の若者によって、その法は破壊され、更新され、新たに立法された表現が、広まり、年寄りは困惑し、非難し、糾弾しながら、全員、そのうち死に、言葉は、果てしなく変化しまくり、し続け、常に、古語の教育に時間割は時間を割き、油断してると、ラテン語のように、言語自体も死んでしまう。人も死ねば、言葉も、表現も、国家も、なんでもかんでも、そのうち死んでしまう、太陽も、地球も。いずれは、宇宙そのものも。あくまでも、いずれは。時間そのものさえも。時間だろうが、日本だろうが、マイケル・ジャクソンだろうが、なんだろうが、なんの差異もなく、期限がくればなにもかも、死んだり、なくなったり、消滅したり、心肺停止してしまったりしてしまう。願わくばそんなことはどうにか、どうしてでも防ぎたいものである。つまり、生き続けたい、死なずに、滅びずに、および衰えずに、すなわち老化せずに。アンチエイジング。それは常に、これまでも、これからも、程度の問題でしかないのではあるが、なにもしないで、ひとより早く老けるのはなんとしてでも回避したいと思わせられたりもしてしまったりしてしまうのである。

 スタンリー・キューブリックの「シャイニング」のジャックは、ジャック・ダニエルズの飲み過ぎで、頭がおかしくなり、息子のダニエルを殺そうとする。頭は、おかしくなることがないことにこしたことはないのではあるが、飲まないに越したことのないJDは飲み過ぎると、頭がおかしくなる以前に、喉と食道がヒリヒリしだし、歯茎が腫れ上がりそのとてつもない痛みで睡眠不足とかになったりもしてしまうリスクもある、あくまでも、わたしの場合は。あんなものはストレートで飲んでいい代物ではないのではあるが、割ると、恐ろしくまずくなるので、ストレートで飲まざるを得ないのですよ。となるといろいろな、厄介な弊害を、併発してしまうのでしょうが、それはそれで、いろいろな対抗策を講じて、狂ったり、歯茎が腫れたり、食道癌やなんかになったりしないように、賢く工夫しないといけませんね。例えば、毎日飲み続けることをやめたりとかなんか、あんな甘ったるいだけの酒なんか、毎日飲んだって飽きるだけなんですよ。であれば、毎日飲む必要以前にその、欲望も抑制可能でしょう。欲望もジャック・Dも、それらがいかなるものであれ、なにか、過剰なるものであれば、それらは害悪になりえます。当然。要は、欲望にしろ、テネシー・ウィスキーにしろ、その程度、量の問題なのです。なにものもそのものそれ自体に、根源的な性質であるところの悪性とか、善性とか、徳とか、正義とかなんが、まるでカントの道徳律(定言命法)なんていう冗談で定められているであろうかのように、アプリオリに、決定させられたしまっていたりするものでもありません。よね。当然。普通に考えて。なにか過剰なものを愛するものは、ジャックを飲み過ぎ、ニーチェを読みすぎ、斧を持ち、ダニエルを追いかけ、パクられたり、ブチこまれたり、自殺したり、逆にダニエルの仕掛けた狡猾なトリックに、飲み過ぎのせいで、ひっかかり、凍死してしまったりもしてしまうでしょう、何でも程度の問題なのです。黄金の中庸という言葉は、キリストと同時期の詩人、ホラティウスのものでもありますが、似たようなことを、ブッダとアリストテレスも言っています、なんでも、中くらいがいいようなのです。だから飲み過ぎは良くないのですが、基本、みんなバカなんでそんなこと、言われても理解できないがゆえに、二日酔いになって、彼らの肉体による、自己体罰によってそのことを教えこまれたり、歯茎が腫れ上がったりします。歯茎は氷で冷やすといくらかマシになります、参考までに。

 ジャックDを飲むためには家に帰らないといけません。家に帰るためには、仕事を終わらせないといけません。仕事を終わらせるためには、サイノスで、「スクリーン」を読むのを止め、マイケルをきくために回していたエンジンを切り、仕事をするために、心地良い愛車から降り、煉獄のように情け容赦ないときもたまにある、森のなかのねずみ色の工場に出社しなくてはいけません。そうすれば、最終的に、ジャックDを飲めるのです。ジャックDを買い、それを飲むために、仕事をする。生きるためには酒をのまなくてはいけない、酒をのむためには、それを買わなくてはいけない、それを買うためには働かなくてはいけない、そういった必要の連鎖のもとでわたしは、「スクリーン」を閉じ、後部座席に放り投げ、エンジンを切った。ギアを一速に入れ、ドアを開けると、颯爽とサイノスを降り、砂利の駐車場から、その工場へと、歩き出した。心は酒が飲めるという希望と、どのようにして、マツオカを殺そうかという十万通りの方法の夢想でほぼいっぱいだった。だった…… だったかな? いや、別にそうでもなかった、かな、どうだったかな、正直、忘れた。もう、そんなことは、どうだっていい、どんなこともあったし、いろんなこともしてきたが、いまは、ジャックDでいい気分なので、もう、そんなことはどうだっていい。マツオカ。そんなやつは、そもそも、存在していたのか、いまとなっては、はっきりしない。し、それも、そもそもどうだっていい、していようと、いなかろうと、全ては、どうでもよくなり、許され、釈放され、たまに、処刑もされ、せいぜいハリウッド映画の素材になり、アカデミー賞にノミネートされればましな方だ。

 従業員用玄関には来客用玄関のように、シャンデリアもなかったし、吹き抜けでもなかった。シャンデリア。そんなもんが、工場労働者なんかに必要なのか、もちろん、そんなもんは必要ではない、そんなもんは、来客の賢い中国人か、太った白人にしか、その絶大なるハッタリという名の無意味な威力を発揮させる相手もいなかった。シャンデリア。照明器具。そんなものの機能としての価値で、それは、そこに存在してはいなかった。つまり、それは、そのもの自体の設置費用をまかないえるだけの利益をかせいでいるかどうかを示すためだけのゴシック風装飾であり、クリスマス・ツリーでしかなかったのだが、それがあるとないとでは、来客対応上、大きな差異も生じるであろうことを想定した上では、キリスト生誕を祝うカトリック信仰以外にも使い道は、いくらかはあったのであろうが、もちろん、派遣にはそんな必要も、信仰も、もちろん、クリスマス・ツリーも一切不要であったことはいうまでもないがゆえに、そのシャンデリアはあるべきところに設置され、従業員用玄関の蛍光灯は、薄汚れた壁と、光沢を失った床へ、弱々しい光を、申し訳程度に振りまく振りはしていたが、あまり、朝早過ぎると、その蛍光灯さえも、まだ、誰も、つけていなかった。

 そもそも、来客用玄関に、シャンデリアなんかあったのだろうか?

 もしかしたら、なかったのかもしれない……

 そう、もしかしたら。なぜなら、むかしのことは、よく、おぼえていないし、おぼえておく必要もなにもないでしょうから。だが、わたしは、その必要性が全くないにも関わらず、覚えていた。シャンデリアが有ったか、無かったか。はっきりと覚えている、そういった無駄なことほど、覚えている。その代わり、多くの必要かつ有用な知識は失われる。ただ、そこにシャンデリアがあったことだけは、何の意味も必要も、効果もなく、わたしの記憶に寄生しつづけることであろう。シャンデリアという、スペルも、そもそも何語なのかも、わかりもしない、その言葉自体を忘れない限り。

 このボタンを押したら、生ビールが出てきたらいいのに、と思いながら、サーバーのボタンを押すと、生ビールの代わりに、緑茶が、紙コップに注ぎ込まれた。私服ユニクロから、制服へと着替え、ロッカールームから、このサーバーとテレビと、自動販売機と椅子とテーブルのある休憩室へと移動した。着替えと移動に、無駄な時間を使ったが契約上の始業時間にはまだ、たっぷりと余裕があった。そこで、わたしは、テレビのスイッチを入れ、シンボウジロウの政治の解説と、まだ、局アナだったハトリがアナウンスする例の情報番組を楽しむこととした。シンボウの解説をきき、それをそっくりそのまま信じ込み、よりいっそう、自民党信仰はわたしの精神の中で確固たるなんらかなるもの、つまり。つまり、産経新聞的な、反ソ連的、であるがゆえに、正にロシア的なるものによる、ドストエフスキー風天皇崇拝および、母からもらった、交通安全のお守りとともに、なんらかの確固たる思想に保護された日本に住むわたしとサイノスは、日々を快適に過ごし、酒をのみまくることを許されるという恩恵を、必要以上に、与り、工場に派遣され、テレビを見、ハトリを見、シンボウの解説コメントに洗脳され、選挙は常に、ただ、めんどくさかったから、行こうと思うことさえ一切なかったが、ありがたいことに、わたしの貴重な一票とはなんの関係も無く、いつも選挙は最良の結果が過去最低の投票率の更新とともに、美しい国の信者へ、もたらさせるのが恒例の儀式として、いつまでも、繰り返され続けていくように思わせさせるところのものとして、テレビはたけしをゲストに呼び、その開票速報を伝え、最終的には、その稚拙さが全てを刷新させるところのものとしての政権交代という新興宗教へと改心するにいたった。

 しまった。ついにしてしまった。政治の話を。みんなだまされるな。政治の話なんて一銭の得にもならない。テレビ局からカネもらって、話してるコメンテーターとシンボウを除いては。政治を話すことは一銭にもならないし、それについて考えたところで、工場の労働者の賃金は一円も上昇しない。労働者はいかに、多くの仕事を、より少ない時間で行うかを思考し、実行し、実験し、発明し、それを、喫煙室でポール・モールを吸う間の話のタネにしつづけなくてはいけない。喫煙室で、もし、政治なんか話したら、得になるところの話ではない。もちろん即刻、テロリスト扱いされ、解雇される。政治の話。そんなくだらないことをしているヒマなど、工場の下っ端には一切無い。働き、急ぎ、歩留まりを向上させ、マツオカを満足させ、その褒賞として、帰宅後JDを飲み、たけしのヤクザ映画を楽しむといった、最高の至福を味わい、最終的にはエミネムを聞きながら、奴のブッシュ批判やなんかに影響され、つい。そう、ついうっかり、政治的なことを書いてしまう。飽くまでも、ついうっかり(便利な日本語だ)。全部エミネムのせいだ。エミネムをききながら作文してしまうから、政治のことやなんかという、しょうもないことを、ついうっかり書いてしまう。エミネム。実際は、奴がなにを叫んでいるのかさっぱり理解していないのにも関わらず。もちろん車では、プリンスを聞き、ご機嫌なパーティー気分を満喫しているのではあるが、作文するときは「リラプス」と「アンコール」という、エミネム本人にとっても、それほど自信作でもないであろう若干低迷期気味なアルバムが最高のBGMとなるというミラクルもあり得る。

 なにかを読んでるひとに、「なに読んでるんですか?」なんて聞くものではない。なぜなら大概は、聞いたことない作家のつまんなさそうな小説か、自己啓発本、俗物好みのニーチェ関連本のタイトルを聞かされるだけですもの。うかつにも、わたしは、イシカワさんが熱心に読んでいたブックカバーで覆い隠された文庫本のタイトルに興味を抱き、その問いをしてしまった。もちろん、それはSF小説で、もちろん、全く聞いたことのない作家によるものだったかもしれない。もしかしたら、ハインラインかなんかだったのかもしれない。すっかり忘れてしまったが、ジョン・ダンの詩集でなかったことは確かだ。無論、読書家のイシカワさんならワーズワース、フィッツジェラルド、ひょっとしたら聖書、究極、トマス・アクィナス。でなかったらハイデッガー、いやあるいは、まさかそんなことはないであろうが、マルクスでさえも読破していたことであったろうが、さすがに、ジョン・ダンは。ま、とにかく、休憩室で、熱心に読書にふける健全なガンダムオタクもいたし、携帯ゲーム中毒もいたし、アル中も、肥満も、マツオカも、詩人も、インテリも。中にはミュージカル愛好者も。あらゆる階層の、カーストの、人間が、その森の中のネズミ色の工場の休憩室で、緑茶を飲みながら、朝の情報番組を見たり、見なかったり、ハインラインを読む。

 イシカワさんは謎の文庫本を閉じると、おもむろに立ち、緑茶の紙コップを、燃えるゴミ用のゴミ入れに捨て、颯爽と、そのモデルのように長い脚で、そのルームに通じる扉へと向かった。わたしも、彼を追い、フィッツジェラルドをポッケにしまい、紙コップをそこらへんに放り投げ、白い監獄へと通じる、絶望への扉へ吸い込まれようと、深い溜息ともに席を立つ。途中、マツオカとすれ違うと、しかたなく丁寧に会釈し、小便をしに労働者であふれ返りだした便所に寄る。なにしろ、あのクリーンルームに入るのだ。そこには、当然、便所などという汚らわしい印象をあたえそうなものなど存在し得る訳など決してない。クリーンルームは実際クリーンであろうとなかろうと、常に、これまでも、これからも、いわゆる、クリーンっぽいものしか、その進入は、一応、体としてではあるが、許されない。実際は、そこらじゅうゴミだらけなのを、ガラクタで覆い隠し、クリーンっぽくとりつくろっていただけの、エアコンと加湿器でとてもインフルエンザには感染しにくいが、一部小汚い、真っ白い刑務所。つまり、誰もそこは天国とは思わなかったし、なるべく早くそこから、這い出ることしか思わせないであろう、息苦しく暑苦しい、クリーンスーツを着た男女の働く、不快な隔離空間。つまり、解雇された今となっては、逆にそのことを感謝したいくらいに思わせる、つまり、単に、わたし向きの空間とは言えなかったし、そもそもそんなわたしが、解雇されるのも当然といえば、当然のことである。

すでに熟練の域に達しようとしていたイシカワさんは、わたしがのこのこ、第一のエアシャワーを通過し、クリーンスーツへの着替え場所にやってくるころには、すでに、着替えを終え、背筋をピンと伸ばしつつ、手を洗うと、あたかも、ステージでライムするJay-Zのごとく軽快なステップで第二のエアシャワーへとびこんでいった。のろまのわたしは、あたかも、絞首刑の如くつるされた夥しい無塵衣の中から、ようやく自分のそれをみつけると、必死でいくつものパーツに分割された宇宙服をいつまでもかかって装着しつづける。そんなもんは慣れれば一瞬で、料亭でバイトしていたときの半被のようにいとも簡単に、羽織れるようになる。どんな高級な懐石料理であろうと、当然、余ればゴミになる。松坂牛のミディアムレアだろうとアワビ、大トロ、御吸い物。刺身だろうが天ぷらだろうが、宴会のあとは、大量に食い残され、全て、バケツに放り込まれる。わたしの仕事は、公務員やロータリー会員(?)の食い残しをバケツに放り込んだり、おばちゃんが洗った食器を適当なとこにしまったり、せいぜい頭の悪そうな県知事程度の大物しかこない、客連中の靴を下駄箱にしまっておいてあげるとかいう、気軽で、肉から、寿司から、高級で、それほどうまくもない余りものの懐石料理食い放題、残ったビール飲み放題の楽園のようなバイトだった。帰りには、おばちゃんが、特大のおにぎりをいつも、しかも二個も渡してくれる。それは翌日の朝食になることもあれば、帰宅途中自転車をこぎながら、全部食ってしまうこともある。自動販売機で買ったファンタ・グレープかなんかを飲みながら。そんなおにぎりと、気取った焼き加減の松坂牛とは一切無縁の、自動ベンダーにはあんパンとどんべえしかないような森の工場で、ようやく着替えを終え、手を一瞬で洗い、エアタオルで乾かした振りをした食い過ぎのリル・ウェインは、既にクリーンルームでのんびり寛ぐ、ガンダムオタクのアメリカン・ギャングスタに続き、マツオカを待ち伏せし、間違いなく抹殺せんがため、第二のエアシャワーで一分間、微細なほこりをじっくり洗い落とす。



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