第一章
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第一章
わたしはわたしの物語を語るために、もっとずっと遡るべきだったかもしれない。しかし、あんまり昔のことは、正直、あんまり記憶にないので、それほど遡る訳にもいかないという実情のため、それほど、遡らないことにした。それに、実際、おかしいじゃありませんか、そんな昔のことをことこまかに記憶しているなんて、まるで、小説家が、その想像力で、その話をこねくりだしたみたいではありませんか。わたしは、わたしの物語を語るのであって、わたしがこねくりだした物語を語る訳ではありません。よね。当然。わたしが、わたしの物語において、自身が小説家であったら、この物語が小説家による、フィクションであるかもしれませんが、私は、小説家ではなく、わたしの物語は、実際体験した、現実の体験であって、それは作り話ではありません。作り話かもしれませんよ。作り話ではないということは、当然、証明不可能でしょうし、ホントだって言って、全部ウソかもしんないではないですか。テレビのように。ないしは。本のように。そう。本。本屋の本。それらこそ、なにを書こうと、ウソであろうと詐欺であろうと、オカルトであろうと、いかなる法にも触れません。表現の自由。というお題目のもと、あらゆる詐欺師の荒稼ぎの温床。少なくとも、文学。古典文学に親しもうという欲望があれば、それらによる被害は最小化ないしは、なくすこともできるかもしれませんが。とにかく疑おうと思えば、なんでも、どのようにでも、疑い、問いは無限に発生、ないしは作成可能でしょうが、物語を読むことにおいては、疑うことは果たして、それほど、意味があるのでしょうか。ホントだろうが、ウソだろうが、それが、ホントっぽければ、結構な暇つぶしと気晴らしになるでしょうし、ウソっぽければ、時間の無駄になり、続きを読むきがなくなる。ただ、それだけのことなのかもしれませんし、そんなことは、別にどうだっていいことなのかもしれません。では、いい加減、その物語をはじめましょうか、しょうもないリクツで飽きられないうちに。
その頃。つまり、わたしが三十になる直前くらいだったかの頃、わたしが働いていた場所は、こう呼ばれていた。クリーンルーム。クリーンなルーム。クリーンな、清潔な、まるで刑務所のように。実際、それが、わたしの第一印象だった。真っ白い部屋で、真っ白いクリーンスーツに、囚人服に身を包んだ、男女の働く、白い刑務所。通い囚人。それがその場自体。カントの物自体的対象から、コペルニクス的転回によって私が作り出した認象。要するに――最初から、そこは、少なくとも――天国には見えなかった。
真っ白い、天使のような服を着た、労働者のマスクに覆われた顔からのぞく皮膚は、そのコントラストで、一層黒ずんで見えたし、その目はよどみ、うつろで、一刻もはやく、その場からエスケープし、自由なシャバで新鮮な、外気を吸い、うっとおしい上に、暑苦しく、かっこわるい囚人服を脱ぎ捨てたいという欲望以外は、これといって何も語ってはいなかった、ように見えた。し、多分、実際そうだった。と、思う(カントのコペルニクス的転回的認象においては)。頭の中は、パチンコと、酒と、憎悪と恐怖とストレスでいっぱいだった。つまり、決して幸福な場所とは言いがたかった。特に、わたしのような入りたての新人、つまり、底辺の派遣社員と呼ばれた奴隷階級には。でも、そのうち、慣れれば、立派な、一人前の、奴隷となり、幸福になり、そこも天国になるはずだったが、不思議なことに、そんなことは夢にも思い浮かばなかった。
えーっと、で、なんでそんなバカみたいなfucked up placeにまよいこんでしまったかというと、それは、つまり、簡単に説明可能であるかもしれません。要するに、バカだったんです。なんのことか知らなかったんです。派遣。という、その言葉の意味を。辞書を引く時間と意志が、酒と、抗うつ剤の飲みすぎで殺害されていたのかなんなのか全く、今となっては、頭のなかがどれほどfucked upしてたかは判断しかねますが、明らかにある程度はfucked upだったはすです。なぜなら。その頃は。酒で、抗うつ剤をのんで、マクドナルドの100円位のハンバーガーをつまみに安いウイスキーをラッパ飲みし、健康を破壊し、なるべく早く死ぬことが、唯一の問題解決法であるかのような悪霊に支配されていたかのかもしれないからです。悪霊。エクソシスト! えーっと。誰だったかな? 「フレンチ・コネクション」の監督(ウィリアム・フリードキン?)。カトリックは悪魔が実在するものとして、それとの戦いで大忙しなようですが、ここはバチカンでも、イタリアでも、ヨーロッパでも、ない極東の、東北の僻地ですので、カトリックもキリスト教も単なる十二月の高カロリーデコレーションケーキ(おいしい)を売るためだけの販促でしかありませんし、そんなものは悪霊退治の役にたちそうもないので、その悪霊は、野放しに、その勢力を拡大し、まるで癌のように、わたしの幸福を阻害しつづけていたにもかかわらず、その対抗策としては、金次第の病院の、金まみれの医者が製薬会社から買わされたルボックスを、処方されそれを焼酎でのむ以外。特に。なんの方策も思い浮かばなかった。多分、あまり賢くないせいで、それが、クスリでなんとかなるという神話を。宗教を信仰していた。
近郊付近の山間部。えーと、なんていっていいかわかんないけど、要するに木がたくさんある丘の上みたいなとこに、ボクのポンコツのサイノスで乗りつけた。広い駐車場は、従業員の車で埋まり、針葉樹林に囲まれていた。その後、花粉症になったのはそのせいだろう。ぼんやりとなにもせず、車の中でまっていると。派遣会社のひとの乗った、スターレットがやってきた。わたしは車を降り、彼の方へ行き、丁寧にあいさつをした。彼は、私をつれ、工場の入口へとむかった。小汚い、従業員用の玄関から入り、多分シャンデリアなんかが天井についてた、豪勢な吹き抜けの来客用(賢い中国人か太った白人)玄関を横切り、かっこいい会議室に案内された。確か昔見たヤクザ映画だとこんな感じの会議室のテーブルの下にはビニールテープでグロックが貼り付けられ、日本人を侮辱する表現を使ったヒスパニック系のマフィアがたけしに殺されたりしていたけど、所詮、工場の会議室なんで、そのヤクザ映画ほど、立派ではなかった。そこへ、課長が来た。一応面接という話だったが、どうでもいい世間話をしただけで終り、わたしは採用になった。どんなポンコツでも採用になった。さすがに精神病とかだったら不採用になるかもしんなかったけど。聞かれなかったので、抗うつ剤のことは話さないで済んだ。
とっても狂ってたので、それをほったらかしにしておくと、とてつもなく死にたくなってしまう。なんで、そのころは、その抑制、自殺願望抑制を目的として、日記を書いていた。それを今、読むと、とっても役にたつことに気づかされる。なぜなら、そのころのことなんか、すっかり忘れてしまっていて、それについてなんか書くことなんかその日記がなかったら、何も覚えていないから、書くことなんかなくなってしまっているだろうから。その日記によって、そのころの記憶が呼び覚まされるという、効能があるなんてことは、それを書いていたときは、想像もつかなかった。ただ、書きたかった。なんとなく。なぜなら、それほど、苦しかったから。書かざるを得なかった。書くことによって、その苦しさは緩和されていたのだろうか? 多分されていただろう、でなけりゃ、書いていなかっただろうから。そこにはそのころの思想があった。たぶん全部間違っていた。いや、あるいは、正しかったかもしれない。物事を間違っているか、間違っていないかで判断するという――それもひとつの思想なのだが――それを放棄してしまったいまでは、つまり、ソクラテスに反旗を翻したいまとなっては、ないしはソフィストに魂を売り渡したいまとなっては、そのころの思想が正しかったのかどうか、それは既に問題ではなくなってしまった。ただし子どもではあった。そのころは、単純で、あさましかった。つまり、いまはずるくなった。と、同時に、楽になった。気づいてしまったのだ。正しいことと、幸福とはなんの因果関係もないことに。正しいことは確かに美しくはあるのだろうが、そういう種類の美は、カントかダンテかなんかそんな連中に任せておいて、わたしは、ワインを飲み、ブラームスをききながら、この作文をつづけようと思う。
終わったら、酒がのめることだけを希望に、その日、つまり、初出勤の日に、その森の中の工場へとちっちゃいクーペで向かった。酒は飲める、たとえ、禁止されていたとしても、飲もうと思えば、サイノスの中でも飲めるし、部屋でも飲める。隠せばよいだけだ。確かに、酒の飲み過ぎで、いろいろやらかし、迷惑はかけたが、飲みたいと思えば、どのような法や、拘束や、ルールがあろうと、アル中は飲む、それのいったいなにがわるいのか? 悪いのであれば殺してくれ。罰してくれ。パクってくれ、極刑に処してくれ。死刑。悪いやつは殺せばいいんだろ? それがこの国の道徳なのだろ、なら、罰してくれ、好きなように、罰してくれ。憎み、罰し、殺せ! 厳粛な判決を下した上で、さあ、殺せ! 死刑。正義。定言命法。神。崇拝。天皇陛下、バンザーイ! ……えーっと。さて、なんの話でございましたか。そう、初出勤の話でしたねえ。おおっと読み返すと、なにやら余計な、心にもない戯言が、ざれごとが。いやぁ、もう、そんなもんは忘れてください。ただ、の、飲み過ぎの、よっぱらいのたわごとですからね。とにかく、世界が平和で、みんなが、みんなと仲良くするのが一番ですよ。マルクス。もう、そんな、意味不明な長すぎる誰も読めそうにない本を書いた人のことなんか、忘れて、社長と友だちになっておごってもらいましょうよ。なるべく、金持ってそうなひとと友だちになるのが一番です。たのしくやりましょう。うたって、おごってもらって、おもしろおかしくスナックをハシゴしたらいいだけのハナシではないでしょうか、所詮。
初出勤。言い換えると、殴り込み。フライデー、タクシードライバー、高倉健。うーん。間違えました。仕事に初めて行く日のことでした。でまあ、行ってみると、とりあえず、なんかビデオを見せられました。その工場で作ってる製品。液晶とはなんなのかを説明するビデオだったか、なんだったか、さっぱり記憶にありませんが、なんかそんなようなものを、例のかっこいい会議室でみせられ、そのあと、白いクリーンスーツを着せられ。その部屋。クリーンルームにブチこまれました。ブチこまれる際に通過するエアシャワーと呼ばれるほこりをとる小さい隔離空間。なんか宇宙船みたいだなと思いました。キューブリックの映画を思い起こさせました。宇宙の旅。ハル9000に監視された真っ白な船内(ディスカバリー号の)。なんか、SFぽくってわくわくしました、ドキドキしました。まるで、初めて保育園に行く幼児のような気分でした。つまり、小一のような、高一のような。月面着陸のような。
で、その仏様のような顔をした、人のよさそうな課長閣下に案内され、船内を探索し、いろいろな説明をお聞かせいただきました。とにかく、どういう流れでどのように、そのなんのやくにもたたなそうなデバイスが製造されるのか、なんとかというお話を拝聴し、ウロウロ歩き、最終的にハシモトさんというほっそりとした、ブッダみたいな感じの人に紹介されました。見た目的にブッダでしたが、初めて会った、その日から、その人が誰かを怒ったりなんかするのを一度も見ることなく、私は解雇されました。三年間かそこら。ということはつまり、結局のとこ、ブッダっぽいヒトは実はたいてい、ブッダなのかもしれません。そのような人もいるし、そのようでない人もいますし、なんていうか、結局世界には、ジーザスもいればサタンもいる、仏陀もいればヒトラーもいる、ブッシュもいればハシモトさんもいたってことなんでしょうかね。
まあ、そんなことはどうでもいいとして、そんな別にどうってことなかった、初出勤も終わりました。酒。ああ、酒が飲める。ヒトはいったいなんのために生きているのか。みんなのため? 国家のため? 富国強兵のため? 世界のため? 人類の幸福のため? 私の幸福のため? 幸福のため? 不幸になるため? 苦しむため? ないしはそうなる定め? そんなハイデッガー風の存在論的問いはほったらかして、わたしは、ファミマのフライドチキンを食べ、焼酎をラッパ飲みしていた。飲み、麻痺し、眠り、その日が終わる。幸福であろうとなかろうと、苦しかろうと、よろこばしかろうと。あなたは、酔い、そして、眠り、その日は永遠に死に絶える、思い起こされるほどのことはたいてい、大して、ないであろう。そんな、どうでもいい、日、が、積み重ねられ、歴史が物語として、インテリ連中によって語られ、布教され、教科書に印刷され、教育され、新たな国民が製造され、日本は永久に、栄え続けるんでしょう、ま、たいていの、国民には全く関係のない、話なのでしょうが。
確かに、あんたには関係ないでしょうよ。そのあなたが見ているスマホだか、ノーパソだか、なんだか、さっぱりわかりませんが、なんにしろ、それが液晶画面である時点で、そこには液晶という、液体でもない、固体でもない、その間の物質であるところの、不思議なリキッドクリスタルを注入されるためには、その注入スペースをつくりださなくてはならないではないですか、そうですよね、当然。液晶を入れる空間をつくらないと、液晶がはいんないですよね。その為にはガラスを二枚、重ねないといけません。上下の仕切りとして、その周りはさらに、なにか別の物質にによって仕切られますが、とにもかくにも、上下は、ガラスによってしきられないかぎり、その液晶を、注入し、この文字を浮かびあがらせることが不可能になるわけですよね、それが電子的なデバイスによって読まれている場合には。そこで、必要になるのが、そのうすっぺらいガラスの板を重ね合わせるという仕事をする、作業をする、という労働をする、派遣労働者です。奴隷です。彼らが当然、不可欠な訳です。重ねないと、液晶を注入できないですからね。誰がいったいそんな、あぶなっかしい、バカみたいにすぐ割れるバカみたいにうすっぺらいガラスを二枚重ね合わすなんていうめんどくさい仕事をしたがるんでしょうか? 将来の夢とか、小学校の文集に書かされるろくでもないあの例のたわごと集のどこにも、史上、バカみたいに割れやすい非常に高価なガラスを重ね合わせる仕事をしたい、などと書いた子どもはいないはずなのですが、確かに、それを重ね合わせる仕事はあり、重ね合わせていた人間は私以前に存在していました、それを、わたしに、教えてくれた、機動戦士ガンダムがとても好きな、イシカワさんのように。
ガンダム。ガンダムが好きとは言っても、アムロが好きとはあまりききませんよね。例えばバットマンが主演の映画は、つまりティムの『バットマン』(プリンスのメロディーに乗せて)にしろ、『ダークナイト』にしろ、バットモービルがタイトルになることも、主役になることも、バットモービルがすきというセリフもあまりききません。日本ではバットマンが好きなんていうセリフもあまりききませんが。ガンダム。機動戦士。つまり、兵器ですよね。兵器が主役で、タイトルのマンガがこの国では人気があると。ヒーローでもなく、超人でもなく、ニーチェ的でもナポレオン的でもない、白兵戦用の兵器が主役。ドラえもん、アトム。ロボット、機械。とにかく機械と改造が大好きな日本人だらけの工場に迷い混んでしまいました。ぼくは機械より、シェークスピアとかベートーベンなんかのほうが好みだったんですけど、仕事を教える人がガンダムが大好きだったんで、そのガンダムトークにテキトーにチョーシをあわせつつ人類たちのために液晶デバイスを工場長に監視されながら、イシカワさんに監視されながら、製造する為に存在するところのものとして、ハイデッガー風の道具として、製造ラインに組み込まれそうになりかかっていました。機械。スマホ。液晶。そんなもんは、すぐにゴミになってリサイクルされたり、されなかったりするだけの取るに足らないどうでいい、あっても、なくてもいい、人類のおもちゃですよ。タマネギとか、モヤシとか、あたりめとかのほうが、生きたり、酒のんだりするときのつまみには不可欠なんでしょうが、機械と兵器と宇宙とロケットの大好きな日本人はとにかく、機械をつくるのが大好きなようなので、わたしもそれに付き合わないといけないみたいでした。付き合いたくはなかったんですが、酒をのんで歌っていたかったんですが、シンフォニーに親しみたかったんですが、生きるためには、労働をしなくてはいけないというこの国の特殊な掟に従い、イシカワさんの教えをノートに書き留め、それを信仰し、崇拝し、彼は、神話となり、降臨し、崇拝され。服従し、そこにはひとつの構造が新たにかたちづくられるにいたりました。それはあたかも雪の結晶のように美しく、もろく、はかなくはありましたが、確かに存在はしてました。ハイデッガーとかがなんと言おうと。
なんか、だ、である調がいつのまにかですます調になっていました。だ、である。こんな言葉、日常使ってる頭のおかしいやつなんて存在してないではないですか。だったら、そんなものはなくしましょうよ。どんどん言葉も美しくかっこよく、効率的に変化させないといけませんよ、シェークスピアが英語をそうしたように。どんなふうになにをしたのかさっぱり知りませんが、大学の先生がそんなことをいっていたような記憶が微かにある。つまり、受け売りですが。でも、こうどんどん、日本でも英語が公用語になったりなんかして、日本語が何万年かしたら、ラテン語とかみたいに、文学作品の中で解読されるような、死んだ、言語になってしまいそうな感じになってしまうことも可能性としてはありますよね。で、こう、英語に対抗できるように日本語も進化させないといけません。競争。ライバルは英語。勝ち目は無いでしょうけど。正しい日本語。いつだれによってそんな正しい日本語が決定されたのでしょう? 正しい、正しくない。いい、わるい。それらの区別の基準としては、デイビッド・ヒュームがある種興味深く、非常に説得力のある、マイケル・サンデルとかカントとかなんかよりははるかにもっともらしいことを言っています。正しい、正しくないの判断の根源的な基準は、人間の感情にとって、心地良いか、良くないかである。殺すのは、盗むのは、なぜ、正しくなく、間違っているのか。心地良くないから。これを道徳感情論というそうです。文法。それも、同様に文法感情論のもと、心地良い言葉が正しく、心地良くなければ間違いとしていってもいいかもしれません。心地良い文章、言葉。わたしもこれから、正しい日本語を使うように注意し、まじめに、だ、である調で作文していこうと思うのだ、である。
シェークスピアがいったい、なにをどうしようとしたのか? そんなくだらないことになんのかんけいもなく、例の、うすっぺらいガラスの板は、まるで、神経質なわたしの繊細な、なんの才能のないにも関わらず、やけに芸術家のように、傷つきやすく、もろく、その上、邪悪で、まったく、なんの値打ちもない、精神。を。苦しめ拷問するためだけのために、わたしの工程であるところの重ね合わせ、略して、カサネの、ほとんど、壊れて、エラー出しまくりのなんの役にも立たない割りに、とても高額な重ね機だったか、なんだったか、とにかく、その機械のもとに流れてきた。機械は、ガラスを重ね合わせた、調子のいいときは。悪いときは、ガラス(当然、一枚何万円もする)を粉々に打ち砕いた、ポンコツの役立たずだったから。にもかかわらず。わたしは、神の、イシカワさんの教え、に従い、それを信仰し、懸命に祈り、祈祷し、グリースアップし、サボり、眠り、狂いながらも、休憩のときに食べる赤いきつねのお陰で、元気をとりもどしつつ、なんとかそのくだらなく、詩的でもない割りに、やけに神経を使い精神を、破壊する、恐るべき労働を、奴隷として立派に努めたと自分で勝手におもっていた。ないしはそう、信じざるを得なかった――という刑に処されていた。
サルトルという二十世紀フランスを代表する偉大なインテリはかつて言った、ヒトは自由というケイにショされていると。自由という刑にしょされる。処され、栽培され、培養され、飼われ、出荷される。そこらの家畜や、作物や、毛虫やなんかとヒトはいったいなんの違いがあるのか? そう! 自由! 自由という刑に処されていたのだ、バンザーイ、天皇陛下! わたしには、工場労働者よりも、はるかに、毛虫の方が自由に見えた、葉っぱを好きなときに好きなだけたべ、やがて蝶に変身し、空を、そう、自由に、飛ぶ。まるで、妖精かなんかのように、美しく、華麗に、ゴージャスに、自由に。そんな虫さんたちよりも、ヒトはいくらばかり自由なのか、ないしは、ではないのか? 天国のサルトルさんにもしあったら聞いて置いてください、カトリックの皆様。サルトル、ああ、なるべく早くあんたの書いた、おもしろそうな小説を読みたいと思う、本当に。けど、今はヘンリー・ミラーで忙しくて、手が回らないのです、仕様がないのです。ミラーの本は文庫本で軽く、そして、優雅でおもしろいんですもの。あんたの十円で買った重たい世界文学全集の中の一冊と違って。重ね合わせで疲れきって、肩がこって、そんな重い本は持てないのです。軽い文庫本しか読むことができないのです。ああ、全ての本が文庫本であったら、全ての本は軽く、読みやすかったのであろうに。
ファッキン・サルトルがなにを言おうとお構いなしに、例のガラスは性懲りも無くわたしのところへ流れて来た。流れて来る。ベルトコンベア奴隷業界の専門用語。流す。つまり、奴隷労働に従事する。物を作る。どうでもいいデバイスを生産する。生産するための労働力として、わたしのような精神病患者が機械としてラインに組み込まれ、いじめられ、ストレスで酒をのみまくり、死んで行く。立派な犯罪であるところのこれらの行いは、この国では、労働という神聖なものとして信仰されており、それをしない人々は、ほぼ、犯罪者扱いで迫害され、さらし者にされていた。幸い私は、自殺願望は豊富にあったが、自殺するために絶対必要条件であるところの「勇気」を持っていなかったために、それをせずに済み、今、生き、幸福に、ベートーベンに親しみつつ、焼酎のペプシNEX割りを飲みながら、この作文をするという恩恵にあずかっている。働き、飲み、太り、老い、朽ち果ててゆく。つまり、それが動物から進化したところの偉大で神に似た人間の定めなのだそうだが。そんなくだらない思想で神聖化されたまぬけな超人とか人間とか、現存在とかヒトとか。要するに、パチンコが大好きな二足歩行動物の中でわたしは必死に例のガラスを重ね合わせ続けるという幸福な毎日を送っていたのだが、その、幸福も、いつまでも続かなかった。そう、まるで、愛とか、恋とかのように。それも、朽ち果て、強く、魅力的な、変なメガネをかけた、恐るべき敵に精神を破壊されようとしていた。変なメガネ。実際は普通のメガネだったが、なんか、なんの理由も無くそのメガネは、そのマザーファッカーさんのメガネは変に見えた。いまでも、その理由は全くわからないのである。
彼奴は現われた。現れ、見下し、メガネをかけ、彼奴は、彼奴をこう名乗った、マツオカと。ただの間抜けな若造だったが、彼奴は彼奴を社長であるかのように思っていた、ただ社員であるだけで、全派遣社員、つまり、奴隷の、命令者であるだけで、彼は、彼を、支配者、ナポレオン、超人。なんでもいいが、なんかそんなようなゴミのように汚らしく、恐ろしく、焼却されるべき暴君、つまり、とても、えらそうだったし、実際えらかった、わたしのような、奴隷階級にとっては。多分今頃は、殺されてるか、死んでるか、しているであろうが、彼奴が生きていようと、死んでいようと、その頃そいつが産出した、不幸な被迫害者の殺意、言い換えると恨みは永遠に消え去ることはないであろう。つまり、マツオカは生きているだけで、既に犯罪者であった。そのような者も残念ながら存在し、罰せられることもなく、君臨し、天下りし、愛人をつくり、崇拝され続けられてゆくことであろう。
アリストテレス哲学以降、全てはいずれかに分類されていた。わたしもどこかしらのなにかしらに分類されているし、そのころも、なにかに分類されていた。派遣、製造課、3グループ。わたしは、3グループから、確か、6グループへ移動した。3グループから排除された。やっと、例の性懲りもなく流れて来るバカみたいなガラスを重ねたり、割ったり、エラーを解除したりというめんどくさい仕事から解放されるという恩恵にあずかろうとしていた、やっと、あの、重ね機から、イシカワさんから、ガンダム関係の談話から解放され、幸福につつまれようとしているかのようなある種の期待感的なものを抱こうとしていたりしていた。ただ、まだ、マツオカが何者であったか、ファシストであったのか、全体主義者であったのか、ヒトラーであったのか、なんなのか、そんなことはまったく知らなかった。だが、やがては、わたしは彼を、そう、総統と呼び、ハイル、マッツラーっと、叫びながら、腕を斜め上に真っ直ぐ突き出すナチス式の敬礼を、中学の運動会以来にしなければいけないという恐怖政治時代風の、戦時下のような苦しみを味わい、かつ、それを、楽しみ、つつ――総統に復讐するという周到な計画は水面下で着々とすすめられようともしていた。
復讐。うん、副賞でなくて、復讐。リベンジ! 死刑! 仇討ち、法、ないしは、被害者感情、すなわちハムラビ法典。やられたら、ヤッチマイナ! 言い換えると単細胞風、ハムレット信仰、ないしは、忠臣蔵中毒。右の頬を殴られたら、左のそれを差し出さなくてはいけないはずのキリスト教も、さっこんは、てろとのたたかいというなのおゆうぎたいかいで大忙しのようで、そんな教えがあったことさえ記憶にない、のかなんなのか、旧約聖書、ユダヤ教に猛スピードで逆行しつつの、報復合戦。ミサイル。核。劣化ウラン弾。無人爆撃機。言い換えるとラジコンを使った反則攻撃。戦争。競争。報復、ないし復讐。ああ、オフィーリア。あなたの叫びは、どこにも届かず、その死は、唯の、狂気として廃棄物扱いされ、どこかしらにも受け入れ拒否される定めであったのでしょうか?
復讐。この甘美な響き。快楽。麻薬、ドラッグ、シャブ。そう、それはシャブのように、我々を誘惑し、楽しませ、喜ばせ、熱狂させ、狂わせ、快楽と暴力と、殺戮と、破滅。カタストロフィーという名のアブサンの雨を降らせる。禁じられた酒。アブサン。甘く、強く、優雅で麗しい誘惑者。復讐。なんとここちよい言葉であろうか。死刑、戦争、報復、核攻撃、すべては、この甘い、快い禁じられた酒で、誘惑され、惑わされ、魅了され、その礼賛者へと否応なしにおとしめられ、暴力と死はあたかもザクのように量産され、喜びと、悦楽によって、復讐者とその行為は、美しく、正しいものとして、崇められ、祭り上げられ、参拝され、神格化され、映画化され続ける。
道徳感情論。心地良いから、気持ちよいから、罰するのは、ないしは罰として、ぶん殴るのは、あるいはぶっ殺すのは、ないしは、広島に核爆弾を落とすのは、つまり、「民間人」を「殺害」するのは、善とされ、「正義」とされ、崇められ、そのうち映画化される……。なんでも、映画にすればいいのさ。戦争でも、ゲーテのくだらない初恋でも、なんでもかんでも、映画にして、アカデミー賞候補になって、もうけりゃいいのさ。ビジネス。金。とにかく、なるべく年寄りの白人のアカデミー会員を喜ばせる、白人礼賛、アメリカ礼賛映画を、ないしは「グラディエイター」みたいのを、戦争礼賛(でなかったら反ナチス)映画をつくりさえすれば、奴等は、賞をくれるんでしょうよ、どうしようもなくおもしろくない「イングリッシュ・ペイシェント」みたいな、ないしは「戦場のピアニスト」のような出来損ないにさえ。賞。権威。アカデミー賞。黄金の像、オスカー、輝いてるのは表面のメッキ。でしかありません、言うまでもないでしょうが。少なくとも、授賞式の日は常にサックス演奏で忙しい、ウッディ・アレンあたりには。
えーっと、で。あの出来損ないのトムクルーズみたいなやつに復讐するために、私は生まれてきたのでしょうか? そんなくだらない、美しくも、かっこよくもなく、醜く、不毛な目的の為に、わたしは、生まれ、生き、そして、生き続けなければいけない運命とか、定めなのでしゅうか? 人間は復讐するために発生したのでしょうか? かつては、美しくかつ詩的でさえあった人類は、散文的で、商業映画的な醜い復讐心という感情の奴隷としてその種の生涯を、戦争と、競争とテロと新興宗教と、自己啓発セミナーの布教に、その余生を費やし、消滅する悲しい定めなのでしょうか。悲しかろうがなんだろうが、それが定めなのであれば、そうなり、結果、どうなるにしろ、増税と子育てと、老後の心配やなんかに心を煩ったりなんかしながら、幸福に死んだり、不幸にくたばったり。つまり、虫のように生きたり、殺されたり、死んだり、滅びたり、絶滅したりなんかという、くだらない運命の奴隷としての、自由の受刑者としての、生涯を努めなければいけないのでしょうか。楽しくも、おもしろくも、うれしくもない生活とはいったいなんなのでしょうか。罰でしかありません。死んだほうがマシです。楽しく、かつ、快く生きるのは、人間の義務です。不幸は、完全に排除されるべきなのは当然なのですが、心は、テレビと中学校に洗脳され、そんなあたりまえの思想さえも拒否するように、初期設定されて、フォーマットされ、なにも疑わずに、税金を納め、国に奉仕し、苦しみ、絶望し、死んでゆくのが当然であるという憲法は、いつまでも、その絶大な権力を行使しつづけ、日本人は自殺しつづけることでしょう。ハレルヤ!
自殺者。わたしは、わたしが、それをすることができない、する能力がないという理由で、彼らを尊敬する。彼らは、わたしより、勇気があるからだ。わたしは臆病であった。なぜなら、わたしは、いまだに死なずに、酒をのんで、エミネムを聞いていい気分になりながら、この下らない作文をしているからだ。つまり、臆病であったおかげで、飛び降りたりなんかするのが、怖かったおかげで、自殺もせずに、生き延び、健康に、酒を飲み、キリストよりも長生きし、幸福な日々を堪能している。自殺。恐るべき勇気と絶望。切腹。ああ、わたしも、そんなかっこいい死に方ができたなら。今頃、は、くだらない、ダイエットとか、ガンとか、俗物が気をもむ例のくだらない思考などせずに、完全な無としての、至福と恍惚のなかで、何も気にせず、悩まず、悲しまず、喜ばず、驚かない、無機物としての生活を気楽にたのしんでいたであろうに。結果としては、生き、そして、ガンとかそんなくだらない心配と、肉体と感情の奴隷としての日々を否応なしに送らされている。虫さんたちと同じように。ないしは、他の全人間、および全有機生命体と同じように。
ワインレッドのメルセデス、SL600なんかを乗り回す、PTA会長あたりの人種に、おまえごとき、敗者のルサンチマンに付き合い、演説を夜明けまで聞かされるのは迷惑千万だという声が聞こえてきたような気もしないでもなさそうなので、この、役立たずの敗者のルサンチマンは一旦、小休止し、マツオカ総統のエピソードへと引き返そうと思う。とにかく、わたしが有機生命体であるのと同じように、マツオカも人間であった。要するに、たいした差はなかった。わたしはマツオカであった。わたしが全体主義者でないように、かれも当然そうではなかったし、ただの、工場の、社員、で、単なる、労働者であった。F1が好きなようであった。つまり、彼は、わたしでもありつつ、トム・クルーズでもあった。スピードをこよなく愛していたのであろう。ノロいやつはムカつくのであろう。それはよく分かった。わたしもそうだったから。スピード、効率、残業削減、エクセル。彼はその四語に全てが濃縮還元されたかのような、変なメガネをかけた、出来損ないのトム・クルーズだった。