夜の海
ドアをノックしてから、そおっと開けた。中を覗くと、こっちを見て満面の笑みを浮かべる女の子――翼がいた。ベッドの上で起き上がって、漫画本を片手に持っている。私はいつものように、ささやかに手を振って近寄った。
「今日の調子は?」
「いい感じ。優美の調子は?」
「私もいい感じぃ」
似たようなやり取りを、会いに来る度に交わしている。お互い小さく笑って、世間話へと移行する。
私と同い年。本来なら高校2年生の翼とは、小学校から仲の良かった。いわば腐れ縁というやつ。小学校のときは1回だけクラスが離れてしまったけれど、中学校まで、他は全て同じクラスだった。最初から意気投合して、親友になってしばらく経つ。
翼が“本来”高校2年生だというのは、高校に行かずに入院をしたからである。産まれたときから心臓が病気だったらしく、中学生から休みがちになり、進学を諦めて入院を選んだ。20歳まで生きられるかどうか、と聞いたけど、ここが病院なことを除けば、健常者と何も変わらない元気な様子を、ほぼ毎日見せられている。
「今日の学校は楽しいことあった?」
「うーん、無いかなぁ……。翼こそ、何か変わったこととかないの?」
「あ、それがね、あるんだよ!!」
「おぉ……何があったの?」
勢いに引きつつ聞いてみた。ここまで興奮して話し始めるのは、なかなか珍しいことだった。それ相応の楽しいことか何かがあったんだろう。そんな話を聞くことができるのは、私も嬉しくなる。
「あのね、素敵な夢を見たの! 夕方の学校に行ってる夢だったんだけどね、うち以外に誰もいなくて……。でも、差し込む夕日がすっごく綺麗だったし、久しぶりに学校に行けて、なんだか嬉しかったんだ」
「えー、良かったじゃん。いいねぇ!」
誰かは、たかが夢だと言うかもしれない。だけど翼にとって、私でさえも分からない喜びがある筈だ。それを幸せそうに話してくれただけで、私もつい顔が緩む。だけど不意に、違和感を感じた。
昨日、書いた小説――夕日が差し込む学校で、主人公の女の子以外、誰もいなかった。実際に夢は見ていないけど、断片的な情報でもこれほど似ているなんて。滅多にないであろう偶然に、私は思わず口にしていた。
「私ねぇ、昨日、学校を舞台にした小説書いたんだ。しかも夕方で、主人公以外、誰もいないの。なんか似てない?」
「え、嘘、すっごい似てるじゃん。奇跡? 運命? こんなことあるんだね!」
身を乗り出して答えてくれる翼。その反応がどうにも嬉しくて、ひひ、と変な笑いが漏れてしまった。待ってましたと言わんばかりに、翼が即座に反応して真似をしてくる。笑いの段階を更に酷くさせて仕返した。結果、少しの間、病室に気味の悪い笑い声が響くこととなってしまった。
*
耳に聴こえてくるのは、波が崩れる音と、踏みつけた砂の音。世界に余計な雑音は存在しない。人工的な灯りも見えない。まるで人間そのものが失われたようだ。
靴と靴下をその場に脱ぎ捨て、砂浜に打ち寄せる黒い波に足を入れた。足の指の間を滑っていく、砂の感覚を楽しみながら、地平線へと向かう。太ももの半ばに水が達したところで、歩みを止めた。疲労を感じて溜息を吐くと、半透明の二酸化炭素が浮かんで消えた。
太陽は、とっくに役目を終えている。遠い海の上には、白の満月が形を保てず揺れていた。空を仰ぐ。月に負けじと輝く星々が、私の影を、遥か彼方に置き去ってしまいそうだった。
*
背もたれに深く腰掛ける。主人公と同じく疲労を感じて、溜息を吐いた。景色がメインの小説を書くことを趣味としている私は、家や学校でこうして時々、文章を書いていた。
とりあえず、今度応募するコンテストには間に合いそうだ。次は安堵の溜息を吐くと、翼の言っていたことが頭を過る。本当に、すごい偶然だった。一生に一度、あるかないかの確率に違いない。細部まで似ているとなれば、その確率も大いに下がるだろう。
今日は不思議な体験を……不思議な話を聞けた。いつかこれを小説にしてみよう。景色ばかり書くから、物語は上手く書ける自信がないけれど、ぜひ文章にしたい。
机の上の電気を消す。壁掛け時計はあっという間に針を回して、夜中の1時を越えていた。私も親友のように、自分の書いた景色が夢に出てくることを願いながら、全身の力を抜いて眠りについた。
「やっほ、また来たよぉ」
「優美、ありがとうー! いつもごめんねー」
「いいのいいの、気にしないで」
夕方からバイトがあるから、そのバイトの時間までお見舞いに来る。これは毎週土曜日の暗黙の了解だった。
「ねぇ、そういえば今日は夢見てないの?」
「うわーよく分かったね! 夢見たよー!」
心臓がどきりと飛び跳ねる。もしかしたら私の小説かも。だけどそんなことあるわけがないと、心の中で首を振った。テンションを見るに、なにか嬉しい夢だった筈だ。翼が怖い思いをするような夢じゃないのなら、私はそれで良い。生活に制限がかけられているのだから、夢の中くらいは自由であってほしい。
「あのね、夜の海に行った夢でね――」
だけどその言葉で、一瞬にして血の気が引いた。怖い夢じゃないのは確かだ。でも、二日続けて、私が書いた小説の夢を見るのは、あまりにも不思議で恐ろしく感じる。心臓が煩く鳴り、悟られないように笑顔を絶やすのが辛い。どうして、私の小説が夢に出るのか。きっかけも理由も、いつまで続くのかも分からない。
「――優美、聞いてた?」
「えっ……あぁ、うん。聞いてたよぉ! ステキな夢だね」
そうでしょ、と目を細める翼を前に、なんとなく言い出すことができなかった。別にやましいことがあるわけじゃないし、変な小説を書いてたわけでもないのだけど。不可解な出来事に一人で混乱している。
どうして突然、翼の夢と小説がリンクし始めたか。考えても答えはでないから仕方ない。私は知らないフリを貫いて、夢から違う話題に転換した。バイトの時間まで会話をしているうちに、理由などどうでも良くなってきた。
「そろそろバイト行くね」
「うん、ありがとー! 気をつけてね!」
バイト服が入った鞄を背負い、病室を出た。時間には余裕をもっているので、のんびり歩いて向かう。
…………もし、もしも。万一の偶然でも確率でも無く、私の小説が翼の夢に出てくるのなら…………。