008 【十一日目】逃走の果てに
昨晩の恐怖が頭から離れず、焚火の火が遠くから見えないように囲いを作ろうと、キノを連れて材木集めに出ていた時だった。
シェルターの方角から、複数のざわめくような声と足音が聞こえてきた。
とっさに身をかがめてシェルターの方を窺うと、最悪の光景が目に飛び込んできた。
愚連隊ザルの群れ――十匹以上はいるだろう――が、シェルターの周りを包囲していた。口々にぎゃあぎゃあと喚きながら、それぞれ手に持った武器を振り回している。
やはり見つかっていたのか。
昨夜の一匹が仲間を引き連れて戻って来たのだ。俺を殺すために。
キノを脇に抱えてそろそろと後ずさりをする――が、わずかに落ち葉がこすれて音を立てた瞬間、一匹がこちらを見て「ゲガ!」と叫んだ。他のサルが一斉にこちらを向く。
群れがこちらに向かってくるのと同時に、俺は駆けだした。
あの数では隠れてやり過ごすこともできない。走りながら背負っていたトゲカメの甲羅を脱ぎ捨てる。
藪や木立の間を縫うようにしてひたすら走り続ける。背後から聞こえる声と足音は、確実に後を追ってきていた。
ふと脇に抱えたキノを見る。手が塞がっていては全力で走れない。ここに置いて行ったところでこいつが捕まるとは限らない。だが……
「グガア!」「うわっ!」
目の前から別のサルが飛び出してきて、慌てて方向転換する。
包囲されている! ただ闇雲に襲ってくるわけじゃないのか。こいつらが統率された動きをしているのだとしたら、いよいよ逃げ切るのは絶望的だ。
俺はキノを服の中に突っ込んだ。
***
それからどこをどう走ったのか、気付くと樹海を抜けて、開けた場所に出ていた。
「ここは……」
洞窟から眺めた時に見つけた巨木のそびえる草原だった。
地上から見上げる巨木はまるで特撮映画の怪獣のような迫力で威風堂々と大地に直立していて、幹の太さは直径三十メートルほどもある。圧倒的な存在感だった。
だが、俺は別のものに目を奪われた。
巨木の根元から幹にわたって、びっしりとキノコが生えていたのだ。色形からしてキノとよく似ているが、足は生えていない。まるでガリバーの全身に小人がたかっているような、あるいは歪な鎧で身を守っているような……とにかく異様な光景だった。
「ゲルギア!」
振り向くと、樹海から愚連隊ザルがわらわらと出てきたところだった。散開して、俺を包囲するような陣形で距離を縮めてくる。
囲まれた。逃げ場はない。ちくしょう、ここまでか。
「……ん?」
違和感を感じた。サルたちの勢いが弱まったような気がしたのだ。まるでこの木に近づくことを躊躇うような、何かに怯えているような。
と、その時。キノが俺の腕からひょいと飛び降りて、木の根元へと近づいていった。無数に生えているキノコのもとに、まるで故郷に凱旋するかのような足取りで。
ぴょんとキノコの上に飛び乗ると、群れの方に振り向く――
次の瞬間、世界が深緑のベールに包まれた。
胞子。それもキノだけでなく、キノの号令に従うように、巨木にまとわりつくすべてのキノコが同じ緑色の胞子をまき散らしていた。愚連隊ザルたちはその粉を嫌がるようにあたふたと逃げ惑い、やがて散り散りになって逃げていった。
「……はは。お前、キノコの親玉だったのか?」
キノコの山から降りて俺の腕に戻ってきたキノを撫でながら、思わず笑ってしまう。
どうやらまた助けられたらしい。理屈は不明だが、この種類のキノコは魔物が嫌がるタイプの胞子を飛ばせるようだ。
それからしばらく、大樹の根元で放心状態のまま仰向けになっていた。
すべてを失ってしまった。武器も防具も、食料も水場も、火も。もうあのシェルターには戻れない。またゼロからやり直さなければならなくなってしまった。
……やり直す? そんなことに意味があるのか。
結局俺なんかがどうしたところで、ここで生き延びるなんて不可能なんじゃないか。何度も幸運に助けられてきたけど、それがなければとっくに死んでいる。今だって。
ぼうっとした頭で辺りを見回す。
なんだか不思議な感じがする場所だった。ここだけ時間が止まっているみたいで、とても静かで、動くものは何もなくて……それでいて生命力に満ち溢れているような、優しさに包まれているような……世界のすべてがここにあるような。
「もしかしてお前が俺をここに連れて来たのか?」
胸元のキノに訊いてみるが、もちろん答えはない。
気が付くと俺は大樹に登っていた。子供の頃によく木登りをしたが、これほどのサイズの木は初めてだ。ちょうどボルダリングの要領で、幹に生えたキノコを足場に、一歩ずつ登っていく。落ちたら怪我では済まない高さだが、恐怖は感じなかった。
ようやく最初の枝に辿り着いて腰をかける。そこからは島の遥か遠く、彼方の水平線まで見渡せた。
そして発見した。
村だ!
森を抜けた先の海岸沿いに、家が立ち並んでいるのが見える。船着き場のような場所には小型の船がいくつも並んでいた。遠すぎて人の姿までは確認できないが、人が住んでいることは確実だった。
ここは無人島じゃなかったのか?
はやる気持ちを押さえて、他にも人の痕跡がないかを観察する。と、海上に何かが浮かんでいるのが見えた。
大型の船。それも村に向かってきている!
あそこに行けば助かる。萎えかけた気持ちが再び燃え上がってくるのを感じる。
「ここまで来たんだ、絶対辿り着いてやる!」
急いで木を降りながら、方角を確認しようともう一度海に目を向けた時、信じられない光景が飛び込んできた。
最初は船が二つに増えたのかと思ったが、違った。
それは巨大なウツボのような怪物だった。船のすぐ近くの海面から姿を表した、船よりも大きなその怪物が、船に襲いかかっていた。怪物の攻撃を受けて船が破壊され、横倒しになって沈むまではあっという間だった。
「嘘、だろ……」
あんな規格外のモンスターがいては船で脱出することも不可能だ。仮にあの村に人が残っていたとして、平穏な生活が送れているわけがない。
ようやく見えた光明が一瞬で消えてしまった。
希望が打ち砕かれた反動は大きく、木を降りるとそのまま地面にへたり込んだ。
どうすればいい。この場所にいれば安全かもしれないけど、そういうわけにもいかない。体力も尽きかけている。もはや一刻の猶予もない。
ここで緩やかに死ぬか、一縷の望みに賭けるか。
俺は気力を振り絞って立ち上がると、村のあった方向に踏み出した。
大樹から離れるにつれ、再び森の陰鬱とした空気に包まれる。鬱蒼とした木々が俺を殺そうとしているように思えて、耐え切れずに嘔吐した。胃の中が空っぽのため胃液しか出ない。
水。食べ物。何でもいい、何かないか。
木の枝を這っているイモムシを見つけ、口に放り込む。噛むと弾けて、粘っこい体液が口の中に広がった。
目を血走らせながら森を彷徨い歩く俺は、傍から見たら餓鬼のように映っただろう。
日も暮れた頃、海岸に辿り着いた。町は見えない。方角を間違えたのか。
呆けたように座り込んでいるうち、砂浜に数匹のぴょんぴょんゼリーを発見した。まだ夜じゃないからか、じっとしてぴくりとも動かない。
迷わず踏み殺して、中身を吸った。透明な薄い膜の中のゼリーは無味無臭だったが、多少の水分とエネルギーは補給できるようだった。中には濁った色の個体もいたが、構わず食べた。
他にもいないかと探しているうち、黄緑色の個体を見つけた。殺して中身をすすると、やけに苦い味がした。反射的に吐き出したが、少しだけ飲み込んでしまった。
それがいけなかった。すぐに体調が悪くなり、歩けなくなった。
寒気がして全身が震えた。胃がひっくり返ったように何度も嘔吐した。やがて身体が動かなくなり、手足が痙攣し始めた。
キノが主人の異変に慌てる飼い犬のようにあたふたと俺のまわりを駆け回っていた。
――ああ。こりゃもうダメだな。
もういい。できるだけのことはやった。諦めて楽になろう。そして今度こそ生まれ変わって……そう、次に生まれるなら人間以外がいい。
「生まれ変わったらお前になりたいよ、キノ」
あの大きな木の根元で、何に怯えることもなく平穏に生きるんだ。
「キノコになりたいだなんて、おかしなことを言う人間ね」
声が聞こえた。
またあの声か? 今度はどこの地獄に連れて行こうってんだ。
いや、違う。この声は……女?
薄れゆく意識の中、かろうじて開けた俺の目が捉えたのは、仰向けに倒れている俺を見下ろしている、いつかの美しい魔物の娘の顔だった。