003 【一日目】月の光に照らされた君は
砂浜にぽつんと体育座りをして、水平線に沈む夕陽を眺めながら、俺はぼうっとした頭でこれからのことを考えていた。
ヤシの実の水を得ることには成功したが、また同じ方法が使えるとは限らないし、ヤシの実にも限りはある。安定して水を得るためには何か別の方法を考えなくてはならない。
食料も必要だ。まだそれほど空腹は気にならないが、半日以上何も食べていない。
――サバイバルの基本は足し算と引き算だ。それさえ間違えなきゃ死にはしねえ。
アニキがよく言っていた言葉だ。人間が活動するのに必要な体温、水分、カロリーの量を基準として、それぞれ活動限界を下回らないように足し引きでコントロールする。活動で失われる水分とカロリーを予測し、それを上回る量を確保する。運動、食事、火によって体温を保ち、冷たい寝床や水に濡れることは避ける。
……なんて、口で言うほど簡単なことじゃないのだけど。
理不尽な状況ではあるけど、死を受け入れることと生きることを諦めることは違う。出来る限りの努力をせずに死を選ぶのは自殺と同じだ。
負けるなら自分でなく、自然に。
俺は、まだ生きたい。
あれから散策した結果、砂浜の先に崖を登れそうな場所を発見した。その先は森だ。水場や食料が見つかる可能性も高い。
明日、森を探索してみよう。余裕があればその奥に見える山に登ってもいい。高所から広い地域を見渡せば、どこかに川とか湖が見つかるかもしれない。
この海岸沿いを離れるかどうかは悩みどころではある。島から脱出を望むのであれば、見通しのいい砂浜から救難信号を出す必要があるからだ。しかし今のところ火がないので狼煙を上げることもできないし、何より、この世界に船があるのか、そもそも人間がいるのかすら不明なのだ。先ほどから見ていても、船の通りかかる気配はない。
それからもうひとつ――この島を出るべきなのか、俺は迷っている。
仮にこの世界にも人間がいて助け出されたとして、それからどうなるのか。言葉も通じないだろう。下手したら迫害される可能性だってある。人間が味方とは限らない。
だったら俺は、この島で生きていくべきなんじゃないか。
と。そんなことを考えているうちに、次第に眠気が襲ってきた。
まあいい。難しいことを考えるのは後だ。
今夜はこのまま砂浜で寝よう。多少底冷えはするかもしれないが、日中は気温が高かったから一晩くらい平気だろう。
横になり天を仰ぐと、薄闇の空にはもう星が瞬き始めていた。繰り返し打ち寄せる波の音は心地よく、目を閉じるとすぐに寝入ってしまいそうだった。
「……ヤシの水、美味しかったなあ」
自力で水を得た時のあの何とも形容しがたい感動、自力で命を繋いだことの充実感と高揚感は、これまでの人生で感じたことのないものだった。
ここが終の棲家だというなら、やれるだけやってやろう。もしかしたらここが自分にとっての楽園になるかもしれない。
そうだ、この島を「マサムネアイランド」と名付けよう。こつこつと開拓を進め、いずれ安住の地を築き、魔物たちがひれ伏す島の帝王として君臨するのだ。
そんな夢想に身を委ねているうち、俺の意識は夢の世界へと沈んでいった。
***
「いってえ!」
突然頭に何かがぶつかってきて、眠りは中断を余儀なくされた。慌てて上体を起こして辺りを見回すが、辺りは闇に包まれていて自分の身体すらはっきり見えない。
「うがっ!」
今度は背中に衝撃を受け、思わず悲鳴を上げる。暗闇の中で襲われることほど恐ろしいものはない。それも、どんな生き物がいるかも知れない未知の場所で。
目を凝らすと、地面で何かが動いているのがわかった。それほど大きくはない。
スマートフォンの電源を入れ、光で照らしてみる。
「なんだこりゃ。ゼリー?」
透明でプルプルとしたゼリーのような円錐形の物体が、海に漂うクラゲのようにゆらゆらと揺れていた。これも生き物なのか。
「なんだよ驚かせやがって……」
いかにも弱そうだし、先ほどの衝撃も大した威力ではなかった。トゲカメもそうだったけど、必要以上に怯える必要はなさそうだ。ヒグマの方がよっぽど怖かった。
しかしいくら弱いとはいえ、寝ているところを攻撃してきたことからしても放っておくわけにはいかない。
思い切り蹴って倒してしまおうか?
……いや、こんな見た目でも生き物には変わりない。安眠のために蹴り殺すなんて行いは、自然との調和をモットーとする俺の流儀に反する。
「ええと君、ぴょんぴょんゼリーくん? 無益に争うのはやめようじゃないか。真の共存とは相互の信頼と尊重の上に成り立つものであって……いてえっ!」
説得の途中で、スライムはぴょんと飛んで体当たりをしてきた。
「くそっ、この分からず屋!」
結局、やむなくその場を離れることにした。
どうせ一匹倒したところで他にもいるかもしれないのだ。砂浜で安眠が望めないのなら、別の寝床を探すしかない。
身を隠しつつ安眠できる場所を見つけるため、森に入ることにした。
星明かりすら届かない夜の森は本当に真っ暗で、人間の立ち入りを拒んでいるかのような不気味さがある。スマートフォンの光がなければ自分の足元さえろくに見えないだろう。中腰の姿勢で手探りで道を探しながら分け入っていく。
夜の森はひんやりとしていて、時折吹く風が体温を奪っていく。
どこか開けた場所で、ヤシや笹の葉を積み重ねて寝床を作ろう。十分断熱材になるはずだ。
と。その時ふと――視線を感じた。
昔から周囲の視線には敏感な方だ。以前、視線を感じて教室の窓から見ると、向かいの校舎の廊下を歩いている女子と目が合ったことがある。その女の子が俺に好意を抱いていたのかどうかは定かではないが、すぐに目を逸らされたことは定かである。
視覚が働かない分、五感が鋭敏になっているのだろう。ただの気のせいとは思えない。視線を感じた方角を凝視してみるが、暗すぎて何も見えなかった。
次になんとなく海岸の方に目をやり、そこで俺は硬直した。
影が、動いていた。
物音を立てないようにして目を凝らす。影の形と動きからすると、どうやら二人、砂浜を歩いているようだった。
人間だ!
はやる気持ちを抑えて慎重に考えを巡らせる。ここは無人島なんじゃなかったのか? あるいは俺と同じ、異世界から召喚された人だったりとか?
助けを求めるか? しかし向こうだって突然俺が飛び出してきたら警戒するだろう。素直に受け入れてくれるかどうかもわからない。
などと不安を募らせたところで、千載一遇のチャンスであることには違いない。
意を決して俺は飛び出した。
「すみません! 俺はマサムネといいます! 人畜無害な人間です!」
どんな自己紹介だよと思いながらもそう叫び、手を振りながら二人に近づく。仮に言葉が通じなくてもボディーランゲージで意思の疎通くらいはできるだろう。
しかしそんな期待は、思いもよらない角度で裏切られることになった。
「グゲロ?」
返ってきたのは日本語ではなく……人の言葉ですらなかった。
折よく雲が晴れ、月明かりに照らされた二人の姿が露になる。俺よりひと回り以上も小さな体躯。歪に膨れあがった鷲鼻、尖った耳、耳まで避けた口から覗く鋭い牙。ギョロリとした瞳が獣のように光を放っている。
二人は肩に棒を担いでいた。そしてその棒には、首をだらりと下げて果てているトゲカメが吊るされていた。
「ギブアギグ?」「ゲブゲブ」
二人が俺を見ながら何やら言葉を交わしている。
「あ、はは……ナイストゥミーチュー、ゲブゲブ?」
「グロロ?」「ゲグギルオギ」
「うんうん。ほいじゃさよなら、グッバイゲロゲロ」
にこやかに手を振って踵を返す。
「グギャア!」
二匹がトゲカメを放り捨てて追ってきた。その手には石斧のような武器が握られている。
「ぎょえええええええ!!」
どちらがモンスターかわからないような悲鳴をあげて、俺は逃げた。
直感した。あれは、マジでやばい生き物だ。
闇の力に目覚めたサルみたいな恐ろしい顔つき……異形の化け物。明らかに殺意をもって向かってきた。
熊に追われていた時以上の全身が沸騰するような恐怖感に、生存本能が絶叫していた。
楽園かも、なんて期待した俺が馬鹿だった。
この島は血に飢えたモンスターが闊歩する――地獄だ。
砂に足を取られてスピードが出ない。崖の低くなっている箇所をなんとかよじ登り、森に飛び込んだ。木や藪にぶつかりながら全力疾走する。後を追ってくる気配はあるが、すぐに追いつかれることはなかった。
だが、やがて限界が来た。持久力には自信のある方だが、それはあくまで人間の中での話だ。純粋な体力勝負であの化け物に勝てるとは思えない。
足音は正確にこちらに近づいてくる。
どうする、戦うか? あちらは二匹、しかも武器を持っている。対して俺には喧嘩も格闘技の経験もない。だが……このまま殺されるくらいなら。
地面に落ちていた太めの枝を拾い、構える。
「伏せて!」
それが女性の声だと認識した時、俺は地面にうつ伏せに倒れていた。突然、横から突き飛ばされたのだ。
「誰――?」「静かに!」
声の主が上から覆いかぶさってくる。背中に柔らかい身体の感触。獣臭とハーブの混ざったような独特な香り。
後ろに目をやる。足音が大きくなり、やがて木々の間から二匹の影が現れた。
と、次の瞬間――音もなく、火の玉が出現した。
「グギャア!」
火の玉の体当たりを受け悲鳴を上げた一匹が宙を舞う。火の灯りに照らされたのは、モンスターが獣に食いつかれて振り回しされている異様な光景だった。もう一匹が慌てて助けようとするが、獣のひと睨みで怯えたように逃げて行く。
食いつかれた一匹がぐったりとして動かなくなるまでは十秒もかからなかった。
飛び出してきた火の玉の正体は、大きな猫のような獣の口だった。人型モンスターの喉に噛みついているその大きな口から赤い火が燃え上がり、肉が焼かれる匂いが漂ってくる。
猫はしばらくそのままじっとしていたが、モンスターが完全に死んだことを確認したからか、やがて口に咥えたまま森の奥に消えていった。
あまりに衝撃的な一連の出来事に、俺は息をすることも忘れていた。
「――行ったわね」
女性がそう言って立ち上がった。それでようやく我に返る。
彼女の立ち姿は人間のようだったが、暗くてはっきり見えない。
「あれは煉獄猫。トロールなんて比較にもならない危険な魔物よ。ああなりたくなければ夜の森には入らないことね……って、どうしてうずくまってるの? 怪我でもした?」
「あ、いや。大丈夫、怪我はしてないから」
うずくまっているのは全く別の、如何ともしがたい理由からだった。
「いいから見せて」
彼女がすぐ目の前でしゃがみ、股間を押さえている俺の両手を無理やり引き剥がす。
やあ! と、もう一人の元気いっぱいな俺が現れた。
「ち、違うんだ! これはその、男は死に直面すると子孫を残そうとするという本能が」
「ああ、武器を隠し持っていたのね。でもそんな小さな武器で戦おうなんて無茶よ」
彼女は幸いにも勘違いをしてくれたらしいが、俺は心に怪我を負った。
「違う、これはまだ、鍛えればもっと強くなるから……」
やめろ俺。震えた声で何の言い訳をしてるんだ。しょうもない。
「……ええと、君は?」
俺と同じく召喚された人間なのではないか。だとしたらこの世界の情報を聞けるかもしれない。と、そう期待して訊いたのだが、
「次は助けないからね」
質問に答えず、それだけ言い残して去っていこうとする。
「待ってくれ! 君もこの世界に召喚されたんじゃないのか!?」
声を絞り出して叫ぶと、彼女は足を止めて振り返った。ちょうど木々の間から月明かりが差し込み、その顔を照らし出す。
「……そう。やっぱりあなたは使徒だったのね」
俺は見た。美しく整った顔立ち、光を淡く反射して揺れる銀髪――その隙間から、角が生えているのを。
「私はあなたの敵よ」
俺が言葉を失っているうち、彼女は闇の中に溶けていった。