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ホシヨミガタリ  作者: 半藤一夜
第一章 一人でサバイバル
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001 ある日、山の中

 ある日、森の中、熊さんに出会った。

 誰もが知っている有名な民謡「森のくまさん」の歌詞の出だしだ。歌詞を最後まで読むと、熊は少女に「お逃げなさい」と助言したり、ご丁寧に少女が落とした貝殻の首飾りを届けに来てくれたりと、優しい熊と少女の交流にほんわかする内容になっているけれど、実はこの歌の元になっているアメリカのスカウトソング「The Other Day, I Met a Bear」はそんな牧歌的な内容じゃない。熊が少年に「逃げろ」と言うところは同じだが、それは「銃も持ってない貧弱な人間のくせに、逃げないでいいのか、ん? 食っちゃうぞ?」というニュアンスであり、煽り倒した上に逃げた少年を追いかけ回すという畜生ぶりで、最後は少年がなんとか木の枝に飛び乗って難を逃れるという、なんとも殺伐とした歌である。

 お国柄の違いというか、親しみやすいのはアレンジされた日本の唄の方だと思うけど、俺は原曲の歌詞の方を推したいと思う。熊は決して心優しい人間のお友達なんかじゃない、山や森に入る時には油断せず、遭遇しないように十分気を付けなさいという先人の教訓をこそ子供たちに教えるべきではないか。


 でないと、熊に追われる羽目になる。今の俺みたいに。


 二メートルほどもある巨体の成熊。その後ろをついてくる小熊がいて、愛くるしい瞳を俺に向けている。

「ねえママ、この生き物なに? なんか喋ってるよ?」

「あれは危険な人間よ。今からぶっ殺すから、坊やは下がっててちょうだいね」

 そんな仲睦まじい親子の会話が聞こえてくるようだ。

 ぶっ殺される前に、何でこんなことになっているのかを説明しておこう。

 高校卒業後すぐに地元で就職したものの、会社勤めが性に合わず、入社半年で辞め、気晴らしに山に登ったところ、熊に出会った。

 以上、説明終わり。

 ……これだけだととんでもない馬鹿だと思われそうなのでもう少し言い訳をさせてもらうと、俺は元々人付き合いというものが苦手で、無理して就職したもののたった半年で心を病んでしまった。元々学校の友達と遊ぶより一人で山にいる方が好きという性分だった俺は第二の人生の舞台を大自然に求め、療養と下見も兼ねて山に登ることにしたわけだ。

 山は庭みたいなものだ。生まれ育った東北は大自然には事欠かず、ボーイスカウトでキャンプをして味をしめた俺はよく一人で山に出かけたものだ。

 一度遭難して死にかけたこともあった。一週間後に捜索隊に発見された時、俺は森深くにシェルターを張ってすやすや眠っていたらしい。過酷な体験だったけど、家にいる時よりも優雅な生活が送れていた気がする。ちなみに死にかけたというのは、怒り狂った親父にしこたまぶん殴られて病院送りになったためである。

 当時の俺にはお手本となる人もいた。ひと回りも歳上で「アニキ」と呼んでいたその人は狩猟で生計を立てるマタギで、ボーイスカウトの活動中に出会ったのをきっかけに仲良くなり、それから色んなことを教わった。お金や人間関係にとらわれず野生に生きる彼の背中を、俺はひたすら追いかけた。

 とある考え方の違いから袂を分かち、それからすぐに帰らぬ人となってしまったが……俺は、アニキのように強くなりたかったのだ。

 必要な装備をリュックに詰め込んで奥羽山脈のひだに分け入り、手ごろな山を見つけて道なき道を登った。山頂の景色を眺めて英気を養い、下山中に樹木帯の合間から沢を発見した俺は、道を外れて斜面を下った。清流で顔を洗い、さっぱりとした心地で顔を上げると、そこにツキノワグマの親子がいた……というわけだ。

 つまり、第二の人生が始まる前に人生そのものが終わりそうなのだった。


 母熊から目を逸らさないようにゆっくりと後ずさりで距離を取ろうとするが、後ろに下がった分、母熊は「逃がさんぞ」とばかりに距離を縮めてくる。

 夏場で腹を空かせて気が立っているいるわけでもないだろう。人間は熊の捕食対象ではない。だが、子供に危険をもたらす者が近づいた時、母親は残忍な殺戮者となる。


「なあ熊さん、俺は君たちの敵じゃない。話し合おう。きっといいお友達になれるよ」


 なんとか対話を試みるものの、返ってくるのは「知るかボケ」「ぜってー殺す」という、有無を言わせぬ排除の意思だけだった。

 膝がかくかくと笑っている。心臓が狂ったように鳴っている。呼吸の仕方を忘れてしまったように息が乱れる。

 できるならこの恐ろしい光景から目を逸らしてしまいたい。思いきり悲鳴を上げて、走って逃げたい。しかし背中を向けたが最後、ものの一秒で追いつかれて殺されるだろう。

 ……こんな時、アニキならどうするだろう。

 あの人はむしろ熊と対峙することを望んでいた。ある日から煙草をぴたりとやめたものでその理由を訊いたら、「熊は煙草の煙を嫌がるから」とか言っていた……普通は逆だろう。意味が分からない。参考にならない。

 でも、大丈夫だ。刺激しないようにゆっくりと後退を続けていれば、いずれ俺が敵でないと判断して去って行くはずだ。

 焦るな。このまま、このまま――


「あっ」


 石に躓いてバランスを崩して尻もちをついてしまった。頭の中が真っ白になる。

 母熊が前進の速度を上げた。

 恐怖と同時に、全身の血が沸騰したように生存本能が覚醒した。転がるようにその場から離れると、直後に熊の一撃が俺がいた場所の地面を抉った。


「うわあああ!」


 恐怖が臨界点を超えた俺は叫び、熊に背を向けた。自制心は霧散していた。

 熊の攻撃には命を刈り取ろうとする意思と威力が込められていて、その圧倒的にリアルな死の予感に俺ごときの神経が耐えられるはずもなかった。

 ザックを脱ぎ捨て、立木の間を縫うように全力疾走する。火事場の馬鹿力というやつだろうか、自分でも信じられないようなスピードだった。

 後ろを振り返る余裕はない。だが獣の息遣いが近づいてくる気配を感じる。

 木立の間を抜けると、急勾配の斜面が現れた。転げ落ちたら確実に怪我をするだろう高さだったが、怪我の心配をしている場合ではなかった。

 しかし、その崖のような斜面に飛び出そうとしたその時――俺の身体は宙に舞った。

 あまりの衝撃に意識が飛んだのだろう。気付いたら崖の下で、空を見上げて倒れていた。

 ギリギリで追いつかれ、背中に一撃を食らってしまったらしい。転がり落ちる時にあちこちにぶつけたせいか身体中がズキズキと痛んでいたが、攻撃を受けた背中は感覚が麻痺しているのか何も感じない。じわじわと服が濡れてきて、血が流れ出ているのがわかる。

 すぐ近くで物音がして見ると、あれほど急な斜面を驚くべき速度で下ってきた熊の巨体が、俺に止めを刺そうと近づいてくるところだった。


 ――ああ。終わったな。

 人付き合いから逃げて、自然に救いを求めた挙句がこのザマか。

 きっと原型を留めないボロ雑巾のような死体が親の元に還るんだろう。悲しむだろうか。親父なら怒り狂ってボロ雑巾を絞ろうとしてくるかもしれない。

 親……か。この熊だって、俺を殺したくて殺すわけじゃない。ただ子供を守ろうとする一心なんだよな。

 いいや、もう。諦めて死んでしまおう。

 どうせ社会不適合者の俺にろくな人生なんて歩めないのだろうし。厳然たる大自然の掟に従って死ぬってのはそう悪いもんじゃない。おあつらえ向きの末路だ。

 ただまあ……もう少し、大自然ライフをエンジョイしてみたかったけど。


 と、そんな風に人生を締めくくろうとした時だった。


『その願い、聞き届けよう』


 どこからか、そんな声が聞こえた。

 驚いたな。熊って喋れたのか。


『私は熊ではない。よく見るがいい』


 また声。言う通りに観察すると、すぐ目の前にまで迫っていた熊は、その動きをぴたりと止めていた。様子を見ているとかではなく、完全なる静止。

 へえ。死ぬ直前って時間が停まって見えるとか言うけど、本当なんだな。


『だから、そうではない。我が汝に選択の時間を与えたのだ』


 ……選択? なんのことだ。


『汝、生を求むるか。ならば我と契約を結ぶのだ』

「契約? ええと、あんたは誰ですか? 迎えに来た天使ですか?」

『我のことなどどうでもよい。死の運命を免れたくば答えよ』


 なんだよそれ。人が死にかけてる時にいきなり出てきて、名乗りもせずに強引に契約を結べって、やり口が詐欺か押し売りそのものだ。


「あのさ、人にものを頼むならもっと理解できるように説明してくれないか? 見ての通り今大変な状況だから、簡潔に頼むよ」

『え? あ、ああ――つまりだな、我と契約を結ぶことで汝は死の運命を免れ、異なる世界にて新たな生を授かることができるということだ。悪い話ではあるまい?』


 何が「あるまい?」だ。説明になってないし、支離滅裂すぎる。


「もういいや。悪いけど他を当たってくれ。あともっと営業トークを学んだ方がいいぞ。具体的な説明もなしにメリットだけ強調されても、何か裏があるとしか思えない」

『あれっ!? そういう感じ?』

「それに俺が死なないで済むことを取引条件にするってことは、俺が殺されそうになるまで黙って見てたってことだろ? そんな不義理な真似をされて信用できるわけがない」

『いや、それは……』

「契約なんてしないよ。さあ帰った帰った」


 せっかく美しく死ぬ覚悟を決めたってのに、どこの馬の骨ともわからない奴に邪魔されてたまるか。


『ち、違うんだって。僕はそっちの世界に干渉できないから君を助けることなんてできないんだよ。何不自由ない人生を送ってる人を違う世界に召喚するわけにいかないし、どうせ死ぬ人間ならいいだろうっていうか、むしろウィンウィンの関係じゃないかって思って』

「もういいって。わかったから」


 どうせこんなもの幻聴に過ぎない。

 死にたくない、どこか別の場所でやり直したいと、俺は心の奥底で願っているのだろう。その想いと生存本能がリンクして、俺の脳がくだらない幻聴を生み出したのだ。


『いや、ホントだって! ちゃんと話聞いてよ、こっちも真剣なんだから!』


 ……幻聴の割には食い下がってくるな、こいつ。


「あー、聞いてる聞いてる。異世界転生とか言うんだっけ、こういうの? よく知らないけど、アニメとかでよくあるやつ。でもあんなもんフィクションだから」

『ええー。嘘だあ』


 こんなはずじゃなかったとばかりにしゅんとした声を出す。

 別の世界でやり直せるなんて、俺にだけそんなに都合のいい話があるわけない。一億万歩譲って信じるとして、そもそもこの世界にも馴染めない奴が別の世界へ行ったところで、今よりマシになるわけがない。


『じゃあ、このままでいいってこと? 君、その魔物に殺されちゃうんだよ?』

「しつこいな、いいって言ってるだろ。俺はここで誇りある死を迎えるのだ」

『でも……どうしてもダメ?』


 自分が生み出した幻とはいえ、あまりに落ち込んだ様子の声に、さすがに罪悪感を感じてくる。

 仕方ない、少しは付き合ってやるか。この茶番のオチも気になるし。


「まあ、どうしてもっていうなら考えなくもないぜ。俺の言う条件を呑んでくれるなら」

『本当かい!?』打って変わって明るい声になる。

「そうだな、まず面倒な人付き合いはしたくないし、仕事もしたくない。できれば自然に囲まれた環境で静かに暮らしたいな。あるいは一人で広大なフィールドを自由に駆け回るオープンワールドっぽい世界とか」


 我ながらメチャクチャな条件だと思うが、しかし声は難色を示すこともなく、『それならちょうどよかった!』と矯声をあげた。


『君を送ろうと思ってたのはまさに君の希望通り、人のいない大自然なんだ。きっと気に入ってくれるはずだよ!』

「そうかそうか。もしそんな場所に連れてってくれるっていうなら喜んで行ってやるよ」

『やった! じゃあそれで決まりね! よし、じゃあ君の気が変わらないうちに……おほん。これにて使徒召喚の約は相成った。汝はこれよりこの世界の住人たる資格を喪失し、我が世界にて新たな血肉を授かる。選ばれし使徒として求められし使命を果たすため全力を尽くすと誓え。見事使命を果たした暁には――』


 言葉遣いを戻してすらすらと喋り始める。


「おいおい、そう急ぐなって。大体、使命ってなんだよ?」

『もちろん、僕たちの世界を救うことだよ』

「は?」


 すごく重要そうなことを後出しでさらりと言われた気がする。

 世界を救う? 俺が?


『じゃあま、そういうわけで。くれぐれも死なないように、無人島生活を楽しんでね! 向こうで再会できることを祈ってるよ!』

「ちょっと待て! 無人島!? それはさすがに」

『大丈夫。僕が守ってあげるから』

「いや、お前――」


 言いたいことは山ほどあったが、もはや叶わなかった。

 次の瞬間、俺の身体は光に包まれ――

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