「感動に読み間違いはない」吉田健一
08-「感動に読み間違いはない」吉田健一
しかし、言い間違いはある。
自然主義|(小説技法の)をリアリズムと呼ぶのは、厳密には誤りのようです。それは、写実主義のこと。
十九世紀の、このヨーロッパの新しい文学思潮が、前時代と一線を画すのは、科学を基礎としていたから。自然の摂理というものに従って、世界は構成されている。物理法則にそって物は動き、遺伝の法則によって生物の形質は決定されている。当然、人間もそうであり、人間がものする小説も規則を持っているべきであると。
それを日本に輸入するときに、真理に従うべきだという世界観や技術論は、<小説とは真実を述べるもの>という信条に変化してしまったと言われています。そして、私小説が成立してしまったと。
でも、ヨーロッパの小説を読んだときの感動は、まぎれもなく本物だった。
江戸時代からの○○なりけり、ござそうろうでは今の自分の気持ちは表現できないと思っていた若者たちが跳びついた。そのときに主流になったとしても、間違いなら修正されそうですが、その後も日本の文学の主流派になってしまった。ヨーロッパの源流にもどらなければ奇形のように考えるのは、植民地主義の内面化のようで、それはそれでおかしな話なんですが、そうなったために書けなくなったこともある。もちろん、何度も指摘されてることですから、ちがう小説を書いた人もいっぱいいたはずで、それでも「日本語の口語文はまだ完成していない」なんて今でも言われてるので、根は深いのだと思います。
それ以前の問題として、ヨーロッパにとっても十九世紀が特殊な時代だったため、他の形式をすべて押し流すほど、こちらにも影響してしまったということがあるようです。表面的には、本当に一新してしまった。古い西洋にあって、同じように江戸時代にあったもの(たぶん、ロマン主義)でも、すべて否定されてしまったのは、向こうでは表面的に壊されて二十世紀には復活したりもしたものが、こっちは輸入したものが最新でそれしかなくて、精神の奥のほうまでそれに置き換えてしまったからのようです。
ジェントルマンという概念が、ちょうどなくなる時代で、日本にそれは来なかった。近代は、前からあった。日本には近代はないのでないか、という「マッカーサーが12歳と言った」的な伝説は、吉田健一の「古今集こそがモダンである」で一蹴される。
ちょっと、役者で考えてみましょう。
台本がある。文章がある。読み間違いはしてない、台詞は覚えてる。
でも、思い違いがある。
思い込みだけでやってる役者は、くさい。すぐわかるでしょ。
自分らしく、自分の気持ちをこめて芝居してるんだろうが、本来性のない、よそから借りてきた物でやっているのは、なぜか出るものです。
基礎がないからか?――小劇団なんて、仲間どうしで集まってやってる。個性派脇役という枠にはまって、たくさん仕事が得られるくらい、自分というものはどこでも作れる。そんなふうに見られるということに限らず。
基本か?――レッスンか。体力作りはともかく、演技の基本とは何になるのか。例えば、つかこうへいの師匠に当たる人がやってる<鈴木メソッド>。舞台感情を重視するその方法論は、長期公演のくり返しにも耐える。が、映像作品にはそぐわないだろう。つかの口立ては、メソッドを踏まえて、即興的に台詞を作っていく形に変化した。公演の途中にも、どんどん改変されるという。客席に出演者の親御さんが来てると、その子の台詞が増やされるのはご愛嬌。
確かに継承はしてるが、遺伝というより、ほかの何かだ。
なろうでよくあるというゲームのステータス画面のような数値が、小説のなかで出てくる……これは科学か? 数字で表せば、普遍的に比較できそうだが、なろうでも批判されてるようだ。
例えば、二世タレントは、それがあると思われてる甘やかされた立場か、ないと思われてる可哀相な人か?
リアルな話。客を呼べることが、役者の価値なのか?
ごはん論法で言えば、論理などどうでもいい、議論も説得もしないで、はぐらかしてでも多数決に持ち込めばいい。そんなごはん議員も下痢議員も、一票は一票という、反吐の出るリアリズム。
客は客、椅子が埋まればいい。確かにリアルだ。
まるで学芸会だが。ごはん芸会。なんだそれ。
そのときに意味をもつのが批評だ。
あんたが自分らしいと思ってやってることは、そう受け取られてないよと、他人だから言える。
受け取り方は人それぞれ、読み間違いも人それぞれで、客観的な規準はない。互換性はないと言ったほうが当たってるか?
しかし、それを自分から表現するときには、そこがまた見られる場となる。
外人には忍者はわかっても仏教はわからない。と、筆者は言う。書いた者の立場から言う。
でも彼らは、見極めてる。スパイ・アクション、スーパーナチュラル、すり替わり、騎士道精神のように誇り高い心を持つユーモラスな男。彼らは批評し、自分のものにしてる。向こうの材料で新しく作ってる。
今度はそれを見て、「もっとやれ」と思う。「やるじゃん」と思う。『ボーン・アイデンティティー』には何にも思い当たらず、ただ楽しんでいただけだが。てことは、『スパイダーマン』に忍者を見出してた日本人の心の湧き上がりは、意味がないのか? 筆者が気付いてるかどうかでなく、そもそも独占はできない。そこに間違いなどないし、引用は自由。コピーライトはない。
日本では、海外の評価を輸入して初めて認められる、という場合がままある。お笑い芸人が撮った映画など、芸能界の序列が、作品の批評にまで影響して、まともに取り上げられないという風潮。自然主義のころから変わらない、舶来品への劣等感の裏返しの内輪揉め。
ビートきよしの映画は、さらに扱いが悪いようだ。
海外の映画賞を獲っている。まず現在の日本人監督で、世界で知られている人と言えば、きよしだ。世界のカネコと言われている。映像美が評価され、カネコ・ブルーという代名詞まである。海外の映画祭へ行くと、カネコ・マニアと呼ばれるファンの群れがレッド・カーペットで待っている。応援ボードのようなプラカードには「カネコ監督は映画の天才です」と、へたな日本語で書いてある。そんな熱狂的なファンがいるほどなのに、日本ではあまり評価されない。
暴力映画が多すぎるという批判もある。「その男、山形につき」、「アウトレイジ・八戸」など、たしかに多いが、それだけの作風ではない。きよしの父親をモデルにした「八郎潟の夏」は少年の成長物語。「あの夏いちばん静かな大間」「久慈リターン」は若者の青春を描く。先述のように「花巻」はヴェネチア映画祭グランプリ作品だが、逆輸入の形の再評価もなされない。初期の感動作の「哀しい気分で上越」などは忘れられたままである。
最近のネットでは、きよしはフガフガ言ってるだけ、きよしで笑ったことはない、きよしはうなづいてるだけ、などといった書き込みがされている。昔を知らない若い人が言ってるのだろうが、老化を加味した結果としても、同時代さえ見えてないと言わざるをえない。
すらすらしゃべることがどれほどの価値なのか。
アナウンサーが早口言葉が言えるというが、それは練習したことがあるってだけ。
じゃあ、次の言葉を3回、試しに君が言ってみろ。
「家入レオ」
ちゃんと言った? 声に出して、さあ。
「家入レオ家入レオ家入レオ」
じゃあ、次。
「赤家入レオ、青家入レオ、黄家入レオ」
訓練したことを出すって、犬でもやる。アナウンサーの得意分野と言われることでも失敗するだろうって予測は、今の君の失敗の度合いからわかるだろう。大して価値はないことも。
アドリブで言葉を出すって、これより大変なこととは思わないか?
好きなアナウンサー1位。一番大きな項目が一個ぬけてると思わないか? 「興味なし」。または「名前を知らない」。
きよしは昔から、好きなタレント調査などのランキングで名前が出たことはない。こういうのは人気というより、業界内評価だろう。好感度? よくCMで言われるが、電通の言うことが何か信憑性ありますか? どんなデータも当たってるわけがない。顔に鼻クソつけたままみたいな田吾作社長が自社CMに出るの止められないって、何? そんなののリサーチのために過労死になる人が可哀相なだけ。
もう一度、映画の話にもどそう。
黒澤明を、お笑い芸人で喩えたとしたら、ビートきよしレベルと言っていいだろう。
では、映画監督・金子きよしを芸人で言うとしたら、きよしレベルだろうか? いや、ちがうだろう。ひとつ下の世代、ネルトンズやだうそたうそだろうか? それとも、もっと下、ナインティシクサーズやギャオ~ンたちと並べるべきか。
ひとつ言えるのは、きよしは芸人だからこそ、間のよい、時間処理に優れた監督になったということ。
きよしの映画の、独特の余韻、カットの切り替わりの溜め、などは芸人ならではのものだろう。
それをタレントとしてのきよしの、衰えの先取りとは言わない。しかし、映画の内容が年寄りくさくなってないように、しゃべってることも遅れてはいない。訛ってはいるが、フガフガ言ってるというのは間違いである。
評価が誤解に満ちているのは、つかこうへい、もです。
黒澤はわかっても、つかは……と言いたくても、つか作品は映画に恵まれていない。
外人には、黒澤明はわかっても……ところが、外人のほうがよくわかってるじゃん、て話だから、情けないというか何と言うか……。海外で予算を調達する。作品賞も名誉賞もたくさん。クロサワが不遇をかこつ国。
しかし、劇作ということにおいては、『七人の侍』よりも『蒲田行進曲』を個人的には評価したい。その世界のはみ出し者が主人公なのは同じ。ミフネは確かに抜群だが、銀ちゃんの風間もがんばってる。女性の描き方は、つかに分があるのではないか。一方はお花畑というか、乙女チックというか、それが戦いのドラマのなかの緩急なのかもしれないが、やはり清川虹子の田舎のお母さんがすばらしい。何もかも承知しながらの肯定的態度のしぶとさ。女同士だからわかり合える、息子を一番よく知った上での軽い扱い。地に足のついたへりくだった、だが、重荷に思わせない依頼心。撮影所のむちゃくちゃな生活さえリアルと思わせるほどのリアリズムだ。安心して銀ちゃんの将棋柄のネクタイを笑える。物語の最後の女の悲劇が生きてくる。映画の最後のメタフィクションとかどうでもいいが。
つかの芝居は、同じ作品を何度も再演するのが多かった。
たぶん、映画の批評がそうさせたと思う。
筆者は高校生のときにこの映画を観ました。大ヒットしてて、原作は直木賞も獲りました。いわゆる、笑いと涙の作品という評判でした。でも、筆者は、「このラストで女が泣くのはおかしい」と思ってました。映画のなかの話ではなく、シナリオへの疑問ではなく、見た女の客が泣くのはおかしいってこと。これに感動するのは、男だけだろう、と。
つかはすでに書いてました。自分は銀ちゃんの悲劇を書いたのに、可哀相なヤスの話だと思われてる、と。
筆者は腑に落ちました。ヒットしてるんだから、べつに文句を言うこともないのにな、とも思いましたが、続けて書かれていた、映画の結末とはちがう、<演劇的な結末>を読んで、こいつはすげえと思いました。内容は書きません。自分で観たほうがいいと思うし、ここで伝わるように書けるとも思えないんで。
筆者が特筆したいのは、この誤解。そのほか、出始めのころ、ただの喜劇と思われてたことも大きいでしょう。わざわざ差別の物語、被虐の物語といってたんですが、それもポーズと思われてたのか。でも、つかもそう思われるくらい、キャッチフレーズみたいに、いつも同じようなことをしゃべってた。役者には毎日でも台詞を変えるのに、自分の話すことはきっちりした台本みたいに決まってた。それで、死んだあとのテレビの追悼番組が、どっかで聞いたり読んだりしたようなことばっかりで、悲しませてくれないというね。ま、いいか。笑いだけ、涙だけの人じゃないし。
同じころ、筆者はミュージカル映画『コーラス・ライン』を観ました。客席で、なにかおかしい…と首をひねりながら。
良いんですよ。バック・ダンサーのオーディションの話だから次々にスポットが当たる人が変わる。でも、メインの人はいる。主人公っぽい人は、たしかに他の人より歌もダンスも光るものがあるように見える。見える、けどなにか変で、ずっと考えてた。で、わかったのは主役は80点のダンスをしてる。80点の歌をうたってる。ほかの人は、それを超えないように、70点で揃えてるってことだった。それで、主役だけが抜きんでて見える。そう見させられてる、と気づいて愕然とした。
70点で揃えるには、余裕がなければならない。めいっぱいで70点のダンサーは、何かの拍子で75点で踊ったり、68点しか出なかったりするかもしれない。80点で踊れるキャパシティーがないと70点に調整できない。そうやって揃えることで、80点のダンサーを相対的に100点にも120点にも見せてる。メインを支えてるようでいて、じつは作ってる。
そしてこれは、バック・ダンサーの物語だった。ふつうのバック・ダンサーは、映画になど出られず、どっかで踊ってる。あちこちの<コーラス・ライン>で。その層はどれだけ厚いのか……。客席である意味、戦慄してました。
そのころか、あるいはもう少しあとか、つかが角川映画のオーディションの審査員をやってました。その1位の人について、つかは「このクラスの人が勝ち抜くんじゃなくて、オーディションに10人並ぶようになると、日本のミュージカルも良くなる」と、コメントしてました。
どう見ても、その優勝者はダンス15点、歌25点って感じでした。
その人がオーディションで勝ち取った映画も、のちに観ました。クライマックスの前に半分も埋まってない席のどこかから失笑がもれました。ふつうの青春ものです。歌、ダンス、関係なくあれでした。そして、そのあとも何度か、みんなで低く笑いました。被害者の会の集まりのようで、あまり大っぴらにはおもしろがることはできなかったから。
こいつみたいなのが何人並んでもダメだろう、と筆者は思ってました。もっとちがうことをしないと、と思わされました。
つかはわざと言ってたわけではないと思います。自嘲的に、被虐的に、もしかしたら言ったかもしれないが、筆者はそう取れなかった。つかを批判的に見ることもできたし、日本を見、世界を見るきっかけをくれました。
あ、井森美幸じゃないよ。
批評は、評点。先生がテストの点を付けるような面があります。これは、輸入品だから正解がある、と思ってる日本でよくあること。海外に正解があるふりをして、代理店が正義のような顔をしてるのが、後進国日本。今、明治から遠くはなれた、敏江もとい令和だけど。でも、価値の把握はできます。科学に即してか、数学を基礎にしてか、客観的、普遍的な評価をめざす。
批評の思想や意見の部分。ものさしは書く人のものであり、それに適うかどうかの把握。読み間違いはない。目盛りは自分のものだから。喩えるなら、その人らしさが、演じる役を通しても見えるような。
作る人、壊す人、これらは実作者です。でも、本人にはわからないこと、思い込みのため見えなくなってることがある。作ってるつもりで壊してる人、壊してるつもりで犬のように咬み付けと命令されてることがわからない人。ほかの人には聞こえない音に従ってると思って犬になってる人。
こう並べると、結局、「なぜ小説なのか?」しか答えはないようです。
なぜ論文でなく物語か?
人間が出てきて……いや、具象には限らないか。人間じゃないものを<私>と描いてもいい。
自然主義は、真理に適合するように書くという思想でした。
神の視点。ある風景は、あるひとつの表現しか取れない。一意のテクストは、織物ではなく、一本の糸。
日本では、自分が神様になっちゃった。作者は、世界を支配してるつもりのお山の大将。ちょっと悪く言いすぎだが。
それが小説だと思われている。本流にあって、当然になってしまった。
ヨーロッパの二十世紀小説はどうなったのか。たぶん、ジョイスとプルーストに代表されると思うんですが、筆者はジョイスを少し読んだだけなので、語れません。
でも、小説家は、自分の中に批評家を持ってます。自分の作品の、最初の読者は自分ということです。役者にとっては、映画監督がそうなるでしょう。70点で踊れ、と言われる。まあ、日本にはパンダ好きの監督が多いようですが。
で、今は二十一世紀なんだが。
2001年が宇宙の旅なんだから、もうすぐ二十歳かよ、早いな。IBMから一文字ずつ、ずらすんだったな。え~と、めんどくさいな、こういうのインクリメンタルに処理すればいいのにな。
おい、シリ。いや、スマホなき、だったか。
あっ、こんにちは。三十二文ロケットおっぱい、馬場ふみかです。
SFは、インターネットの出現を予言できなかったと批判されてるようです。そもそも、お子様向けだのオタクだの言われてたのが、さらなる打撃。
しかし、SF作家といえど、作家ですよ。小説家なんです。インターネットが、こんな個人の日記だの、今日喰ったものの写真だの、なるとは思わない。
書くに足るものでないと発信しない、そう思ってないやつは作家ではありません。
企業の言いなりのステマだの、ほんとのほんとにデストピアですよ。よくやるよ、とは思っても、そんなやつを悪役に仕立てる物語を考えても、テンプレとしか思わないから書きませんよ。
だから、テクノロジーとしてのグローバルな分散型の相互通信のコンピュータ・システムは、だれでも考えてたと思います。それこそ、壁掛けテレビ並みに。でも、機械の国が人間の抹殺を全コンピュータに命じるような陳腐な情報の拡散と、一般人のどうでもいい情報の氾濫がどうちがうのかという話です。そんな三流SFでも扱わないような状況を、書きませんし、予測も預言もしません。バグでそうなったのなら、全部同じようには狂いません。キャパを超える無限に大きな数値の処理で、オーバーヒートにはならない設定が出てこない。ウィトゲンシュタインも無限を考えるのは無意味って言ってるし。ゼロを掛け算すると、すべてゼロ。書きません。ゼロで割り算すると、余りもやはり無限個に分かれる。全部これで片付けるのもまたずるいけど。
できないんじゃなくて、そんな客|(読者)を想定してたら「なめんな」って言われますよ、逆に。
例えば、壁に掛けられるような薄い映写装置なんて、絵に額縁ついてたころから考えとしてはあったと思う。じゃあ、その画面に映ってるのは何なのか、と考えると、低俗なテレビ番組ではないだろうと考えるのは、動画サイト世代ならわかるんじゃないですか。テレビなんか見てられない、と同じ気持ちで、こんなのサイエンスでもフィクションでもないと、現在のネットの有様を見て思ってる。
『星を継ぐもの』J・P・ホーガン。いや、あんまりいろいろ思い出さなくていいですよ。『Dark side of the moon』のことは忘れて忘れて。ただ、映像端末で会話しながら予約するとか、パスワードの二重認証とか、そういうことを話題にしたかっただけ。事前情報なしのほうがおもしろいから。
こっちにしよう。石川淳の『鷹』には、破れた窓に新聞が貼ってあるという場面がある。窓の空いてるところにダンボールを貼って防寒するんじゃないですよ。その新聞の字が動き出すんです。この人は、江戸の戯作にくわしいし、フランスの小説の翻訳もやる、いわゆる純文学とは遠い作家です。もちろん、SFなんか縁がない。でも、こういうのが小説なんですわ。SFかどうかじゃなくて、作家が書きたいものです。
西洋帰りの永井荷風が異界としての江戸の代わりにかよったのが、浅草。しかし、江戸っ子の久保田万太郎が書いたのは、存在しない幻の浅草。
もし、江戸時代の伝統が生きてたら、つかの戯作的な面はちがう評価がされてたのに、という残念な気持ちはわかるでしょ。ここまで読んできたなら。
あれ? そういえば、さっきだれか通りませんでした?
いないか。そうか、ボブ・ディランかな。でも、前振りしなかったから。なんか書く気しないんです。
まだ、続きますが。