小説『桂燕語楼春秋』 演目の目次
07-小説『桂燕語楼春秋』 演目の目次
桂小燕朝一門・被災地慰問落語会
(岩手県山田町 2011年10月)
一、心眼 (桂燕筆)
二、寝床 (桂燕語楼)
三、天災 (桂小燕朝)
中入り
四、八五郎出世 (桂はなぶさ)
五、長屋の花見 (桂小燕朝)
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桂小燕朝一門・被災地慰問落語会
(宮城県仙台市 2012年 5月)
一、だくだく (桂燕筆)
二、花筏 (桂はなぶさ)
三、寝床 (桂燕語楼)
四、まんじゅうこわい (冷泉舎丑之助)
中入り
五、ウクレレ漫談 (エルビス夷)
六、はてなの茶碗 (桂小燕朝)
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桂燕蔵・ラジオ公開収録イベント
(茨城県日立市 2012年 10月)
死神 (桂燕筆)
寝床 (桂燕語楼)
漫談 (桂燕蔵)
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北海道立○×農業高校 古典芸能の講演
休演 冷泉舎丑之助
疝気の虫 (桂ハヤブサ)代演
特別料理―スタンリー・エリンより新作
(桂燕筆)
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桂燕筆・四夜連続公演
「ザ・1ダース独演会」
初日
前座 牛ほめ (桂ハヤブサ)
一、だくだく
二、ウィルマおばさんの勘定
(ジェームズ・サーバーより新作)
三、寝床
二日目
前座 二番煎じ
一、堀の内
二、心眼
三、七代目オデュッセイア
(天保の改革による七世市川団十郎追放事件より新作)
三日目
前座 ぞろぞろ
一、本店屋政談
(鹿政談・東京電力篇)
二、遥拝隊長
(井伏鱒二より新作)
三、粗忽の釘
千秋楽
前座 頭山動物園
一、靴みがきの一日
(石川淳より新作)
二、浮世絵
(シオドア・スタージョン「ここに、そしてイーゼルに」より新作)
三、与太郎咄・素盞鳴
(古事記より新作)
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// 演目にもミスがありました。列をそろえようとして、
//一個飛ばしてた。訂正しました。
// 主人公はピツですが、<寝床>ばかりやってる落語家が
//小説の語り手。
// 震災の慰問で、2011の寝床は、とにかく笑ってほしいから
//古今亭志ん生演出の爆笑編を踏襲。次の年は少し落ち着いて
//古今亭志ん朝の演出を。他のときは、人物描写が細かい
//桂文楽タイプ、と演じ分ける。
// ピツは新作ばかりだから、天才とは呼ばれない。奇才。
// 丑之助が天才で、自殺する。天才の悩みは他の芸人には
//理解できない。しかし師匠は親も同然で「親より先に死ぬ
//馬鹿があるか」と怒る。ちょっとファンタジーなことも起こる。
// 落語を知ってる人ならだれでも桂枝雀を思い出すでしょうが、
//ちがいます。詩人をモチーフにしてます。詩人も自殺する
//やつが多いので。『若き詩人たちの肖像』(堀田善衛)を
//参考にしました。太平洋戦争の前から、若者たちがつぎつぎ戦争に
//押しつぶされていく話。戦争に行かなくても、そうなる。
//フィクションも混じってるが、開戦直後、連勝で皆が浮かれている
//なか、非合法な活動に関わっていく感情はリアルだ。
// 震災の惨憺たる被害のさなかに、笑いを届けようとする人と
//真逆だが心根は同じだから、採用。
//
//
// 誤字・脱字の報告はないようですが、自分で気づいた
//訂正と補足を。
//
// ●元号を年号と間違えました。直しました。
//
// ●他、助詞のミスや、表現を改めたい文章もありますが、
// 際限ないので、省略します。脳内変換お願いします。
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//
// 気になったところ
//
// <前書き>ええ? そんな名前やった?
// あんたの顔見たら、つい……。
// そうそう、てだれがヘドロみたいなブスやねん。
//としたほうが、わかりやすかった。
//
// <前書き>MAGA…Make America Great Gidayuは、今の
//若い人にはわからないと思うので、やめた。
//
// <2>神話化された天才のようだが…ナチュラルにそう…
//と、書く予定だった。<自分の神話化がうまいボブ・ディラン>を
//2章、8章、9章に書くとメモにあるので、前振りを忘れる
//痛恨のミス。
//
// <2>シドとの会話文をもっと増やすべきだった。
//
// <2>クレイジー・ダイヤモンドというシドの異名を書かなかった。
//ナチュラルに天才で、象徴したつもりだったが書くべきか。しかし、
//『ジョジョの奇妙な冒険』は、2部までしかちゃんと読んでない。
//ネットで「キング・クリムゾンの能力がわからない」と
//書き込まれることがあるが、ディオの時間停止とおなじようにしか
//考えてなかった。触れないことにした。
//
// <5>初期のギターリフは、ローリング・ストーンズ独自のものが
//あったと書こうと思ったが、初期しか知らないので、悪口のままで
//いいかとも思う。
//
// <5>出典を書かなかった。ま、わかるだろうけど。
//
//
// 評価 1名。7ポイント。 ちょっ。
//
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「早く浄土に行きたいと思わないのは、人間の煩悩だ」
あまり日常的に考えることではないかもしれません。でも、最悪のことはあなたの身にも起こりうるし、まだ起こってないことはただの幸運……などと書くと、これも一種の煽りになるのがなんとも難しい。
しかし、震災のような未曾有の災害となると、このような思想が必要になります。
多くの被災者が告白するように語っていた
「まわりでたくさん死んでるのに自分だけ生き残ったのはおかしいんじゃないか」
「みんなから惜しまれるようなとても良い人が死んで、自分のような人間が生き残ったのは間違いじゃないか」
などの声。
この罪の意識は、先の文に近い。
私が死んでないのは間違いで、自分でも逝きたいと思っているはずだ、と言いきかせ始めている。
死にたい、と思わないことのほうが異常だと、思い込もうとしている。
たしかに親鸞はああ言った(と弟子が残した)が、すでに何度も書いたように、無理なものは無理だ。
たくさん死んだ、その一人になるところだったのに、かろうじて助かった。もともと死にそうになった時間を経てきている。
死が、すぐそこにあった場所にいた。ほとんど死んでいた。死んだも同然だった。自分が死んでいてもおかしくなかった。だんだん、死後の側から、過去にありえた死を今語るという、浄土から見ることができるような言い方になってる。
助かるのは、自分じゃないほうが良かった。
一瞬で死んだ人に、生き残った苦しみのほうがましだから、生きて苦しめという、なんとも浄土真宗的な現世観。
生き残った人がもう一度、死に直面する必要はあるのか。
震災後、すぐなのか? 生き残った人は、早く死ぬべきなのか? 早ければ早いほどいいのは、だれに対してか。だれと比べてか? 早く死んであとを追わないと、死後の世界で遠いどこかへ行ってしまうのか。ちなみに浄土だけでなく、十万億土といってゼロが5個つくほどの死後の世界があるんですが、100年遅れて行っても、0.1バーセント先に行ってるだけなんですが。
その罪の意識は、自分は悪人だという認識です。どうしてもそう思ってしまうときもある。そういうときのために親鸞は言ったんです。
あんたが死ねば、良い人なのに死んだあの人も往生する。と思いがちだが、逆なんだ、と。
「善人なほもて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」
良い人はもちろん、浄土に行く。当然だ。ふつうの人でも思う。あんたも地獄には堕ちない。なぜなら、自分を悪と思ってるから。だから、あんたも浄土に行く。だいぶ、ややこしいが、天才・ウィトゲンシュタインでも悩むことです。
それより、あんたの気持ちはわかると声をかけてくる人が出てきたときのこと。その罪の意識を取り除いてあげよう。そのためには、こちらにあります数珠とお札をセットでお買い上げいただきます。今なら3セット買うともう1セットついてきます。そっちに気をつけろ、と。まあ親鸞が言うわけないが。
むしろ、震災のような非日常的な事態になって、初めて意味を持つ言葉だということだ。もう一度、客観視するために。浄土という外部から、自分を振り返るために。
死にたいと思う気持ちが、善でも悪でもあるときはない。混在しない。どんな事態でも「この人を死なせちゃいけない」と思うとき、それは善です。それでいい。そのために何ができるか、は悪になるときもある。それを<良い悪>などということはだれにもできない。
「死なせたくなかった」は、タイム・リープの物語のためにあるとでも思っててくれ。そういう物語で、泣いてくれ。だから物語は見れる、見られるが、しかし人は過去を「死なせちゃいけなかった」と改変前提で見ることはできない。見る、という世界に距離をとることが、どういう状態ではないのかは、ウィトゲンシュタインが簡単なイラストを書いて説明してます。有名な一冊めの本にあります。
言わずもがなのことだが、ウィトゲンシュタイン教の布教じゃないし、災害のときに浄土真宗以外に頼るものはないと、ここまで書いてきたつもりはありません。親鸞を勝手に引用してますが、ここは、なろう。サブスクもいりません。
むしろ、かける言葉がないというのが、あの震災を外から見ていた人たちの気持ちだったでしょう。
「がんばれ」としか言えなかった。
しかし、「がんばれ」と言われるのはいやだ、という被災者もいました。もう充分がんばってるじゃないか、と。がんばってるのに、この上、まだがんばれというのか、と。
でも、それしかかける言葉が見つからないから、そう言うしかないという状態でした。
「ジミーちゃん、がんばれよ」
「おまえもがんばれよ」
ファンの人や一般の人に声をかけられたときに、タメ口で返すというギャグ。
大阪のお笑い芸人のギャグです。明石家さんまの弟子のような立場の、見た目は巨大なニホンザルで動きがじっとしていなくて野生ではすぐ見つかりそうな不利な生態で、でも温泉に入ってじっとしてたら区別はつかないかもしれないがもちろん人間です。「やってるやってる」というギャグもあります。画家でもあります。
「がんばれ」と応援されたのだから、感謝するのが当たり前なコミュニケーションなのをまぜっ返すという笑い。
これで、どうですか?
被災者に「おまえもがんばれよ」と返されて、感謝しないとしたら、そいつは偽善で言ってるだけのインチキNPOみたいなもんと思っていいのではないか。どうでしょう。
広島カープの前田という野球選手|(数年前に引退しました)。天才バッターということは、オールスター・ゲームでパ・リーグのベンチからイチローがわざわざ話を聞きに来たってことで一気に広まりました。しかし、彼はケガが多かった。足首、ひざ、アキレス腱、ちょっと復帰したと思ったら、またケガしてずっと二軍にいた。何年もそうだったので、腐ってしまったというより、笑うしかない状況だったようで、捨て鉢な態度をとるまでになるほどあきらめてはいなかったが、山本浩二がテレビ番組で取材に行っても、半笑いで冗談交じりの会話しかせず、まあ野球やってないんだから話すこともないんだろうが、そんな感じだった。
山本浩二は、ミスターカープと呼ばれるホームラン王も獲得した往年の名選手。それが、ずっととても悲しそうな顔をしてた。前田の半笑いの受け答えに、笑いもせず、とり合わず、でも同情もせず、ただただ「まだ行ける」ということを弱弱しくいうだけで、本当に悲しそうだった。冗談ともいえない冗談を受け流しもせず、おまえはケガさえなければ俺なんかよりすごいんだから、と言いたそうなほど低姿勢というか、先輩らしい態度もなく、話を聞くことだけでもあきらめないといった様子で、会話を続けていた。
これ、「がんばれ」しか言うことは無かったんだろう。でも「がんばれ」とは言ってなかったと思うが。ミスターカープがどのくらいの選手かは筆者にもわからないんだが、ふつうの人が「がんばれ」しか言えないのは、これでわかってほしいと思う。
その広島でも甚大な被害となった、二〇一八年の西日本豪雨災害。
その当日に、自民党の議員たちが酒盛りしてたのは批判されました。しかし、もうこいつらはあきらめたというか、こいつら本当にどうしようもねえな、というか。
非難の声より、軽蔑されていた。
それ以前から、下痢三の幼稚さは指摘されていた。雑魚議員のように野次をとばす。自分がしゃべりたいことは、南アフリカのインチキ手話通訳のように馬鹿みたいに手を動かして大げさにしゃべる。汚友達議員の失態を追及されるときは、バケツを持って立たされてる小学生のように、机から手を離さないで下を向いてしゃべる。
さらに、無能さ。ごはん論法とかいう、論理もクソもないごまかし。「朝ごはんは食べましたか?」「ご飯は食べてません(パンは食べたけど)」(とけてながれりゃみなおなじ、で検索)。
さらに更に、汚物化。官僚まで乞食化。明らかな不正への尻拭いの追及(まただ)なのに、こいつが、マスコミに咬みつくようにインタビューに答える。組織|(テレビ局)に守られてる糞アナウンサーでもそんなことまで芸人にしない。自分の理解を越えてる事件は何でもフィギュア・オタクのせいにする糞コメンテーターのキモイちびみたいな顔して、なにを言ってるのか。下痢舐め乞食の糞チビ眼鏡が、良い大学出てやることそれかよ。カーストなんて、昔のギャルがチョベリバなんて言ってなかったのと同じで、まったくその通りってことはないんだろうけど、こういうのが上級か?
人間として、カスである。
しかし、まだ最低限、人間だ。
だが、自然災害のときに、被災者の国民の気持ちもわからず、浮かれて呑んだくれてる。赤い顔してマヌケな集合写真とってる。
あの酒盛りは、カス以下である。それまでの馬鹿にした感じとはちがって、下痢三とその周辺に対する嫌悪のような、口にするのも汚らわしいような侮蔑が広がった。
魂の次元の軽蔑。
大和魂の持ち主の話はすでにした。では、貴族の時代の前は、だれを代表とし、だれが持っていたのか。
シャーマンである。呼び方は文化人類学のそれだが、そういう役目の人だ。
もちろん、日本だけの特徴もあった。自然の豊かさ。砂漠の国で生れた宗教は、子供をいけにえに差し出せなどの厳しい教義を持つ。日本だと『一つ目小僧』に柳田国男が書いてるようなこと。物産としても、南アメリカ大陸からジャガイモがくる前のアイルランドのような北方では、豚は食べないとか教義に則した儀式を経ないと食べられないとか言ってられないし、禁猟期間や神の領域などの指定もないんじゃないか。あんまり調べてませんが。
でも、縄文時代が何千年も続いたってことが、豊かさ、温さの証明ではないか。どんぐりをひろって、栗を育てて、魚を釣って、鹿をしとめて、ずっとできてた。
それでも、やることはある。平安の貴族たちは、女にモテる必要があった。なぜか。
人間の性愛に交感して、自然界の繁殖も盛んになるから。
シャーマンはもっと直接、自然の声を聞いたり、人々に伝えていた。系統は同じである。
しかし、自分たちがやってるやってるだけなのに、それでまた実りがもたらされるとは、どういう考えなのか。とにかく、それだけで収穫が期待できると思えるような環境って、世界で見ても恵まれてる。
その時代に松方弘樹がいれば、女に行ってたろうけど、500キロのマグロも釣ってたろう。1メートルのヒラメを三内丸山では食べてたらしいから(骨が出てる)、まちがいない。
さらに梅宮辰夫がいたら、もっと女に行ってたろうけど、どんぐりの粉で作ったパンももっとうまく作っただろう。工夫して、お好み焼きみたいなものも生み出したろうし、その辺の葉っぱで漬物だって作っただろう。
悪いことに、安岡力也がとなりの村にいても、村の女は行かれるかもしれないが、こっちから漬物を出してホタテと交換すれば、ヤクザの抗争はもちろん、部族間の争いにはならない。
何千年もつづく、生温い共生。
熱帯のジャングルのほうが、もっと豊かと思うだろうが、一様すぎて擬人化もできないんじゃないか。相手として認識できない自然との交感より、ほかの部族との交換自体を祝祭的にしたのではないか。
とにかく、「萌え」などというぬるい(性愛をともなう)感覚が、現代のわれわれにも残っている。車を愛称で呼ぶ、調子はどうかと話しかける、ペット以外でも物に名前をつける、女子高生が雑貨にまで「かわいい」という。幼稚な遅れた行為ではなく、親愛の情がわく古い理由がある。
われわれは自然に馴れ親しんでいる。山川草木、命あるものと交信できる(オカルト以外)。ていうか、悪魔までカワイイ意匠にしてしまう民族である。
たまの災害はある。それだけに一大事である。天罰という考えにもなりやすく、しかし、愛のむちとも思うから我慢強い。それだけでなく、自然のほうの不調を心配する。
だからこそ、災害のとき酒かっくらってただれたような顔でのぼせ上がってる連中を、自然との関係が切れたゴミどもと思う。人と人との関係については言うまでもない。キレてます。
非難囂々より、低い批判の声になってたのは下痢一錠もとい安倍一強のせいではない。
こいつら人間じゃないからだ。言っても無駄だから。
魂がない。
抜け殻だ。
抜け殻に声をかけても通り抜けてしまうから、軽蔑、怨嗟、侮辱など、強い反感があっても、声高にはならなかった。
見限っている、こいつら地獄の堕ちると思ってる、と言ってもよい。
ヤクザがやる支援のほうがまし。
ほかにも、偽善でいいからやるほうがやらない善よりもまし、などと発言する、下痢のように臭いタレントもいた。
で、やることはだれも知らないクソみたいな歌。口パク蛸踊り。海から津波きたっつってんだよ。
売名で、おまえが儲けてんじゃん。
偽善でやるやつは、自分が被災者になったら、自分のものは隠して「無い」と言う。必ずそうなる。偽善とは見せかけだから。だから、口パクができる。
それよりも、アコードゥン奏者のcobaが、慰問に行って被災者が歌うのに伴奏をつけた話はよかった。アコードゥンは、昭和の頃、のど自慢のテレビ番組で使われてた。今どきの人には信じられないだろうが、楽器はそれ一台というか一人で、素人参加の歌番組が成立していた。だから、cobaは伴奏の楽器と思われるのがずっといやだったそうだ。リードもできると、ヨーロッパではちがうと。それでそういう仕事はやったことなかったが、慰問に行ったら求められて仕方なくやったそうだ。でも、被災者がうれしそうに歌う笑顔を見たら、自分のこだわりなんかちっぽけなものだったと思ったと。せめてこれくらいの悪と善が逆転するエピソードじゃないと。宣伝しに行ってんじゃねえよって話だ。
せめて被災者もみんな知ってる槇原敬之の「ドゥンなときも」くらいの持ち歌があるか、カバー曲を歌うかでもしないと、みんなポカーンてなるだろう。
え? 今、だれか大阪の芸人が通った? いや、そんなことないと思うけど。
え? あきれてものが言えない? まあ、お笑いでそうなってるうちはましでしょう。