『ぼくはプレスリーが大好き』片岡義男
「た・れ・な・が・し」 こんばんは、滝川クソシテルです。
では、続いてアメリカからの衛星中継です。どうぞ。
はーい。こちらニューヨークの服部まんこでーす。まーん。
こちらをご覧くださーい。
パパ「わしはイヴァンカボンのパパなのだ。となりの国に塀をつくるのだ」
イ 「パパ、かっこいー。それからね、Q-Tipみたいに頭の小さい大統領が毒ガスを使ったらしいんだよ」
パパ「なに? わしはたけしよりタモリが好きなのだ。毒ガスにはサンセイのハンタイなのだ。空爆するのだ」
イ 「わーい、ありがとうパパ。それからね、日本が貿易ですごく儲けてるんだよ」
パパ「ニッポンのじじいは、わしをほめてくれるのだ。カネならたくさんあるから、これでいいのだ」
ゲリ「ノーベル賞れすか~、ゲリゲリピ~」
あきえいぬ「ワンワン」
――恵美子、安部下痢三小学校の校庭からゴミが出てきたんやて。
――あたし、かしこやから知ってんねん。校門からも出るで。
――ぶりゅぶりゅって?
――そんなんええねん、騒動のことや。なんなん、マラドーナやから人を鉄砲で撃つようなことするん? サーモンやからて人を値踏みするようなことしてええんか?
――いくら?言うてね。
――うるさいねん、腹立つ顔してるわ、お姉ちゃんも田中も。
――田中はおらんかったやん
――コンビは一緒や。ほんま腹立つ。
――それより恵美子、M-1には、あんたよりブスのハーフのアナウンサーが出てたやん。ペラペラのアホ短大の謝恩会でアホの子が着るような安もんのドレス着た、なんたら言う汚い名前の子。タレントが司会やって、紹介VTRも流してたんやから、あの子いらんやん。しゃべる意味あったん? ハーフやからテレビ出れてるのに、ハーフで見ても性格きつそうなブスやろ。いらん説明の係が、ハーフやからて出るんなら、もっとそれなりの名前にせんとあかんわ。
――せやな。ドイツ系らしいから、ヒットラー歩美とかな。
――でも、日本とのハーフやから日本のテレビに出れるんやで。ドイツとポーランドのハーフやったら、だれやねんて話や。やっぱり日本も強調せなあかんやろ。
――そしたら、ヒロヒト歩美やな。
――そうやなかったら、邪魔なだけやで、あのヘドロ歩美。
――ほんまやで。て、だれがヘドロみたいなブスやねん。また腹立ってきたわ。あたしをだれや思てんねん、ナニワのプレデター・上沼恵美子やで。なめとったらケツの穴から手突っ込んで奥歯ガタガタいわしたあと口の中からもう一個口が出るみたいにシャーッて咬みついたろか。
――それエイリアンやん。
以上、ニューヨークから服部まんこがお送りしました。スタジオにお返ししまーす。
「や・ぐ・ち・ま・り」 以上、滝川クリトリスがニュースをお伝えしました。
……この手のギャグは、削除されるかもしれません。だから、目立つあらすじのページでなく、ここに書いたんですが。
メディアの力関係か、政治的な力なのか、わかりませんけども、陽の目を見ることはできるんでしょうか。干されるより前、ガチャが外れる前なのに、腐ってしまったりして。
なろうは、10代だろ。
読んでる層は40代がメインと言われてますが、15歳以下は移動してください、などが面倒で、実際の年齢は登録してないんでしょ。webメールのアカウントに仮名を使ってるのと同じでしょうね。
だから、頼んだぞ。活字で読みたい、とか発信してくれ。まあ、次の小説の形式のものからになるけど。
少なくとも、友達には広めてくれな。スクール・カーストという、かなり単純化した集団の把握がされてるようだが、組織ってそんなもんじゃないだろう。陰と陽だけなら、グラウンドを使う運動部同士の序列を表せない。リア充と貧では、勉強しなくても成績の良いやつと、試験では高得点だがなぜか先生には印象が悪いやつと、生徒会でキョロキョロしてる良い人と、できないガリ勉君のカテゴリー分けができない。成績がいいと、先生のお気に入りや学校側の人間と見なされるが、それが嫌なやつはどうするのか。それでもって笑いが好きだと、不真面目と思われて、リアルの不謹慎狩りの標的。コミュ障は、先生がくそつまんない無駄話で授業をつぶしてくれたとき、喜ぶ人か?つまんないから黙ってる人のことか? おもしろいと言われてる先生に、おもしろい人がいた試しは昔からないんだが。つまんないことをつまんないと言えないのは、大きい芸能事務所にいるからつまんない芸人でも司会ができてるテレビ番組で、おとなしくしてるおもしろい若手芸人に似てるが、学校ってそんなことを学ぶところか?
昭和から活躍するタレントが老害と言われ、長寿番組が消えていく平成の終わりに、過去の物語と、その不成立のわけを語るのもいいと思う。そして、考えてみるとなんか違うだろ、こっちのほうがおもしろいんじゃねと思えることを、未来の話で語ってみよう。
では、お楽しみください。
01-『ぼくはプレスリーが大好き』片岡義男
青空文庫では『プレスリーから始まった』となっています。
筆者が所有するのは角川文庫の赤い背表紙も色あせた『~大好き』のほうです。内容は、単語の言い替え(ご時勢ですから、作者に何の偏見もなく、むしろそういう用語によってこの時代から既に背景じゃなくて本質の問題だと書いているわけですが)のほかは同じもの。後書きの追加のみのようです。
ところで、著作権は牛のよだれのように期限の引きのばしが何度もされていますが、当然、現在も現役の作家である片岡の作品も引っかかるので、コピーライト・フリーでネットに上がっているのはおかしなことになります。
と言うより、昭和のころにはそれこそ角川映画で何度も実写化された売れっ子作家も、今の人には知られてないかもしれません。とんとご無沙汰、という人たちも、昔のイメージの、軽い、都会的な、流行の、外国っぽい雰囲気の、恋愛小説ばかりで売れてた人が、いまどきの流行に乗り遅れまいと相変わらずの軽いフットワークで、とにかく現代のテクノロジーに対応したとしか思わないかもしれません。いわゆるトレンディーと言うと、また時代遅れ感が増してしまいますが、それにしても青空文庫という場所はおかしい。かつてのおしゃれなイメージとは遠いところです。
もちろん、前振りとしてこのような軽薄な表現を選んでいるんですが……。
ちなみに『プレスリー~』は小説でなく、長編評論です。
ちょっと本から引用しましょう。当時はこんなカタカナの名前はまったくわからなくて飛ばして読んでて、当時からでもさらにさかのぼったアメリカの古い曲など調べようもなかったんですが、今はいいですね。
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ティーンの世界と、両親に象徴される大人の世界とは、変化していく社会が生んだ、対立する異なった価値だった。ロックンロールにも、このふたつの価値は、持ちこまれていた。一九五〇年代の後半、特に五六年から五九年にかけて、この事実が目立った。
エルヴィス・プレスリー、ロイド・プライス、リトル・アンソニー、エヴァリー・ブラザーズ、エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセント、バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ザ・ドリフターズ、ザ・シルエッツ、フィル・スペクターたちがひとつの価値だとすると、これに対立する、従来どおりの、なんの変化も改革もない、つまらない大人の世界の価値として、コニー・フランシス、ニール・セダカ、ボビー・ライデル、ボビー・ヴィー、リッキー・ネルスン、フランキー・アヴァロン、フェビアン、ポール・アンカ、パット・ブーンたちがいて、彼らのすこしもすぐれてはいないロックンロールは、すぐれたものとおなじように、そして時にはそれ以上に、売れていた。大人の世界の価値のほうが、ティーンたちのそれよりまだ力がはるかにまさっていたからでもあるのだが、ロックンロールのいまだ力の足らない部分、社会的な広がりを持った影響力が欠けていた部分に、テレビの力が、ものをダメにする力として働いたからでもある。
(『ぼくはプレスリーが大好き』)
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いいよな、ちょちょいと検索できる。映像が出てくる。今は動画って呼ぶらしい。
1980年代、本屋の文庫本の棚で片岡と同じように幅を取ってた大薮春彦の作品も、筆者は同じように読んでいました。ひまつぶしの多読にぴったりというわけではなく、同じ種類の文体を感じて。
乾いたユーモア、ドライな人間関係。片岡の一見おしゃれな外見のその裏にはそんなものがあると思っていました。タフガイノベルと言われた大藪作品の、破壊的で血みどろで、暴力とセックスの世界が、ハードボイルド小説にジャンル分けされがちなほど、孤独な男の物語であること。タフガイな主人公は、バトル無双ではなく、ピンチになると小便を漏らして命乞いをし、警察ともヤクザとも手を組み、どちらも裏切り女も捨てて、甘い感傷などないこと。ついでに、初期は肉!肉!肉!で強靭な身体を作り、体力もそれで回復してたのが、あとになると小松菜を茹でて冷凍してたのやニンジンやら何やらで具沢山のスープを自炊して、健康にも気をつけるようになって、ちょっと笑ってしまうんですが、でも合理的な変化だ。
硬質な文体に象徴される、クールさ。日本のほかの小説にはない、共通したそんな空気がありました。
たぶん、片岡義男はこの本を書いたとき、精神の危機に陥っていた。それをじめじめとしたしかし神など信じてもいない懺悔でなく、激越なしかし責任転嫁でしかない告発でもなく、文明批評の書にした。自らのバック・ボーンを探り、確かめ、その揺らいでいることを根本から問い直して、時代あるいは文化全体の行き詰まりの批判をした。アメリカは有罪かと問うた。ションベンちびりながらも敵をだましごまかして何とか反撃の機をうかがう大藪作品を思わせないか?思わないかもな。
<メンヘラ>の呼称は2ちゃんねるが元になったようです。今の5ちゃんねるでも自殺スレが立ち、ワン・センテンス・レスで煽る芸スポ板から来たようなノータリンもいれば、なんとかやめさせようと自分の体験談まで書いてる人もいます。
片岡がこの本を青空文庫で公開したのは、あるいはタフでないと生きられない世界を思ってのことかもしれない。ネットでなら、そんな世界で壊れそうになっている人にも届くかもしれない。もうネットしか居場所がなくなっている人に、タフであれと言いたかったか。汚い大人の世界をしつこいほど追求するが、今よりもっとひどい時代の話でなぐさめるのではない。そのころにも苦しみながらも何かを見つけようとしていた若者たちがいた、その声を伝え、それぞれの姿を描く。彼らはラジオで目覚めたんだと。音楽で救われた。目覚めさせてくれた肝心のプレスリーはその後どうなったかというと、あれだけど……。
こんなのは批評ではないかもしれない。言説として作者の主張を捉えず、文学的、歴史的、社会的分析もせず、読み手の印象で、作者の心情を忖度する日本的態度が、ホットなプレスリーとも、クールな片岡の本ともそぐわないかもしれない。
ところで「批評とは…?」と訊かれてなんと答えたくなりますか。また少し引用。
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ただ、この種の作業のくり返しが、この世界に存在するモノとヒトをそのまま認め受け入れるところまですすむのかというのはおおいに興味のあることなのだ。つまり芸術の末路というか行く末には興味はあるということであったのだ。ところが、実際につくっているかこわしている人間は、そんな芸術の行く末のためになにかしているなんて勿論思わない。とりあえず、その時しなければならぬことをしているだけである。それが商いになるかどうかを考える余裕はない。他人の評価を気にかける余裕はない。その時代の批評家は、つくるかこわすかする人間以外のためにしか解説が行えないだけの話である。
(『詩よ歌よ、さようなら』富岡多恵子)
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なんか聞いたことあるなあ、どこかで読んだことあるなあって人、これからはソースが出せますね。
はい、論破。なんてことはタフでもなんでもないってことは、読む前から知ってただろうけども。
プラス・マイナスの価値付けを考えるなら、数学になる。
そして、天才数学者・ウィトゲンシュタインによると、論理定項は論理を反映しない。演算子はそれ自身なのだ。
ということは、批評家にマイナスと付けられたあるモノは、その批評家をマイナスとする人によっては、プラスに転化されない。だから、あるプラスの評価は、その評価者に関わらず、例えばその人が論破されたとしても、元の批評に対する反論が正当か、元の作品に対する改めての批評が正当かの、項でくくられた上での批評の吟味が必要になる。つまりカッコの中の符号を外の符号の付加によって操作しようとしても、記号はそれ自身であることを変えない。批評家の批評をした人も、そのものを見ての価値付けをしないなら、マイナスに引っぱられただけの、非批評家だ(ひが多い)。
小説も輸入品なら、批評もそうだったというだけのこと。ヨーロッパの自然主義小説が、日本に入ってきてどう変質したのかは、何度も語られてますから、薄い文庫本の良い決定版まであります。すぐ見つかるから、そっちを読んだらいい。付けられた批評にむちゃくちゃ激怒したのは太宰治が有名です。あと丸谷才一も翻訳に文句付けられてやり返してましたが、そのへんについては省略して、小説の話はまたあとで。