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そこまで嫌がらなくたっていいのに。

 ベルニージュは本を読み、レモニカは寄り添い、ラミスカは焚火を挟んで、ユカリが泣き終えるのを静かに待っていた。ひとしきり泣き終えるとユカリは晴れ晴れとした表情で顔を上げた。


「すみません。嬉し過ぎました」とユカリは宣言する。

「え? 嬉し泣きだったの?」とベルニージュが他の二人の言いたいことを代弁する。

 随喜の涙を拭ってユカリは答える。「うん。どちらかといえば嬉し泣き」


「ちょっと、良ければ説明してくれる?」とベルニージュが呆れたように言う。「屍の灯は誰の姿も映し出さなかったようだけど、いったいユカリは誰を想像してたの?」

「私の義父です」ユカリは焚火を嬉しそうに眺めて言う。「生死不明だったので、ずっと気にかかっていて。でも煙は義父の姿を映し出さなかったから、おかげで生きていることが分かりました。ありがとうございます。ラミスカさん」


 ラミスカは優しい微笑みを浮かべて頷く。


「どういたしまして。そういうことだったんだね。生きていたなら、良かったじゃないか」

「はい」ユカリは感無量という面持ちで頷く。「突然ごめんね、ケブシュテラ。訳わかんなかったよね」


 焚書官の姿のレモニカは何も言わず、ただ首を横に振る。


 ユカリはラミスカに目を向けて言う。「そういえば、ラミスカさん。紐はありましたっけ?」


 ユカリは見逃したのかもしれないが、確か組紐があったはずだ。レモニカはラミスカの雑然とした籠の中を思い出す。


「あるよ」と言ってラミスカは籠の中を漁りだすと、砂糖の革袋を取り出し、口を絞っている革紐を外してしまった。「はい。安くしとくよ」

「駄目ですよ。砂糖が湿気ちゃいます」とユカリは遠慮する。

「構わないよ。多少湿気たって売れるからね」

「でも、紐を買うだけでそこまで迷惑かけられないです」

「気にすることないってば、あたしが良いって言ってるんだから良いんだよ。多少砂糖の値段が安くなるだけさ」


 二人の問答を気にせず、ベルニージュは本へと視線を戻す。


「分かりました! じゃあ砂糖ごと売ってください!」

「まいどあり!」


 レモニカは恐ろしさのあまり口を噤んだままだった。




 ラミスカが去ると一行は、赤い土と岩が露わになったサンヴィアの大地を歩き始める。北の果ての悪霊が寄越すという冷たく濡れた風が吹く。何者かの嘆きの如き風に抗うように三人は突き進む。

 茜色の円套(マント)をはためかせるベルニージュが前を歩き、少し後ろをユカリが続く。レモニカは心配をかけない程度に距離を取って二人について行った。


 どこまで離れたところで、レモニカの身に潜む邪な呪いは最も近くにいる者の最も嫌いな姿に宿主を変身させる。今のところずっと、ユカリの想像上の実の母の姿、焚書官の姿にレモニカは変身していた。それは他人の心を露わにしてしまう不躾な呪いでもある。


 一方ベルニージュの最も嫌いな生き物は男、だそうだ。レモニカはまだ一度もベルニージュの最も嫌いなものに変身していないが、本人に口頭で教わった。言葉を選んではいたが要するに、近づかないでくれ、と言われたようなものだった。当り前のことだろう。他の人がどう思おうと、どんな姿であれ、本人にとって最も嫌いな生き物に違いないのだ。


 それなのに、どうしてユカリはレモニカを旅に誘い、ベルニージュはそれを受け入れたのか、その意図するところがレモニカには分からなかった。


 その日の旅程を終えたのはお喋りをし過ぎたユカリの喉が枯れた頃、生者も死者も棲まない原野にたどり着いた時だった。太陽は乳白色な朧に輝き、一日を終えるにはまだ早かったが、これから通り抜ける土地に少し問題があった。


 一行がたどり着いたのは立ち昇る煙が凍り付いたような奇妙な巨大岩の(なら)ぶ土地だ。林立する岩の柱のために辺りは昼間も薄暗く、太陽が傾けばかなり暗くなってしまうことが予想できる。地面に転がる岩も歪で、注意深く歩きつつ、この土地を夜が訪れる前に通り抜けるには今少し時間が足りなかった。


 古くよりこの土地に人の近づかない理由は他にもある。厚い雲の覆う灰色の日には亡霊が集うとされ、月の明るい夜には異端者が宴を開くとされ、霧の濃い朝には柱の如き岩の姿が失われるという。奇妙な岩の形が人の想像を掻き立てるのか、それ以外にも多くの伝説とも言えない噂があったが、共通して人を遠ざけるおぞましい物語だった。


 そうとも知らず一行はある柱のそばに焚火を熾す。柱の間を通る風の不気味な唸り声を聞きながら、芋と魚と林檎を食べる。砂糖の使い道はまだない。


 ベルニージュは何やら簡単な結界とやらの準備をしに焚火から離れ、残された二人で眠りに就く身支度をしていると、鼻歌を歌っていたユカリが秘密を話すように静かに言う。


「ケブシュテラ。お願いがあるんだけど」

 レモニカはびくりとして、そうしたことを気取られないように慎重に問いかける。「はい。何ですか?」


 ユカリに革紐を手渡される。行商人ラミスカから買い取った、あるいは売りつけられたものだ。


「私の髪を結って欲しいの」


 ユカリはいつも使っている組紐を外しており、長い黒い髪を下ろしている。狩り装束であることもあって、凛々しい見目だとユカリを評していたレモニカだったが、年頃の乙女でもあるのだと思いなおした。


 レモニカは驚き尋ねる。「え? わたくしがユカリさまの御髪(おぐし)を? どうして、ですの? いったい何のために?」

「魔導書の話はしたでしょ。今は禁忌(ユカリ)文字の元型を作っているって」


 今日の旅程の間にユカリとベルニージュの旅の話はある程度聞いていた。正直なところ信じがたい話ばかりだったが、一切傷つかない紙の束を見て、レモニカは信じることにした。


「あの、林檎で作った【豊饒(ガジェ)】もそうですのよね」


 レモニカはクオルの嫌っているらしい鼠の姿に変身して、禁忌(ユカリ)文字を林檎に彫り刻んだ。すると眩い白い光が放たれたのだった。それこそが魔導書の衣の完成に一歩近づいた証なのだという。


「そう。それでね。魔導書の衣の一節に”緑髪を結いて”っていうのがあるんだけど、黒髪は私の髪しかないでしょ? だからケブシュテラに私の髪を結ってもらいたいなって」

 レモニカは少し怯んで少し仰け反り、尋ねる。「なぜベルニージュさまにお願いされないのでしょうか? ベルニージュさまの方が魔法にも禁忌(ユカリ)文字にもお詳しいのに」


「うん。お願いしたんだけどね」ユカリは後ろを振り返り、何かを探すように辺りを見回す。柱の岩の間には奇妙な形の影が佇んでいて、その奥からは風の奇妙な唸りが聞こえるだけだった。ベルニージュはまだ戻って来ていない。「ベルって、ちょっと不器用みたいなんだよ。他はそうでもないのに、髪を結うとなるととんでもなくて。で、負けず嫌いでしょ? 負けず嫌いなんだよ。”緑髪を結いて”の解釈が間違っているんじゃないか、ってずっと唸ってるの。解釈も何もないじゃない。ベルの作った文字が下手なだけだよ、って言えないじゃない?」

 レモニカはおずおずと指摘する。「もしわたくしが結って上手くいってしまったなら、結局そう仰ったようなものになるのではございませんか?」


 ユカリははっと気づいて答える。


「確かにそうかも。でも、まあ、直接言われるよりは傷つかなくて済むと思うんだ」ユカリは小枝を拾って地面に文字を書く。「【鋭敏(イネラ)】っていうんだけどね。こんな、花にとまる蝶みたいな字形。確かに複雑ではあるんだけどね」


 とても髪型とは言えない形だ。このような髪を作る人は後にも先にもいないだろう。

 しかし、やはり。


「それでもベルニージュさまに頼った方が良いと存じます」


 それだけ言って焚書官姿のレモニカの鉄仮面は俯く。実母のそのような姿を見てユカリはどう思うだろう。レモニカの胸がずきずきと痛む。たまらず立ち上がって、ユカリが口を開く前に思いつくままに言う。


「わたくし、ベルニージュさまの様子を見て参りますわ」


 そんなつもりはなかったが、他に上手い言い訳も思いつかなかった。


 松明の明かりから逃れる影のように、レモニカは柱の岩の間をさまよう。どこまで歩いてもレモニカは焚書官の姿で、レモニカの一番近くにいるのはユカリだった。


 後ろめたさと情けなさでたまらなくなり、捻じれた樫の木のような岩にもたれかかって(うずくま)る。冷たい風は砂埃を伴い、惨めなレモニカを嘲笑うように容赦なく吹きつけた。


 その時、周りの柱が天高く伸びていくことにレモニカは気づく。否、己の体が縮んでいるのだった。手足、体を見る限り、それは鼠の姿のようだった。鼠を最も恐れる者は多々いるが、今ここで出会う可能性のある心当たりがある人物は一人だけだった。

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