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不安になるのも仕方ない。

 【追跡(ルピシャミス)】を完成させた次の朝。可憐で愛らしい本当の自分という他愛ない夢想でさえも凍てつくはずの冬の野宿にしては、満たされるような温もりに身も心も包まれていることにレモニカは気づき、満たされた一日を終えて眠りにつく時のように目覚める。寒々しい風の絶え間ない木立の縁で、自由を得た最初の一晩を経てなお火花を散らして焚火が勢いを保っていることと、救済機構の焚書官の姿に変身している自分の腕をユカリが抱き締めていることがその温もりと幸いの理由だった。


 このように人に触れたのはいつ以来だったか、人の温もりを感じたのはいつ以来だったか、レモニカには思い出せなかった。


 ユカリを起こさないようにその腕から逃れるようにゆっくりと身を起こし、紅の髪の魔法使いベルニージュの姿を探す。サンヴィア地方には珍しくもない遮る物のない寂しい荒れ地の風景には安らぎも人影もない。


「おはよう」とベルニージュに後ろから声をかけられ、飛び上がりそうになる。「よく眠れた?」


 慌てて振り返ると、ベルニージュは枯れた倒木に腰かけ、膝に何かの本を広げていた。温もりが十分ではないのか、単に齧りつくように本を読んでいたのか、少し背を曲げて丸まっている。


「おはようございます。はい。よく眠れました」レモニカは恐る恐る尋ねる。「あの、ベルニージュさまは、もしかして一晩中火の番をしてくださったんですか?」

「いや、ユカリと交代でね」そう言ってユカリに向けるベルニージュの眼差しには焚火よりも温かな光が宿っている。「コドーズが追ってくる懸念もあったから、見張りをしてたんだよ。まあ、道をそれてきたし、人除けのおまじないをしたから、よほど運が悪くなければ見つかることはないと思うけど」

「申し訳ございません」とレモニカの口を突いて出る。

 ベルニージュは本に視線を落として言う。「何に対しての謝罪なのか分からないけど。まあ、反省して悪いことなんてないか」


「しまった!」と言って飛び起きたのはユカリだった。「ベル? どこ行ったの? ケブシュテラ、おはよう。ベルを知らない?」

「後ろですわ」とレモニカはユカリの後ろに視線を向けつつ教える。


 ユカリは勢い良く振り返ってまくし立てる。「おはよう。ベル。何で起こしてくれなかったの? もう一回交代するって約束だったでしょ?」

 ベルニージュは鼻をすすりながら答える。「本を読みたかったから良いかなって」


「それならそれで、一度起こしたうえで断ってよ。まあ、でも代わってくれてありがとう」ユカリはレモニカと向き直る。「ケブシュテラはよく眠れた?」

「はい。お陰様で」

「それは良かった。朝ごはん食べる? というかケブシュテラは、その、何を食べる生き物なの? 昨夜は同じものを食べてたけど問題なかった?」


 ユカリはレモニカのことをそういう生き物だと思っているようだった。

 レモニカは、自分は呪いをかけられた人間なのだ、と告白するつもりはなかった。それに限らず、己のことを知られることに対して、レモニカの中には不安が渦巻いている。己の一端を教えることは、己の一端を握らせることに他ならない、と考えていた。


 今までにも何度か他人に伝えたことはあったが、同情を得ることはあっても、彼らの態度が変わることはなかった。何といっても最も嫌いなものが目の前にいるのだ。それは大抵の場合、最も信用に値しない存在でもあるだろう。ユカリのような特異な事情でもなければ、平静でいられる方が例外的なのだ。たとえそれが魔法によるまやかしの姿であったとしても、だ。


 レモニカは少し考えてから答える。「その、基本的には人間と同じものを」

「そう。基本的には、ね。例外があったら教えてね」


 ユカリにそう言われ、レモニカは叱られたばかりの子供のようにこくりと頷く。ちらと、ベルニージュの方を見ると、夜を見通す梟のような、何もかもを見透かすかのような視線が自身に注がれていることにレモニカは気づいた。その視線から逃れるように、レモニカは焚火の方へと視線を向けた。


「さあ、昨日と同じ味気ない芋と魚を食べよう」とユカリはやけくそ気味に宣言する。

 それに対して励ますようにベルニージュが付け加える。「林檎があるよ。食べるのに問題はないはず」

 ユカリは色めき立って喜びの声を上げる「そうだった! 林檎! 禁忌(ユカリ)文字を作るのに使うより、よほど価値ある使い道だね」


 ユカリは一呼吸置いてベルニージュに確認するように首を傾げる。


「……はず?」

「大丈夫だって」


 三人で倒木に並んで座って焚火にあたり、行き先の見えぬ者を励ます朝日が昇りくるのを眺めながら、真っ赤な林檎を食べた。先程までの不安そうな様子とは裏腹にユカリが真っ先に齧りつき、ベルニージュは短剣で切り出しながら食べる。レモニカも二人に続いて、鼠よりは大きな口を開けて噛みつく。安らぎに満たされるような瑞々しさで、幸せが無限に湧き上がるような甘さだった。甘いものを食べるのもずいぶん久しぶりのことだった。最後の時がいつだったか、レモニカはまるで思い出せなかった。初めて甘いものを口にした時の気分を改めて感じているのかもしれない、と思った。


「ケブシュテラはこれからどうするの? どうしたいとかってある?」とユカリが尋ねる。


 レモニカは首を横に振ることで答えた。したいことなんて何もないし、己という存在にしたいことなどあれば、それこそ烏滸がましいこととさえ思えた。


 しかし「何をしたいとか、どこへ行きたいとかないの?」とユカリに追い打ちをかけられる。


 何かを答えるまで問われ続けそうだとレモニカは気づく。しかし何もなかった。本当に何もなかった。

 コドーズのところから逃げ出したのはコドーズのところにいたくなくなったからで、それが全てだ。いま何かやりたいことがあるとすれば、コドーズから逃がれ続けることだ。しかしユカリがそのような答えを求めているわけではないことも分かっている。


「わたくしは、何も……。やりたいことも、行きたいところも、何もございません」

「そっかあ」ユカリは何でもないことのように呟く。「それなら、私たちの旅についてこない? コドーズから守ってあげられるし。ね? ベル。いいよね?」

「ワタシは別に構わないよ」ベルニージュは林檎についた自分の歯型を見つめながら答える。「でもワタシたちの旅がどういう旅かは伝えないといけないんじゃない? 場合によってはコドーズから逃げることよりも困難なんだからさ」


「それはそうだよね」とユカリは神妙な表情を作る。「控えめに言っても、安全な旅とは言い難いしね」

「安全どころか、危険な道を選んで進んでるとさえ言える」

「それは言いすぎじゃない?」

「言いすぎじゃないね。むしろ魔導書なんて関係なくてもユカリはそういう道を選びそう」

「ベルは私のことを何だと思ってるの?」

「不安な林檎に真っ先に齧りつく人かな」ベルニージュはユカリの表情を見て笑う。「冗談だって。魔法の類が一切ないことは確認済みだよ。不安なら魔法少女に変身してみれば?」


 ユカリは不貞腐れたふりをしてベルニージュから顔を背け、林檎を腹の中に片づける。


 進んでいく話の流れに手慣れぬ船乗りが掉さすように「でも……」とレモニカは言うが、何を言うべきかは分からなかった。

「え? ええ!?」と突然ユカリが素っ頓狂な声をあげる。


 レモニカは驚き怯え、自分に向けられたユカリの視線から逃れようとするが、よく見るとその視線は、レモニカの更に後ろの方へ向けられていた。


 レモニカが振り返ると、荒れ地の向こうに人影があった。すでにその人物が少女であると分かる距離にいる。見知らぬ少女が一人、日が昇ったばかりの荒野をこちらへ歩いて来ていた。

 見たところユカリやベルニージュと同じ年頃だ。レモニカはベルニージュの方もちらりと見るが、その赤い瞳には疑問を浮かべている。どうやらユカリだけの知人らしい。

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