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ひとのことも考えて欲しいもんだよ。

 冬の寒さと乾きに喘ぐマデクタの街の外れにある原で、ベルニージュは清冽な朝の空気から逃れるように、新しい焚火にあたる。無邪気に笑う火の粉の爆ぜる音に合わせて、おまじないの言葉を紡ぐ。ずっと前にトバールの鯨捕りに教わった北風を追い払う力ある言葉だ。


 味気ない芋の干物や堅い魚の乾物の行糧(かて)を摂りながら、最後に食した香辛料の馨しい活力に満ち満ちた肉の滴りをベルニージュは思い浮かべる。

 ずっと粗食ならばこれほど()むこともないだろう。しかしユカリは懐に余裕のある時にはきちんと良い食事を摂らせてくれる。それ故に前までは何とも思っていなかったささやかな食事が、いまではベルニージュにとっても我慢(・・)になってしまうのだった。


 二人は隣り合って焚火に当たりながら食事をしつつ、昨夜の続きを話し合った。結果、ベルニージュが次に作る禁忌(ユカリ)文字完成に必要な物を買出しに行き、ユカリは鎖を見世物小屋に返しに行くこととなった。


 東の空が昼の王を迎えようと徐々に白の衣を纏い始め、仕事を終えた盗賊たちが真珠や紅石を隠す(ねぐら)へと戻る頃合いになると、二人は寝静まるマデクタの街へと出かける。


「正午に市場で合流ね。調べたところ少し遠いから、ワタシの方が待たせることになるかもしれないけど」ベルニージュは体をねじりながらユカリに確認をする。

「石鏃なら私だって矢くらい作れるのに」とユカリは大あくびをしつつ愚痴る。「義父に、叩きこまれたんだからね」

「それは分かったってば。別に疑ってなんてないから。ただ単に手間でしょ。買った方が早い。それだけ」


 いまいち納得していない様子のユカリをベルニージュは見送り、二人は各々の用事のために別れた。

 まずは朝の市場へと向かい、林檎を求める。【豊饒(ガジェ)】を作るのに必要、だと仮定しているからだ。


 ベルニージュは街で見かける魔法を観察しながら、まだあまりはっきりとしない頭を目覚めさせようとする。冬の襲来に備えるための魔法。乾燥した日のための魔法。ありきたりな幸せのための魔法。すでに力を失った魔法の残滓。どこにでもいる街角の妖精、魔性。大いなる夜への祈りを示す、色濃い壁。小さな神々への感謝を示す、道の端の小彫刻。特別に目を引くものは見当たらないが、どれもその土地特有の工夫があって面白い。


 多くの商人の集う市場はこの寒々しい季節にあって、陽炎よりも多くの(のぼり)が立ち並ぶ砂漠の国の市場にも負けない熱気を帯びていた。行き交う人々はどのような儲け話も聞き逃すまいと耳を立て、より価値ある逸品を見逃すまいと目を光らせている。威勢の良いよく通る声で商人同士にのみ通じる奇妙で単純な用語が四方から四方へと飛び交う。


 土地の産物以外にも名品珍品が商われている。境目谷(ミジェラ)産の美々しい布に柔らかな緑の絨毯、砂漠の一輪のように目を引く衣装、トーキ大陸から海を渡った馨しい香辛料、バイナ海の奇妙な形の魚の干物や貝の燻製が所狭しと並んでいる。荷運びの馬や驢馬の熱い息が揺蕩い、異邦の商人たちの言語が飛び交い、不思議な空気がその市場に凝縮していた。


 野菜や果物を扱っている行商人もいたが、林檎は見当たらなかった。そういうこともあるだろう、とベルニージュはいくつかの行商人を巡ったものの、ことごとく存在しなかった。林檎は市場全体で売り切れていた。


「売り切れ?」そのことを教えてくれた行商人にベルニージュは詰め寄る。「売り切れって、どの商人も一つとして売ってないんですよ? それってつまり買い占めってことですか?」


 恰幅の良い中年の女商人は生えていない髭でもさするように顎を撫でて言う。


「そういうことさね。うちだけじゃなくて、他のところも買い占めなすったんだね、あの人は」

「どんな人ですか? 見た目を教えてくださいますか?」


 商人は品定めでもするようにベルニージュの旋毛からつま先まで眺めながら言う。


「たぶん、ありゃあ、魔法使いじゃないかねえ。変な模様の衣を着てたよ。あんたよりも、もっとね。あんたほど派手な髪色じゃあなかったけどね。それに、今にも倒れるんじゃないかって顔色の悪さだったんだ。心配したんだが、最後には元気に山ほどの林檎を抱えて帰ってったよ」


 見知らぬ忌々しい魔法使いを呪うほどベルニージュも子供ではない。仕方ない、とベルニージュはただ諦める。この世のどこにも林檎がないわけではないのだ。いずれ手に入るし、いつか一つ手に入ればそれでいいのだから、焦るようなことではない。しかし心の奥で何かが燻る。


 ベルニージュはもう一つ、矢を買うつもりでもいた。林檎のことは一旦忘れて、矢師を探しに商店街へと行くことにする。


 様々な狩猟具の職人が軒を連ねる狩猟具通りは市場からも、ユカリが向かった広場からも遠かった。職人たちは制作過程の一部を軒先で見せて、何の職人であるか、またその腕は如何ほどか披露している。火を使っているところもあるので市場以上の、ここだけ先に春が訪れたかのような熱気を帯びている。


 矢師は苦労なく、すぐに見つかった。熟練された素晴らしい手際で(やじり)()矢羽(やばね)を組み合わせ、僅かなおまじないを組み込んでいる。しかし矢はほとんどなかった。もしやと思ってベルニージュは恐る恐る尋ねてみる。


「もしかして矢は全て誰かに買い占められたとかじゃありませんか?」


 少し離れたところから尋ねるベルニージュを矢師はやや不審げに見つめる。


「おうよ。今にも倒れっちまいそうな女が買って行ったんだ」矢師は手を止めることなく、溌剌と答える。「卸先の決まってるもん以外は全て在庫がはけちまったぜ。一体何に使うんだか。どこかの傭兵団の一員か、あるいは酒保商人なのかね。俺は見ちゃいないが奇抜な馬車に乗って来たそうだよ」


 そう話している間にも矢師の手腕は別の生き物のように働き続け、素晴らしい技巧で新たな矢を作っていく。


「いま作っておられるものはいただけませんか?」

「一本だけかい? 別に構わねえが。といっても、いま作ったばかりのが、ひいふうみい。どちらにしても七本しかないが」

「七本全てください」


 七本あれば何とかなりそうだ。【追跡(ルピシャミス)】は丁度七画の文字だからだ。


 そうこうしている間に、そろそろユカリと待ち合わせの時間が迫っている。林檎をもう一度探そうかとも思ったが、一度市場に戻ることにする。もしかしたら市場に別の行商人がやって来ている可能性もある。


 正午に間に合って市場に戻ってきたが、しかしユカリの姿はなかった。さらに込み合って、活気が膨れ上がっている市場を縫うように巡ったが、林檎もなかった。


 ユカリを待っている間、暇なので、ベルニージュは手に入れた七本の矢を使って【追跡(ルピシャミス)】の元型文字を作ってみることにする。


 市場から人通りのない裏通りへ入る路地の端で地面に矢を置いていく。慎重に【追跡(ルピシャミス)】の文字を再現していく。最後の矢を置くも、特に何も起こらなかった。

 確かに歪ではある。矢の長さは一定だが、【追跡(ルピシャミス)】の文字の線の比率は一定ではない。それに一部は曲線だが、当然一本の矢では再現しきれない。なるほど同じ形になるわけもない。

 詩には、”矢に示す”としか述べられていない。ユカリの翻訳が間違っている可能性もベルニージュは考えたが、いま考えても仕方のないことだ。


 ベルニージュは七本の矢を拾い上げ、ユカリの姿はないかと市場に視線を戻す。沢山の人々が行き交っているが、とりわけ背の高い女の子の黒々とした頭は見当たらない。

 しかし似たような黒髪の女が市場にいることに気づいた。ユカリは組紐で髪をまとめているが、その女は長い髪をただ下ろしているだけだ。病的なまでに青白い肌の女は荷車に大量の林檎を積んでいた。行商人たちに注目されているが、まるで気にしていない様子だ。


 例の買い占め女に違いない。ベルニージュは後を追うことにする。

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