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また変な人だ、かなり変な人だ。

 野原の向こうにある沼地から湿った風が吹いていた。最後の春を追いやって、この地を緑の彩りに染めてゆく。夏の尖兵は容赦なく人の集まる町々を征服し、主の偉大さを知らしめる陽炎の旗を立ててゆく。


 大陸を東西に渡る交易路が、南北に縦断するミーチオン街道と交わる(ところ)に、風聞も届かぬ遠き異国から旅してくる行商人ならば誰もが愛し、行商の旅の際には必ず憩う南の宿場町(トメトバ)という城邑(まち)がある。


「そんなに大量の羊を連れてどうしようってんだ?」とトメトバの門を預かる門衛の一人にユカリは問い詰められる。

「売るんです。ここには売りに来たんです」とユカリは悪びれもなく言う。「トメトバはなんでも売れるって聞いてきました。ここへ来る道中、巡り合った行商のおばあさんや牛飼いのお兄さんに。この城邑(まち)で売れないのは霧か陽炎くらいのものだって。。」


 グリュエーは毛の薄い羊を脅かして、逃げださないように見張っている。


「それは良いが、許可証はあるのか? よその行商人は許可証なしにはこの街で商売など出来んぞ?」


 ユカリは目の前の門衛の呆れ顔を見、退屈そうな羊たちを見、門を出入りする人々や門衛と手続きしている隊商の一員が不思議そうにこちらを眺めているのを見る。


 ユカリは何も問題ないかのように尋ねる。「門衛さん。羊のご入用はないですか?」

「それは袖の下のつもりか? 羊など渡されても困る」門衛はため息をつき、しかしずうずうしい笑みを浮かべる。「せめて金をだな」


「すみません」とユカリは道行く人々に手を振り、呼びかける。「丸々と太った羊を譲るので、代わりにお金をください!」

 門衛がぶんぶんと振られるユカリの手を抑える。「馬鹿! 商売をするなと言っただろ!」

 ユカリは手を振りほどく。「まだトメトバに入ってないです!」

「屁理屈を抜かすな!」


 その時、隊商の一員が一人、ユカリたちの元へやってきた。若いが立派な髭を蓄えた男だ。


「お嬢さん。羊を街で売りたいの?」


 この状況ではどう考えても足元を見られる、ただでさえ老獪そうな行商人だ。しかし他に手もないのでユカリは交渉に乗った。何気なく風や羊を意のままに操り、はったりをかけたのは功を奏しようだった。多くの金貨を手に入れ、ついでに両替もしてもらい、合切袋を買った。


「色々と失礼しました」とユカリは門衛に声をかけ、銀貨を握らせ、トメトバ市へと入る。


 英雄物語の中に描かれる神秘と秘密に彩られた都市には及ばずとも、トメトバは人の野原に特有の魅力を持った交易都市だ。というのは妖精や怪物といった不思議の輩が姿を見せることはまずないが、代わりに四方の遠い国々の行商人たちが行きかい、彼らの運んでくる聞きなれない歌や祈り、嗅ぎなれない香辛料や煙草に満たされていて、ある種の不思議な気分になる空間が形作られているからだ。黄金を運ぶ象や偃月刀を身につけた護衛の傭兵、胡椒を運ぶ駱駝の群れ、それらを使役する隊商の一員、そういった余所者たちがトメトバを作り上げている。


「何をはしゃいでいるの? グリュエー」

「まだ春が残ってる。これから南に去るんだってさ」


 そう言って、グリュエーは罪なき吊るし看板を揺らしてゆく。


 ここには土着の文化も確かに息づいている。『石の樹』とあだ名される階段目地に積み上げられた石造りの物見やぐらは時を経て世紀を経て増築を繰り返し、城壁と一体化している。彫り物の少ない無骨な柱廊に並ぶ商店街に、吊り天井の影で催される行商市場。瑪瑙の舌を持つ小さき神赤衣の塩売り(ミッダーン)を祀る神殿から街を縦横に走る荘重な彫刻街路。大通りの脇に植えられた街路樹は全て鈴懸(プラタナス)である。しかし名士がこの街の多様性に捧げ、貢献するために、その植樹枡の彫り物は全て別々の彫刻家たちによって造られている。




 トメトバに入って数日たったある日、行商市場のそば、行商人のために開かれたかぐわしい屋台市の一つで、ユカリは昼食をとることにした。


 羊を売った金は有り余っている。大金と魔導書を片づける合切袋を買った後にも、鮮やかな各部を木綿の紐で繋ぐこの界隈の土地の伝統服や髪を縛るための組紐を買った。

 ユカリは屋台の主人に串肉を注文する。


「刺激的な香り。湿った風」とグリュエーが一人はしゃいでいるのを聞きながら、ユカリは串に刺さった羊肉にかぶりつく。


 香辛料に飾られた野性味ある羊肉の香りに好奇心を掻き立てられる。大口で肉を串から外して噛み締める。軽く焦げた表面と熱の籠った肉の歯応えに興奮させられ、滴る肉汁は舌と喉を満足させる。


 行商市場の方を見ると、先日ユカリが売ったばかりの羊がさらに別の商人と取引されていた。

 もしかしたらもっと高く売れたのかもしれないというけち臭い思考を追っ払おうと努める。ここまで羊を運んできた多大なる努力には値しない売値だったかもしれないが、羊の面倒からの解放を得たのだとすれば良い商いだったと思えた。


「この肉の香りはどう?」と屋台の主には聞こえないようにこっそりとグリュエーに話しかける。

「いい匂い。でも肉より使われている香辛料の方が好き。ユカリは肉が好きだね」

「そうだね」と言って再び噛みつく。「グリュエーに肉がないのは残念だよ」

「でもグリュエーは良い香りがする。清らかな森と瑞々しい草原を吹き抜けた風だから」


 この街に来て、おおよそ一週間がたつ。街に入る少し前からユカリはちくちくとした魔導書の気配を感じていた。しかしどう探したものか見当がつかない。あるのは分かってもどこにあるのか予想もつかない。まさか聞いてまわるわけにもいかない。


 フロウの時のことを考えると、魔導書に近づいたり離れたりしてもおそらく大して感じ方に変わるところはないのだろう、とユカリは予想していた。あるということしか分からないこの気配は魔導書特有のものなのか、魔法特有のものなのか。


 今になって、もっと義母ジニに魔法について学んでおけば良かったと後悔する。いや、聞いてはいた。問題は、そんなものよりも、ジニが体験した不思議に満ちた秘密を暴く冒険の方が何倍も興味深かったことだろう。


 二本目の串に取り掛かろうという時、「もし、そこなるお嬢さん」と見知らぬ男に声をかけられた。しゃがれた声ではあるが溌剌としていて、自信に満ち満ちた声だ。


 全身甲冑はあちこちが錆びていて、兜に戴いていたのだろう房飾りは薄汚れて短くなっている。長剣を佩いて、籠手を覆うように湾曲した盾を携えていた。腕につけた腕章は元は流麗な意匠で立派なお役目の徴だったのだろうが、今となっては鼠の毛皮で作られたのだろうかと思える見た目だ。要するに敗残兵のような風体の男だった。


 ユカリは合切袋の中の魔導書に手を伸ばして答える。「はい。これは騎士様。いかがなさいましたか?」

「我が心の主になってはくれますまいか?」と容貌を隠した兜が言う。


 言葉の意味を把握しようと努めて少しの間呆気に取られる。


「申し訳ございません」と気を取り直し、ユカリは首を横に振った。「私はこの土地の者ではありません。そのお言葉遣いにお返しすべき作法を心得ておりません。どうかご容赦を」

「気にしたもうな。言の葉のままの意味ゆえに」と朗々と答える。

「しかし、心の主とおっしゃいましても。私は騎士様が仕えてくださるような貴き身分にはございません。どうか忠良なる騎士様に相応しきやんごとなきお方の御許へいらっしゃってください」


 そう言ってユカリは目を伏せる。これ以上は付き合っていられない、と覚悟を決めて魔導書を強く握る。


 しかし騎士は簡単に諦めた。「左様ならば仕方ありますまい。ところでご主人、串を一ついただけますか?」

「え? ご主人?」と言ってユカリは自分の串をかばう。

「いやいや、今言った主人は俺のことだろ」と小太りの屋台の主人が笑う。「言っちゃあ何だが金はあんのかい? 何でも売れるこの城邑(まち)だが、裏を返せば値のついていないものはないんだぜ?」


「うむ」と騎士は頷き、雑嚢から銀貨を出した。「足りるか?」

「ひい、ふう、みい。へえ。十分で」

 肉串を受け取ると「では吾輩はこれにて」と騎士は言い残し、隣の屋台の客を口説きに行った。


 屋台の主人が「儲け、儲け」と呟いたのをユカリは聞き逃さなかった。

「もう、何なのあれ?」と呟いて、ユカリは少し冷めた串を頬張る。


 見ると騎士は兜の隙間から無理やり肉串を押し込んでいる。おかしな騎士がおかしさに拍車をかけている。


「災難だったなあ。お客さん」と屋台の主人が言う。「ありゃあ最近この街にやってきた名も無き騎士(・・・・・・)だよ。ああやって人を捕まえては主人になれってしつこいんだ」


 そう言って屋台の主人は楽しそうに笑う。その主人の話ぶりを見るに悪党ではないようだ。

 今もまた名も無き騎士は隣の屋台で食事をしている地元の者らしい老人にあしらわれている。

 ユカリはその目に飛び込んできた光景に驚き、むせる。名も無き騎士の盾の裏に魔導書らしき羊皮紙が張り付いている。本当にあてにならない気配だ。


「あの人、いつからこの街にいるんですか?」と咳き込むユカリを心配してくれた屋台の主人に尋ね返す。

「いやあ、もう一か月にはなるんじゃないかな。街から街へと彷徨い歩いているらしいが、噂によるとその街の全ての町民に断られるまでは滞在するらしいぜ。熱心なこって」

「じゃあおじさんも主人にって誘われたんですか?」

「ああ、一応な。でも俺が断る前に『やっぱり主っぽくない』っつって行っちまったよ」


 騎士はというと、まだ屋台市から離れない様子なのでユカリはしばらく見守ることにした。肉串もまだ沢山残っている。


「俺が西の方である宝石屋に聞いた話じゃあな」と別の客が話に割り込んでくる。西方の訛りのある行商人だ。「あの騎士はかつて仕えていた貴人を守り切れずに亡くしちまったらしい。そうして新しい食い扶持、もとい主人を探しているんだってよ」


「私は違う話を聞いたよ」とさらに話に加わったのは竪琴弾きだった。「彼はかつてどこかの王国より財宝探求の旅に出た一行の護衛騎士だと。隊は百戦錬磨の戦士たちと王宮付きの賢者たちでたちまちに財宝を発見したとか。しかしその財宝にかけられた古代の魔法使いの呪いに打ち勝つことは出来ず、哀れ一行は全滅の憂き目、しかし彼は神々の祝福を受け、その生き残りとなったが、呪いのために方々を彷徨っているんだとか」


 ユカリが竪琴弾きを見るのは久しぶりのことだった。数年に一度故郷のオンギ村に迷い流れてくる者がいたものだ。


「それって歌にあります?」とユカリは尋ねる。


 竪琴弾きの脇に抱える美麗な木目の竪琴はとても使い込まれている。竪琴弾きは優しそうにユカリに微笑みかけると、彼の師から教わった通りに竪琴を構え、しなやかな指を巧みに操り、どこか暗いものを秘めた勇まし気な歌を奏でた。その響きは手痛い打撃を食らいながらも新たな戦場へ向かわんとする軍団のように、喧噪の間を押しのけて漂った。


「其は忠義に厚き騎士にして、斯くも猛き勇士なり。若き王の信頼を遍く領する忠臣なり。

 王は偉大な魔の書にて力を得んと所望する。故に王は忠義の騎士に探求の旅を仰せつけ、魔の書を故郷に持ち帰らせん。

 斯くも偉大な騎士故に君命胸の裡に刻み、魔の書を得んその時までは故郷に戻らぬと誓い給う。

 何れも劣らぬ兵どもを率いし忠義の軍団は山越え海越え魔の森越えて、いざいざ行かんと謳い上げ、手に手に名高き諸刃を掲げ、険しき旅路へ挑み給う」


 途中まではうっとりと聞いていたユカリだったが、当の名も無き騎士本人の周辺の異変に気づいて、それから後は頭に入らなかった。屋台の客や道行く行商人が騎士から離れてゆく。屋台の主たちは己が商売道具を捨てて逃げはしないが、何かこれから起こることを身構えている様子だ。


 道の向こうから背の高い人物が群衆を掻き分けてやってくる。名も無き騎士もユカリに劣らない上背の持ち主だが、その新たな人物は人ごみの向こうにあって胸から上が見えている。驚くべきは背の高さだけではなく、全身に張り詰めた筋肉だ。古き時代の英雄の理想美に近い、彫刻のような際立った肉体を誇っている。

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