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いったい何があったの……。

 幾つもの年月が過ぎ去り、齢を重ねたレモニカは深い眠りから引き上げられる。彩り豊かにして触れれば崩れそうな夢を見ていたが、それは今や過ぎ去った確かな現実でもあった。まだ己にかけられた呪いを単なる難しい病気だと思っていた純粋で愚かな頃の夢だ。


 レモニカは黄金が錆びたような体毛に覆われた前足を見つめる。分厚くて丸い足先の、獲物の喉笛をいとも容易く切り裂くだろう鋭い爪を意味もなく出し入れする。硬く吸いつくような歯触りの鎖の端をしっかり咥えたまま、口の端から熱い吐息を(こぼ)す。レモニカは獅子の姿になっている。その体躯であれば尋常の獅子を丸呑みにしてしまいそうな、怪物と呼ばれる類の獅子の姿だ。


 レモニカは目が覚めると、いつも呪いが解けた自分の姿を想像する。一度も見たことがない自分本来の姿を。だからレモニカは、幼い頃に窓の向こうに小さく見えた美しい姉の姿を、いつも想像の中で借りていた。姉の姿で余所行き(ドレス)を纏い、姉の姿で野原を駆けて、姉の姿で踊った。いつか姉のような女性になれると思ってはいなかったが、憧れが止むことはなかった。


 しかし寒々しい現実が瞬く間に支えどころのない想像を押し流す。


 レモニカの目の前の地面には(かび)の生えた肉片が落ちている。残したから(かび)が生えたのではなく、(かび)が生えていた部分を除けて食べたのだった。


 レモニカは咥えた鎖をじゃらじゃらと鳴らしながら血を吸ったかのような(たてがみ)を振るい、薄暗い周囲を見渡す。今の姿をレモニカに強いている人物を探すが、どこにも見当たらない。


 ここは大きな天幕の中だ。風は除けてくれるが、冬の白い太陽は頼りなくぼんやりと透けて見えるだけだ。天幕にはいくつもの檻とその中に閉じ込められた、不思議で奇天烈な生き物たちがいる。鱗に覆われた妖精や地面まで届く長い体毛に覆われた何か、動く石像、何かにつかまっていないと浮かび上がる猿。皆がただ静かに、時折無力な鳴き声を漏らして、時が過ぎ去るのを待っている。


 天幕の向こうでは日々を営む人々が行き交っているのが聞こえる。幸せそうな子供の笑い声や蹄のある動物の疲れた足音、重い車輪の転がるごろごろという音、威勢のいい魚売りの掛け声、それらが混然一体となって天幕の周囲を渦巻いている。


 しばらくして、天幕の入り口から多腕の猿を肩に乗せた男が入って来る。情を感じさせない鋭い眼光に荒れ地のような捻じれた髭の面、太い腕には肉食獣の爪痕が刻まれていた。その手には、時折身じろぎする不思議な鞭を持ち、その身には下卑た金と赤の派手な衣装をつけていた。


 多腕の猿は男の肩を飛び降りると自ら空っぽの檻へと入り、自ら施錠する。男の方へ鍵を投げて寄越し、媚びるようないやらしい笑みを浮かべた。


 男は獅子の姿のレモニカの前へとやって来て、鼻を鳴らし、鞭を振るう。風を切る音と身を打つ音が響く。


「てめえ! 肉を残すとは何様のつもりだ! 誰のおかげで飯を食えていると思ってる!?」


 獅子の分厚い皮膚は鞭の痛みを大して感じないが、放っておけばこの男は延々と侮蔑の言葉を投げつけてくる。獅子の姿のレモニカは吐き気を堪えつつ、(かび)の生えた冷たい肉を食べた。


 男は満足そうに嫌な笑みを浮かべて急かす。「食ったら仕事だ。化け物ちゃん(ケブシュテラ)。さあ、立て!」


 そう言うと男は再び鋭く鞭を振るう。ケブシュテラと呼ばれたレモニカは鞭を物ともせず立ち上がる。男の方は誰が用意したのか天幕の端で温かな湯気を立てる(スープ)を飲み、顔を綻ばせる。レモニカは男に恨めし気な目線を向けた後、俯いたまま口に咥えた鎖を引きずって天幕を出てゆく。


 そこはさらに大きな天幕だ。日光が透けてはいるが、その場の明るさは篝火によって支えられている。天幕を半分に分かつようにして半円形に鉄格子の柵があり、その向こうに階段状に設えられた観客席があった。そして二十数人の人の顔が並び、現れた獅子に歓声をあげる。


 獅子の姿のレモニカはつまらなそうに歩いていき、舞台の中央に腰を下ろす。しかし観客の方へ目を向けず、じっと地面を見つめている。


「次は獅子か。何だかつまんないね」

「獅子か、で済まされるほどつまらないとも思えないけど。見世物小屋に入りたいって言ったのはエイカだよ」


 レモニカは声の聞こえた観客席の方をちらりと見る。背の高い黒髪の娘が説教に飽きた子供がするようにあくびをかみ殺す。隣に座る茜色の円套(マント)を羽織った燃えるような赤髪の娘は憐憫の眼差しを獅子に向けていた。

 エイカは黄昏に似た紫の瞳で獅子のレモニカをじっと見つめ、レモニカは逃れるように視線を逸らした。


 エイカは失望した様子で呟く。「物語の怪物は怖ろしいから好きだったんだって気づいたよ。憐れみたいわけじゃなかったんだね」

「怖ろしいものが好きだなんて変わってるね。じゃあ、もう出る?」赤髪の娘はどちらでも良さそうに言った。

「どうしようかな。ああ、団長さんだ。戻ってきちゃった」


 いつの間にか獅子のレモニカの隣に立っていた鞭の男、団長が声高らかに口上を述べる。


「さあ、御立合い! 水源(コドーズ)の見世物小屋はまだまだ皆様に奇想天外、珍妙珍奇な者どもをお見せしましょう! 次なる怪物の噂を聞いてこの天幕をくぐられた方もおられましょう! 世にも珍しい変幻自在の怪物です。古今東西、沢山の物語にお詳しいお嬢さんでもこの怪物は知らないでしょう!」


 コドーズは観客の娘のぼやきを聞いていたらしい。観客へ仕返しするコドーズ団長にレモニカは心の内で呆れる。口上は続く。


「これなるはケブシュテラ! かつて勇猛果敢で知られたアムゴニムの千の軍団を一晩で食らい尽くしたという人食いの獅子! 兵どもの血を啜り、臓物を食い尽くした貪欲なる獣! 神に見捨てられてもなお全てを食らい尽くさんと人の野原を放浪する邪なる怪物!」


 観客のどよめきを待って、コドーズ団長がさらに言葉を繋ぐ。


「その写し姿です! ご安心ください! これは本当の姿ではございません! こやつは最も近くにいる人間の最も嫌いな生き物に変身する力を持つ、この地上で最も卑怯で姑息な怪物なのです!」

「つまり団長さんの一番怖い生き物が獅子ってことですか?」とエイカと呼ばれた娘が尋ねる。

 コドーズ団長は苛立ちを抑えて髭を撫ですさりながら言う。「勿論否定は致しません。これなる怪物のこの姿こそが証拠だからです。私は仕事柄多くの摩訶不思議な生き物、奇妙奇天烈な怪物を見てきましたが、この獅子ほど恐ろしいものはいませんでした! 風のように駆け、哀れな獲物の喉笛を掻っ切るのです! とても怖ろしい思いをし、多くの犠牲を出し、しかし私は帰還しました!」


 コドーズ団長はこれ見よがしに誇らしげに腕の傷を観客たちに見せつける。


「しかしご安心くださいませ! この怪物、ケブシュテラの姿はあくまで似姿! 我々はお互いに深い信頼を築いています。ご覧ください! 鎖に縛られるのではなく、自ら鎖の端を咥えているこの態度こそがその証となりましょう! さりとて皆さんの中には未だ疑問があることでしょう! 本当に変身するのか、と。証明は簡単です! ただ、私よりもケブシュテラの近くに寄ることです! さすればこのおぞましい獅子は瞬く間に姿を変じることでしょう! さあ、どうですか!? 挑戦したい方はおられませんか!? ただし怖いもの知らずの方はご遠慮ください! こやつが姿をなくしては商売あがったりですからね!」


 観客たちの笑い声を浴びながら、コドーズ団長は挑戦的な眼差しと笑みをエイカにぶつけ続けた。


「じゃあ、私が」とエイカが挙手をする。

「エイカの一番嫌いな生き物って何?」と赤髪の娘が尋ねる。

「ええっと、たぶんお化けか人攫いか蜘蛛かな。海老は好き」

「お化けって生き物なの?」


 エイカが観客席から立ち上がり、遠慮なくレモニカの元へ近づいてくる。


「さあ、もっと近くへ」という、いつもの煽り文句をコドーズが発する頃には、エイカは柵の鉄格子を握っていた。


 そしてレモニカの体に変化が現れる。獅子は後ろ脚で立ち、黄金の体毛は失われ、代わりに漆黒の衣を纏う。顔には鉄仮面をかぶり、黒塗りの鞘の剣を佩いた女の姿へと変じる。蜘蛛とは似ても似つかないが、あいかわらず鎖はその血の気のある唇の間に咥えたままだ。


「これはこれは」とコドーズ団長が面白おかしそうに話す。「お客様の中に救済機構の信徒の方がおられないことを願います! どうかお嬢さんを怖がらせないでくださいませ!」


 観客の笑い声やからかいを気にせず、エイカは鉄格子の柵から身を乗り出すようにして、興味深そうにレモニカを見つめている。


「ねえ、ケブシュテラ、お話はできる? 声が聞きたいの」


 エイカの言葉を受けて、レモニカは鎖を手に移す。吸いつくような鎖の感触に顔を(しか)めながら口を開く。しかし口を少し開いただけで、言葉は出てこなかった。


 メールマを気絶させて以来、メールマに拒絶されて以来、人と話すこと、人と関わりあう事がただただ恐ろしく感じた。怖ろしいのか、憎いのかは人によって違うが、必ず他者に嫌われる自分のことがレモニカは嫌いだった。


 妙な、醒めた空気が流れたのを察したコドーズ団長がレモニカの元へ近づくと、レモニカは再び獅子の姿に戻り、鎖から一切体を離さないように触れたまま再び鎖の端を咥える。

 コドーズ団長が観客たちを仰ぎ見て、囃し立てるように言う。


「さあ、後は寺院でご覧になってください。お経を聞きたい方はおられませんね? さあ、ケブシュテラに、自らの恐怖に立ち向かえる方は他におられませんか!? さあ、どうです!?」


 エイカが妖精の吐息よりも小さな溜息をついて席に戻るのをレモニカは罪悪感のちらつく瞳で見送った。

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