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単純で簡単で馬鹿々々しいね。

 寝息のように浅い呼吸をするユカリを抱きかかえながら、ベルニージュは走り行く野犬を見送る。少し引きずってしまいつつも、ユカリの体を木の根元にもたれさせる。この旅の間に何度も見てきた安らかな寝顔だ。とても怪物の動向を探りに向かう娘の顔ではない。ベルニージュの波立つ心も少しばかり平らかになる。


 ふと聞き覚えのある歌を聞き、すぐに耳を塞ぐが、間に合わなかった。それは雛罌粟(ひなげし)の花が獣に聞かせる歌。冬を招き、微睡みを誘う歌。成熟した魂に幼子の頃を思い起こさせる歌。


 ベルニージュの意識は遠のき、しかし次の瞬間には目覚める。まるで時間が吹き飛んだような気分だ。


 どこかは分からないが、あいかわらず森の中にいた。縄でもって木の幹に拘束されている。当然いくらかの時間が経っている。目の前には天鵞絨(ビロード)の豪華な衣を纏う母と名乗る人物、そしてテネロードの王子がいる。三人を遠巻きに取り囲むように上等な鎧を着こんだテネロードの兵士たちやナボーンの鉱夫らしき男たちが興味深げにこちらを見ている。


 ユカリの姿がない。


 ベルニージュは母を強く睨みつけて言う。「母上。本当はユカリから奪ったサクリフについての記憶を怪物サクリフに与えていないんじゃない?」

 ベルニージュの母は娘を見下ろして微笑みを浮かべ、あっさりと白状する。「ええ、そうです。どうして分かったのです?」

「別に分かったわけじゃないよ。母上が利他的な行動をしたことなんて、記憶になかった(・・・・・・・)ものでね」


 ベルニージュの皮肉に母は冷たい目で返す。


「きちんと記録しておけばそう思うことはなかったでしょうね。現に貴女の母上(ママ)は我が娘を救おうとしているのですから。それにベルニージュさんについての記憶もサクリフさんについての記憶も元々返すつもりなのですよ。大事なのは順序です。そう、順序を間違えなければ何も問題はありません。魔導書さえ手に入れば、記憶など些細な問題です」


 少なくともベルニージュが日々記している覚書には、娘の記憶を取り戻すためなら何でもする母親だと記されていた。心変わりしたとでもいうのだろうか。

 ずっと別人に見えていた母ではあるが、いよいよその意図まで分からなくなってしまう。


「ワタシならきっと前にも言ったはずだよ? 記憶を取り戻す魔導書なら効果は無かったって」

「ええ、聞きました。そのことこそが重要だったのです。まずはあの魔女シーベラの怪物に宿る魔導書を手に入れなくてはなりません」


 テネロードの王子がいるためか、魔導書という言葉を避けているらしい。


「どうやって?」とベルニージュは問う。


 怪物に近づくことすらままならないことにまだ気づいていないのだろうか。


「簡単なことですよ。まあ、見ていなさい。そのために殿下に協力を求め、そして彼らに集まってもらったのです」


 そういってベルニージュの母はテネロードの王子に目配せし、テネロードの兵士たちやナボーンの男たちを指し示す。


 ナボーンの男の一人が言う。「パージェンス殿下、それに魔法使い様。腕っぷしには自信があるんでね。策とやら自体は別に構わないんだが、兵隊さんの剣は無しにしてくれないかね。抜かないにしてもおっかないんでさあ」

「それもそうですね」とベルニージュの母が応じる。「殿下。必要なのは殺し合いではありません。しかしお芝居であってもいけません。鉱夫たちが委縮していては誘き寄せられるものも誘き寄せられないかもしれませんよ」


 パージェンス王子は優雅に微笑み、頷く。


「よかろう」そう言ってパージェンスは兵士たちに向き直る。「さあ、聞いたか、皆の者。剣を地面に置き、拳を固めよ。そしてテネロードの戦士に恥じぬ働きを見せるのだ」


 兵士たちは渋々ながら剣を地面に置く。率先して兜を外す者もいる。ベルニージュの母に従うことに対して愚痴が聞こえるが、テネロードの王子に命じられては仕方がない。


 これから何をするのかベルニージュが察し、その愚劣さに顔を顰める。同時に、パージェンス王子が右手を上げて合図を出した。

 すると彼らは勇ましい雄叫びを上げ、テネロードとナボーンに分かれて喧嘩を始めた。つまり争わせてサクリフに介入させる気なのだ。とても馬鹿々々しいやり方だが確実かもしれない。しかしあえて怪物サクリフを誘き寄せることでどのような目を被るか彼らは想像できていないらしい。


 ベルニージュはやめるように言おうと口を開こうとするが、上下の唇は凍り付いたようにくっついて離れない。魔法で両の唇を縫い上げられたらしい。


 森の向こうから騒々しい音が聞こえてくる。遠目にも、ユカリほど視力の良くないベルニージュにもはっきりと何が近づいてくるのか分かる。森の木々を薙ぎ倒しながら巨大な翅を羽ばたかせて蛾の怪物サクリフが飛んでくる。一部の兵士たちは怪物に気づいて喧嘩をやめ、剣を拾って構えるが、しかし一部の者たちは己の雄叫びに耳を塞がれ、その脅威の接近に気づいていない。


 瞬く間に森そのものを押し流すようにして、豪風と共に飛来した怪物は男の一人を守るように覆いかぶさり、その翅にぶつかった周囲の男たちを森の木々同様に薙ぎ倒す。ただそれだけで男たちは弾き飛ばされ、骨を折り、昏倒し、戦の後のようなありさまになる。パージェンス王子もどこかへ吹き飛ばされたらしい。すぐに怪物に立ち向かえる兵士は一人もいなかった。


 しかしベルニージュの母は無残に倒れ伏す兵士たちを軽やかに踏み越えて、怪物の元まで行き、己の口から出した何かを掴んでサクリフの口に押し込んだ。すると怪物の仮面のような顔に、表情が息づき始める。


「いったい何が、僕はどうしてこんな……これは……僕なのか? 僕がやったのか?」


 サクリフが怪物になってから初めて、その声を聞いた。元の声と違って風の強い深い谷底から響いてくるような不安定な声音だ。


 ベルニージュの母は怪物を見上げて微笑んで言う。「こんにちは。サクリフ。初めまして、ではないのですけど。貴女は覚えていないでしょうね」


 サクリフは巨大な体で、まるで子猫のように怯えている。


「貴女はいったい、僕はどうしてこんな姿に……これは悪い夢なのか?」

「さあ、夢ではないとすれば、貴女はきっと魔女シーベラの呪いを解き、元の姿に戻りたいのでしょうね?」


 蛾の怪物となったサクリフは今にも母を取って食ってしまいそうな勢いで言う。


「元に戻れるのか? どうすればいいんだ? 知っているなら教えてくれ。こんな姿は、あまりにも惨めじゃないか」

 ベルニージュの母はサクリフに心寄り添うことなく突きつけるように言う。「知っていますよ。ただでは教えられませんが」

「何だ。何をすればいい? 言ってみてくれ」


 ベルニージュの母は背伸びをして手を伸ばし、サクリフの頬を撫で、触覚をさする。


「ユカリの持っている魔導書を奪ってきなさい。そうすればやり方を教えてあげましょう」

 サクリフは怯み、つっかえつっかえ言う。「そんな、なぜ僕がそんなことを。一体何の意味があるというんだ」

「言ったでしょう。貴女を元の姿に戻すためです。戻りたくはないのですか?」


 サクリフの表情に正直な迷いを見て取れる。そして夢から覚めるように、唐突に思い出したよう言葉を募らせる。


「それならば彼も! 彼も助けてくれ! まだ小さな少年なんだ。あれには不思議な力がある」とサクリフはベルニージュの母に訴える。どうやら山彦のことを言っているのだと、ベルニージュにも分かる。「彼が孤独を望むほど、彼は人間から認識されなくなるようなんだ。そしてそれに見合うように一人で生き抜くための力が手に入るらしい。あの小さな少年がまるで獣のような身のこなしを得ていた。それに、人間が永遠のような孤独に耐えられる訳がない。そうでなくても永遠の孤独に耐えられる何か(・・)に変わってしまう気がしてならない。これ以上、僕のような……」


 その言葉にベルニージュの母は初めて迷いを見せた。少しのあいだ考え、そして答える。


「いいでしょう。魔導書と引き換えに貴女と山彦のどちらも助けることといたしましょう」


 ベルニージュの唇は相変わらず牢の扉の如く堅く閉ざされている。仮に開くことができたとしても、サクリフにかける言葉は出てこないかもしれない。


 訴えを聞き入れられてもなおサクリフは逡巡し、しばらく視線をベルニージュの母とベルニージュのあいだで往復する。一言も声をかけてくれないのは後ろめたさ故だろうか、とベルニージュは思う。しかしようやく決意を固めたらしき表情で、サクリフは飛び立った。その場にいる全ての人間が巻き起こる風に足を取られ、地面に伏せていた者もなすすべなく転がっていく。


 ベルニージュは母の意図を想像する。本当にユカリの魔導書が欲しいのなら、自分を連れてきた時に持ち出せたはずだ。何せ無防備に眠っていたはずなのだから。

 つまり本当の狙いはユカリとサクリフをぶつけることそのものということだ。なぜそんなことをするのか理由の分からない内に、あるいは理由が分からないからこそベルニージュの胸の裡に沸々と怒りが湧いてくる。


 一人の男がベルニージュの母に訴える。「話が違うぞ。あの怪物を捕まえるために、あんたたちはこの街に来たんじゃないのか!? 人間になるだと? そんな話は聞いていないぞ。あれには糸を作ってもらわねばいかんのだ!」

「それに今、魔導書と言ったな」といつの間にか戻ってきたパージェンス王子が唾を飛ばして言う。「あの娘が魔導書を持っているだと、怪物退治などよりもよほど重要なことではないか! なぜ黙っていた!」


 あまりにも浅ましい訴えに母と名乗る女は呆れたような表情になっていた。他人を見下すような立場にはないだろうと言ってやりたかったが、ベルニージュにはどうすることも出来なかった。


「知ったことではありません」ベルニージュの母だという女は冷笑する。「でも、そうですね。怪物以外の者がユカリの持つ魔導書を持って来たならば、私は怪物との約束を守る必要がありませんね。例えばの話ですが」


 ナボーンの男たちが舌打ちをしつつも怪物の後を追うように駆け出していく。

 逸った兵士の何人かが剣を抜き、男たちに制止を命じる。が、パージェンス王子が兵士たちを止める。


「馬鹿者! 争えば奴が飛んでくることを忘れたか! 最早怪物など後回しだ! 鉱夫どもに先んじてユカリとかいう娘から魔導書を手に入れるのだ! 急げ!」


 兵士たちが剣を収めて、ナボーンの男たちを追うように駆け出す。


「魔女め。決して貴様の思うようにはさせんぞ」と言い捨ててパージェンス王子も後を追う。


 本当にパーシャ王女の兄なのだろうか、とベルニージュが考えていると唇にかけられた呪いが解けていることに気づく。


「いったい何がしたいの?」

 母らしき女性は去り行く男たちを見つめて答える。「簡単なことですよ。サクリフの呪いが利他心や自己犠牲心であるならば、自分のために戦わせればいいのです。自分の呪いを解くために他者を犠牲にすれば魔導書の憑依が解けることでしょう。そのためのお膳立てというわけです」


 そうしてサクリフに宿る奇跡、争いを退ける魔導書を手に入れるというわけだ。


 ベルニージュは強い意志を込めて言う。「ユカリもサクリフも母上の思い通りには動かない」

 ベルニージュの母は振り返り、つまらないものでも見るような表情でベルニージュに言う。「それは根拠があってのことですか?」

「ワタシはそう信じてる」

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