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何だかとんでもない存在。

 もしも富める奇跡をゲフォードがその内に秘めているとすれば、呪いは何だろう、とベルニージュは考える。夢も戯れに手出ししないような深い眠りに就いたシイマのかたわらで小さな椅子に座り、沈思黙考する。心の中にある仮想の工房で、知っていることを観察し、知らないことを推測する。


 気が付けば日は暮れていて、薄暗くなった部屋が二人を静かに包み込んでいる。シイマはずっと眠ったままで、ゲフォードが食堂から出て行った様子もない。


 この半日、本を読み、時折魔導書のことを考えていた。


 ユカリが故郷で見つけた魔導書『我が奥義書』やミーチオン地方で完成させたという『咒詩編』と、いま集めている魔導書はまるで別物だ。その力のあり方は魔術というよりは妖術に近い。また魔導書が人間に憑依するという現象はベルニージュもいままでに聞いたことがないし、ユカリもユーアの件で目の当たりにするまでは一つとしてなかったという。


 これまでアルダニ地方で見つけてきた魔導書はおそらく全て人に憑依し、憑依者にもどうこうできない奇跡を得てしまう。そして同時に枷のような呪いをもらい受ける。もしくは憑依者の元々の呪わしいあり方を強化しているという見方もできる。この呪いを取り除くことで憑依が解けるらしい。


 今までの呪いについてベルニージュは考える。

 偶然や事故を退けて生き永らえる奇跡を宿らせていたセビシャスは呪いによって彷徨っていた。

 食することなく満ち足りる奇跡を宿らせていたパーシャは呪いによって閉じ籠っていた。

 必然や殺意を退けて生き永らえる奇跡を宿らせたサクリフの呪いはまだ分からない。

 病を癒す奇跡と共にある呪いは嘘つきか天邪鬼的な性格に関するものだろう。

 それと、記憶を失うことのない奇跡を宿らせていたというユーアは、おそらく呪いによって口を噤んでいたと考えられる。


 何かしらに当人の心が囚われていた、といったところだろうか。

 何も分からないのと同じだ、とベルニージュは心の中でぼやく。魔導書がゲフォードに憑依しているとして、今のところその人となりも大して知らない。呪いを予想することも出来ない。


 その時、ベルニージュは食堂の外の騒ぎに気づく。(つんざ)くような、戦や怪物から逃げ惑う者に特有の悲鳴が遠くに聞こえ、しばらくして食堂のすぐ近くからも聞こえた。羽板付きの窓越しでは人々の慄きと走り回っている様子しか分からない。ベルニージュはやはり背嚢を持って、食堂の方へと移る。


 ゲフォードが開けたのだろう。通りに面した窓蓋が開いているが、外も中も薄暗い。ベルニージュは火の粉の爆ぜる音よりも小さな呪文で手の甲に魔法の炎を灯す。


 ゲフォードは眠っている。祈り疲れたとでもいうのだろうか。ベルニージュはその男に向けていた侮蔑的な眼差しを扉へ向ける。戸口に駆け寄ると、(かんぬき)を下ろし、取っ手をしっかりつかんで軋む扉を慎重に押し開く。


 騒ぎ立てているのは主に男だ。何やら怒鳴り合ったり、どこかへ走って行ったりしている。中には女を抱えている者もいれば、倒れた女に寄り添っている者もいる。街の女たちに何かがあったのだ。怒りや悲しみよりも、戸惑いと恐怖が街を覆っていた。


 前夜は新月だったので、今宵は針のように細い月がエベット・シルマニータの街を魔的な黄色い光で照らしている。まるで夜の森の奥でちらちらと揺らめく鬼火のように、目を奪われるような妖しい輝きを放っている。善良な人間を魅了し、惑わすような光だ。


 その時、ベルニージュの目の前を若い男女が混乱しつつも連れ添って横切っていき、しかしすぐ目の前で女が倒れてしまった。


 ベルニージュはその男女が倒れる直前、空から飛来した矢に射抜かれるのを確かに見た。しかしその女の痩せた背中には何も刺さっていない。血を流してもいないし、女は悲鳴を上げもしなかった。ただ力なくその場にうずくまり、男にすがりつくだけでも精いっぱいという様子だ。その女の額に浮かぶ脂汗を見るに、そこにあるのは苦しみだが痛みではないようだ。


 ベルニージュは少し開いた扉から滑るように外に出て、矢の飛んできた方向の夜空を見上げる。


 それ(・・)は高い屋根の上、否、さらにその上空に細い月を背に、無数の星と共にいる。ほとんど星と変わらない大きさに見えるくらい遠くにいるのに、なぜだかその姿がよく見える。そこにいる、とベルニージュが認識したと同時に、遥か上空のそれの姿まで認識させられる。そのような視力は持ち合わせていないはずなのに理解させられてしまう(・・・・・・・・・・)


 黄色く鋭く、しかし美しさに欠けることのない月の下、星々を衣に纏うようにしてそれ(・・)は夜天に立っていた。翼もなしに大地の(くびき)から逃れていた。一見、男とも女ともつかない、人間のような姿をしているが、その肌は月のように淡く仄かに黄色く輝いている。携えた弓は三日月の如き幽玄に輝く魔性を秘めた(いちい)の古木で(こしら)えられて、背に負った透かし彫りの銀の(えびら)と共に美しい曲線の文様が描かれている。それ(・・)自身は夏の朝の靄のような透けた衣を二重三重に纏っており、人の耳に聞こえない天井の楽音に合わせるように全身をゆらゆらと揺らしている。


 尋常の存在ではない。


実在しているように思えてしまうのが幻であるならば、それ(・・)は初めから幻のように思えてしまう。有り様を目にしてなお頭が信じることを拒む存在だ。古の血を引く竜も、魔法使いが(こしら)えた怪物も、そのようにありはしない。


 雪のように白い長い髪は体の揺れに合わせて、炎のように絶えず放出しては消えていく。それ(・・)はそうして揺れながら矢を(つが)える。それが神に定められた使命であるかのように街のあちこちに矢を放つ。真っすぐに一条の光が街を刺す。


 ベルニージュは、街の別の通りで射抜かれた女たちの、聞こえはしないはずの悲鳴が聞こえるような気がした。


 それ(・・)は初めからずっと目を瞑り、微笑みを浮かべている。それ(・・)は目を瞑ったまま街を睥睨するように首を巡らせる。ベルニージュの方に顔を向けた途端、それ(・・)は歯を見せて笑った。


 まっすぐに、それ(・・)は落下するように降りてくる。背筋を真っすぐに伸ばした立ち姿のまま、ベルニージュの前にやってくる。


 ユカリよりも、ベルニージュの母よりも遥かに背が高い。あいも変わらず目を瞑り、微笑みを浮かべたまま、扉の隙間から食堂の中を覗こうとする。

 それが正しい対処なのか分からなかったが、ベルニージュはそれ(・・)の前に立ちはだかる。決して敵う相手ではないと直感が警告し、大雨で増水した滝のように冷や汗がとめどなく流れている。


「どいつもこいつも。今日は休みだよ。看板は読めない?」


 それ(・・)は結局一言を発することもなく、しかし慎んだ振る舞いで数歩下がると、再び上空へと飛び去った。


 ベルニージュはようやく己の心臓の高鳴りに気づく。死の間際へ迫ったかのような感覚だ。衣がしとどに濡れている。いま起きている全てのことに説明が欲しいが、答えられる人間はいそうにない。


 ベルニージュは放心の瀬戸際を保って食堂へと戻る。

 ゲフォードが目を覚まし、食堂の真ん中で立ち尽くしている。口を引き締め、帽巾に隠れていない部分だけでも深刻そうだと分かる表情でベルニージュを待っていた。

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