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奇跡が働かなかったのか、なかったのか。

 ユカリは壁に右手を這わせ、深みに落ちないよう慎重に足を延ばす。一団の会話が聞こえるが、幾重も反響して内容までは分からない。


 ふと壁がなくなり、ユカリは恐怖でベルニージュの手を強く掴む。壁が凹んでいるのか、途切れているのか、分からないがベルニージュの他に何も掴めるものがないのは確かだ。


「ユカリ。手が痛い。どうしたの?」とベルニージュが鋭く囁く。

「壁がなくなりました。手が届かないんです」

「落ち着いて、ユカリ。上を見て」


 ベルニージュに促されて見上げると、暗い天井を裂くように、東から西へと真っすぐ伸びる一本の空があった。魔女の牢獄には天板にも亀裂があったのだ。そこから太陽が顔を覗かせるのはまだ先だろう。しかし旭日の欠片が照らす薄明かりに魔女の牢獄の内部が少しばかりあらわになる。


 魔女の牢獄は岩の塊などではなかったということだ。言うなれば四方を壁に囲まれ、天井に蓋をした岩の容器だ。

 ユカリは蟻の巣のような構造を想像していたが、そうではなく、ここには広大な空間が広がっている。多少背は低く、茂りは少ないが外と同じ黒松の森が広がっている。


 一団は浅い川から上がった少し先で休んでいるようだ。ユカリたちも忍び歩きで川から上がる。


「もう魔女の牢獄の中に入ったんですね。意外に呆気ない」


 ユカリは振り返るが、入って来た亀裂は確かにそこにある。閉じ込められてなどはいない。


 ベルニージュも同じようにして言う。「そうだね。ここで引き返せば魔女の牢獄の史上初の帰還者ってことになるけど」

「でも、そうした人は一人としていなかったんですね」ユカリは小さな悲鳴を漏らす。「見てください、ベルニージュさん」


 ユカリが指さした先の黒松の根元に何者かが横たわっているようだった。それは錆びつき、凹んだ兜や鎧、籠手、具足だった。まるで肉でも裂くように分厚い鋼を切られている。そして中身はない、骨すらも。ただ鎧や兜の内に真っ暗な闇が(わだかま)り、ユカリの顔を覗き込んでいる。

 よくよく目を凝らすと、辺りにはそれが山のようにある。一通り揃っているものもあれば、ばらばらになっているものもある。全てが怪物の犠牲者なのか、それは魔女の牢獄の中にいながらまだ生きている者たちには分からない。


「グリュエー。話せる?」とユカリは薄闇に話しかける。

「うん。大丈夫みたいだね。風は吹いてる」とグリュエーはユカリの黒くて長い髪を撫でる。

「彼らと合流しようか、ユカリ」ベルニージュがユカリの手を握りしめる。「さすがにここまで来れば追い返されることもないだろうし」

「そうですね。そうしましょう。叱られるかもしれないけど。いつ怪物が出てくるかも分かりません」


「繰り返すようだけど、救済機構がそばにいることもあるし、魔法少女に変身するのは控えることだよ」ベルニージュの赤いはずの瞳がユカリを覗き込む。「出来る限りワタシ、それとグリュエーに任せて。呪いを使う相手でない限り、それが一番安全なんだから。それと憑依の魔法は使えるような状況ではない。どんな力を持っているか分からない怪物に試そうだなんて思わないでね。そうでなくても本体が気を失うんだから」

「はい。心得ました」


 ベルニージュは承諾するように頷くと、左手の甲をかざし、大きな炎を灯す。松明の炎のように輝かしく辺りを照らし出す。想像以上に辺りに鎧が転がっていてユカリは息をのんだ。

 そうしてユカリたちはゆっくりと一団に近づく。やがてこちらに気づいた一団のざわめきが聞こえ、呼びかけられる。


「止まれ! 何者だ!」その声はグラタードの声だった。鈍く響く冬の晩鐘のような声だ。


 ユカリと名乗りそうになって言い淀む。


「……エイカとベルニージュです!」


 一団の松明も集まってきて、お互いの顔を認識できる明るさになる。


「どうしたことだ? なぜついてきた? 聞き分けたものと思っていたのだがな」

 ユカリは申し訳なさそうに答える。「すみません。どうしても平和の使者、メイゲル氏に会いたかったんです」


 グラタードは腕を組んで呆れた様子で二人を見下ろす。「新興宗教の教祖になぜそうも入れあげるのかは知らないが、なるほど、見上げた根性ではないか。現に君たちはこうして来てしまったわけだ。追い返すわけにもいくまい。常に集団の真ん中のあたりにいることだ。女子供とはいえ、我々に守る余裕があるとは思わない方が良いだろう」

 ユカリは素直に礼を言う。「ありがとうございます。お世話になります」

 グラタードは頷くと集団の先頭の方を振り返る。「さあ、問題はないと先頭に伝えよ。出発だ」


 ユカリたちは黒衣の焚書官の集団に囲まれ、また種類の違う緊張感に苛まされる。集団はそれぞれの獲物を振り回せる間隔を維持しながら、慎重に黒松の森を進む。薄暗い上に舗装されておらず、樹々の根に足を取られ、どこから怪物が飛び出してくるかも分からない緊張を抱え、歩みは遅々として進まなかった。


「案外話の分かる方ですね」とユカリ。

「手強いってことだけどね」とベルニージュ。


 外の森とは明らかに違う雰囲気がそこにはあった。風は弱い。しかし樹々の葉の擦れ合う音が、まるで何者かが耳元で囁いているかのようにはっきりと聞こえる。樹皮に投げかけられた火影や、時折現れる空っぽの鎧がそこに存在しないはずの何かの気配を錯覚させる。この森には何かがおり、そしてその何かを除いて何者もいない。何者もいるべきではない、そのような意味の警告が一行に向けられているようだった。


 しばらくしてユカリたちの進みゆく先に松明の明かりを乱反射する銀の鎧が立っていた。ユカリたちを待っていたらしい。そばへ行くと歩調を合わせて並び歩く。


「驚いたよ、まったく」でサクリフは呆れを隠さず言った。「そんなに魔女の牢獄に入りたかったのなら、僕だって説得に協力したんだ」

 ユカリは警戒を怠らずに答える。「すみません。下手にこじれるよりはこの方が確実だなってことになって」

「しかし、どうしてまた、そんなにこだわるんだい? 平和の使者とやらは今時珍しくもない新興宗教だと思っていたんだけど、それほどに惹きつける魅力があるのかい?」


 周りにはまだ焚書官が多い。大っぴらに話せない。周りの僧侶たちと問答をするつもりもない。


 ユカリは囁く。「噂によると、争いを退けるという奇跡的な力を持っていたとか」

「ふうん。それはいかにも新興宗教の教祖だね」


 そう言われてみるとそうだ、とユカリも内心納得してしまった。噂が噂に過ぎない可能性だって大いにあるのだ。しかしそうだとしても自分は魔女の牢獄に入っていただろう、とユカリは確信していた。


 進むにつれ英雄のなりそこないが増えていく。埋葬されることのない遺品が、神々の憐れみも届かない薄暗闇の中で松明に照らし出されて鈍く光っている。

 重々しい空気が一行から醸される。そこに山と積まれているのが自分達自身のようにさえ思えてくる。悲劇の結末がそこに提示されているかのように。


 そこへ「警戒態勢」という鋭い伝令が焚書官から焚書官へ伝えられる。


 全ての焚書官が決まりきった動作のように剣の柄を握り、歩調を緩める。一つの生き物のように有機的に動き、鉄仮面の向こうにある無数の瞳が死角を作らないように八方へと向けられる。


「何ですか? 何でしょうか?」とユカリは焦りを抑えきれずに呟くが、ベルニージュにもサクリフにも答えられない。ふと前方の枝葉の向こうに巨大な影が見え、息をのむ。しかし怪物などではないと気づく。「何かが建ってます。巨大な、あれは塔でしょうか」

 ベルニージュが呟く。「じゃあ、先頭がそこにたどり着いて安全確認を始めたって意味かな」


 だとすれば紛らわしい限りだ。


 森を抜けた、わけではなく、森の中の木々が疎らになった広場のような場所に出た。その中心に石積みの塔が聳えている。塔とは言っても大きな物見台のようなものだ。一部が崩れているのか、いびつな形をしている。塔の他に、人工物は見当たらないが、今まで以上に空っぽの鎧が散乱している。それまでは避けて歩いていたが、踏まないことを諦めざるをえない。


 ユカリは東西に延びる細長い空を見上げ、ここがちょうど魔女の牢獄の中心辺りなのだと気づく。

 たしかにベルニージュの言っていたように、焚書官たちは広場の安全確認をしているらしい。黒い衣が散開して辺りを調べている。また一部の焚書官が塔の近くの一か所に集まっており、ユカリたちも釣られてそちらへ向かった。


 グラタードたち焚書官は救済機構の弔いの言葉を捧げている。


(いず)(きた)(われ)らが(かみ)よ。

 ()(きよ)めし(すく)いの乙女(おとめ)よ。

 (われ)らが(いの)りを()(とど)(たま)え。

 薄暗闇の牢獄にて伏す異教の徒に変わらぬ憐れみを与え給え。

 (いま)()(もの)清浄(きよらか)なる大地(つち)(きた)るその()まで、()(さいわい)()ちるその()まで(ねむ)(たも)う。

 ()(もの)(よはい)(よみ)(たま)え。

 汚穢(けがれ)(すす)(たま)え。

 (ことぎれ)寿(ことほ)(たま)え。」


 まるで歌のように幾重にも重なり、辺りに厳かな雰囲気を作り出す。死者を憐れみ、生者に命の尊さを自覚させる祈りだ。


 それはあまりにも無残な姿になった五体の遺骸だった。いくつかの巨石に押し潰されたようで、元は白かったらしい衣が赤黒く染まっている。他の鎧の者たちと違い、最近亡くなったものだと分かる。まだ肉体が残っているからだ。ユカリはその布にある刺繍に見覚えがあった。鱗を並べたような模様だ。


「ああ、酷い」そう言ってユカリは目を逸らす。

「ビルオネと同じような衣装だね」ベルニージュは囁く。「メイゲルかもしれない。あれはある? エイカ、あれの気配は?」


 あれというのは魔導書のことだ。


 エイカと呼ばれたユカリは答える。「何も。怪物の仕業でしょうか?」

「いや、これは、単に」


 ベルニージュは塔の上の方に視線を向ける。


「塔を築いている石材じゃないか?」と言ったのはサクリフだった。

 グラタードが祈りの言葉を止め、広場全体に呼びかける。「総員、塔には近づくな! 老朽化しているようだ!」


 皆が塔から距離を取る。何人かが松明を掲げ、塔の方を照らす。確かにところどころ石が割れ、欠けている箇所もあった。全体的に苔生していて、長い年月を感じさせる。しかし人の歴史の積み重ねがそこには感じられなかった。最初に作り、その後は廃棄されたかのようだ。


 その時、突然、細長い青空が真ん中の辺りで分断されたことにユカリは気づいた。何か大きな黒い影が、塔の上で揺らめいている。そのそばにいて塔を見上げていた者たちもまた、その忌まわしい存在に気づいた。


「総員戦闘態勢! 塔の上だ!」グラタードの叫びに応じるように全ての焚書官が抜刀し、閃く。

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