背中に腕が届かない
「……ねえ。 私たち、今の関係のままでいいの?」
俺の背中に手を回して、彼女はそんなことを呟く。爪を立てた彼女の手が俺の背中を掻き毟る。
「今の関係…… つってもなあ」
「必要な時だけ頼って、あとはほったらかしじゃない」
彼女は不服そうな声でそんなことを言った。
俺が悪いのか?
「もっと何か、こう…… 一緒に出かけたりとかさ、してみたいな」
「出かけたりっつってもなあ。 恥ずかしいし」
他人に見られたらと考えると、なかなか実現には至らない。彼女は、俺の背中に回した手に力を加える。
「恥ずかしいって…… 私は全然、そう思わないんだけど? なに? 私と一緒じゃ恥ずかしいってこと!?」
激昂した彼女が、さらに乱暴に力を加える。俺を引き裂かんばかりの、憎々しさを込めた一撃だ。
「そうは言ってもなあ…… だってさあ」
「だって、何よ!? 言いたいことがあるなら、ハッキリ言いなさいよ!」
彼女はそう言って、俺の背中から手を離す。
__いや。
この言い方には少し、語弊がある。
「……じゃあ、言わせてもらうけど」
彼女が自ら手を離したわけではない。
俺が。
俺自身が。
「だってお前、孫の手じゃん」
俺自身が、手に持つ彼女を離したからだ。
◯
薄茶色の木製。
手をかたどった方の先端は緩やかに弧を描き、その反対側の先端にはゴルフボールが付いている。
手が届かない背中の痒いところに手の方をあてがえば、痒みを解決してくれる存在。
それが孫の手。
『孫の手』で検索すれば、一発目に出てきそうなスタンダードな形の孫の手である。
「関係ないから! 愛さえあれば、人間か孫の手かなんて些細なことなのよ!」
それなのに、うちの孫の手は喋る。
いつの間にか喋るようになっていた。
口もないのにどこから声を出しているか不明だが、その上不可解なことに、その孫の手の女の子は俺に恋をしているようだった。
「……とは言ってもなあ。 孫の手の使い道なんて、背中を掻く以上でも以下でもないよなあ」
「酷い! 今までさんざんあなたのために働いてきたのにその言い様!? 一回も私を褒めてくれないどころか、そんな酷いことも平気で言えるのね!」
俺の手の内でヒステリックを爆発させる彼女をなだめようと、俺は出来るだけ優しい声で語りかける。
「まあまあ、落ち着けよ……」
「これが落ち着いていられる!? さんざん利用して、そのうち古くなって捨てるんでしょ!? もっと大切にしなさいよ! 背中を掻く時以外にも使いなさいよ!」
「背中を掻く時以外使うって言っても、掻く方の反対側に付いてるゴルフボールで凝ったとこぐりぐりするぐらいしかないぞ」
「背中を掻くために生まれた私がいるのに、そんな外付けのボコボコの球に見惚れるなんてね! あんなの、コバンザメのようにひっつくことしか出来ない能無しよ! みすぼらしく私にひっつくか、ゴルフをする時ぐらいにしか使えないわ!」
「ゴルフに使えりゃ、存在意義は十分あるけどな」
めちゃめちゃ有意義な存在だ。
「デート中に彼氏が他の女に見惚れて彼女が嫉妬する、みたいな風に言うなよ」
「デート!? あなた、私を差し置いてどこの女とデートしてるのよ!?」
「例え話だ、落ち着けよ」
思い込みの激しい奴だ。何が怒りの引き金になるか分かったもんじゃない。
「そんな浮かれた体験なんて、残念ながら一度もないよ。 一般論だ」
「ふーん? あなた、モテないのね!」
「まあ、不甲斐ないことにな」
俺がそう言ったところで、一時の沈黙が生まれた。何か考えているのだろうか。顔がないから分からない。
「……それなら」
先ほどまでわめいていた彼女は落ち着いたのか、静かな声で俺に語りかけた。
「私と、デートしましょうよ」
「それはない」
落ち着いたと思ったのも束の間、俺の言葉に彼女は再び暴れ出す。孫の手とデート?それはない。
「何よ! せっかく私がモテないあなたを誘ってあげてるって言うのに!」
「孫の手だしなあ」
背中を掻く時に重宝するとはいえ、孫の手にはリーチがある。一緒に出かけるといっても、トートバッグに入れると先端が飛び出るし、リュックに入れてもチャックを閉めた時に、孫の手が隠れるその部分だけ出っ張って型崩れしそうな微妙な長さだ。だからと言って手に持って歩いてたら、変な目で見られることは間違いない。色眼鏡で見られて損をすることはあっても、持っていて得をすることは恐らくないだろう。
「大体、何でお前は俺のことなんか好きになったんだよ」
「そりゃあ、あなた。 ずっと私を使い続けてくれたら、恋にも落ちるわよ」
彼女は恥ずかしそうに、そう答えた__いや、感情があるとはいえ、顔も口もない彼女に『恥ずかしそう』もないのだが。なのに彼女の声は聞こえる。不思議なこともあるもんだぜ。
「じいちゃん家にあったのを貰って以来、そういやずっと使ってるな」
人並みにわんぱくな男児だった俺は、長い棒に憧れた。手頃な枝を振り回したくなる年頃、誰にだってあることだろう。
そんな時に、祖父の家の物置で眠っていたその孫の手と巡り合った。年に数回しか来ない祖父の家で見つけたということもあり、何だかとても魅力的だった。
以来、俺の部屋にはずっとその孫の手があった。
思えばこいつとも、長い付き合いなのだなあ__
「ずっとあなたのそばにいるのに、私の気持ちも知らないで! この鈍感男!」
そう言って彼女は口をつぐむ__いや、口はないのだが__ともかく黙った。
一言二言声をかけて様子を見るも、声を出す気配がない。
「……人間と孫の手の恋なんて、俺には全然分からない」
そう__全然分からない。
人と孫の手がどうすれば結ばれるかなんて分からないし、結ばれた先に何があるかも、俺には到底分からない。
でも、それでも俺を好いてくれるこの子に、俺は正直な気持ちを伝えようと試みる。
「分からない、けどさ。 俺は思うんだ」
彼女はなおも、言葉を発さない。
しかし不思議と息遣いを感じて、彼女が俺の言葉に耳を傾けてくれているように思う。
錯覚かな。
「俺の手が届かない痒い部分を、お前は掻いてくれる。 俺に出来ないことを、お前はやってくれるんだよ。 十分助かってる。 いつもありがとう。 俺の背中を掻いてくれるのは、世界で唯一、お前だけだよ」
俺は少しだけ真面目な声で、彼女に語りかける。
先ほどの、俺に対する彼女の真っ直ぐな言葉に、不覚にも少しときめいてしまったことは秘密だ。
「な……」
彼女は困惑したような声をあげた。
どうやら口を利いてくれるみたいだ。
「あ…… 甘いこと言っちゃって! そんなので、私が落ちるとでも思ってるの!?」
とっくの昔に落ちているはずの彼女は、分かりやすい反応を示す。
「全く、調子に乗らないでよね!」
もしも彼女が、素直になれない人間の女の子なら、きっとその捨て台詞と共に走り去ることだろう。
しかし彼女は、孫の手である。自ら動くことは出来ない。
「やれやれ、賑やかな孫の手だなあ」
慣れないことを言うとむず痒くなるぜ。
むず痒く__
「は…… ハクション!」
慣れないことを言ったむず痒さによって、くしゃみが誘発された。全く、とんだこよりだぜ。
俺はリーチのある彼女を使って、ある物を手繰り寄せる。
「ちょっと! あたしを利用して、立ち上がるのが面倒くさい距離にあるティッシュ箱を手繰り寄せないでくれる!?」
彼女は案の定激昂した。
背中を掻く以外の最たる使い道だと思うのだが、これで怒るというのなら、もうデートするしか道はなさそうだ。
「手頃な長さなんだよな」
「誰が手頃な女ですって!?」
「手頃って言うか、孫の手じゃん」
今日も今日とて、彼女を俺の背中へ送り出す。
人間と孫の手なんて、それ以上でも以下でもないだろう。
だがしかし__彼女がいるから、俺の背中の痒い部分に手が届くのだ。
それって結構、幸せなことだと思うけどな。