恩師
『黙示録』も読んでくださっている読者の方で、頭にはてなマークを浮かべていらっしゃる方もいるのではないでしょうか……。
そちらに登場する「天雨美姫」と、こちらの天雨先生とは全くの別人でなんの関係もありません。タダの同姓同名であります。
紛らわしいことをッとお思いになる方もいらっしゃるかも知れませんが私なりのポリシーですのでご了承ください。
「愉月先生の、恩師……?」
蒔野歩海は丸い目をパチクリとさせて隣にいる女性の顔を仰いだ。見つめられた彼女はふふっと微笑む。そして、蒔野が持っていた方の赤い表紙の本を手に取る。少し新しい方だ。愛おしそうに背表紙に細い指を這わせる。
「こっちは、私が書いたの。彼女と私の不思議な運命に惹かれたから」
「愉月先生は、この本を何時どうやって手に入れたんですか……?」
「高校3年の卒業前。天雨先生と仲の良かった別の先生から手渡されたわ」
そう言いながら彼女は目を細め、“日記”という文字に目を落とす。蒔野も自分の手元にある古びた赤のカバーの本に視線を戻した。古びた写真の少女と、彼女が書いたというその文字を見比べる。彼女は、一体どんな人物だったのだろうか。何故、彼女は愉月先生に“日記”を託したのか。蒔野は気になって仕方がなかった。
そんな彼女の気持ちを察した愉月が窓枠にかけていた手を蒔野の肩に回した。
「座りましょう。立ち話もなんだからね」
笑顔で窓際の席へ誘導する。とはいっても、そこは普段から蒔野の席なのだが。
机を挟んで向かい合ったふたりは暫く各々が持つ日記をパラパラと捲っていた。愉月はとても懐かしいようなそしてどこか寂しげな表情である。ふと蒔野は疑問に思った。何故、愉月先生がこのふたつの日記の一つを自分に読ませたのか。単なる好意かもしれない。しかし、何故か妙に引っかかるところがあるのだ。それに、蒔野が読んだ方は日記といえば日記だが、少し物語の様な、非現実味のあるものだった。だが、その疑問を言葉に表せるほど蒔野は整理がついていなかった。何も言えず沈黙してしまった牧野に愉月は再び口を開いた。
「天雨先生はね、理科の先生だっのよ。かなり厳しい人だったけど、常に正しかった。どこまでも真っ直ぐな人。その芯の部分にはいつも彼女なりの優しさと正義があったわ。私が教師になったのはそれに憧れたのもあるの。残念ながら理科の成績はイマイチだったんだけどね」
向かい合っているはずなのにどこか遠い目をした愉月だったが、その言葉に虚構は一つもないように蒔野には思えた。
「どうして……あの、えっと……」
蒔野はこみ上げる疑問をどうにか言葉にしようとするも、叶わない。喉の奥まで出かかっている言葉があるのに、それがどうしても彼女の喉を震わせることをしない。いつもならすぐに質問を出来るのにできないその歯痒さを痛感する。
「読んでみて。あなたなら、きっと分かるわ。あなただから、いや、あなたじゃなきゃわからない」
「愉月、先生……? それは……」
突然愉月にそう言われた蒔野はさらに混乱し、すぐそこまでこみ上げていた疑問がその頭を引っ込めてしまった。
そんな蒔野の顔を見て愉月がクスクスと笑った。
「ごめん、ビックリさせちゃった? この言葉はね、その天雨先生が私にこの本を初めて貸してくれた時に言った言葉なのよ。突然化学準備室に呼び出されてね。あの時は怖かったなぁ」
そう言えばそんな場面があったなぁと蒔野は思い出す。少女がある人物に呼び出され、不思議な本を手渡される場面。その少女はその後………
「信じるか信じないかはあなた次第だけど、私は確かにあの日記に、あの人の記憶に吸い込まれたわ。そして私はあの人の記憶を直に触れることが出来た。その時はどうしてそうなったのか全くわからなかったけれど、後でその理由はよくわかったわ。」
ねぇ先生、その理由は? そう聞こうとした時だった。
気がつけば外から入っていたはずの陽の光が消えていた。風も心無しか湿気を帯び、明らかに強くなっている。カーテンが大きく舞い上がり、窓際のふたりの髪が逆立つ。窓の外を見ると先刻の青空が分厚い雲に覆われ、泣き出しそうなのを必死でこらえているように見えた。外で部活をしていた人たちもその気配を察したか大急ぎで片付けを始めている。
「天気予報、当たりだったみたいね。」
愉月がつぶやくと同時に雷鳴が轟いた。急いで蒔野は窓を閉める。涙を堪えていた暗雲は雷の怒号に怯えたか、堰を切ったように泣き始めた。大粒の雨が窓ガラスに叩きつけられ、外の光景は白い滝をみているかのように不明瞭になった。
ピカピカと雷が閃光の尾を引いて走る。その度轟音が響き渡る。外は嵐そのものになった。
「今日何で来たの……? 自転車?」
「はい。カッパがあるし……どうにかなります」
「送ってあげるわ」
「え! わ、悪いですよそんなの。先生がどちらに住んでらっしゃるかは知らないですけど……私の家ここからそんなに遠くないですから大丈夫ですって」
愉月の提案に驚いたのか、蒔野はブンブンと頭を振りながら丁重にお断りする。それでも愉月は笑いながら、一緒に帰ろうと促す。
「残ってって言ったの私よ? それなのにこんな雷まで鳴ってるのにひとりで帰れなんてとてもじゃないけど言えないわ。たぶん、夜遅くまで止まないと思うし」
「しばらく雨宿りすれば……」
「そんなこと言ったってもうすぐ6時よ?」
蒔野は気が付かなかったと言うように時計を見て目を丸くした。いつもであれば家で夕食を作っている時間だった。2時間も経ったかなと疑問に思う蒔野だったが、彼女は本のことになると時間を忘れてしまうのはいつもの事だった。
「いーからいーから。乗っていきなさい。それとも、私の運転技術が信じられないかしら?」
「えっ……いや、そ、そんな事ないですけどっ!」
愉月が意地悪そうに微笑んだ。
「大人の好意は受けておいて基本的に損は無いわよ」
「うっ……先生ズルいです」
「職員玄関で待ってるから、靴持ってらっしゃい。一旦この2冊は預かっとくわね?」
そう言って愉月が2冊の赤い本を胸元に抱える。蒔野は愉月に抵抗することを諦めて渋々従うことにした。荷物は既にまとめてあった。教室を出て愉月と一旦別れ、下駄箱に向かう。廊下は蛍光灯が壊れたかのように暗闇が不規則に明るくなる。確かに。これはなかなか止まなさそうだ。
廊下をひとりで歩く蒔野。窓ガラスに打ち付ける雨の音が蒔野の足音をすっかり消してしまっていた。
〇登場人物
愉月信音
蒔野の学校の国語教諭。柔らかい物腰で生徒からの信頼も厚い。蒔野のことを特に気にかけている節がある。